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「ジャンプ最高のマンガ」がバラバラになる理由『好き嫌い 行動科学最大の謎』

「週刊少年ジャンプで最高のマンガは?」

この答えは、必ずといっていいほど割れる

気持ち的にスラムダンクを推したいが、やはりドラゴンボールだろうか。だが、ワンピこそ最高という人、完結さえすればH×Hだという人、売上的にも鬼滅という人、様々だ。

面白いことに、学生時代の友人だと被るのに、若者と話すと違ってくる。たしかに呪術やヒロアカは凄いけど、それを「ジャンプ最高傑作」と言われると違う気がする。

老害承知で「ドラゴンボールって知ってる?」と尋ねると、「知ってはいますが、読んでません」とにべもない。さらに、「あれ好きな人って、マンガだけでなく、ゲームやアニメで何度も目にしているから好きなんでしょ?」と畳みかけられる。

ううむ、確かに……

ドラゴンボールがジャンプ最高傑作である理由

私のモヤモヤは、『好き嫌い 行動科学最大の謎』で解消される。

何度も目にしたキャラや、あちこちで耳にした音楽が好きになる。これは、単純接触効果という名前がついている。くりかえし触れることで、そのキャラや音楽を学習し、認知が容易になるためだという。

つまり、認知処理が容易であれば心地よく、それが刺激そのものに対する感情に移し替えられるというのだ。なるほど、「オレンジ色の道着」というだけで想起できるぐらい、わたしの認知処理は馴染んでいるのかもしれぬ。

ただし、何度も接触すれば好きになるかというと、そうではない。

これは、テレビのCMやネット広告でよくある。何度も触れているうちに、キライになる場合もある。

なぜか? この疑問にも、本書は答えている。

ポイントは、最初に意識された印象によるという。特に肯定的でも否定的でもなく、単に目新しい、という条件であれば、接触を繰り返すことで好みを高める。

だが、初めの感情がわずかでも否定的だった場合、接触が繰り返されることで、キライが積み重なっていく場合があるという(※1)。

「第一印象が最悪だったけれど、会っていくうち好きになっていく」というラブコメの王道パターンは、ファンタジーなのかもしれないね。

「ジャンプ最高傑作」が割れる理由

そうはいっても、接触効果だけで説明がつくのだろうか?

よく売れていて、馴染みがあるものが、自動的に一番になるのだろうか。ほんとうに、「売れてるものが一番なら、世界で一番おいしいラーメンはカップ麺だ」なのだろうか?

本書では、その秘密にもメスを入れる。

ホルブルックとシンドラーの研究によると、人は、23.5歳のときに聴いた音楽を、最も好む傾向がある(※2)。この時期は、人生で最高感度の臨界期であり、コンラート・ローレンツの「刷り込み」のように、ここで聴いた音楽が長く耳に残るというのである。

これの傾向は、レミニセンスピーク(レミニセンスバンプ/Reminiscence bump)という言葉でも説明される(※3)。

記憶に残るほど衝撃を受ける出来事や変化は、青年期~若年成人期に起こるというのだ。この頃に聴いた音楽は、記憶の中に残りやすいことになる。

Lifespan Retrieval Curve.jpg
Reminiscence bump より引用(Public Domain, Link

過去の「良い」と感じた音楽だけが、記憶の中で残り続ける。だが、現在は、「良い」と感じた音楽も、そうでない音楽も耳に入ってくる。過去だけが、自分の良いと感じたものを再生できるというのだ。

記憶とは、自分の聴きたい曲だけを流すラジオ局のようなものだ。好きな音楽のことを考えて多くの時間をすごしたなら、その音楽を聴けばいまでもすぐに思い出があふれてきて、快感をくすぐられるのは当然なのである。

なるほど、私がスラムダンクやドラゴンボールを最高だと思うのは、それを若いころに読んだからだということになる。フライングで買えるコンビニまで30分自転車こいだ記憶や、深夜のテンションで友だちと回し読みした思い出も込みで、「最高」と感じているのかもしれぬ。

そして、自分が若いころに読んだ/聴いた作品がスペシャルになるが故に、「ジャンプ最高」は割れるのだろう。

他にも、作品が賞を受賞すると、Amazonの★評価が大きく下がる理由や、フィギュアスケートや音楽コンテストで、後の演者の方が得点が高くなる理由など、興味深いトピックが紹介されている。

行動科学の観点から「好き/嫌い」を探ることで、自分の「好き」がいかに不確かでバイアスにまみれているかが明らかにされる。

本書は、骨しゃぶりさんのお薦めで出会うことができた。骨しゃぶりさん、ありがとう!


