« 2021年4月 | トップページ | 2021年6月 »

レイ・ブラッドベリ『華氏451度』を物語を創る側から分析する―――第3回物語の探求読書会レポート

小説、漫画、映画、舞台、ゲームなどジャンルの垣根を越えて、「物語」について考えるオンライン読書会。

今回は、SFの古典レイ・ブラッドベリの傑作を俎上に、脚本家タケハルさん、文学系Youtuberスケザネさん、そして私ことDainでとことん語り合った。

書物を焼く意味とは? 本を殺す洗練されたやり方や、焚書に抗う究極の対策を始め、ブラッドベリの創作技法など、盛りだくさんでお届けする。

451

以下、ブラッドベリ『華氏451度』の内容に触れており、ネタバレをしています。

<目次>

  1. 本を焼く者は、やがて人を焼くようになる
  2. 華氏451の根源「多様性を殺していく」
  3. 時代を超える本の条件:a passionate few
  4. 本の殺し方
  5. 本はカジュアルに焼かれてきた
  6. イマジネーションを喚起させるSF作家
  7. 焚書への究極の対抗策:暗記
  8. 他の芸術と比較した文学の強みとは
  9. 思想小説とサスペンス性
  10. この世ならざる世界にいかにして引き込むか
  11. 現実世界との架け橋をつなぐか
  12. 批評をするな、物語らせよ
  13. ブラッドベリの創作技法
  14. 終わりに&次回の課題図書

 

<動画>

https://youtu.be/zXwVgaKuaXM

 

<本文>

スケザネ:今回はブラッドベリ『華氏451度』についてお話しましょう。2月くらいに課題図書に決めたのですが、これ、Eテレの100分de名著『華氏451度』の2021年6月で紹介されるんですよね。びっくりしました。『華氏451度』はタケハルさんの提案だったのですが、どうしてこれを?

タケハル:ぶっちゃけ偶然です。課題図書を決めるとき、なんか小説にしようと思って本棚を見たら最初に目に入ったのがこれだから。ディストピアもので、予言的なものもあるかな、と思って。

スケザネ:久々に読み直してこれ、1950年代に書かれたのかよ、やべーなと何度も呟きました。

Dain:読んだ&映画観たのがすっごい昔で、ほぼ忘れてたので私も読み直しました。最初に読んだときの印象と、おっさんになって読むときの感じ方がかなり違ったので、その辺を話せたらと思います。

 

1. 本を焼く者は、やがて人を焼くようになる

Dain:最初に届いたメッセージはこれ、「本を焼く者は、やがて人を焼くようになる」ですね。ドイツの詩人でしたっけ、ナチスの焚書について言っていたと記憶しています。で、ナチスの焚書だと、本のリストの本(A Book Of Book Lists)というのがあって、そこで紹介されてます。

 <ナチスが焼いた本のリスト>

  • 武器よさらば(アーネスト・ヘミングウェイ)
  • いかにして私は社会主義者となったか(ヘレン・ケラー)
  • 野性の呼び声(ジャック・ロンドン)
  • 鉄の踵(ジャック・ロンドン)
  • 世界史概観(H.G.ウェルズ)
  • 理性に訴える(トーマス・マン)
  • ジークムント・フロイトの全著作

ナチスが焼いた本のリストを眺めていると、ナチスが何を嫌がってて消したがっているのかが透けて見える。

そしてこれ、インターネットの法則と合致しているのが面白いです。あれです、「消すと広がる」という法則。twitterとかでつい口が滑ってヤバいこと言ってしまい、謝らずに消すと、誰かが魚拓を取ったりしてて逆に広がってしまうやつ。

たとえばウェルズなんて宇宙戦争が有名なんですが、ナチスが焼いた本ということで、『世界史概観』が歴史に残り続けるんだろうなぁと。

スケザネ:確か岩波で出てますね、ウェルズの『世界史概観』。消すと広がる、皮肉なものですね。

Dain:はい。そして焼かれた本のリストつながりで、『華氏451度』で焼かれた本のリストを作ってきました。これです。

 <『華氏451度』で焼かれた本のリスト>

  • バートランド・ラッセルのエッセイ
  • ミレー(画家の?)
  • ホイットマン
  • フォークナー
  • ダンテ
  • スウィフト
  • マルクス・アウレリウス

文学が目立ちますが、このリストを見ていると、今度はブラッドベリが何を重要な本としているのかが透けて見えて面白いですね。

でもここに、マンガが無いんですよ。マンガは? と思っていると、こうある。

引き金を引いたのはテクノロジーと大衆搾取と少数派からのプレッシャーだ。おかげでいまはみんな夜も昼もしあわせに暮らし、政府お目こぼしのコミックと古き良き告白ものと業界紙を読んでいる。

p.98 より

ブラッドベリに言わせると、コミックは低俗なもので、人にものを考えさせないように、人をバカにさせるイメージがあるんでしょうか。

タケハル:1950年代っていったら、スパイダーマンすらいないですからね。スーパーマンがいたくらいかな。手塚? ディズニーはいましたね。

スケザネ:日本だったら水木しげるですかね。まぁ確かに1950年代のアメリカのコミックといったら俗悪という印象があるかも……

 

2. 華氏451の根源「多様性を殺していく」

Dain:『華氏451度』が突き抜けているのは、無差別なんですよね。昔の焚書は選んで焼いてた。ナチスは焚書のリストを作ったし、始皇帝は医学や占いや農学以外を焼くなど、選んでた。でも『華氏451度』では、本を読むと人は考え始めるから無差別に焼け、なんです。

人に考えさせないために、本は短くなるというのが面白いんです。本の内容は圧縮され、ダイジェストやタブロイドになり、最後は10行ぐらいの要約だけが辞書に残る。

『ハムレット』について世間で知られていることといえば、「古典を完全読破して時代に追いつこう」と謳った本にある1ページのダイジェストがせいぜいだ。保育園から大学へ、そしてまた保育園へ逆戻り。

p.92より

これで思い出したのが、『1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』みたいなやつ。古典や名著のダイジェスト版です。よく間違われるのは「あらすじを知っている=教養がある」こと。そうではなく、「あらすじを知っている=教養のあるフリができる」んですよね……こういう本がガンガン売れるということは、華氏451度の世界に近づいているんだなぁと。

スケザネ:ホント、これ恐ろしくて、同じ92ページに、「そして大衆の心をつかめばつかむほど中身は単純化された」とあって、この作品全体の根源にある考え方として、多様性を殺していくところにあるんですよね

そして、そのあらすじですら多様性があるはずなんです。同じ作品を100人読んだら100通りのあらすじができるはずなんですよ。それすら1つに固定していく……そこすらも多様性を許さず、画一的なものにしていく。その先には、価値観を固定化していく世界まで、あと数歩のところの危ない状況なんですよね。

タケハル:いろんな予言的なシーンがあるんだけど、ここはピンポイントで当たっちゃったなぁ。

Dain:これ、予言的というより変わっていないといえるのかも。「これさえ読めば教養が身に付く」という宣伝文句で、世界文学全集が世に出たのが1950年代……じゃなくて1905年だった。これ、古典の抄録なんですよ。「1日15分読むだけでモテる」という売り文句で、50万セット売ったという。昔も今も一緒ですね。

スケザネ&タケハル:www 変わってない www

Dain:華氏451が予言的だな、と思う反面、1950年代と今と、なんら変わってないのかもしれませんね。

スケザネ:もっと暗澹たる話ですね。

 

3. 時代を超える本の条件:a passionate few

タケハル:確かに! 華氏451を下敷きに、これから頑張っていこうとかいう話じゃなくて、同じことがまた繰り返されるというオチwww これ、裏を返せば、最後のほうの、図書館のアーノルド・ベネットの話につながりますね。時代を超えて読み継がれる条件となる、a passionate few というやつ。

たとえばシェイクスピア。どうしてシェイクスピアが今でも残ってるのかというと、シェイクスピアを熱烈に評価する少数(a passionate few)がいたから。当時、シェイクスピアが世に出たとき、劇作家のクリストファー・マーロウは既にいた。だけど、マーロウではなくシェイクスピアが残っているのは、「シェイクスピアが好きだ」と延々と言い続ける人がいたから

だから、華氏451のラストで残るものは a passionate few がいる。プラトンとかはこの世界でも残り続けるんでしょうね。で、熱烈なファンがいない作品は消えていく……

スケザネ:そこでやべーなと思うのがゲーテ。ドイツ文学の大家だから、熱烈なファンがいるんじゃないかと思ってたら、ゲーテ、特にゲーテの小説を研究している人、日本に少ないんですよ。名前だけ大きくて存在感が大きいので、逆にa passionate few がいない。

タケハル:嘘でしょ!?

Dain:研究しつくされちゃったとか?

