「普通のBL」とは何か?
アニメ映画の『同級生』を薦められたとき、身構えた。
男子校が舞台で、2人の男の子が恋に落ちるお話だ。
ひとりは学校一の秀才。入試で全科目満点を叩き出すぐらい優秀で、真面目がメガネをかけた理知的な印象がある。すぐ赤面する。
もうひとりはバンドマン。ライブでギター弾いてて、女の子にも人気者。くしゃっとした明るい髪と人好きのする顔立ちだ。すぐ赤面する。
そんな、普通なら決して交わることのない2人が、あることをきっかけに互いを意識し、距離を近づけてゆき、思いを伝え合う。
ゲイの幸せな日常
初々しく、可愛らしく、読んでるこっちが甘酸っぱい気持ちで一杯になる。あふれ出すリビドーを持て余していた自分と比べると、なんとも純粋な恋で、痛苦しくなる。そこに欲望があるのだが、互いに相手のことを慮るのが素晴らしい。
そして、身構えていたのが、彼らの日常が幸せすぎること。
幸せな結末にするにせよ、しないにせよ、そこへ至るまでの紆余曲折こそが、物語になる。
簡単に2人を幸せにすると、ストーリーが転がらない。だから作者は障壁を設ける。すれ違ったり、モチを焼かせたり、ライバルを登場させたり、あの手この手で人の恋路の邪魔をする。ラブストーリーの定番だ。
だから、男同士の恋愛というハードルが、もっと高いものだと身構えていた。自分が「男性が好き」ということに気づき、戸惑い、苦悩するといった展開があるのではないか? と不安に思いながら読んだ。
なぜなら、同性愛が犯罪だった時代や国もあったから。ソドミーという言葉そのものが、「不自然な」性行為を指すから。
100年前の英国のBL『モーリス』
たとえば、E.M.フォースター『モーリス』だ。
100年前の英国、ケンブリッジ大学で出会った2人の恋を描いた小説だ。同性愛が罪とされ、社会的に抹殺される厳しい状況だった。愛の深さゆえに傷つき、傷の深さゆえに慰めあう青年たちの恋は苦しく、美しい。
「すきだ」という気持ちを伝えることがいかに難しいか。もし、相手が異性愛なら、そのまま第三者へ暴露されるアウティングの危険性もある。警察につきだされても仕方がないような時代だった。
だから、『モーリス』は「禁断の」恋愛小説と言われている
フォースター自身が、同性愛を抱き苦しんでいたという。『インドへの道』『眺めのいい部屋』が高く評価され、文壇での地位を確立したが、生きているあいだ、『モーリス』を刊行することはなかった。
これは、小説の書き方にも現れている。
内面の吐露や感情は表現されているが、肝心の、誰がなにをしたか(しているか)は、ぼかすように描かれ、イングランドの夜の風景の中に、隠し絵のように織り込まれている。秘匿された描写が、なぜ秘匿されねばならぬのか、と問うているように思える。
普通のBLとは
『モーリス』と比べると、『同級生』は、同性愛に苦悩したり傷つけあったりするような場面は無いに等しい。
そして、それに違和感を抱いていた。
わたしの中で、「ゲイとして生きる物語=性的嗜好が障壁となる物語」が出来上がってしまっていた。だから、自らの性的嗜好に苦悩する場面がないと、物足りなく感じてしまっていたのかもしれぬ。
この、わたしの価値観は、非常に情けないことだ。
もちろん、『同級生』の高校生らは、同性が好きである自身に思い悩むことはある。だが、それでも、自分に正直であろうとする(そして、周囲も理解しようとする)。その「思い悩み」が”軽い”と感じてしまっている(←ここが、情けないところ)。
男と男が出会って、恋をして、愛を交わす。『ホモセクシャルの世界史』を見ると、男同士の恋愛は沢山ある。だが、そこに「性嗜好に苦悩する」を入れる必要はないんじゃないか?
「入れないと物語として成り立たない」と考えること自体が、既に時代遅れになっているのかもしれない。
もちろん、「同性愛に苦悩しない」作品もある。
例えば、よしながふみ『きのう何食べた?』では、不自由さを感じつつも折り合いを付け、2人の居場所を作っているように見える。あるいは、志村貴子『青い花』では、同性愛そのものよりも、「好き」がすれ違うほうに苦悩していると感じた。
そんな作品と照らしながら、原作コミックの『同級生』と続編の『卒業生・冬』と『卒業生・春』まで読むうちに、ごく当たり前の結論に到達する。「男が好き」とか「女が好き」とかじゃない。「あなたが好き」なんだなと。
好きになった人が、同性だったり、異性だったりするだけなんだと。
『同級生』シリーズはもっと続いているみたいだが、この三部作は、『モーリス』とつながっている。幸せでいて欲しいと、強く願う。『同級生』が好きな人は『モーリス』を、『モーリス』が好きな方は『同級生』をお薦めする。

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