※1 Richard J Crisp and Bryony Young “When mere exposure leads to less liking”

https://www.researchgate.net/publication/5308635_When_mere_exposure_leads_to_less_liking_The_incremental_threat_effect_in_intergroup_contexts

※2 「モリス・ホルブルックとロバート・シンドラーの研究」とあるが、論文名は原注がないため特定できず(『好き嫌い』p.171)

※3 Howard Schuman and Jacqueline Scott “Generations and Collective Memories” American Sociological Review Vol. 54, No. 3 (Jun., 1989), pp. 359-381 (23 pages)

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東大教養学部の集中講義『歴史学の思考法』

高校日本史の教科書で、鉄砲伝来の記述として正しいのはどちらか?

  1. 1543(天文12)年、ポルトガル人の乗った船が、九州南部の種子島に漂着した。
  2. 1543(天文12)年、ポルトガル人を乗せた中国人倭寇の船が、九州南部の種子島に漂着した。

答えは、どちらも正しい。Aは、1980年代の記述で、Bは近年のものになる。

だが、イメージが違ってくる。Aだと、ポルトガル人を乗せた西洋の船が漂着した、と想起されるが、Bの場合だと、橋渡し役として倭寇が登場する(※)。

なぜ、記述が変わったのか? 新たな史料が発見されたのか?

新しい史料が発見されたわけではない。南浦文之『鉄砲記』とガルヴァン『新旧発見記』とで、漂着した年に差はあるが、根拠となる史料は変わっていない。

同じ史料に基づいているにもかかわらず、昔の教科書では「中国人倭寇の船に乗って」いなかったのはなぜか?

史料を読み取る側の変化

東大教授陣の『歴史学の思考法』によると、変わったのは、史料を読み取るわれわれの側になる。

潮目は、1990年の前後。

それまでは、歴史学者の間で「国家の枠組みを前提とした歴史」が主流だった。だが、戦後体制の崩壊やグローバル化の世界情勢の中で、「国家の枠組み」の限界が強く意識されるようになったという。

そして、国境をまたぐ「東アジア海域」全体の歴史像をとらえようとする研究視角が生まれ、この視角からの研究が盛んになる。そこでは、倭寇を単なる「荒くれもの」とせず、地域間の交流や商業を担っていたという側面に目が向けられるようになる。

教科書の記述が変わったのは、こうした背景による。

新たな視角による歴史像の再解釈のなかで、今まで注目されていなかった事実(ポルトガル人は中国人倭寇の船に乗ってきた)の重要性がクローズアップされた結果だというのだ。

歴史とは現在と過去との対話

歴史は過去を扱うから、歴史学は「確定したもの」に対する学問だと思っていた。新たな史料が出てこない限り、「確定したもの」は変わらないと考えていた。だが、この考え方は違っていたようだ。

本書p.27にこうある。

歴史学の営みが行われるのは、現在(いま)である。現在を生きる人間が、その時代の価値観や情勢を背景に、ある問題について関心を持ち、そこから過去に対する問いを立てる。その意味では、歴史学は現在がなければ存在しない、現在と不可分の学問なのだ。

そして、現在の情勢はゆるやかに、時に急速に変わってゆく。そうなると、その時点から、「現在」は過去になるため、過去はさらに問い直されることになる。

「ポルトガル人が鉄砲をもたらした」という史実は変わらないが、それをどう評価するかは、現在のわたしたちの価値観によって変わる。変わるたびに過去は問いなおされ、フィードバックされるのだ。E.H.カー「現在と過去との尽きることを知らぬ対話」という言葉は、まさにこれを指しているのだろう。

世界史 ≠ 各国史の総和

自分の盲点に気づいたのが、「各国を合わせると世界になるが、世界史は各国の歴史の総和ではない」という点だ。

たとえば地図帳を開くと、国別に色分けされた世界地図が目に入る。現代の世界は国家を単位として構成されているから、世界とは各国の総和だという考えは自然に思える。

だが、この思考法に基づいて世界史を思い描くことは、問題だという。

では、どのような問題があるか。

もし、「世界史=各国史の総和」だとすると、このように構成できるだろう。

世界史 東洋史 東アジア史 日本史
中国史
朝鮮史……
東南アジア史 ベトナム史
タイ史
フィリピン史……
西洋史 ヨーロッパ史 イギリス史
フランス史
ドイツ史……
アメリカ史 アメリカ合衆国史
カナダ史……

だが、上記のように構成させると、様々な問題が出てくる。

まず、各国の歴史が孤立的、単線的に扱われてしまうという。各国に閉じた中で、互いに影響しあうことなく、個別が展開していくという、ありえない歴史像になるという。

次に、歴史的に見て、「国家」という政治単位は、特定の時期に形成されたものであるにもかかわらず、固定的にとらえてしまうおそれがあるという。そして、固定的な見方から遡及して、過去を切り取ってしまうことになる。