スケザネ:むしろ逆です。莫大な著作量で、しかも著作の幅も広い。一口にゲーテと言っても、小説だけじゃなく自然科学、戯曲集もあるし、文学家や政治家としての分野ごとの仕事があって、本国ですら全集が―――まだ、本当の完全なる全集が―――編まれていないんですよ。その中でも、ゲーテとかシラーの文学作品って、新しい翻訳がほとんどない。こないだ1冊だけ出たぐらい。(※追記:幻戯書房のルリユール叢書にて、シラーの新訳が出版されることが発表された。)

タケハル:そうそう、シラーの戯曲の新しいの、ホントに出てほしい。訳が古いとシナリオというより本を読んでる感じになってしまう。

スケザネ:古いやつだとシラーじゃなくて「シルレル」とか書いてありますもんね……脱線しまくってますねw

Dain:いやいや、今の新訳が出ないという話、華氏451につながります。当局側、つまり本の弾圧側に立つと、もっと徹底的なやり方があるんじゃないかと。「人々にものを考えさせない」ために、考える材料となる海外からの翻訳本を殺す。つまり、翻訳する人への補助金を止めるとかして、活動しにくくするんです。

 

4. 本の殺し方

Dain:もちろん華氏451は小説だから、「本を集めて焼く」というスペクタクルなシーンを入れる方がお話としては面白い。でも、そんなことすると、レジスタンスが生まれる。だから、そんな派手なことをせず、もっとサイレントに徹底的にやる。

そんなとき参考になるのが、オーウェル『1984年』です。ポイントは、「置き換える」です。ニュースピークと言われているやつ。good と bad じゃなくって、bad を ungood に置き換えたりして、どんどん言葉を減らしていく。そうすることで、本は、本質的な意味で、薄くなっていく。

スケザネ:そもそも、原本から薄くなっていく、ということですね。

Dain:そうそう。そして次に考えたのが、電子書籍への置き換えです。華氏451では、電子ペーパーや電子書籍といったものは無かったはず。でも、今の僕らはスマホやタブレットやPCで電子書籍を読んでる。

10年ぐらい前、電子書籍元年とか言われて、いろんな端末や本の規格がバーッと出ました。紙から電子への置き換えが進む一方で、沢山の種類の端末や版元が消えていったはずです。そのときは気にも留めなかったけれど、今考えると、「本を消す」のに上手いやり方ですね。

電子書籍への移行を優遇して、どんどん紙から電子に置き換えていって、こっそり消すんです。端末のアップデートしないとかして。

スケザネ:考えもしなかった……いま Kindle が無くなると消える本って、確かにありますね。いま、Kindle でしか出してない本ってあるから何割かはこのやり方で消せますね。

Dain:いまので思ったのが、ソシャゲ。ソシャゲのサービスが終了したら、何も残らないですね、当たり前ですけど。URLにアクセスしても、跡形もない。一方、カセットとかディスクとか何十年も前のが残っていて、今でも遊べる。それはモノとしてのメディアがあるから。だから Amazon は、Kindle のメディアを維持していくために、金よこせという話もあるかも。

タケハル:印刷するとか流通するとかのコストが無くなった反面、元を絶たれると一気に無くなるというリスクを追うことになるんですね。

スケザネ:近い時代では映画でこれが起きていますね。古い映画の何割かってもう観られないじゃないですか。これは意図せざるものもあるし、燃やされたというのもある。その波は既に起きているのかも。

タケハル:アリストテレスの著作が残っていないといっても、何百年単位で起きている話ですけど、映画についてはここ100年で起きてます。技術が発展する速度が上っていくにつれて、消える速度も上っていくという矛盾。

Dain:マングウェル『愛書家の楽園』のエピソードにつながります。イングランドの土地台帳で、千年前に作られた本です。これを電子化しようという動きがあって、3億円かけて文字・画像・動画を CD-ROM にしたのが1986年。でも CD-ROM って10年ぐらいでダメになるんですよね。16年後に読み出そうとしたら、データが劣化してて再生できなかったという話。

スケザネ:10年ってめちゃくちゃ耐久力弱いじゃないですか!

Dain:映画だとデジタル・リマスター版というのがあるじゃないですか。あれも、新しいメディアにアップデートしていく必要があるんです。

タケハル:デジタル化したから大丈夫だと油断していると、規格が変わったりとかするんですね。

スケザネ:ハードが進歩すればするほど、維持していくコストがどんどん増えていくんですね。昔はほら、洞窟に描いたらいまだに残っているじゃないですか、数千年前のものが。

タケハル:最強は石ですね!

スケザネ:最強は石、次は紙!

一同:www

 

5. 本はカジュアルに焼かれてきた

Dain:あと、フェルナンド・バエス『書物の破壊の世界史』を読むと、本って結構カジュアルに焼かれてきたことが分かります。

  • 記録抹殺刑:古代ローマで、反逆罪を犯したものに対し、ダムナティオ・メモリアエ(記録抹殺刑)→罪人が後世に名を残さぬよう、碑文、書物、記念碑などあらゆるものを破壊する
  • ボスニアの国立図書館の空爆:1896年創立した図書館、1992年8月25日夜、空爆の目標となり破壊された。軍事施設ではない図書館が標的になる理由→共同体と密着した文化財である図書館が、ある民族の象徴のひとつであるという事実の裏づけ
  • ナボコフは、メモリアルホールで600人以上の学生を前に、セルバンテス『ドン・キホーテ』を燃やすよう求めた
  • ボルヘスも『自伝風エッセイ』で初期の自著を焼却したことを語っている(数年前までは値段が高すぎなければ、自分で買い取って焼いていた)
  • 最近の本は、溶解されたり、圧縮される←ボフミル・フラバル『あまりにも騒がしい孤独』
  • プラトンがライバル視していたデモクリトスへの言及すら拒み、著作を集めて燃やそうとしていた(デモクリトスの哲学の入門書『大宇宙体系』がプラトンの著作と驚くほど似ていたから)

タケハル:ナボコフ、なんで『ドン・キホーテ』を焼きたかったんだろう?

スケザネ:『ナボコフのドン・キホーテ講義』というのがあって、そこでドン・キホーテをこき下ろすんです。そのくせ500ページぐらい使って説明するんです。この本の中では、焼くんじゃなく、ズタズタに破ったみたいなことが書いてある。

Dain:本を書くからといって、言論の自由にコミットしているわけじゃないことが分かるよね。

タケハル:プラトンにはそういうことしてほしくなかったなー

Dain:プラトンが焼いた、じゃなく伝聞ですからね。

タケハル:でもプラトンならそういうことやりかねない、って思われていたのかも。

スケザネ:「本を焼く」の定義をもう少し拡張して、破る、破壊する、発禁するとかにすると、実にいろいろ出てきますよね。

タケハル:聖書とか宗教的なものとかだとありますね。

Dain:サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』を翻訳した大学教授が殺されたとか。あと、PTAの白いポストとか。自分に都合が悪い存在に対し、直接殴ったりするのではなく、その言説をまとめた「本」を攻撃する。本は、ターゲットとされやすい、攻撃されやすいものなのかも。

タケハル:確かに! 本を燃やしても犯罪にはならないですからね。

スケザネ:紙焼いているだけですからね。象徴的だと、国旗とかもありますね。

Dain:そう、このボスニアの国立図書館の空爆って象徴的です。図書館を空爆することは許されることではないけれど、ものすごく効果的だと思います。「おまえの国(言語、歴史)ってのは無いんだぞ」というデモンストレーションとして有効。

タケハル:精神的なダメージがありますね。

 

6. イマジネーションを喚起させるSF作家

タケハル:『華氏451度』に戻ると、イマジネーションに富んだ比喩が良かったですね。印象に残っているシーンとしてはこれ。

  • ジェット・カーから見える景色の話(p.22)
  • フェイバーの話「うつくしい氷の彫像が、太陽のまえに溶けていくような気持ち」(p.190)
  • 「床の上には、表紙をもぎとられ、白鳥の羽根と化したかれの書物が、なんら問題にする価値のない品となって散乱している。」(p.244)

高速道路をジェット・カーで走っているときの景色で、「緑のものが草になってピンクが薔薇になる」とか。これ、ちゃんとブラッドベリが頭の中に思い浮かべて、目で写し取っているなぁ、というのがあります。

瑞瑞しい表現が頻発されるので、ディストピアものなのに、『1984年』読んでる時よりは怖い思いをしない。

ブラッドベリは、SF作家として有名だけど、かなり文学よりのSF作家ですね。

 

7. 焚書への究極の対抗策:暗記

タケハル:あと、終盤に出てくる人間図書館。これ、実際にあった話で、アフマートヴァ『レクイエム』になります。ソ連の時代に詩人のアフマートヴァが危険思想家扱いになっちゃって、印刷を許されなくなった。作品メモを残すと、それすらも拘留の対象になってしまう。

そこで彼女は、自分の詩を友だちに暗記させるんですね、10人くらいに分けて。そしてスターリンがいなくなった後で、それを集めてくっつけて外国で出版する。暗記とは、本を燃やすことへの究極の対抗策なんですね。

スケザネ:暗記は昔からありましたよね、稗田阿礼とかホメロスとか。

タケハル:ただ、稗田阿礼やホメロスと違うのは、アフマートヴァの友だちは普通の人なんですよね。口伝のプロなら覚えるための訓練をしているし、ホメロスに至っては即興で句を入れ替えたりする。

でもアフマートヴァの友人は素人だからすげー苦労してた。そして、さらに厄介なのは、アフマートヴァがプロだということ。プロということは、覚えさせた後に、やっぱり改訂したいとか言い出すんです。

スケザネ&Dain:www

タケハル:専用の数字とアルファベットと数字も考えて、持ち回りで20年ぐらい暗記してもらってやっと出版できたという話。華氏451のラストでこれを思い出しましたね。

 

8. 他の芸術と比較した文学の強みとは

スケザネ:いまの話と一緒のエピソードがあります。辺見じゅん『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』です。ノンフィクションで、シベリア抑留された日本人の話。仲間の一人が病気になって死を覚悟するんです。

でもその人は、故郷の日本に残してきた人に、どうしても伝えたいメッセージがあるんです。遺書ですね。でも収容所では紙も無いしペンもない。だから何人かで、彼の遺志を暗記しようという話になるんです。みんなで一節ずつ暗記していって、どうにか日本に戻ってから、故郷の家族の前で一人一人暗唱していく。

タケハル&Dain:すごい……!

