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怖いと分かってるのに、なぜホラー映画を観るのか『感情の哲学入門講義』

怖いと分かっているのに、ホラー映画が観たくなるときがある。

不可解なことが次々と起こり、その原因が見えてくるにつれ、背筋が寒くなるような展開になり、あまりの怖さに、「観なきゃよかった……」と後悔するようなやつ。

昼間なら大丈夫だろと、うっかりアマプラで『残穢――住んではいけない部屋』を観てしまい、いま後悔している(怖いというより、嫌あああってなっている。観ると部屋にいたくなくなるので、引きこもりには不適)。

怖いなら観なきゃいいのに……というツッコミに同意する。

心臓がバクバクして、イヤな汗が出てきて、呼吸もせわしなくなり、そこから逃げだしたくなる。なぜなら、「怖いもの=危険なもの、生命を脅かすもの」だから、それを避けようとするのが普通だから。

「怖いものから逃げたい、避けたい」という欲求は、本能に刷り込まれているレベルだろう。例えばヘビやライオンを怖いと思うのは、私の生命に危険があるから。

もちろん、ヘビやライオンを怖がらなかった人もいただろう。だが、そんな人は、生き残って私の祖先にはならなかっただろう。

怖いと分かっているのにホラー映画をわざわざ観るのは、なぜだろう?

順番に考えてみる。

  1. ホラー映画を観ると怖くなる
  2. 「怖い」というのは避けたい・逃げたい、という感情だ
  3. ホラー映画を観るのは避けたい(1と2から)
  4. ホラー映画を観る人はそれなりにいる(事実)
  5. 上記3と4は矛盾する

うん、自分でも矛盾していることは分かる。避けたいはずなのに観たい。

『感情の哲学入門講義』では、この矛盾を紐解いてゆく。

ホラー映画は(実は)怖くない

まず1を否定してみる。ホラー映画を観ても、本当は怖くなんてないんだと。

確かに、映画の中の怪異は、「映画の中」だから、観ている私には影響がない。映画の中の登場人物が次々と酷い目に遭っても、私が殺されることはない。

私は、映画の外側という安全な場所から、物語を楽しむことができる……と私は知っているのだ(もちろん例外はある。安全なはずの映画の「外」を舞台にした『デモンズ』や『REC/レック』ほか色々ある)。

とはいえ、とにかく私は視聴者として安全なはずだ。それを確信しているからこそ、ホラー映画を楽しむことができる。

そう、ホラー映画を「楽しむ」のであって、怖いのではない。実は怖がっているフリをしているだけなのだという人もいる(※1)。いわゆる「ごっこ説」と呼ばれており、ホラーで怖がる「ごっこ」をしているだけなのだという。

鬼ごっこをする子どもたちは、鬼に襲われると本気で思ってはいない。だけど、鬼に追いかけられると、悲鳴をあげて逃げるだろう。そしてタッチされるとき、ドキドキしたり、身体がこわばったりするかもしれない。このときの身体の状態は、本当に危険が迫っているときと同じであり、後に振り返ると、「ああ怖かった」というだろう。

これと同じで、映画はフィクションであり、現実の自分に危険が迫ることはないと確信している。そして、映画の中の登場人物が襲われているとき、自分も襲われているフリをすることで、ゾクゾクするようなスリルを、安全に楽しむことができるのだ。

なるほど……と納得しかけるのだが、やっぱり「怖い」と感じる心は否定できない。なぜなら、映画を観た「後」のいまでも怖いから。ふとしたはずみで出てくる「思い出し笑い」のような、「思い出し恐怖」は、確かにある。

恐怖を超える快楽がある

次は、2に反論する。1の「ホラーを観ると怖くなる」は認めるが、それを上回るなにかがあるために、「避けたい」とは感じなくなるのではないか、という主張だ(本書では、補償説と呼んでいる)。

まず、1を「ホラーは恐怖だけを生み出す」と読み替える。すると、本当にそれだけ? という疑問が生まれる。怖いという感情の他に、ドキドキしたり、日常では味わえないスリルを感じることができる。

これはむしろ、「避けたい」のではなく、味わいたい感覚じゃないだろうか。つまり、恐怖も感じるが、それを乗り越える快楽があるから(補償するから)、ホラーを観たくなるという理屈だ。

