文明と穀物の深い関係『反穀物の人類史』
人類は、狩猟採集から農耕牧畜へと進歩した。
穀物による安定した食糧生産が人々の健康を増進し、余暇を生み、文字や文明を育んでいった。文明を狙う野蛮人は、狩猟採集のままの生活で、文字を持たぬ遅れた未開の人々だった。
……と思っている? だったら『反穀物の人類史』をお薦めする。
著者はジェームズ・C・スコット、イェール大学の人類学部教授だ。メソポタミア、秦・漢、エジプト、ギリシア、ローマなど、文明の初期状態を検証することで、わたしが刷り込まれてきた「常識」に疑義を投げかける。
狩猟採集の方が豊かだった
まず、農耕社会が豊かだったというのは誤りだということが分かる。少なくとも、初期の農業は酷いもので、反対に豊かで多様性に富んでいたのは狩猟採集の人々になる。
その証拠として、残されている農民の骨格を、同時期に近隣で暮らしていた狩猟採集民と比較する。
すると、狩猟採集民の身長が、平均で5センチ以上も高いことから、栄養状態が良かったことが伺える。海洋、湿地、森林、草原、乾燥地など、複数の食物網にまたがっていたうえ、それぞれの季節に応じて移動していたため、食べものは多様で豊かだったと考えられる。
一方、農民の大半は栄養不足による骨の変形が見られ、歯のエナメル質の形成不足や、感染症に関連した病変が見られたという。これは、初期の農民の栄養状態が不安定だったことを示している。
では、どうして農耕生活でこれほど発展できたのか? という疑問が残る。著者は、農耕生活ではなく、農耕するための「定住」で説明を試みる。
狩猟採集民と比べて不健康で、幼児や母親の死亡率が高かったにもかかわらず、定住農民は繁殖率が高く、死亡率の高さを補っても余りあるほどだったという。
まず、定住しない人々は、意図して繁殖力を制限することになる。野営地を移動するため、子ども2人を同時に抱えて運ぶのは、かなりの負担になる。結果、狩猟採集民が子どもを作るのはおよそ4年ごとに間隔を空けるようになる。
対照的に定住農民は、短い間隔で子どもを作る負担が軽減される。さらに農作業の労働力として子どもの価値が高く、多く作るようになる。この違いが、5000年という期間に渡って、複利計算のように大きなアドバンテージとなったというのだ。
穀物が国家を作った
著者は、古代の初期の農耕についてある共通点に着目する。
それは、全て穀物国家だったという点だ。麦や米、ヒエ・アワ、トウモロコシなど、一定の時期に地上に実が成る穀物が、主要な食物であり、現物税の単位であり、農事暦の基盤を提供していたという。
わたし自身、米やパンを毎日食べているから、当たり前のように考えていた。だが、著者は、こう自問する―――なぜ歴史記録には、「レンズマメ国家」や「タロイモ国家」がないのだろう(※1)。
レンズマメやダイズ、タロイモやキャッサバは、古代において作物化されていた。また、単位面積あたりのカロリーは、麦よりも多いものがあり、労働力あたりの効率は良いと言える。にもかかわらず、こうした作物が国家形成の基盤とならなかった。
著者は、穀物だけが課税の基礎となるという仮説を立てる。定期的に作物を収奪する人にとっては、麦や米の方が都合がいいのだ。
その理由は、古代の徴税役人の立場になって考えると分かるという。
穀物は、地上で育ち、ほぼ同時に熟すという特徴がある。つまり、徴税官にとっては、収穫時期に一回遠征するだけで、必要な分を収奪できる。農民は収穫、脱穀までしてくれるから、タイミングよく出向いて、倉庫から徴税すればいい。
これがイモ類だと地中に実るため、掘り出す必要がでてくる。麦よりも運ぶコストがかかる上、腐りやすいという欠点もある(そのため、地元民は、土中でイモを保存する)。
また、マメ類の場合、長期間にわたって継続的に実を付けることになる。実が熟すのに合わせて、いつまでも摘み続けることができる。ワンストップ・ショッピングで済ませたい徴税官にとっては、嬉しくないのだ。
地上で実っているのが目視で分かる。粒が細かいので分割や運搬に便利。保存が利いて、兵への分配も容易。さらに、同時に熟すので効率的に収奪できる―――こうした理由で、穀物は理想的な課税作物になったのだという。
文字の必然性
これ、言い換えるなら、課税に不適な作物で暮らしている人々にとっては、国家の範囲外になる。
つまりこうだ。狩猟採集や漁労、焼畑農業、遊牧を生業とする人々から課税するのは難しい。分散して移動している上に、生産物は多様で傷みやすい。
こうした人々を追跡し、課税することは、ほとんど不可能になる。国家の外側には、こうした収奪不可能な生業活動が、多種多様に広がっていたというのである。
しかし、そうした生業活動は、ほとんど記録されていない。国家にとって、記録する価値のない情報だからだ。
では、何が記録すべきものか?
