「世界文学」の日本代表が夏目漱石ではなく樋口一葉である理由
世界文学全集を編むなら、日本代表は誰になる?
漱石? 春樹? 今なら葉子?
審査は、世界選手権の予選のようになるのだろうか。投票で一定の評価を得た著者なり作品が、トーナメントを勝ち抜いて、これぞ日本代表としてエントリーするのだろうか。
スポーツならいざ知らず、残念ながら、文学だと違う。春樹や葉子ならまだしも、夏目漱石は予選落ちである。
なぜか?
『「世界文学」はつくられる』に、その理由がある。近代日本語の礎を築いたことで誉れ高い漱石でも、世界的に見た場合、西洋文学のコピーとして低く評価されているという。
「世界文学」での漱石
『坊ちゃん』『猫』が有名だし、教科書で『こころ』を読んだ人もいるだろう。何と言っても千円札の顔だから、諭吉よりは見慣れている。やたら有難がる人もいるのは、ザイアンス単純接触効果じゃね? と思うのだが、彼の造語とされる「沢山」「反射」「価値」「電力」は、人口に膾炙している(※1)。
ところがこれは、日本の話。海外に行くと、知名度は下がる。
たとえば、米国の大学生が学ぶ『海外文学アンソロジー』がある。古今東西の古典から近現代の作品を取り上げ、体系的にリベラルアーツを教授するために構成されたアンソロジーだ。出版社ごとに趣向を凝らし、日本人作家も多数取り上げられている(カッコ内は近現代の日本人作家の登場回数)(※2)。
樋口一葉(7)
川端康成(6)
谷崎潤一郎(4)
与謝野晶子(3)
芥川龍之介(3)
村上春樹(3)
三島由紀夫(2)
大江健三郎(2)
漱石は0である。漱石に限らず、尾崎紅葉や二葉亭四迷など、明治の文豪は軒並み苦戦しており、鷗外はかろうじて1回収録されているのみになる。どうやら米国では、漱石はマイナーどころか無名に近い。
対照的に、樋口一葉は『たけくらべ』『わかれ道』など、数多く収録されている。ノーベル文学賞という理由で川端康成が入るのは分かるが、彼を除くと、ぶっちぎり日本代表と言っていい。なぜか?
その手がかりは、『世界文学アンソロジー』の解説にある。
そこでは、漱石や鷗外といった明治期の文学者について、辛辣な評になる。フローベールやゾラ、ツルゲーネフといった同時代の西洋のリアリストを盲目的に(slavishly)真似た、と斬っている(※3)。
一方、一葉は、西洋文学の影響を受けなかったと言われている。一葉自身が英語を解さず、日本独自のリアリズムを発達させたとして、高く評価されているのだ(※4)。
この感覚は、わたしと異なる。
たしかに、一葉は優れた文学作品を残した。だが、日本文学に与えた影響から考えると、漱石が遥かに大きいだろう。『草枕』や『猫』の冒頭は、そのまま日本を代表する文章になるし、短編なら『夢十夜』がアンソロジー向けになる。
なぜ、一葉が評価され、漱石は無名なのか。
樋口一葉が日本代表の理由
それは、「世界文学」の文脈にある。この言葉が、どのような意図で使用されているかに着目すると、見えてくる。
『海外文学アンソロジー』を用いるのは、北米の大学で教鞭を取る英文科の教員になる。主要顧客である彼らの目的は、自分たちのアメリカ文学が、いかに西洋の歴史と不可分かを教えることになる(∵英文科の飯の種であり存在理由そのもの)。
それゆえ、収録される作品は、聖書から始まりホメロス等のギリシャ・ローマの古典、中世、ルネサンス、西洋の有名作品が紹介されてゆく。あたかも世界史の史料を拡張したかのような構成になる。この時点で、かなりのボリュームになる。
これに多様性を加える必要がある。いわゆるカノン(正典)としての世界文学では、「ヨーロッパ」「古典」「白人男性作家」が多数を占める。バランスを取るために、「非ヨーロッパ」「女性作家」「マイノリティ」を選ぶ必要が出てくる(しかも限られたページで)。
こうした、「米国大学の教員にとっての世界文学」という文脈で考えると、樋口一葉がくり返し採択される理由が見えてくる。
まず一葉は、女性作家である。それだけでなく、近代日本(おそらく東アジアでも)最初期の職業的女性作家として挙げられる。次に、作品の短く、紙面が限られたアンソロジーに適しているといえる。
さらに、教員向けの解説ページを見ると明らかになる。
『海外文学アンソロジー』は、作品を収録しているだけでなく、それらをどう比較して読むか、生徒に対し何に注意を向けさせるかといったポイントも解説されている(日本で言うなら、教師向けの「赤本」やね)。