その結果、現在の「国家」によって歴史を分断したり、現在「国家」でないものを切り捨てることになる。たとえばチベットは、固有の言語、文字、信仰をもつ独自のまとまりをなしてきたにもかかわらず、現在国家をもちえないために、抜け落ちてしまう。

さらに、「国家」の内実の重層性をすくいきれなくなるという。ある空間における住民と言語、文化、風俗習慣との組み合わせや重なりは多様なはずで、ピッタリとは重ならない。この重層性・多層性の見え方が抜け落ちてしまう。

たとえば、かつてユーゴスラビアと呼ばれた「国家」は、7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持っていた。それぞれが絡み合い、分断されていた。坂口尚のコミック『石の花』でユーゴスラビアの複雑な状況を知ったが、上記の構成では、どこにも記載できないだろう。

あるいは、アニメ映画『もののけ姫』では、「国家」から分断された人々が登場する。大和に敗れた蝦夷の末裔であるアシタカの民や、城塞都市のごとき自治組織で、製鉄・加工プラントを運営するタタラの人々がそうだ。もちろん『もののけ姫』は物語だが、そのモデルとなった人々は実在した。そうした人たちを無視した歴史を記述しようとすると、「日本」の多層性・重層性は抜け落ちてしまうだろう。

歴史学の思考法

むしろ、これらの問題を逆転させると、歴史学の思考法が見えてくる。

すなわち、各国は互いに影響を及ぼしながら歴史は展開してゆくものであり、現在(いま)目に見える国家で過去を遡及的に切り取ることは危うい。

さらに、空間における人、言語、文化の組み合わせの「ずれ」にこそ、目を向ける必要がある……これが、歴史学の思考法になるのだ。

他にも様々な方法で、歴史学の思考法がどんなものであるか、学ぶことができる。12講座12章のテーマで、特に気になったのがこれ。

  • 気象変動と歴史(歴史は人間が作るといわれるが、気象変動にも多大な影響を受けてきたことを、海水準変動から説明する)
  • 「帝国」の見直し(均質性を求める国民国家より、多様性を認める帝国を再評価する動き)
  • サバルタン(権力構造から疎外された人々)の歴史は語ることができるかを追求する
  • 文学として歴史学のテクストを書くこで、実用的な過去としての歴史学を追求する。歴史の書法(エクリチュール)の可能性

東大駒場の教養学部で行われる連続講義をまとめた一冊。

※『歴史学の思考法』では「倭寇」と表現されているが、「密貿易商」という表現もある。下記参照。

鉄砲を伝えたとされるポルトガル人は、おそらく1542(天文11)年、シャム(タイ)から中国人密貿易商の王直の船に乗って種子島に着いたものとみられる。
山川新日本史 改訂版(2017文部省検定済)p.143

ちなみに、日本で宣教を行ったフランシスコ・ザビエルも、倭寇の船で来日したとのこと。

 

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インドでメシ食ったら人生大逆転した『今日ヤバイ屋台に行ってきた』

470万回再生されているこの動画、たまご300個でスクランブルエッグ作っているんだけど、語彙力を失うヤバさで、何度も魅入ってしまう。

バケツ一杯の玉ねぎと、トマト40個刻んだやつに、笑うしかない量の油と、土俵入り3回分の塩、チリパウダーとパクチーとトウガラシは親の仇くらい盛る。

[これ]

これらが直径1メートルの円い鉄板にぶちまけられ、火力MAXで焼かれてゆく。ダイナミックに撹拌されるチリパウダーの粉塵が、蒸気に乗って店内に充満してゆくのが見える(せきと涙にまみれながら撮影したそうだ)。

他にも、牛肉バーガー300人前を一気に作るとか、ドライカレー100人前とか、ヤギを一匹丸ごと使ったビリヤニ(炊き込みごはん)とか、屋台ではありえない物量を豪快に作る。

持ち込みを調理してくれるのもアリで、日本から持ってきた「サッポロ一番塩らーめん」「ペヤング超超超超超超大盛やきそばペタマックス」を元に、オリジナリティが如何なく発揮され、原型を留めていない一皿を作ってくれる。

撮っているのは著者自身で、登録者数60万人を越えるYoutuber、坪和寛久さんになる。インドの屋台を撮った動画で有名になり、再生数100万回を越えるのもザラで、「サッポロ一番塩らーめん」なんて今見たら427万回というお化けコンテンツなり。

