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文学の手法を取り入れた医療『ナラティブ・メディスン』

患者と医者はすれ違う。たとえばこんな風に。

医者「いつ頃から、お酒をたくさん飲むようになったのですか?」

患者「夫が亡くなってからです」

医者「それは何年前のことですか」

患者は腹痛を訴えており、医者は彼女のアルコール摂取量が多いことに気づいている。医者も患者も、腹痛と飲酒量の関係性を疑っているが、それをどのように聞こう/語ろうとしているのかが異なっている。

医者は深酒をしていた期間を聞こうとする一方で、患者は、なぜ深酒をするようになったかを、自分の人生の物語として語ろうとしている。

夫が生きている間は飲まなかったとか、夫の死後は苦労が重なったといった話をさえぎり、医者は、最終的に知りたいことを聞き出せるだろう。だが、患者が語りたいことは残されたままだ。

彼女は、自分のたった一つの身体に起きた異変に戸惑い、恐れ、不安に感じている。痛みや苦しみに耐えながら、なぜそれが、よりにもよって自分の人生に起きたのかを、なんとか説明しようとする。

医者はそれを、「病気だから」と片づける。そして病名を特定し治療を施すのが自分の仕事だから、質問に端的に答えることを求める。数ある症例の一つとして接し、医学的に意味のある情報だけを引き出そうとする。

ナラティブ・メディスンとは

医学的要素に還元された病歴、社会歴、身体所見、検査結果のどこにも、患者の人生は残っていない。痛みや苦しみを抱く感情は疎外されたままとなる。

『ナラティブ・メディスン』は、このやり方に異を唱える。患者の視点になり、患者の語ることに耳を傾けよと主張する。著者リタ・シャロンは医師であり、文学者であり、コロンビア大学のナラティブ・メディスン教育プログラムの創始者でもある。

「ナラティブ」とは「語り」のこと。語り手と聞き手、目的と筋書きを備えたストーリーとして定義づける。対話を通じて患者の物語を紡ぎ出し、全人的な診療を行うため、物語的な視点を取り入れる。

これに必要な能力のことを、ナラティブ・コンピテンス(narrative competence 物語能力)と呼んでいる。患者の病を物語として解釈し、その展開とともに患者の人生にとって何が起きるかを理解する能力だ。

そして、なぜその物語が生じたのかを、始め、なか、終わりの中で見定め、隠喩や修辞を用いて、出来事とのあいだにつながりをさがし、プロットを与える。

がんになった意味を見つける

例えば、ステージIVの乳がんを患う女性を考えてみる。

42歳で3児の母でもある彼女が、「どうしてこんなことが私に起こったのでしょうか?」と問うとき、それに答えられる人はいない。医学が答えられるのは、病気がどのようにして(how)起きたのかであり、なぜ(why)起きたのかではないから。

しかし、たとえ確かな答えがなくとも、彼女自身が自分の身に起きたことを理由づける物語を作り出すかもしれない。

過去の罪に対する罰と考えるか、不幸な偶然と見なすかによって、病の体験は全く違ったものになる。彼女は、病も含めて自分の人生を生き続けなければならない。そのために、人生におけるこの病の意味を見出さなければならない。

このとき、彼女に寄り添い、彼女自身の言葉を聞き、病を解釈するために、物語が必要になる。出来事を順序だてて述べ、登場人物の性格を描写し、起きたことの原因を探し、隠喩や修辞で意味を伝える。

彼女が、自分の人生の中で、病をどのように意義づけようとするか。それは彼女しか語れない。医師、看護士、ソーシャルワーカーは、彼女の物語に耳を傾ける必要がある。「聞く」という姿勢を見せない限り、語られることはないのだから。

医療に役立つ文学

では、どうすれば物語能力を身につけることができるか?

本書では、精読のスキルが必要だという。一つ一つの文章を、丁寧に精密に読むスキルだ。読書を習慣としている人なら、普通に身についているだろう。でも、なぜ精読がナラティブ・メディスンにつながるのか?