そこにおいて、一葉の『十三夜』は、スタントン&モットの『感情宣言』と比較して読まされる。『十三夜』は、子どものために離縁を思いとどまる母を描いた作品で、『感情宣言』は離婚時に母親に親権を与える話だ。両者をフェミニズム的枠組みの中で解釈することが、授業の目的となる。
「世界文学」の恣意性
シェイクスピアやダンテといったヨーロッパ文学の中核ともいうべき男性作家を締め出すことはできない。
さらに、ポーやメルヴィルといったアメリカ文学の伝統を作り上げた男性作家も入れなければならない。
その上で、全体の頁数を増やすこともなく、多様性や平等を実現しようとすると、どうしてもどこかで調整が必要となってくる。
世界文学アンソロジーを編むことは、あやういバランスの上になりたっている。日本代表を決めるのは、日本における評価や審査だけでなく、日本を外から眺めるとき、眺めたい方向に沿った形であることも、ポイントとなるのだ。
世界文学(World literature)という言葉は曲者だ。
世界陸上とか、ワールドカップといった、グローバルで評価されるニュアンスと、「世界文学全集」という出版物がつくりあげた正統性やカノンといった響きが発動する。
こうしたイメージが、「つくられたもの」であることを、本書は実証的に解き明かす。ゲーテから始まる「世界文学」の歴史を辿りながら、そこに潜むイデオロギーや恣意性を暴いた一冊。
※1:https://ja.wikipedia.org/wiki/夏目漱石
※2:『「世界文学」はつくられる』秋草俊一郎著、東京大学出版会、2020、p.315
※3:Davis,et al. “The Bedford Anthology of World Literature, vol. E, p.1076
※4:Martin Puchner, et al. “The Norton Anthology of World Literature, vol F 3rd edition, New York: 2012. p.xix.
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コメント
「西洋文学の影響を受けなかった」って事は、つまり言い換えるなら「(欧米人の視点から見て)汚染されてない」事に価値があるって訳ですね。例えるなら、東南アジアを旅行して、発展したバンコクなどを眺めてガッカリして「昔のタイの方が良かった」と呟くような。言い換えるなら、児童売買春が蔓延り、違法薬物が蔓延した時代が良かったと言うわけです。
そういうのって「オリエンタリズム」って言うのでは?
投稿: TTTT | 2020.11.08 15:14
宇宙艦隊出る?
投稿: ? | 2020.11.08 22:28
そもそも「日本代表」の意味が日本の時と世界の時とで違う気がします。
ここで、日本人から見た「日本代表」とは、日本の文壇での評価や日本文学に与えた影響が最も大きいという意味に響く一方、「世界文学」の中での「日本代表」と表現されているものの実態は例えば『世界文学アンソロジー』に取り上げやすいものなので、「集合の中で最も優れたもの」といった意味での「代表」という意味はかなり薄いと感じます。
一方、日本でいう「日本代表」もまた、文壇に集まる古参の方々の影響がかなり大きいので、こちらもまた「つくられたもの」であるとも思います。
投稿: | 2020.11.08 23:32
>>TTTT さん
>「(欧米人の視点から見て)汚染されてない」事に価値があるって訳ですね
はい、その通りだと思います。オリエンタリズムであるご指摘も同意です。本書では、これに加えて、「本当に西洋文学の影響を受けなかったのか?」という観点から、大変興味深い分析をしています。
>>名無しさん@2020.11.08 23:32
>そもそも「日本代表」の意味が日本の時と世界の時とで違う気がします
はい、その通りだと思います。ただ、違うものを同じ言葉「世界文学(World literature)」で示そうとするとき隠されるものがあり、それを丁寧に暴いたのが、本書だと考えています。
・日本で編まれた「世界文学」のアンソロジー
・ソ連で編まれた「世界文学」のアンソロジー
・イギリス人が「世界文学」だと考えているもの
米国の大学以外に、本書では、上記の例が登場します。それぞれ似て非なる「世界文学」となっており、「つくられたもの」であることがよく分かります。
投稿: Dain | 2020.11.09 12:00