インドでメシ食って人生が変わった男

その書籍化が、[今日ヤバイ屋台に行ってきた]

著者は、インドと縁もゆかりもなかったそうな。

卒業して、就職して、5年ほど働いたのだが、どうも会社人としての立ち回りが下手なほうで、「うだつのあがらない社会人」だったという。悶々としていたときに、インドで働く知り合いから声をかけられ、海を越えることになる。

人生を変えるきっかけは、屋台メシだった。

削りチーズにより埋没した「1kgサンドイッチ」なるものを口にして、そのあまりの美味さにのけぞったという。そして、屋台街に入り浸るようになる。

どの店も開放的で、調理している様子の一部始終を観察できる。交渉すれば撮らせてくれるところもあるし、観光客向けの「映え」を意識した店もある。そして見ているだけで面白い。

慣れた手つきで小気味よく動くけど、大雑把でテキトーな感じ。調理法は独創的だけれど、衛生面では絶望的になる。こぼれまくる食材、鍋にこびりついた残飯らしきブツ、周囲を行き交うハエなどモノともせずに、果敢に火柱を上げる。

日本人の衛生観念だとドン引きだろうが、出てくる料理は美味しそうなものばかり。iPhone の画面ごしに、香ばしさや辛旨さ、暴力的なカロリーが伝わってくる。

そんな動画が日本の深夜番組で紹介されたのをきっかけにバズり、あれよあれよと、押しも押されぬ Youtuber となってしまう。塞翁が馬じゃないけれど、何が起こるか分からない見本みたいな人生だ。

「おおらか」は伝染する

撮るほうなので、ほとんど画面に映らないけれど、料理している人とのやり取りで、めちゃくちゃ楽しんでるのが分かる。そして、旨味と辛みとカロリーに殴られながら食べているのも伝わってくる。

観てて(読んでて)面白いのは、インドの「おおらかさ」は著者にも伝染しているところ。鍋にこびりついた残飯は「思い出」と命名され、周囲を飛び回るハエは「黒い妖精」として大目に見られる。

そんなぶっ飛んだ価値観に、わたしが後生大事にしている感覚も相対化されてゆく。多少のことも「ま、いっか」と許せるようになってくる。とりあえず、狂気のごとく味の素を入れているのを見て、私の料理でも解禁することにした。

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ボーイズラブには葛藤があるべきか、「普通の」ラブストーリーとは何か、BLの主役はネコなのか、アニメ『同級生』をテーマに2時間語り合ったことを8000字ぐらいでまとめる

古今東西の傑作を俎上に、その面白さについて語り合うオンライン会が、「物語の探求」だ。

今回は、アニメ映画『同級生』をテーマに、その面白さや物語構造について語り合い、さらにBLとしての新しさがどこかについて考えた。

『同級生』は 中村明日美子のBLマンガが原作で、A-1 Picturesが制作したアニメーションだ。思春期に揺れる2人の、もどかしくてピュアで、ドキドキする感覚が、淡いタッチで丁寧に描かれている。

[公式サイト] からの紹介はこんな感じ……

 

思春期にゆれる少年たちの、

ピュア・ラブストーリー。

 

高校入試で全教科満点をとった秀才の佐条利人、

ライブ活動をして女子にも人気のバンドマン草壁光。

およそ交わらないであろう二人の男の子。

そんな「ジャンルが違う」彼らは、合唱祭の練習をきっかけに話すようになる。放課後の教室で、佐条に歌を教える草壁。音を感じ、声を聴き、ハーモニーを奏でるうちに、二人の心は響き合っていった。

ゆるやかに高まり、ふとした瞬間にはじける恋の感情。

お調子者だけどピュアで、まっすぐに思いを語る草壁光と、はねつけながらも少しずつ心を開いてゆく佐条利人。互いのこともよく知らず、おそらく自分のこともまだ分からない。そんな青いときのなかで、もがき、惑いつつも寄り添い合う二人。

やがて将来や進学を考える時期が訪れ、前に進もうとする彼らが見つけた思いとは……

 

 

(以下、『同級生』のネタバレがあります)


<目次>

  1. 男と男の、普通の、ラブストーリー
  2. 余白を上手く使った物語構造
  3. 「脚本」が無い理由
  4. 原作がある場合の脚本家の仕事とは
  5. BLにおける読者=壁?
  6. なぜ佐条が主役なのか?
  7. 「耳」を大事にした脚本
  8. 同性愛の葛藤があるべき?
  9. 普通の恋愛を丁寧に描く新しさ

 

