数学的に美しいと、科学的に正しいのか?『数学に魅せられて、科学を見失う』
科学実験から得られたデータというのは、ノイズだらけで、混沌としており、それらをきれいに説明する数式やモデルを作るのは簡単ではない。
そのため、データを説明する数式の候補をいくつか検討することになる。このとき、よりシンプルに実験を説明する、美しい数式の方が、正しいような気がする(オッカムの剃刀、という言葉があるくらい)。
しかし、数学的に美しいことは、科学的に正しいことを保証しない。ひょっとすると、数学的に美しくない数式やモデルの方が、科学的には正しいのかもしれないのだ。
にもかかわらず、数学的に美しい方が科学的に正しいとする誘惑に駆られ、それに合わせて実験データの取捨選択まで手を染める科学者がいる―――現役の物理学者である著者は、そう告発する。
『数学に魅せられて、科学を見失う』は、ザビーネ・ホッセンフェルダーの初の著書となる。フランクフルト高等研究所の理論物理学者だ。ちょっと変わったタイトルだが、サブタイトルは過激だ。”How Beauty Leads Physics Astray” すなわち、「美はいかにして物理学を迷走させるか」になる。
実証的でない物理学者
著者に言わせると、「美」という主観的な価値が、理論物理学者たちを迷走させていることになる。
にわかには信じがたい。
実験や観測によるエビデンスの裏打ちと、数学を用いた厳密で一貫性のあるロジックを何よりも重視するのが、物理学者ではないか? 都合の良い数字をつまみ食いして、それっぽい数式をひねり出し、仲間ウケする論文をでっちあげる夜郎自大とは対極の存在だと思っていた。
だが、それは私の思い込みらしい。
たとえば、CERNの大型ハドロン衝突型加速器(LHC)での実験について。高エネルギーでの物理現象から生じる粒子を観測する実験では、莫大なデータが捨てられているという。
実験では、毎秒10億回もの陽子-陽子衝突が起こる。これは、CERNの大型コンピュータをもってしても、全ての衝突データは保存できない。衝突が起きている間、リアルタイムで選別され、アルゴリズムが「興味深い」と判断したものが保存される。10億のうち、保存されるのは100~200だけだという(※1)。
著者はこれを、「悪夢のシナリオ」と呼ぶ。科学者の仕事を全て厳密にチェックするわけにいかないから、結果を信じるしかない。だが、この10年もの間、基礎物理学の鍵となるデータを葬り去ってきたのであれば、悪夢というほかはない。
あるいは、「微調整(fine-tuning)」という手法について。言葉とは裏腹に、「微」どころではなく、ガッツリ調整する。外れ値を除外するとかいうレベルではなく、何十乗も桁が違うものが、巧妙に打ち消し合えるようにチューニングする。
物理学者は、極端に大きな数字や小さな数字を嫌う。そのため、観測結果と理論の数字がかけ離れているとき、両者を適合させるために、モデルのパラメータを精密に調整する。この調整を非常に精密に行っているので、fine-tuning と呼んでいる(※2)。
でもそれって、不自然じゃないか?