スケザネ:ホントここに、文学の営為みたいなものがあると感じさせられます。文学の強みって、ここにあると思いますね。他の芸術、たとえば美術や音楽は、絶対に道具が要ります。楽器がないとダメとか、絵具とかキャンバスが無いとダメとか。

でも、文学は道具がなくてもいい。極端いうと、身体一つあれば成立なる。だからこそ、共有体験ができるし、こういう極限状態でも成立する。

これ、さっきの岩に描いた話にもつながるけれど、ハードウェアがシンプルであればあるほど、耐久性が強いんじゃないかと。いろんなものが棄損されていく中で、最後の砦になった、というのが分かる。

タケハル:確かに、物語を通していろんなギミックが出てくるけれど、結局最後まで残ったものが暗記だった、という話ですね。石よりも強い暗記。

Dain:未来の世代に伝える最も確実な方法を思い出しました。遠い未来へ物語や危険を伝えたいとき、どうするか? 紙に文字の形で残すことはできる。だけど、さっきの CD-ROM と一緒で、そのうち消えていく。石に刻むのもいいけれど、言葉は変わっていくから確実ではない。

ではどうするか? 人類が持っている一番古い、シンプルな方法が、「祭り」なんです。一年のサイクルで同じ時期に集まって、皆でお祭りをする。何かに感謝する、踊るという方法で、伝えていく。

タケハル:なるほど、伝えることをイベントにしちゃうんですね。

Dain:お神輿は壊れますよね、木でできているから。でも毎年同じ時期に、皆で集まって飲み食いし、神聖なる「なにか」を抱えるんだ、という記憶は、どんな言葉であろうとも、たとえ書き言葉が無くなろうとも、伝え続けることができるという発想です。

スケザネ:式年遷宮ってのがあるじゃないですか。伊勢神宮の社殿を20年ごとに建て直すってやつ。これもお神輿のやつと同じで、壊しちゃう。20年に1回、同じものを立て直して元のものは無くなっていく。

物体としては別だけれど、存在という概念が同じものが作り直されていく。テセウスの船のように、そこに存在することが重要だと思います。存在としての価値が連綿とつながっていく。建物という「モノ」であれば壊れたり焼けたりするけれど、作り直していくという「行為」に託したが故に、式年遷宮はこれだけ長く続いているんじゃないかと。

Dain:なぜ遷宮が20年おきに行われるか、考えたことがあります。20年とか25年って、1つの世代、ワン・ジェネレーションじゃないですか。そして、同じ社殿を作り上げるために、木を切って、特定の形に加工して、組み上げる必要がある。そこには技術が必要で、当たり前だけれどその技術は人が担っている。その大工さんが現役として技術を習得し、次の世代に伝える間隔が20年なんです。

スケザネ:なるほど!

タケハル:これ、かなり腑におちますね。

Dain:これが40年だったら、遷宮に携わった人がいなくなり、技術が次に伝わらない。10年だったら、壊して作り直すコストのほうが高くつく。なので20年なのかなと。スケザネさんの「モノは残らないが、行為として残る」はこれかなと。

タケハル:面白いですね! ブラッドベリは人間図書館で、個人の身体性による話を目指したけれど、ここの話だと、行為として、イベントとして世代を超えて伝えていく結論になりそうですね。

スケザネ:華氏451のラストから何年か経ったら、モンターグの仲間たちが集まって、暗唱による朗読会とかするのでしょうかね。

タケハル:これやらないと次の世代に残らないですよね。この人間図書館のコミュニティを次々とつないでいくとチラっと言及してはいるけれど、途絶える恐れだってあるから、技術を作ることが重要かも。a passionate few が居れば解決する問題じゃなくって、さっきのゲームの話にもつながるけれど、(人間という)ハードウェアへの配慮がないと、人間図書館が途絶える可能性だってある

 

9. 思想小説とサスペンス性

タケハル:華氏451はディストピアものなんだけど、ビーティとの議論とか、「本」そのものとは何なんだろうとか、思想的な議論が多い。ビーティを燃やした後、今度はモンターグが追われる立場になり、サスペンス性は上る。けれども、彼がさらに人を殺すとか、ケガをするといった展開にはならない。主人公は大変な思いはしているけれど、「本」に対する議論が続く。

最近のドラマ『ウォーキング・デッド』と比較すると明らかで、ゾンビとの戦いとか、物理的な恐怖やドラマが原型にある。物語をつくるとき、サスペンス性を前面に出すのだけれど、華氏451はそれを使わず、思想性を出す。

物語作品でこうした思想的な議論が減っている。減っていることは別に悪いことじゃないけれど、でも、昔は結構あったけど、今は少なくなっている。ということは、物語を作る側が、サスペンス性を使いたいという魅力に勝てなくなっている。

物語作品に思想を込める「大きい作家」が少なくなっている一方で、サスペンス技術が進んだ結果、それを使わずにはいられなくなっている。

Dain:サスペンス性の方に、物語の重心が行っちゃっているということなんですね。

タケハル:というか、サスペンス性はパワーが強く、読者や視聴者にウケるから、使わざるを得ないという話なんです。心に訴える思想的な議論よりも、身体に訴えるサスペンス性の方が力が強い

スケザネ:そこ! 新訳でいうとp.96 の「民衆による多くのスポーツの団体精神を育み面白さを追求し……」とぴったり合っている。

タケハル:そうそう、作家ですらもうそれに敵わなくなっちゃっている。

スケザネ:小説というハードの中の話でありながらも、その中で比較しても、思想性よりもサスペンス性の方に傾斜してしまっているんですね、最近のは。

スケザネ:それに比べると、華氏451は冒頭からして動きありませんものね。60ページぐらいまで何の動きもなくて、どうやって読者を読ませるか。物語の序盤の駆動力としては、さっきタケハルさんが言ってた、言葉の美しさ、比喩の巧みさにあるんじゃないかと。これがないと、最初の5~60ページで投げ出す人がいたんじゃないかな。ブラッドベリはそこに自信があったと思う。

タケハル:俺が編集だったら序盤を書き直せって言ってるはず。誰が誰だか分かんないでしょwww

スケザネ:言う言うwww

Dain:華氏451って、1984と同じく、「名前は知っているけど読んでる人は少ない」作品ですね。物語として面白いか面白くないかというと、確かに最初の60ページで萎える人が多いと思う。ダルいし。

タケハル:クラリスが死ぬってところと、あとお祖母ちゃんが燃やされるってところぐらいまで行かないと、物語が動いていかない感じがする。

スケザネ:クラリス、変なキャラであんなに重要そうなのに、早々と退場しますもんね。

タケハル:クラリスを追いかける旅かと思ったらそうでもないし。

スケザネ:村上春樹だったら追いかけさせるね。なのに50ページぐらいで「クラリスが消えた」とかマジっすかwww そっから言及ほとんどないし。いわゆるエンタメの小説としては、構造的にガタガタなところがある。先見性とか希少性、思想の議論は抜群によくできているし、後半になるとモンターグ逃げ切れるかなとか、上司を燃やしちゃったよとか、面白いところがあるんだけれど、構造としては危ういところがある。

タケハル:イヤホン型のレシーバーとかのやり取りは結構面白いのにね。

Dain:もっと面白くできるのに、面白くさせていない。

タケハル:50年ですからね、エンタメ技術が発達していない可能性もある。

スケザネ:あの当時の小説としては前書きにあれくらい使うのは当然なのかも。もっと昔だと、100ページ200ページ助走にかけるのがあって、「こいつまだ本編始まらない」というのもザラ。そういうのに比べると短いけれど、現代から見るとまだ長い。

Dain:ディケンズの『荒涼館』、めちゃくちゃ面白かったけれど、物語が始まるまでめちゃくちゃ長かったことを覚えてます。

スケザネ:ディケンズ、助走めっちゃ長いんですよね。19世紀の小説ってみんなそうなんですよね。「ごめん、物語が始まるまでちょっと待って」みたいな。

Dain:現代の読者のほうが待てなくて、説明とか能書きはいいから、早く面白くしてくれ、早く物語を始めてくれってなってるのかも。

スケザネ:『ジャンプ』ですね!