1.  男と男の、普通の、ラブストーリー

タケハル:第一印象なんだけど、ボーイズ・ラブに慣れていない上に、そもそもこれがBLものだと知らずに観始めたので、チューニングに時間がかかりました。最初の感じから少女漫画かな? と思ったんだけど、いっこうに少女が出てこない。で、噴水の公園でキスするシーンで、頭が急回転したんです。

Dain:それはびっくりしたでしょ! でも、その恋愛は、あくまで普通のラブストーリーなんですよね。

タケハル:そうです、男と女がスポンと好きになるのといっしょ。あのまま佐条君を女の子にして歌を教えて公園でキスしても違和感がない。

スケザネ:ですよね。でもこれ、いまさら男女でやったら見てらんないかも。相合傘で一緒に帰るなんてベタすぎて。

恋愛物としてはベタで王道な展開が中心。男と男でやるから、異化効果的なもので目新しく新鮮に感じられたのかも。これが何年かたって、もう古いよということになったら、すごく素敵なことだろうな……

言い換えると、『同級生』が新鮮に見えるのは、まだLGBTへの認識が成熟していないことを表しているのかもしれません。男と女の恋も、男と男の恋も、いっしょなんだよね。

タケハル:十年後には、これがベタすぎるじゃねーか、というツッコミが普通になるってことね。

Dain:この作品を、見る人がどういう風に受け取るか、男同士の同性愛についてどういう意識を持っているかの試金石になるのかも。

 

2. 余白を上手く使った物語構造

スケザネ:僕の最初の印象は、「余白が多い」でしたね。物語の構造的に見ても、余白がうまい効果を上げていますね。

例えば、高校生を描くものなら、マクドナルドとかが出てくるけれど、具体的なものが出てこないのがいい。ここ、しっかり描き込まれてしまうと、古びるのも早いと思う。

純粋にテーマに絞り込まれて、コアなところ、要所要所が、ぽん、ぽんと描き込まれているけれど、その間のところで、彼らは何をして、何を想っているのかが無い。佐条くん目線も少ないので、これ、余白によっていろいろ掻き立てられるところがあるよね

Dain:同じこと考えていました。物語では語られない部分が、キャラの言動につながってくるところ。ハラセン(原先生)が佐条くんに迫るところあったでしょ、進路指導室のところ。でも佐条くん、抵抗しないよね。普通、抵抗するんじゃね?

ひょっとして、彼らの間で、描かれていない何かがあったんじゃないの? 草壁くんに向かって、「俺はあいつのこと1年のときから知ってた」なんて、思わせぶりやん原先生。

どうしても気になって、原作のコミック『同級生』を読んだんだけど、実は、あったんです、佐条くんとハラセンの過去が。各章の一覧表を書いてきたんだけど、これ。

【夏】Summer
【秋】Autumn
【はじめての人】 His first
【ばかと大馬鹿】 A complex fool and a simplex fool
【二度目の夏】 The second summer

映画もほぼ同じ構成なんだけど、この【はじめての人】の章が丸ごとカットされているの。これ、ハラセン目線で佐条くんとの出会い

スケザネ:1年のときに何かあったことが描かれるの?

Dain:ですです。1年のとき。カットされた部分も、ほんの数十分の、本当に短いこと。でも、その時間はものすごく濃いんです。

スケザネ:なんで削ったのだろう。削ったのは成功している? Dainさん目線で教えてほしいです。

Dain:レディ・プレイヤー1の対談」でスケザネさんが言ってた、情報密度の話からすると成功してる。短い時間に設定やキャラを詰め込みすぎると、観客が付いていけなくなるから、そういう意味で、ハラセンのエピソードはカットして正解かも。ハラセンの話を入れると、この2人のダブル主人公の物語の邪魔になる。好きな人は自分で補完してください、という感じで。

 

3. 「脚本」が無い理由

タケハル:クレジット見ると、面白いことが分かってくる。このアニメ、スタッフのほとんど、9割が女性なの。そして、「脚本」を担当している人がいない。これはすごい。脚本家ってのは、セリフを書くだけじゃなくって、物語の情報の整理も大事な仕事なので。

なぜだろう? 舞台なんかで女性スタッフが多い現場でたまに見かけるけれど、リーダー不在でもうまく回っていく、というのがある。女性ばかりだと、誰が決めたというわけじゃないのに、うまく分担して回っていく。

スケザネ:気がつかなかった!ということは、かなりの仕事を監督がやっているのかもしれない……

タケハル:ストーリーというより、キャラクターと絵が重要なんだろうね。確かに監督はいるけど、誰が作ったとは言えないような状況だったんじゃないかしらん。例えば噴水のキスシーンって、漫画だとどうなってる?