著者は、収奪に必要な情報だという仮説を立てる。すなわち、人口や土地、家畜や収穫についての情報だ。さらに穀物の運搬や請求、領収についての継続的な記録管理のニーズを想定する。
実際、メソポタミアで文字が使われ始めた頃、ほぼ簿記のためだけに利用されており、500年以上も経ってから、神話や賛歌、王の年代記などが記されるようになったという。
その例として、ギルガメシュ叙事詩を採りあげている。この作品はウル第3王朝(紀元前2100年)頃だが、楔形文字が簿記の目的で最初に使われてから、ゆうに1000年もあとのものになる。『会計が動かす世界の歴史』で示された通り、文字より先に簿記が生まれていたのである。
中心と辺境の構造
著者はさらに、メソポタミア「文明」から見た「辺境」のコミュニティに着目する。
狩猟採集を生業としていたため、文字として記録されなかった人々だ。こうした人々は、文字の使用を拒絶していたという。これは、文字を持つだけの知性が無かったからではなく、むしろ、文字に備わる課税と支配の構造を回避しようとしていたからかもしれない。
文字を記す側である行政官からすると、国家という枠の外にある、徴税が及ばない連中になる。「文字を記す側=中央」と「徴税できない連中=辺境」の構図が出来上がる。
文字を記す側は、自分たちの権力の正当性や血統をプロパガンダする必要がある。自らを中央とするために、課税を逃れ、臣民にならない連中を、「辺境」として非難する必要がある。
この発想は、『遊牧民から見た世界史』で学んだ、中華思想そのものになる。中国皇帝が世界の真ん中で最高の価値を持ち、周辺に行くにつれ程度が低くなり、辺境より先は蛮族として卑しむ華夷思想だ。そしてこの傾向は、中国に限らず、文字を残したあらゆる文明に共通する。
わたしたちは、残された文字に書かれた内容から、当時を想像する他はない。だが、文字として残っていなかったからといって、存在しなかったことにはならない。
定住社会において、「中心」として自らの正当性を記録するのであれば、それは岩や石、粘土に刻んで焼くといった遺し方をするだろう(そして、まさにそれらが、いま見ることができる史料だ)。
だが、移動を中心とした社会では、たとえ記録を残すとしても、運搬に適さない重量物には刻まなかったはずだ。もっと軽い、竹や皮、繊維を編んだものに印をつけるといった手段を取ったに違いない。数千年の時を経て、どちらが残りやすいかを考えると、火を見るよりも明らかだ。
他にも、「暗黒時代」や「野蛮人」という言葉が刷り込んでいるバイアスを解いたり、文明の「発展」と、そこに生きる臣民の「幸福」を実証的に考察する。最新の考古学・人類学の論文や文献で、わたしの常識を揺さぶってくる。
常識を問い直し、自分で考え直す観点と材料が得られる一冊。
※1 南アメリカ大陸ではイモが主食とされていたはずでは……? と思ったのだが、本書では例外として挙げられている。インカ帝国ではトウモロコシとジャガイモに依存していたが、税作物としてはトウモロコシが支配的だったとある(p.120)
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