タケハル:先見性もあるとともに、時代性も感じますね、華氏451は。最後核戦争っぽいので終わるし。あのときはリアリティがあったんですね。冷戦中だし……キューバ危機の前ですよ。

スケザネ:朝鮮戦争くらい。

タケハル:限りなくあったかい冷戦ですね。確かに、戦争が起きそうという小説の空気感は当時の人もあったんだと思う。

 

10. この世ならざる世界にいかにして引き込むか

スケザネ:SFとかファンタジーについてまわる課題なんだけど、この世ならざる世界に、いかにして読者・視聴者を引き込むか?

SFとかファンタジーが難しいのは、現実世界とは違うことを説明しないといけない。ところが、SFやファンタジーの人たちは、その世界の住人なので、「この世界はこうですよ」などとわざわざ説明してくれることはない。そこで当たり前に生活しているから。

なので、常套手段として使われるのは、「その世界に違和感を持っているやつ」とか、「その世界の外部からやってきた人」を設定する

たとえば『十二国記』、現代日本の世界から、異国の世界にやってきた女子高生の目で説明してくれる。人間の世界から魔法の世界へ行くハリー・ポッターの場合だと、ハリーの目でその世界が語られる。視聴者もなるほどね、という風に理解していく。

ところが、華氏451だと、違和感を説明してくれない。外側から来た人がいないから。だからクラリスが出てくる。クラリスはその世界の住民なんだけど、その世界に違和感を抱いている。だからクラリスは、モンターグに色々と質問をしてくる。「あなた昇火士だけど、昇火士の仕事どう思ってるの?」とか。

この質問には二重の意味がある。

  1. クラリスがこの世界に違和感を抱いていることを示す内在的な要求
  2. この世界を読者に説明するという外在的な要求

この2が無いと、読者は物語の世界に入っていけない。クラリスを通じて、読者はこの世界を知るんです。

Dain:確かにクラリスがいないと冒頭60ページがもっとわけわかんなくて離脱者がさらに増えるww クラリスって、主人公を体制側から反体制側へ連れていくトリックスター的な存在だと思ってた。「この世界ってなんなの?」ということを、主人公に質問することで引き出す役もあるんですね。

スケザネ:クラリスの奇行が目立つのは、そのせいじゃないかと。ほら、最初に雨飲んだりするじゃないですか。雨ってけっこう美味しいのよとか、急にタンポポ塗りたくってきたりとか。それに対してモンターグは、現実世界で考えても、普通に近い振る舞いをしている。でもクラリスは、言ってることや思想は現実世界に近いんですけど、行動は、やってることは奇行に近いんですよ。

これ、クラリスの行動が普通だったら、華氏451の世界の中で、逆に浮いちゃう。クラリスが奇妙な行動を取ることで、バランスを取っている。

タケハル:確かに、奇行をさせることによって、この世界にいるための重しをつけているような感じですね。

 

11. 現実世界との架け橋をつなぐか

スケザネ:それが、次の課題「物語世界と現実世界との架け橋をつなぐか、つながないか」という問題に接続されます。

たとえば、ハリー・ポッターだと、ハグリッドという巨人が迎えに来る。人間世界で生活しているハリーを、魔法世界へ連れていくために迎えに来るんです。読者に対して分かりやすく、現実世界と魔法世界をナビゲートする狂言回し的なポジションにいるんです。

でも、華氏451はその世界で閉じていて、現実世界から行く架け橋はない。だからクラリスという異質なキャラクターを用意して、限りなく現実世界に近い代弁者としていてもらう……そんな物語の建付けにしているんじゃないかと。

Dain:クラリス、それほど重要なキャラクターだったら、もっと引っ張ればいいのに、もったいない。

タケハル:外在的な役割なら、教授とかに引き継がれているのかも。モンターグ自体も、この世界に違和感を抱き始めるから、読者からも共感できるようになる。

スケザネ:映画だと、フランソワ・トリュフォーが監督していて、面白いことに、クラリスとミルドレッドは、同じ役者さん(ジュリー・クリスティ)がやっているんです。

これ、ブラッドベリは怒ってるんですけど、監督の気持ち、めちゃめちゃ分かります。クラリスは序盤でいなくなってしまうのに、そこにキャスティングを贅沢にできないという事情がある。

タケハル:ギミックとしてすげー面白い!

Dain:映画観たはずなのに気づかなかった……主人公にとってかけがえのないという存在だったという意味で、非常に示唆的ですね。

 

12. 批評をするな、物語らせよ

スケザネ:『ブラッドベリ、自作を語る』というのが晶文社から出ていて、インタビュー集なんですね。本作についても、「華氏451は社会批評の要素があるけども、それは冒険物語という全体の中に隠れてるんだ」と語っています。

これ、本についていろいろ議論している思想的な要素もあるのですが、基本は冒険活劇だと言っている。議論が多いぞ、とは思うけれど、もしブラッドベリが、1950年代に議論のところだけを精緻に書いていたら、今に至るまで残っていないかもしれない。

重要なのは、批評してはいけないという点。物語を作る人は、批評に対して批評で返すのではないと。代わりに、物語という具体的な世界の中で語らせることに意識的であってほしいという話です。

タケハル:確かに! トルストイ『復活』読んでてあったんだけど、ラスト100ページぐらいになって延々と思想的な話が出てくる。キリスト教徒としてはどうあるべきか的な。トルストイがそれ言いたいのは分かるけれど、今までの話の方が面白かったのに、答え合わせするみたいなのはやめてよ、と言いたくなる。

Dain:へー、『復活』読んでないから気になる……

タケハル:確かにいいこと書いてあるんだけど、それ言われちゃうと、今までの主人公たちの冒険はなんだったん的な気持ちになる。

Dain:ユゴーの『レ・ミゼラブル』を思い出した。『ああ無情』の短いのじゃなくて、全部だと何巻もあるんです。で、そこで丸々一巻を使って、作者がこの世界について延々と語るところがある。ジャン・バルジャンやコゼットの話を放り出して、ずーっと作者の思想に付き合わされる。

たぶん俺を同じことを考えた編集者さんがいて、ユゴーのおしゃべりを丸ごとカットして、ストーリーだけにした版もある。

スケザネ:ユゴー、そういうの好きで、『ノートルダム・ド・パリ』というのがあって、そこだと丸々一章使ってパリの街の歴史について語るところがある。19世紀は小説というジャンルが未熟というか独り立ちしていないところがあって、物語だけじゃなく色々なものが詰め込まれている。

典型的なのがメルヴィル『白鯨』で、18~19世紀の百科全書的な思想を注いで、物語という形式で世界全体を包含しようという試みがなされている。クジラの辞書を入れてみたりとか、格言集を作ってみたりとかしている。小説で何でもやってやるぜという意気込みが好きですね。

でも、物語として楽しもうというときには煩いですよね。

Dain:確か岩波文庫だと、最終巻の解説で、章分けしている。物語パートはこの章とか、クジラの辞書はこの章とか、それぞれ色分けしている一覧があったはず。もし、物語だけを楽しみたいのなら、この章だけツマめばOKというのが分かる。物語が「小説」という枠に飲み込まれている。

スケザネ:芥川賞作家の丸山健二が、そういう物語以外のところをカットして、物語部分を中心にリライトした『白鯨物語』というのがあります。あるいは、『カラマーゾフの兄弟』の父殺しの所だけをクローズアップした『ミステリー・カット版 カラマーゾフの兄弟』というのがあります。

Dain:もともと「小説」って、そういうものだったのかも。いま僕らが、物語を楽しむための形式を小説と読んでいるけれど、昔はそんなんじゃなくって、作者が言いたい何か―――思想とか主張とか批判とか―――があって、それをそのまま書こうとすると、さっきのブラッドベリじゃないけれど、それは作家の役割じゃないとなるから、それを「物語」に包んで伝える。

パリの街並みの美しさをそのまま語っても誰も読まない。だから、物語の舞台に設定することで、読んでもらう。読者は、物語の先を知りたいという欲求があるから、作者の主張も一緒に読んでいた。

けれども時代を追うにつれて、作者の主張というのが引っ込んでいって、読者の「早く物語に入りたい」というニーズに合わせていくうちに、今の物語主体の小説になっていったんじゃないかなと。

スケザネ:17~18世紀だと、逆に、物語が市民権を得ていないからこそ、「事実で物語を担保する」というのがあったんです。たとえば『ガリヴァー旅行記』『ロビンソン・クルーソー』や、書簡体小説、たとえば『ペルシャ人の手紙』とか、あの時代ですね。

あの時代って、まだ物語が良いものとされていなかった。だから、どういう風に読んでもらおうとしたかというと、「序文をつける」ことです。やたら序文がついてて、どこどこ女王からの序文とか、7個ぐらいついてる。で、権威があります、本当の話なんですとする。あるいは、これは誰かが書いた手紙です、本物なんですとする。事実を担保として物語を届ける、というやり方だった。

タケハル:フィクションということの価値が低かったんだろうね……

スケザネ:英語の辞典とか引くと、fact という言葉が出てきたのは、1600年代ぐらい、シェイクスピアの時代ですね。フィクションとかファクトという価値概念が無かった。17世紀、fiction とは何か、fact とは何だろうという区別が必要になって、こうした言葉が使われるようになったんじゃないかと。

タケハル:文学史やんないと! フィクションとかファクトとか、物語とは何かを、そうした文学史の流れの中で押さえたうえでないと、さっきのブラッドベリの発言が分からなくなっちゃう。

 

13. ブラッドベリの創作技法

スケザネ:『ブラッドベリ、自作を語る』には、創作技法が紹介されてます。ブラッドベリが物語を作るときに、どういうことをしているかを語っている。

まず、名詞のリストをつくって、そこからストーリーを思いつくと言ってます。ビン、桶、湖とか、ガイコツとか。

タケハル:なんか落語の三題噺みたいな?