Dain:マンガと映画のセリフは、だいたい一緒だね。バストアップのシーンやカメラの構図も同じ。脚本とか演出にあたる部分は、原作のマンガで足りてる感じ。

タケハル:それだけマンガの完成度が高いのか!

 

4. 原作がある場合の脚本家の仕事とは

タケハル:原作があってそれをアニメや実写化してうまくいった場合、脚本家がいい仕事している場合が多いですね。逆もそうで、失敗した場合も脚本家に負うところが大きい。

スケザネ:それありますね、原作を生かすも殺すも脚本次第ですから。

タケハル:そうなんです! 例えばアニメ化された『ハチミツとクローバー』なんて象徴的なところがあって、日本を周ってきて、彼女に告白するシーンなんかがそれ。

美大生で、原作だと北海道で見た景色がキレイだったから、彼女にも見せたいんだっていうの、「景色を見せたい」ってね。

これがアニメだと、北海道で見た景色を、「『あなたの絵で』見たい」に変えてる。アニメで、ちょっと踏み込んで言わせてる。キャラクター性とか関係性は変えないで、でも原作を知っているお客さんの予想を越えることを言わせる

Dain:原作ラブの人は、そういう大事なシーンは読み込んでいるだろうから、変えたら噴き上がることありそう。原作の完成度が高ければ高いほどそうなりそう。

タケハル:脚本家がいると、そういうことやりたくなっちゃう。だいたいは失敗して、余計なことするな、って観客に怒られる。でもハチクロのこれは怒られない、確かにそれ言いそうなことだから。

スケザネ:鬼滅もそうだったなぁ……やれそうでやれないですよね。

タケハル:『岸辺露伴は動かない』にも似たようなところがあって、敵のスタンドと闘うんだけど、畳の縁(へり)を踏まないバトルになる。スタンドの能力を使って、縁を見えなくさせるの。んで、だまし討ちで敵に踏ませたときのセリフなんだけど、原作だと「ところでお前、縁踏んでるぞ」が、「ところでお前、足大丈夫か?」に変えている。

スケザネ&Dain:へえええええ!

タケハル:スパっと「踏んでるぞ」というより、さらに嫌味っぽく聞こえてて、いかにも言いそうなセリフになっているの。テーマは同じでも、きちんと進化させている。

これを下手にやったのが『美女と野獣』の実写版。

野獣の城から、ベルが家にいったん帰るところ。召使たちが「なんで帰すの? ここで真実の愛が見つかれば、人の姿に戻れるのに!」と残念がっているのに対し、ディズニーアニメだと野獣が「愛しているからだ」と答えている。

ところが実写だと、野獣は何も言わない。代わりにポット婦人が「あの娘を愛しているからよ」と答えさせている。

スケザネ&Dain:お前が言うんかよ!

タケハル:言ってる言葉は同じだけどね。アニメから実写にするとき、色々チューニングが出てくる。アニメだから耐えられるセリフと、そうじゃないセリフがある。そこを変えていく、表現方法を移すときのチューニング、プラグの役割を脚本家は担っているの

 

5. BLにおける読者=壁?

タケハル:根本的な話になるけれど、なんで女性作家がBLを描くの? 男の作家がBLを描くのもあるけれど、圧倒的に女性でしょ?

スケザネ:男がレズものを読むのは、芸術よりもリビドーとして求めているのではないかな。でも女性がBLを求めているのは、どうしてなのだろう?

Dain:僕の観測範囲だと、BLに女はいらないんじゃないか、と思ってる。

例えば男が百合モノを読むとき、その世界に男はいないほうがいい。可愛い女の子たちだけがキャッキャウフフするのを覗き見したい、という思いがある。そこでの男は邪魔なの。アキリの『ヴァンピアーズ』だと、男はモブか下僕だし、志村貴子の『青い花』なんて存在すらしていない。

それと同じように、女がBLを読むとき、その世界に女がいないほうがいい、と考えているのでは? BLの世界に女性が出てくると、女性の読者は女性性を意識してしまうから。美しい男と男が絡み合う様子を、自分という存在を消して、ただ見守っていたい。だから、壁になりたいと思っているはず

スケザネ&タケハル:壁になりたい!

Dain:twitterとかで呟いている人、いますよ。そこに「私という存在が見ている」となると、目線が気になってしまう。だから「私」を消すために、壁になりたい。

タケハル:不確定性原理のやつ!