著者は、トルストイ『イワン・イリッチの死』やジョゼフ・ヘラー『キャッチ=22』を紐解きながら答える(どちらも死を扱っている)。

テクストの意味は、「それは何についてのものか」と、「それはどのように語られているか」の2つの問いの答えの相互作用で伝えられるという。文学理論では、いわゆる「内容と形式」で呼ばれるもので、前者が語られるお話そのもので、後者がその表現形式になる。

例えばトルストイの作品で言うなら、平凡な男が病魔に侵されて死んでゆくお話だ。自分の人生はこれからも続いてゆくと信じ、わが身に起きていることから目を背け、希望にすがりつこうとする。これが内容になる。

精読する人であれば、彼について語るナレーション(地の文章)の距離感に気づくだろう。小役人としての半生は、すこし離れた皮肉めいた語り口だが、彼の病が進むにつれて、視点が彼に近づき、寄り添い、ついには彼の「中」へ入り込む。これが形式になる。

さらに、物語がラストに向かうにつれて、各章が短くなってゆく。あたかも、彼の生きられる時間がどんどん短くなってゆくことを示すかのように。

こうしたテクストの構造やメタファーは、「イワン・イリッチが死ぬ」という内容からは得られない。一つ一つの文章を、丁寧に読み解くことで、気づくことができるのだ。

精読のスキルがある人は、患者が病を語るときの、「内容」のみならず、「形式」に注意を向ける。痛みや発作の内容だけでなく、それが何に似ているといった表現や、どのように受け止めているかという点を読み解こうとする。

同時に、プロットを理解するスキルも、精読で身につくという。E.M.フォースターの有名なプロットの定義が紹介される。これだ。

「王は死んだ。そして王妃も死んだ」がストーリー

「王は死んだ。そして悲しみのあまり王妃が死んだ」がプロット

出来事や現象を並べて告げるだけではなく、そこに意味ある因果関係を見出す。たとえ同じ出来事の組み合わせでも、語り手の視点や意図によって、対立するプロットも形作ることができる。

形式を把握し、プロットを理解し、時間軸に沿ってストーリーの内容を追いかける。まさに、文学を味わう人がやっていることだ。文学が医療に役立つだなんて、思ってもみなかった。

パラレル・チャート

精読だけではない。ナラティブ・メディスンの実践では、パラレル・チャートを書くことが求められる。

患者のカルテについて、何をどう書くべきかは決まっている。患者の主訴や検査の所見、治療計画などだ。

一方、がんで死に瀕した患者が、昨年同じ病で亡くなった祖父を思い出させること、診察の度に動揺することは、カルテに書くことはできない。だが、それはどこかに書かれる必要があるという。その場所が、パラレル・チャートだというのだ。

患者への愛着や、自分自身の無力感、病気の不公平さに対する怒りが、パラレル・チャートに記され、書いたことをグループセッションで読み上げる。自分の気持ちを率直に述べることで、患者の物語への気づきを得られるという。

パラレル・チャートで最も印象に残ったのは、30代の男性のHIV患者についてだ。

その男は移民で、7年前にHIV陽性を告げられたが、薬を服用することを拒んでいる。ガールフレンドとの間に子どもが生まれたばかりだ。ガールフレンドもHIV陽性で、男は、生まれたばかりの我が子のHIVの状態についは、知らない。

彼を診察した研修生のパラレル・チャートには、こう書かれている。

この患者について知れば知るほど、私は怒りがこみ上げきて、激怒さえしている自分に気づく。興味深いことに、強い怒りを感じていることに気づいているという事実によって、私は自分の感情を脇に置いて、患者を適切に扱うことができる。彼は自らの行動が彼自身と家族にもたらした結果について、全く自覚がないと思う。彼は要するに、生き延びる見込みのほとんどない子どもをこの世につれてきたのだ。

(中略)