これはしっくりくる。

『バイオハザード7』をクリアしたときの感じがそれで、「生き延びた!」という達成感は、それまで何度も何度も何度も死んできた恐怖を凌駕して、脳汁ドバドバあふれ出していた。この快楽も強烈に刷り込まれていて、「思い出し笑い」のような「思い出し快感」は、ふとしたはずみで出てくることがある。

恐怖という激しい情動は、大脳辺縁系の活動に直結している。扁桃体にて価値判断が行われ、視床下部に伝えられ、自律神経とホルモン分泌が反応し、心臓の拍動が早くなり、胃腸の動きも変化する。同時に扁桃体から中脳へ伝わった情報は、すくみ上がるといった行動が引き起こされる(※2)。

「恐怖」のドキドキと「好き」のドキドキを取り違える

恐怖を感じるときの身体状態(発汗、心拍数と呼吸の増大、アドレナリン、感覚器の感度上昇)は、そのまま「生きのびる」ことに直結したものになる。恐怖を感じた後、物語の最後までたどり着き、実際の生き延びたのであれば、身体が準備した反応が成功したことになる。

ホラー映画では、少なくとも主人公(その物語の目撃者なり、語り手)は、映画のラストまで生きている(はず)だ。

だから、ホラー映画を最後まで観るということで、生き延びた、という達成感を味わうことができる(もちろん例外はある。『ゾンゲリア』とか『ファイナル・デスティネーション』とか)。この「生き延びた」がカタルシスを生み、その快感が恐怖を上回っていると考えられる。

この仕組みは、吊り橋効果に似ているかもしれない。ゆらゆらする吊り橋や、ドキドキするジェットコースターのような場所で一緒に過ごした異性のことを好きになってしまうやつ。不安や恐怖からのドキドキと、恋愛感情のドキドキを取り違えてしまうという理屈で、デートの定番が遊園地なのは、この理論の表れなのかもしれぬ。

矛盾した感情を説明する

本書では、こうした感情の矛盾を説明している。

例えば、嫌いな人やものを逐一監視する人がいる。SNSでおかしくなる人は、だいたいこれで病んでゆく。

なぜ、見たら怒りを感じるような人やものを、わざわざ見に行くのか?

これも、補償説で説明できる。

もちろん、見たら怒りを感じ、嫌悪感を掻き立てられるだろう。だが、怒りと同時に、「こいつは非常識なやつで叩かれるべきだ」という義憤も沸き上がってくる。

そして、その言動を断罪する自分のほうが、人として優れているという優越感も味わうことができる。さらに、こいつは非常識なやつだと拡散することで、自分はそいつを非難できる良識があると仲間にアピールして、連帯感を育むことができるというのだ。

こうした優越感や連帯感といった正の感情が、怒りや嫌悪といった負の感情を上回るため、「嫌いなものをわざわざ見に行く」という行動を取るというのだ。

哲学に限らず、心理学や脳神経科学、文化人類学、進化生物学など、さまざまな分野での感情研究を紹介した一冊。


※1  ケンダル・ウォルトン 2015「フィクションを怖がる」『分析美学基本論文集』勁草書房p.310-334

※2 恐怖する脳、感動する脳
http://www.brain-mind.jp/newsletter/04/story.html

恐怖の情動から考える大脳辺縁系の機能
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jrn/11/0/11_20110102/_pdf/-char/ja

 

 

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コメント

この謎について、古い(1970年代)心理学の理論ですが、相反過程説 opponent-process theoryというのがあります。グラフが面白いです。

(参考)
人はなぜ恐怖のような不快感情の虜(とりこ)となるのか?
https://readingmonkey.blog.fc2.com/blog-entry-773.html

投稿: 読書猿 | 2021.05.09 11:40

>>読書猿さん

ありがとうございます! この記事読んでましたが、今まで忘れていました。恐怖にアディクトする恐怖中毒の話は面白いです。『メイザーの学習と行動』と「獲得性動機に関する相反過程理論について」に当たってみます。

https://irdb.nii.ac.jp/en/01235/0002036463

投稿: Dain | 2021.05.09 16:04

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