Dain:それな! 観測によって結果が変わってしまうから、自分じゃなくて、壁として見たい、というか居たい。美しいものを美しいままで見るために、自分すら必要じゃないんじゃないの、というのがあるのかと。

タケハル:なるほど、女性キャラがいると、そこに感情移入してしまう。

Dain:そうそう。自分に近いキャラが出てくると、どうしてもそこに自己を投影しちゃうじゃないですか。それがイヤなんです。だから、ハナからそうさせないために、女性がいない、いても極めて少ない世界をつくる、というのはありだと思います。

美しいものを、そのままの姿でずっと眺めていたい……BLが美形キャラだらけなのは、そんな理由なのかも。現実はともかく、ボーイズ・ラブは美形だけで成り立ってる。

スケザネ:確かに! 文学なんかもそうで、『ヴェニスに死す』なんかも原作を映画化した時、ビョルン・アンドレセンとか美形キャラクターが起用されていた。古来から、男どうしだと美形キャラを出してくる。そういう風に思わせたいから。

タケハル:これは高等遊民マターだなw プラトンの『饗宴』とかあったなぁ

全員:www

 

6. なぜ佐条が主役なのか?

タケハル:キャスティングを見てて面白いのが、佐条くんが最初に出てくる。ふつう、キャスティングの最初は、主役になる。ということは、佐条くんが主役?

スケザネ:草壁くんじゃないんだ、もちろんダブル主人公だけど、映画のラストが草壁くんのナレーションだったから、すこし不思議な感じがする。

タケハル:ヒロインにあたるのが佐条くんだからなのかな?

スケザネ:でも、ヒロインを射止めようとする方が先にくるんじゃないの?

タケハル:ディズニープリンセスみたいに、白雪姫のヒロインは白雪姫みたいな感じで、ヒロインに佐条くんがくるのかも。

ちょっと余談だけど、ディズニープリンセスで、一人だけ人気のないキャラがいるんだけど、それは誰だと思う?

  • シンデレラ
  • 白雪姫
  • アリエル
  • ラプンツェル
  • ジャスミン

ヒントは、この中で一人だけ、違和感がある人になる。

スケザネ&Dain:うーーーーーーん?

タケハル:正解はジャスミン。彼女だけが主役じゃないから。プリンセスのストーリーとして、主役という存在は、「助けられるほう」になる。そう考えると、佐条くんが主役なのが納得できる。

たぶん、この場に女性がいたら、即答で「え?どう見たって佐条くんが主役じゃん」と言うんじゃないかな。

スケザネ:これは、ジェンダーの深いところにかかわってきそうですね。

 

7. 「耳」を大事にした脚本

スケザネ:会話のリアルさにしびれましたね。すごい印象的なのが、草壁君がライブに誘うところ。「そんな大袈裟なもんじゃないんだけど・・・ヨソのガッコ―のやつなんだけど、中学んときの友ダチなんだけど」と、言う。「だけど、だけど、だけど」と3回続いている。アニメは字幕ありで観たんだけど、文字だと違和感ありつつも、会話だったら絶対言うわこれって。

Dain:いまマンガの原作を見ているけれど、全く一緒ですね。脚本は、そのまま原作を持ってきているね。

スケザネ:ふつう、マンガとか小説だと、「だけど」を何度も続けるのは避けちゃいますよね、気持ち悪いから。だから、これをやれるのは凄い。

タケハル:この感覚は敵わない。ちゃんと聞いた言葉を、ちゃんと表現している。これはすごく耳を大事にしているからできてる

僕がやろうとすると、理性が働いちゃう。会話として耳で聞くとそうだなーと思うけれど、物語を作る中で文字にしようとすると、出てこない。

これをちゃんと言っている神谷浩史もすごい。下手にやると、「だけど」の連続に気づかれちゃう。

タケハル:あと、道具の使い方が上手いなぁ。噴水でNUDAがこぼれて炭酸水が広がるところ。ペットボトルを拾おうとして思わずキスする流れのところ。あの広がっていく白い水、精液を思わせる感じがしたなぁ……

Dain:言われてみると……いま原作のマンガ見返しても、そう見えますね。

タケハル:2008年、あの頃NUDAよく飲んでたんで、知ってます。地面に転がっても透明なものが広がるだけで、あんな色にはならない。

 

8. 同性愛の葛藤があるべき?