スケザネ:そうそう、で、自分のキライなものを10個書き出せという。そして、キライなものを物語の中でやっつけていけという。それで物語が出来ていく。ブラッドベリは本を燃やす人が大嫌いで図書館が大好きだから、『華氏451』が出来上がった。本を燃やすような連中を貶して、図書館的なものを持ち上げる、それが原初だった。

じゃぁ、その10個ってどんな風に思いつけるか? ブラッドベリは、人間の頭の中には3つのことがあるという。

  1. 実体験(物理的)
  2. 実体験への感情や反応(心の中)
  3. 芸術体験

1つは、普通に自分が体験したこと自体。そして、その体験に基づいた自分の反応や感情が2つ目。そして最後は芸術体験だと。この3つを軸にして、10個を挙げて書いて見ろと。ホントにそれで書けるのかはどうかだけど、少なくとも書き出すことはできる。

タケハル:プロの違いは、自分を訓練する方法を思いつけるかにあるかも。創作するためのルーティーンといったら機械的だけど、イマジネーションを深めるための方法論を持っているか。漠然と、「何かアイデアないかな」だとやっていけない。

スケザネ:漠然と何か出すなんて無理で、頭の中から何かを出すのはすごく難しい。スタンバイ状態になっているメモを作るとかしないと。Dain さんブログ書いてるけれど、何かメモ的なものってやってます?

Dain:やってますよ。Googleドキュメントや、最近だったら Google Keep に読んだ本の感想や抜き書き、ボイスレコード、写真を残していってます。追跡が難しいので、いまやっているのが、スプレッドシートに読んだ本のトピックや参照文献をずらっと並べて一覧化してます。読書猿さんの『独学大全』で紹介されてるやつ。考えるタネみたいなやつ。

あと、いろんな名言というか、「そうか!」と心にキた言葉を集めています。たとえばこんなの。

“告白、0を1にするんじゃなくて99を100にする行為だと知ったのはだいぶ先の話”
— 元気になった焼肉みくさんのツイート

"SNSで精神を病む最大の方法は「嫌いなひとやものを逐一監視する」です。だいたいこれでおかしくなります"
via:tumblr

“責任感が強いからクラス委員に向いてるって、君はおっぱいが大っきいんだから水着を着てなさいって言ってるようなもんだわ。”
- ゴースト≠ノイズ(リダクション) 上 / 十市 社 (via k-quote)

“感情とは価値判断のショートカットだ。理性による判断はどうしても処理に時間を要する。というより究極的には、理性に価値判断を任せていては人間は物事を一切決定することができない。完全に理性的な存在があったとして、それがすべての条件を考慮したならば、なにかを決めるということ自体不可能だろう。”
— 伊藤計劃『虐殺器官』

クスっと笑ったり、「これはイイ!」と思った言葉を集めておいて、ときどき読み返したりしていますね。あと、自分のブログそのものを検索して、そこからネタを膨らませていますね。

タケハル:なんだかんだしても、結局作業にまで落とし込む必要がありますね。

 

14. 終わりに&次回の課題図書

Dain:やっぱり「本を焼く者は人を焼くようになる」というメッセージが強烈でしたね。焼くほうが焼かれるほうになるとか。あと、若いときに読んだときと、いま読み直すときとの反応が違っていたのが面白い。俺だったらこういうディストピアにするのに、という読み方ができて良かった。

タケハル:題材が本を焼く話だったので、物語を伝える側としては、物語を乗せるハードウェアに目が向きました。何を遺していくべきかだけでなく、何「に」残していくべきかという点です。あと時代の問題、小説がどのように変化してきたのか、勉強することが沢山あるなぁと思いましたね。

スケザネ:楽しかったです! こんなに話が広がっていくとは思わなかった。そして、世相的な意味で、いいタイミングで読めたのが良かった。100分de名著『華氏451度』の6月にもこれが俎上に乗るみたいだし。あとこれ、70年も前の作品なのに、メッセージが古びないのが凄いですね。

さて次回はどうします? 今回はタケハルさん推薦でしたが、Dain さん、あります?

Dain:次回というか、いま僕が興味があることで、感情、特に「恐怖」があります。怖いとは何かについて。僕はホラー映画や小説が好きなんだけど、怖いと分かっているのに、わざわざ読んだり観たりする。「怖い」とは、嫌だ、避けたいというネガティブな感情なのに、好んでそれを味わおうとするのはなぜか?

そういう疑問に答えてくれるのが、戸田山 和久『恐怖の哲学』です。具体的なホラー映画の作品を挙げながら、恐怖の正体に迫ります。物語の作り手側からすると、読者の感情をコントロールして、上手に恐怖を刺激するヒントが得られるかもです。

スケザネ&タケハル:了解です!

| | コメント (0)

文学の手法を取り入れた医療『ナラティブ・メディスン』

患者と医者はすれ違う。たとえばこんな風に。

医者「いつ頃から、お酒をたくさん飲むようになったのですか?」

患者「夫が亡くなってからです」

医者「それは何年前のことですか」

患者は腹痛を訴えており、医者は彼女のアルコール摂取量が多いことに気づいている。医者も患者も、腹痛と飲酒量の関係性を疑っているが、それをどのように聞こう/語ろうとしているのかが異なっている。

医者は深酒をしていた期間を聞こうとする一方で、患者は、なぜ深酒をするようになったかを、自分の人生の物語として語ろうとしている。

夫が生きている間は飲まなかったとか、夫の死後は苦労が重なったといった話をさえぎり、医者は、最終的に知りたいことを聞き出せるだろう。だが、患者が語りたいことは残されたままだ。

彼女は、自分のたった一つの身体に起きた異変に戸惑い、恐れ、不安に感じている。痛みや苦しみに耐えながら、なぜそれが、よりにもよって自分の人生に起きたのかを、なんとか説明しようとする。

医者はそれを、「病気だから」と片づける。そして病名を特定し治療を施すのが自分の仕事だから、質問に端的に答えることを求める。数ある症例の一つとして接し、医学的に意味のある情報だけを引き出そうとする。

ナラティブ・メディスンとは

医学的要素に還元された病歴、社会歴、身体所見、検査結果のどこにも、患者の人生は残っていない。痛みや苦しみを抱く感情は疎外されたままとなる。

『ナラティブ・メディスン』は、このやり方に異を唱える。患者の視点になり、患者の語ることに耳を傾けよと主張する。著者リタ・シャロンは医師であり、文学者であり、コロンビア大学のナラティブ・メディスン教育プログラムの創始者でもある。

「ナラティブ」とは「語り」のこと。語り手と聞き手、目的と筋書きを備えたストーリーとして定義づける。対話を通じて患者の物語を紡ぎ出し、全人的な診療を行うため、物語的な視点を取り入れる。

これに必要な能力のことを、ナラティブ・コンピテンス(narrative competence 物語能力)と呼んでいる。患者の病を物語として解釈し、その展開とともに患者の人生にとって何が起きるかを理解する能力だ。

そして、なぜその物語が生じたのかを、始め、なか、終わりの中で見定め、隠喩や修辞を用いて、出来事とのあいだにつながりをさがし、プロットを与える。

がんになった意味を見つける

例えば、ステージIVの乳がんを患う女性を考えてみる。

42歳で3児の母でもある彼女が、「どうしてこんなことが私に起こったのでしょうか?」と問うとき、それに答えられる人はいない。医学が答えられるのは、病気がどのようにして(how)起きたのかであり、なぜ(why)起きたのかではないから。

しかし、たとえ確かな答えがなくとも、彼女自身が自分の身に起きたことを理由づける物語を作り出すかもしれない。

過去の罪に対する罰と考えるか、不幸な偶然と見なすかによって、病の体験は全く違ったものになる。彼女は、病も含めて自分の人生を生き続けなければならない。そのために、人生におけるこの病の意味を見出さなければならない。

このとき、彼女に寄り添い、彼女自身の言葉を聞き、病を解釈するために、物語が必要になる。出来事を順序だてて述べ、登場人物の性格を描写し、起きたことの原因を探し、隠喩や修辞で意味を伝える。

彼女が、自分の人生の中で、病をどのように意義づけようとするか。それは彼女しか語れない。医師、看護士、ソーシャルワーカーは、彼女の物語に耳を傾ける必要がある。「聞く」という姿勢を見せない限り、語られることはないのだから。

医療に役立つ文学

では、どうすれば物語能力を身につけることができるか?