その通り。物理学では、「自然」という特別な概念が登場してくる。私たちが考える、そのままの、という意味ではなく、「微調整(fine-tuning)していない」ものを「自然」と呼ぶ。
この「自然さ」という考えが厄介だ。
もし、パラメータを微調整をしないと、宇宙は、いま私たちが生きているような自然な状態にはならなかったという。だが、パラメータを微調整をしたものを物理学では「自然ではない」と呼ぶのである。
「美」が物理学を迷わせる
同様に、「美」も厄介だ。
物理学者が理論の素晴らしさを伝える際、必ずと言っていいほど「美」を強調する。この法則は美しいと。
ノーベル物理学賞を受賞したポール・ディラックは、「物理法則は数学的に美しくあるべきだ」という行動指針を打ち立てた。量子力学に絶大な貢献をしたヴェルナー・ハイゼンベルクはこう述べる。
もし自然が、素晴らしく単純で美しい数学的形式へと私たちを導くなら、そのような形式は「真」であり、自然の本質の一つを明らかにしていると考えざるを得ない
フェルミ国立研究所のダン・フーパーは、こう書く。
それでも、自然が超対称的に作られているという期待にストップをかける効果は無い。物理学者の多くにとって、超対称性はあまりにも美しく、あまりにもエレガントなので、私たちの宇宙の一部でないはずがないのだ。
「自然法則は美しい」と信じたいのは分かる。だが、美しいからといって、それが科学的に正しいかどうかは別だ。
新しい理論がどれくらい見込みがあるかを検証するとき、通常であれば、実験や観測で実証する可能性を考える。だが、理論物理学では、設備や予算の関係上、おいそれと簡単に実験できない。
時間の問題もある。ニュートリノの予測から検出まで25年、ヒッグス粒子の確認には50年、重力波の直接検出には100年かかった。いまや、新しい自然法則を検証するには、ひとりの科学者の人生には収まりきれないほど長い年月を要することだってありうる。
そのため、物理学者は、美しさ、自然さ、エレガントさを手がかりにして、新しい理論の見込みを検討する。この検討は、数学的にも「テクニカルな自然さ(technical naturalness)」として定式化されているくらいだという。
美しさ、自然さ、エレガントさ……それって主観的な基準ではないの? と著者はツッコミを入れる。客観的であるべし、という科学者の義務を恐ろしく逸脱しているのではないか、と危惧する。
そしてついには、「理論物理学者がみな、自分たちの非科学的な手法を認めたくなくて、集団的幻想に陥っているのではないか」とまで言い出す。
科学と技術は軌を一にして進む
どうなんだろう?
本書で解説される超対称性やヒッグス粒子の説明はかなり高度だが、それでも、今までのやり方で説明に行き詰まっていることは分かる。一方、多元宇宙論やループ量子重力理論など、様々な説明が生み出されている。
これは、物理学が豊かな証拠だと考える。
100年未来から振り返ると、いまは過渡期の一種であり、様々な理論が生まれては消えていく状態なのだ。自分の研究キャリアの間で、ブレイクスルーが起きていないからといって、物理学に携わる人々を科学でないと断定するのは尚早ではないか、と思う。他の学問領域を参考に、いまの物理学の営みを見直すということだってできる。
たとえば、何十桁も桁が違うパラメータの微調整は、そもそも当てはめるスケールが違う別モノを、同じように比較しようとしているからではないか? という問題には、経済学が参考になるかもしれない。
経済学では、同じ人の営みを、わざわざ「ミクロ」と「マクロ」に分けている。その理由は、それぞれで説明しようとしているものが、互いにうまく当てはまらないからだ。そのため、前提を変えて棲み分けを行っている。
また、テクノロジーの進展という観点から眺めると、もう少し長い目で見ても良いのではないか。いまある実験装置で観測できる範囲には限界がある。10億回の陽子衝突の100個しか保存できないのは、別に科学者の怠慢だからではなく、今の技術ではそれが限界だからだ。
たとえば「冥王星の写真の変遷」を眺めると、1996年のドット絵みたいな冥王星が、2015年には地表の浸食までがハッキリと見えるようになっている。これは観測技術が進んだからだ。同様に、量子の観測技術が進展し、LHCが時代遅れになる頃には、有効なデータが大量に得られるだろう。
科学は技術と軌を一にして進むものだから。
※1 Steinar Stapnes 2007 "Detector challenges at the LHC" Nature 448:290–296
https://www.nature.com/articles/nature06078
※2 Wikipedia:fine-tuning
https://en.wikipedia.org/wiki/Fine-tuning
wikipedia:階層性問題
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8E%E5%B1%A4%E6%80%A7%E5%95%8F%E9%A1%8C
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コメント
≪…「数学に魅せられて、科学を見失う」… ≫は、『数学に魅せられて、妖怪(ニンフ)を見つける』になる。 数学の根本、自然数の本性(性質)を掴む。 絵本「もろはのつるぎ」(有田川町ウエブライブラリー)
数学の計量構造は、【π】と【1】から直交座標の計量の計算の[場]を創生する。
投稿: 量化( ∃ ) | 2021.06.28 11:02