Dain:僕は、僕自身に偏見というか思い込みがあったことに気づかされましたね。「BLの登場人物は、同性愛に思い悩むべきだ」という偏見です。

なんでこんな偏見ができたのか? フォースターの小説の影響かも。BLの元祖ともいうべき小説で、『モーリス』というのがあるのですが、主人公のモーリスが性的嗜好に苦悶するんです。

スケザネ:生前は発表されなかった作品ですね。

Dain:そう、フォースター自身が同性愛者ということもあって、秘密にされていました。100年前のイギリスなので、同性愛は犯罪扱いされていた時代です。

タケハル:オスカーワイルドなんかもそうですね。

Dain:はい、ワイルドもそういう目で見られてました。『モーリス』の中では同性愛のことを、「ワイルドの病気」みたいな言い方をされてました。同性愛を描こうとすると、社会からおかしな存在だと思い悩むもの同士が、共犯者として扱われる。それを読者が「覗く」という構造になっています。

でも、『同級生』は苦悶しない。それはちょっとは悩むことはあるけれど、極端なことは考えない。普通の、自然の恋愛として描かれてます。

タケハル:ラストなんて、普通に公園でキスしてましたよね。

Dain:そーそー、人目を気にしながら。だから、これを新鮮に思う、ということ自体が、僕の同性愛に対する規範化された偏見の裏返しなんだろな、と思ったのです。

スケザネ:何年か後には、もうあたりまえになっているかも。そうあるようにがんばりたいですね。

 

9. 普通の恋愛を丁寧に描く新しさ

Dain:『同級生』の、ベタな展開が新鮮に見えました。これぞ青春ってのが、「走る」こと。いたたまれなくなって逃げ出したり、それを走って追いかけたり、原作をチェックしたら、5章の全て、草壁くんと佐条くん、必ず走ってます。

あと、相合傘もそうだし、なんでもないすれ違いで喧嘩するとか、進路どうするとか、そいういうありがち展開を、丁寧に、忠実に再現する。

これ観てて、『月がきれい』の既視感を覚えました。

中学生の男の子と女の子が出会い、恋に落ちるプロセスを、丁寧に、忠実に描いたアニメ。いろんなラブストーリーを食い散らかしてきた僕には、めちゃくちゃ深いところまで刺さりました。

スケザネ:普通が新鮮なのは面白いですね。

ただ、物語としてはどうなんでしょう? リアルに寄せたビジュアルで、普通の恋愛をベタベタに描くことで、面白い物語になっているかが気になります。

Dain:誰しも思い当たるような、普通の恋愛のハードルを、一つ一つ越えていく話なんだけど、それを説明してもなぁ……全12話にサブタイトルがついていて、そのサブタイトルが、手がかりになると思います。

第1話のサブタイトルが「春と修羅」、第2話が「一握の砂」、次が「月に吠える」……

スケザネ&タケハル:

Dain:5話なんて「こころ」だし、6話は「走れメロス」と続きます。

スケザネ&タケハル:www

Dain:そうなんです、文芸作品のタイトルが、サブタイトルになっているんです。

スケザネ:そーか、「月がきれい」もそこから来ているんだ!

Dain:そーです。漱石が、“I Love You” を「月がきれいですね」と訳したのは都市伝説と言われていますが、みんなそれを承知の上で、「月がきれい」を “I Love You” だと思っているじゃないですか。それを、ちゃんと、やるんです、男の子が。「月がきれいだね」って言おうとするんです、でも、「つき……」で止まってしまう。

けどそれって、漱石のネタを知っている人にしか伝わらないですよね。男の子は趣味で小説を書いているので、知っているんです。

でも、言われた女の子は知らないんですよ。部活で陸上やってて、走るの大好き少女で。でも男の子のことは気になってて……

で、知らないから、普通に返すんですよ、「つき、きれいだね」ってすごくいい笑顔で。

これを、このすれ違いを、「美しい」と思える人にはめちゃくちゃ刺さるんです。そういうアニメなんです、これは。第1話は Youtube で視聴できます

スケザネ:あ、これ観たい。

タケハル:ビジュアル的に女の子のほうが文学少女っぽく見えるけれど、実はそうでもないんですね。

Dain:普通なのに新しい、と思えるのは、僕自身が物語モンスターだからかも。

この物語は、どうやって僕を感動させてくれるのだろう? どんな過去の因縁があるの? どんな能力があるの? どこから転生してきたの? もっと、もっと頂戴って、物語を食べるモンスターなんです、僕は。そんな物語モンスターからすると、生々しい「普通の」ラブストーリーは、すごく眩しく見えるんです。

【了】


今回の対談も、たいへん勉強になりましたな。BLは質も量も大きすぎて、ほとんど知らない世界だったけれど、『同級生』という素晴らしい作品に出会えたのは、物語の探求読書会のおかげ。

その作品をどのように味わうかで、自分がどんな考えを持っており、どういった感性が反応しているかが炙り出されてくる……この自分自身の暴き立てが面白い。これは、一人で観る/読むには限界があり、対話によって発見していくものなのかも。

さて、次回は、レイ・ブラッドベリ『華氏451度』をテーマに語り合う予定。本が禁制品となった未来を舞台にした名作SFやね。場所はスケザネさんが検討中なので、そのうち告知されるかも?

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