本書では、精読のスキルが必要だという。一つ一つの文章を、丁寧に精密に読むスキルだ。読書を習慣としている人なら、普通に身についているだろう。でも、なぜ精読がナラティブ・メディスンにつながるのか?

著者は、トルストイ『イワン・イリッチの死』やジョゼフ・ヘラー『キャッチ=22』を紐解きながら答える(どちらも死を扱っている)。

テクストの意味は、「それは何についてのものか」と、「それはどのように語られているか」の2つの問いの答えの相互作用で伝えられるという。文学理論では、いわゆる「内容と形式」で呼ばれるもので、前者が語られるお話そのもので、後者がその表現形式になる。

例えばトルストイの作品で言うなら、平凡な男が病魔に侵されて死んでゆくお話だ。自分の人生はこれからも続いてゆくと信じ、わが身に起きていることから目を背け、希望にすがりつこうとする。これが内容になる。

精読する人であれば、彼について語るナレーション(地の文章)の距離感に気づくだろう。小役人としての半生は、すこし離れた皮肉めいた語り口だが、彼の病が進むにつれて、視点が彼に近づき、寄り添い、ついには彼の「中」へ入り込む。これが形式になる。

さらに、物語がラストに向かうにつれて、各章が短くなってゆく。あたかも、彼の生きられる時間がどんどん短くなってゆくことを示すかのように。

こうしたテクストの構造やメタファーは、「イワン・イリッチが死ぬ」という内容からは得られない。一つ一つの文章を、丁寧に読み解くことで、気づくことができるのだ。

精読のスキルがある人は、患者が病を語るときの、「内容」のみならず、「形式」に注意を向ける。痛みや発作の内容だけでなく、それが何に似ているといった表現や、どのように受け止めているかという点を読み解こうとする。

同時に、プロットを理解するスキルも、精読で身につくという。E.M.フォースターの有名なプロットの定義が紹介される。これだ。

「王は死んだ。そして王妃も死んだ」がストーリー

「王は死んだ。そして悲しみのあまり王妃が死んだ」がプロット

出来事や現象を並べて告げるだけではなく、そこに意味ある因果関係を見出す。たとえ同じ出来事の組み合わせでも、語り手の視点や意図によって、対立するプロットも形作ることができる。

形式を把握し、プロットを理解し、時間軸に沿ってストーリーの内容を追いかける。まさに、文学を味わう人がやっていることだ。文学が医療に役立つだなんて、思ってもみなかった。

パラレル・チャート

精読だけではない。ナラティブ・メディスンの実践では、パラレル・チャートを書くことが求められる。

患者のカルテについて、何をどう書くべきかは決まっている。患者の主訴や検査の所見、治療計画などだ。

一方、がんで死に瀕した患者が、昨年同じ病で亡くなった祖父を思い出させること、診察の度に動揺することは、カルテに書くことはできない。だが、それはどこかに書かれる必要があるという。その場所が、パラレル・チャートだというのだ。

患者への愛着や、自分自身の無力感、病気の不公平さに対する怒りが、パラレル・チャートに記され、書いたことをグループセッションで読み上げる。自分の気持ちを率直に述べることで、患者の物語への気づきを得られるという。

パラレル・チャートで最も印象に残ったのは、30代の男性のHIV患者についてだ。

その男は移民で、7年前にHIV陽性を告げられたが、薬を服用することを拒んでいる。ガールフレンドとの間に子どもが生まれたばかりだ。ガールフレンドもHIV陽性で、男は、生まれたばかりの我が子のHIVの状態についは、知らない。

彼を診察した研修生のパラレル・チャートには、こう書かれている。

この患者について知れば知るほど、私は怒りがこみ上げきて、激怒さえしている自分に気づく。興味深いことに、強い怒りを感じていることに気づいているという事実によって、私は自分の感情を脇に置いて、患者を適切に扱うことができる。彼は自らの行動が彼自身と家族にもたらした結果について、全く自覚がないと思う。彼は要するに、生き延びる見込みのほとんどない子どもをこの世につれてきたのだ。

(中略)

私はこの男を気の毒に感じる。この男は30歳代にしてAIDSと生まれたばかりの子どもをもち、自分の病態については大きく否認しているが、身体の調子が悪いことは分っている。彼はおそらく自分の病気が悪いことに気づいており、終わりが近いことも知っている。私は彼を気の毒に思うが、共感からではなく憐れみからそう思う。これが、自分が彼の助けになりたいと思わせる感情である。

これを書いた研修生は、ナイジェリアから移民し、医療従事者として働きながらトレーニングをしている。そして、パラレル・チャートを書くまでは、自分が患者に向ける情動を説明できなかったという。

しかし、書くことで自分自身の専門家としての義務の重みと、患者が抱いている恐怖を想像することが可能になったと述べている。

心療内科との違い

患者の心に寄り添って、精神的なケアをするのであれば、心療内科と同じではないか、という疑問も残る。

だが、本書に通底する考え方からすると、「心療内科的ケア」は、患者の精神的な部分『だけ』をケアするという点で、「ナラティブ・メディスン」と異なると考える。

つまり、患者を分解して、病の部分(ハードウェア)と心の部分(ソフトウェア)に分けて、ソフトウェアのメンテナンスをするのが、心療内科的ケアになるという発想だ。この場合、ハードとソフトの分断は残り続ける。

一方、ナラティブ・メディスンは、患者ひとりを全人的に見るための方法になる。そのため、ハード担当/ソフト担当に関係なく、身につけることが求められるのだ。

人文学と医学を結び、患者と医者をつなぐ文学の、実践的な解説書。本書は、KyosaiKawanabe さんに教えていただいた一冊(ありがとうございます!)。

 

| | コメント (4)

現実も幻覚の一つであることが見えてくる研究『幻覚剤は役に立つのか』

LSDやサイロシビンなど、危険ドラッグと呼ばれているものは、持ってるだけで重罪だ。依存性があり、自分の意志ではやめられなくなる恐れがあると言われている。

だが、毒か薬か量による。

専門家の監督下で、正しい用法・用量を摂取することで、うつ病や不安障害といった精神疾患や、末期ガン患者に対し、驚くほどの効果が期待できるという。そして、著者自らが幻覚剤を体験することで、治療薬としての可能性を追求したのが、『幻覚剤は役に立つのか』である。

幻覚剤の効果

幻覚剤の体験で特徴的なものが、「子どもの目で世界を見る」である。

大人の場合、「見る」という行為ひとつとっても、「それは見たことがある」「あれに似ている」など、過去の経験や知識に基づいた見方をする。

だが子どもは、(経験が少ない分)そうした影響を受けにくい。見たもののを、そのままダイレクトに受け取ろうとする。

たとえば、緑色の点がフラクタルなパターンで視界に入れば、大人は「木の葉だろう」と考える。なぜなら、過去に何千何万回と見てきたため、ただそのパターンだけで推測してしまう。そうすることで、時間とエネルギーを節約しているのだ。

LSDを使用すると、そうした短絡的な知覚モードが遮断される。あたかも生まれて初めて目にするかのように、生々しく「葉っぱだ!」と感じ取る。大人になるにつれ失われてきた、センス・オブ・ワンダーを取り戻すというのだ。

また、意識の境界がぼやけて拡散することも特筆されている。主観的な「私」の感覚が崩壊し、どこまでが主観的な事実で、どこからが客観的なものか、分からなくなるという。

この辺りの感覚は分かる。いい感じにお酒が入ったり、瞑想が上手くいったとき、あるいは性行為の際、こうした経験がある。

周りの全てが生々しくなり、自分が溶ける。肌理と輪郭と細部と全体が一体となり、位置的に見えないはずの上や反対側からも見える。見るというより「ある」ことを受け入れるような、視覚と触覚が混ざったサイケデリックな経験だ(泥酔はしておらず、意識はクリアなのが怖い)。

サイケデリック体験のメカニズム

幻覚剤が、どのようにサイケデリック体験を引き起こすのか。

本書では、DMN(Default Mode Network/デフォルト・モード・ネットワーク)の観点から説明する。

DMNとは、「話す」「走る」など意識的な活動を行っていないときの脳内の神経活動のことを指す。ワシントン大学のマーカス・レイクル教授によると、DMNは、脳の各部に対しトップダウンに働きかけ、全体を整理する役割があるという。