私はこの男を気の毒に感じる。この男は30歳代にしてAIDSと生まれたばかりの子どもをもち、自分の病態については大きく否認しているが、身体の調子が悪いことは分っている。彼はおそらく自分の病気が悪いことに気づいており、終わりが近いことも知っている。私は彼を気の毒に思うが、共感からではなく憐れみからそう思う。これが、自分が彼の助けになりたいと思わせる感情である。

これを書いた研修生は、ナイジェリアから移民し、医療従事者として働きながらトレーニングをしている。そして、パラレル・チャートを書くまでは、自分が患者に向ける情動を説明できなかったという。

しかし、書くことで自分自身の専門家としての義務の重みと、患者が抱いている恐怖を想像することが可能になったと述べている。

心療内科との違い

患者の心に寄り添って、精神的なケアをするのであれば、心療内科と同じではないか、という疑問も残る。

だが、本書に通底する考え方からすると、「心療内科的ケア」は、患者の精神的な部分『だけ』をケアするという点で、「ナラティブ・メディスン」と異なると考える。

つまり、患者を分解して、病の部分(ハードウェア)と心の部分(ソフトウェア)に分けて、ソフトウェアのメンテナンスをするのが、心療内科的ケアになるという発想だ。この場合、ハードとソフトの分断は残り続ける。

一方、ナラティブ・メディスンは、患者ひとりを全人的に見るための方法になる。そのため、ハード担当/ソフト担当に関係なく、身につけることが求められるのだ。

人文学と医学を結び、患者と医者をつなぐ文学の、実践的な解説書。本書は、KyosaiKawanabe さんに教えていただいた一冊(ありがとうございます!)。

 

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コメント

( ・∀・)つ【標準精神医学 第8版】
私は医者でも医療関係者でも医学生でもありません
ただの患者として読みました
「第5章 精神医学的診察と診断」は特に良かったです
お値段が少々張りますので図書館で借りるのがお勧めです

投稿: | 2021.07.06 18:41

>>( ・∀・)つ さん

ご教示ありがとうございます! 結構なお値段ですね……これをタネ本にして、色々書けそうですね。

投稿: Dain | 2021.07.10 13:36

おお、わざわざ僕の名前を記事内に!うれしはずかしですね!
素晴らしいレビューでした。ありがとうございます。

関連図書として、患者と医師の隔たりを科学した、
『医療現場の行動経済学』もオススメしたいです。
医者にも薦めて、すごく好評だった一冊です。

投稿: kyosai | 2021.09.11 05:51

>>kyosaiさん

こちらこそありがとうございます!
kyosaiさんに教えていただかなければ、決して出会うことのなかった一冊ですから。文学の実践として、もっと知られるべきだと思います。

『医療現場の行動経済学』は手に取ってみます。お薦めありがとうございます。患者と医者の隔たりだと、最近ではシュナイダーマン&ジェッカー著『間違った医療』が刺さりました(そのうちレビューします)。

投稿: Dain | 2021.09.11 08:49

間違った医療のレビュー、拝読しました。素晴らしかったです。


科学は分析し、人文学は解釈をする。
その両方が人間理解には必要っていうふうに、ナラティブの重要性を僕は捉えてます。

こちらの動画で、医療者の基本スタンスが簡潔に述べられてますが、ちょっとこの手法ではもの足りないよね、っていう溝をナラティブは埋めてくれると思ってます(法曹も法的思考と言って、基本的には同じスタンスです)。
https://twitter.com/minesoh/status/1398639234215464961?s=20

医療系の良書は、こちらのフォロワーさんだった先生におすすめしたマシュマロにまとまってましたw
参考にして頂けたら。
https://twitter.com/shu_anaden/status/1353527343529123840?s=20

投稿: kyosai | 2021.10.18 18:19

>>kyosaiさん

ありがとうございます! 参考にします。

私見ですが、ナラティブの重要性を理解するためには、一定の経験が必要になると考えます。教科書で学ぶことではピンと来なくて、実際の面談の場数を踏むことで、分かってくる……そんな手法だと思っています。

投稿: Dain | 2021.10.20 22:59

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