そこでは、過去の出来事に思いを巡らしたり、未来に漠然と不安を抱くといった意識が流れており、DMNの活動が強すぎる場合、統合失調症やうつ病に関連している可能性もあるという(※1)。

幻覚剤を使用している被験者の脳内をfMRIで観察すると、ちょうど被験者が自我の消失を訴えるあたりから、DMNの活動が急激に低下することが報告されている(※2)。幻覚剤は、DMNのを抑制する働きがあるのだ。

DMNがオフラインになるとき、脳内のコミュニケーションの状態が大きく変わる。脳磁図と呼ばれる画像技術を用いてマッピングしたものが下記になる(※3)。左側が通常の脳で、右側がサイロシビンを使用している脳になる。

Photo_20210516093901

通常では、各部のネットワーク内でのみ交流し、一部の経路のみコミュニケーションが密となっている。

だが、サイロシビンの影響かにある脳では、新しい繋がりが無数にでき、通常ではほとんど交流しない遠方の領域ともリンクしてる。

この脳内ネットワークの一時的な再編によって、精神活動に影響が出てくる。

たとえば、感情を司る領域が、視覚情報を処理する領域と直接交流するようになれば、恐怖がそのまま視覚に影響を与えるようになる。知覚情報が混交し、色が音になったり、音が触感になることもありうる。記憶が視覚に変換されて、鏡に映った自分の顔が祖父に見えたりする。

幻覚剤は、「自己」を形作るため抑圧的に働いていたDMNのくびきを外す。見慣れたものに新たな意味を見出し、創造的なひらめきや、斬新な視点を得ることができる(※4)。さらに、DMNの働きを一時的にせよ弱めることで、統合失調症やうつ病への効果も期待できるというのだ。

私たちは管理された幻覚に生きている

なぜDMNがこれほど抑圧的に働くのか。

この問いに、興味深い仮説が提示されている。答えは単純で、「効率」による。

脳は複雑な予測マシンであって、外部環境を「ありのまま」知覚しているわけではない。視覚ひとつとっても、非常にデータ量が多く、全てをいちいち処理していたら判断が追い付かない。そのため、過去の経験や他の感覚からの信号に基づいた推測を行って、最小限の情報だけを受け入れるというのだ(予測符号化※5)。

感覚器を通してボトムアップに入力される「フラクタルな緑色の点」と、過去に何百何千回と見てきた「木漏れ日」からトップダウンに予測する誤差を最小化するように、脳は情報処理を行うのだ。

言い換えるなら、私たちが外界を知覚するとき、それは「ありのまま」の現実を転写したものではなく、知覚器官から得たデータと、過去の経験に基づいたモデルを結びつけ、整合的に組み合わされた幻覚だと言える(本書では、「管理された幻覚」と表現されている)。

日常の生命維持を容易にするよう、知覚は最適化されている。だが、それが崩れるとき、あらためて脳はそれを学習しようとする。

たとえば、私たちが「顔」らしきものを認識するとき、それは凸面であると脳は予測している。なぜなら、過去に何万何億回と、現実と予測のマッチングテストを行ってきたから。

しかし、以下のような錯視を目の当たりにすると、「このT-Rexは例外だ」と学習する。何度も見ているのに、それでも騙される。それぐらい管理された幻覚は強力なのである。

https://youtu.be/A4QcyW-qTUg

幻覚剤は、現実と認知情報の強固な結びつきを壊す。

脳は、どっと流れ込んできたローデータをなんとか処理しようとする。いつもの予測符号化が役に立たず、現実の予測が追い付かない。脳は必死に新しい現実予測を作り始め、過去の経験と大量のデータを無理やり結びつけようと試みる。その結果、ありもしないものを知覚するようになる。

幻覚剤は、幻覚を見せるのではなく、私たちが現実だと思っていた世界も幻覚の一つであることに気づかせてくれる。


※1  Default Mode Network Activity and Connectivity in Psychopathology

https://www.annualreviews.org/doi/abs/10.1146/annurev-clinpsy-032511-143049

※2 The entropic brain: a theory of conscious states informed by neuroimaging research with psychedelic drugs 

https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fnhum.2014.00020/full

※3 Psychedelics: Lifting the veil | Robin Carhart-Harris | TEDxWarwick
https://youtu.be/MZIaTaNR3gk

How do psychedelics work?
http://goodmedicine.org.uk/stressedtozest/2019/01/recent-psychedelic-research-how-do-they-work

※4  真逆のレポートもある。DMNが活性化すると、創造性が高まるというレポートだ。
The Importance of the Default Mode Network in Creativity—A Structural MRI Study

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1002/jocb.45

※5  予測符号化 (predictive coding) とは何か
https://omedstu.jimdofree.com/2018/08/17/%E4%BA%88%E6%B8%AC%E7%AC%A6%E5%8F%B7%E5%8C%96-predictive-coding-%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B/

| | コメント (4)

人はなぜ遊ぶのか『遊びと人間』

じゃんけんからサッカー、コスプレからワルツまで、古今東西、老いも若きも、人は様々な遊びを楽しんできた。「遊ぶこと」それ自体を目的とする行為を、なぜ人はするのか。

この疑問に対し、ロジェ・カイヨワが、神話や文化人類学、歴史学や社会学から解きあかしたのが『遊びと人間』だ。

「遊び」といってもその範囲は膨大だ。一人でするもの、複数でするもの、人数が決まっているものや、道具の有無、時間や場所が指定されているもの、厳密にルール化されているものから、自由度の高いものまで、つかみどころがない。

これを捌いていく手際が鮮やかだ。

まず、遊びを定義することで、外堀を埋める。つまり遊びとはこういうものなのだ。

  1. 強制されず、自由な活動
  2. 生活から隔絶され、予め決められた時空間に制限される
  3. 展開が決まっておらず、創意の工夫が残されている
  4. 富を生み出さない、非生産的な活動
  5. ルールがあり、そのルールだけがその場で通用する
  6. 非現実であり、虚構の活動である意識がある

次に、個々の遊びに共通する性質を示し、類型化する。さらに、この「共通する性質」こそが人を遊びに駆り立てる動機となり、遊びを通じて文化が生まれてきたのだと主張する。


分類


共通する性質・動機



アゴン
競争


ルールのある競争において、自分の能力だけで勝利を得ようとする


運動競技、玉突き、サッカー、チェス


アレア


意志を捨て去り、運命の判決を不安と受け身で待つ


じゃんけん、ルーレット、宝くじ


ミミクリ
模擬


他人の人格を装い、自分を他者であると想像し、虚構の世界を作り出す


人形遊び、仮面、コスプレ、演劇


イリンクス
眩暈


身体の安定と平衡感覚が狂わされるのを楽しむ


ぶらんこ、ワルツ、スキー、登山

そして、遊びから制度化・慣習化されたものを検証してゆく。法律から行政制度、祭り、仮面からダンスパーティまで、社会の諸現象に湧き出ている遊びの精神を見出す。壮大な文明論まで拡張される風呂敷が面白い。

遊びは富を生まない?

その一方で、現代に合わなくなっている点もある。定義の「4. 富を生み出さない、非生産的な活動」がそれだ。

例えば「宝くじ」は当選したら莫大な儲けを生み出すではないか、というツッコミに、著者は、トータルでは富は変わらないと説く。

たしかに胴元がいてカネを集め、アレア(運)に選ばれたものが大金を手にするかもしれない。だが、それは宝くじという遊びの中のカネの所有権が移動するだけであり、遊びの外から富を引き出してはいない、というのだ。

しかし、Youtube のゲーム実況を見ていると、遊びそのものが富を生み出しているように見える。

いわゆるプロゲーマーを指しているのではない(それはプロボクサーと同じ「仕事」だろうから)。ゲームが上手なわけではなく、ただ楽しそうに遊んでいる様子を実況する。動画を見に来る人への広告が収益となる、という構造だ。この場合、確かに遊びが富を生み出していることになる。

例えば「しゅうゲームズ」は典型で、あつ森やマリカーを遊んでいるのだが、独り言やセルフツッコミが面白く、登録者が80万人を超えている人気チャンネルとなっている

あるいは、クレーンゲーム実況なんてもっとエゲつなくて、人気フィギュアを総取りしてメルカリに売る「クソ転売ヤー生活」を動画にし、アップロードしている。転売+実況広告というメタな収益化を図っている。ネットを通じた遊びの見世物化が、遊びの定義を変えたといえるだろう。

本書は半世紀も前の名著とされているが、アップデートされた目で読み直すことで、遊びが拡張されているのが分かる。

人はなぜ遊ぶのか

遊びを定義・分類し、社会や文化に現出している「遊びの精神」を検証する―――こうした行為を通じて、「人はなぜ遊ぶのか」という疑問に答えようとしている。

だが、この疑問に対し、明確に答えている箇所を見出せなかった。強いて言うなら、第4章「遊びの堕落」p.107の以下のあたりになる。

遊びの原理はまさしく強力な本能(競争、幸運の追求、模倣、眩暈)に応じたものである。しかし、これらの本能が積極的、創造的に満足させられるのは、時と場合により遊びの規則が指示するところの、確定された理想的諸条件の中でしかないことは容易に理解できよう。

(中略)

遊びは本能を訓練し、それを強制的に制度化する。遊びはこれら本能に形式的かつ限定された満足を与えるが、それは本能を教育し、豊かにし、その毒性から魂を守る予防注射をしているのだ。同時に本能は、遊び(の教育)のおかげで、文化の諸様式の豊富化、定着化に立派に貢献できるものとなる。

回りくどい言い方だが、要するに「人は、競争、幸運の追求、模倣、眩暈を求める本能があり、それに衝き動かされて遊ぶ」という主張である。そして、その本能を訓練し、制度化するものを遊びと呼んでいる。

「遊びは本能」と明確に言い切ってしまうと、なんだ、「本能」というそれ以上説明できない言葉に逃げているではないか、というツッコミが入ってしまう(今だと生得的モジュールとか適応と言われていそう)。

オオカミの仔がじゃれ合う「遊び」は、成長した後に必須となる狩りの予行演習である。誰に教わったわけでもないのだから、それは本能である。

この観察結果を人に当てはめ、その社会・文化的活動の予行演習に相当するものを遊びと定義するならば、「人はなぜ遊ぶのか」という問いへの答えは、結果的に「本能」になるだろう。

 

| | コメント (1)

怖いと分かってるのに、なぜホラー映画を観るのか『感情の哲学入門講義』

怖いと分かっているのに、ホラー映画が観たくなるときがある。

不可解なことが次々と起こり、その原因が見えてくるにつれ、背筋が寒くなるような展開になり、あまりの怖さに、「観なきゃよかった……」と後悔するようなやつ。

昼間なら大丈夫だろと、うっかりアマプラで『残穢――住んではいけない部屋』を観てしまい、いま後悔している(怖いというより、嫌あああってなっている。観ると部屋にいたくなくなるので、引きこもりには不適)。

怖いなら観なきゃいいのに……というツッコミに同意する。

心臓がバクバクして、イヤな汗が出てきて、呼吸もせわしなくなり、そこから逃げだしたくなる。なぜなら、「怖いもの=危険なもの、生命を脅かすもの」だから、それを避けようとするのが普通だから。

「怖いものから逃げたい、避けたい」という欲求は、本能に刷り込まれているレベルだろう。例えばヘビやライオンを怖いと思うのは、私の生命に危険があるから。

もちろん、ヘビやライオンを怖がらなかった人もいただろう。だが、そんな人は、生き残って私の祖先にはならなかっただろう。

怖いと分かっているのにホラー映画をわざわざ観るのは、なぜだろう?

順番に考えてみる。

  1. ホラー映画を観ると怖くなる
  2. 「怖い」というのは避けたい・逃げたい、という感情だ
  3. ホラー映画を観るのは避けたい(1と2から)
  4. ホラー映画を観る人はそれなりにいる(事実)
  5. 上記3と4は矛盾する

うん、自分でも矛盾していることは分かる。避けたいはずなのに観たい。

『感情の哲学入門講義』では、この矛盾を紐解いてゆく。

ホラー映画は(実は)怖くない

まず1を否定してみる。ホラー映画を観ても、本当は怖くなんてないんだと。

確かに、映画の中の怪異は、「映画の中」だから、観ている私には影響がない。映画の中の登場人物が次々と酷い目に遭っても、私が殺されることはない。

私は、映画の外側という安全な場所から、物語を楽しむことができる……と私は知っているのだ(もちろん例外はある。安全なはずの映画の「外」を舞台にした『デモンズ』や『REC/レック』ほか色々ある)。

とはいえ、とにかく私は視聴者として安全なはずだ。それを確信しているからこそ、ホラー映画を楽しむことができる。

そう、ホラー映画を「楽しむ」のであって、怖いのではない。実は怖がっているフリをしているだけなのだという人もいる(※1)。いわゆる「ごっこ説」と呼ばれており、ホラーで怖がる「ごっこ」をしているだけなのだという。

鬼ごっこをする子どもたちは、鬼に襲われると本気で思ってはいない。だけど、鬼に追いかけられると、悲鳴をあげて逃げるだろう。そしてタッチされるとき、ドキドキしたり、身体がこわばったりするかもしれない。このときの身体の状態は、本当に危険が迫っているときと同じであり、後に振り返ると、「ああ怖かった」というだろう。

これと同じで、映画はフィクションであり、現実の自分に危険が迫ることはないと確信している。そして、映画の中の登場人物が襲われているとき、自分も襲われているフリをすることで、ゾクゾクするようなスリルを、安全に楽しむことができるのだ。

なるほど……と納得しかけるのだが、やっぱり「怖い」と感じる心は否定できない。なぜなら、映画を観た「後」のいまでも怖いから。ふとしたはずみで出てくる「思い出し笑い」のような、「思い出し恐怖」は、確かにある。

恐怖を超える快楽がある

次は、2に反論する。1の「ホラーを観ると怖くなる」は認めるが、それを上回るなにかがあるために、「避けたい」とは感じなくなるのではないか、という主張だ(本書では、補償説と呼んでいる)。

まず、1を「ホラーは恐怖だけを生み出す」と読み替える。すると、本当にそれだけ? という疑問が生まれる。怖いという感情の他に、ドキドキしたり、日常では味わえないスリルを感じることができる。

これはむしろ、「避けたい」のではなく、味わいたい感覚じゃないだろうか。つまり、恐怖も感じるが、それを乗り越える快楽があるから(補償するから)、ホラーを観たくなるという理屈だ。

これはしっくりくる。

『バイオハザード7』をクリアしたときの感じがそれで、「生き延びた!」という達成感は、それまで何度も何度も何度も死んできた恐怖を凌駕して、脳汁ドバドバあふれ出していた。この快楽も強烈に刷り込まれていて、「思い出し笑い」のような「思い出し快感」は、ふとしたはずみで出てくることがある。

恐怖という激しい情動は、大脳辺縁系の活動に直結している。扁桃体にて価値判断が行われ、視床下部に伝えられ、自律神経とホルモン分泌が反応し、心臓の拍動が早くなり、胃腸の動きも変化する。同時に扁桃体から中脳へ伝わった情報は、すくみ上がるといった行動が引き起こされる(※2)。

「恐怖」のドキドキと「好き」のドキドキを取り違える

恐怖を感じるときの身体状態(発汗、心拍数と呼吸の増大、アドレナリン、感覚器の感度上昇)は、そのまま「生きのびる」ことに直結したものになる。恐怖を感じた後、物語の最後までたどり着き、実際の生き延びたのであれば、身体が準備した反応が成功したことになる。

ホラー映画では、少なくとも主人公(その物語の目撃者なり、語り手)は、映画のラストまで生きている(はず)だ。

だから、ホラー映画を最後まで観るということで、生き延びた、という達成感を味わうことができる(もちろん例外はある。『ゾンゲリア』とか『ファイナル・デスティネーション』とか)。この「生き延びた」がカタルシスを生み、その快感が恐怖を上回っていると考えられる。

この仕組みは、吊り橋効果に似ているかもしれない。ゆらゆらする吊り橋や、ドキドキするジェットコースターのような場所で一緒に過ごした異性のことを好きになってしまうやつ。不安や恐怖からのドキドキと、恋愛感情のドキドキを取り違えてしまうという理屈で、デートの定番が遊園地なのは、この理論の表れなのかもしれぬ。

矛盾した感情を説明する

本書では、こうした感情の矛盾を説明している。

例えば、嫌いな人やものを逐一監視する人がいる。SNSでおかしくなる人は、だいたいこれで病んでゆく。

なぜ、見たら怒りを感じるような人やものを、わざわざ見に行くのか?

これも、補償説で説明できる。

もちろん、見たら怒りを感じ、嫌悪感を掻き立てられるだろう。だが、怒りと同時に、「こいつは非常識なやつで叩かれるべきだ」という義憤も沸き上がってくる。

そして、その言動を断罪する自分のほうが、人として優れているという優越感も味わうことができる。さらに、こいつは非常識なやつだと拡散することで、自分はそいつを非難できる良識があると仲間にアピールして、連帯感を育むことができるというのだ。

こうした優越感や連帯感といった正の感情が、怒りや嫌悪といった負の感情を上回るため、「嫌いなものをわざわざ見に行く」という行動を取るというのだ。

哲学に限らず、心理学や脳神経科学、文化人類学、進化生物学など、さまざまな分野での感情研究を紹介した一冊。


※1  ケンダル・ウォルトン 2015「フィクションを怖がる」『分析美学基本論文集』勁草書房p.310-334

※2 恐怖する脳、感動する脳
http://www.brain-mind.jp/newsletter/04/story.html

恐怖の情動から考える大脳辺縁系の機能
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jrn/11/0/11_20110102/_pdf/-char/ja

 

 

| | コメント (2)

« 2021年4月 | トップページ | 2021年6月 »