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オデュッセイアを読むと何が起きるのか具体的に述べる

100年前、米国で刊行された世界文学全集で、「モテるための古典」「1日15分であなたも教養人に!」と謳っている(※1)。

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「人生を豊かにする教養」とか「必読の名著」といった教養を売り物にする本があるが、びっくりすほど何にもない。

書店でパラ見してみるがいい。どこからか引き写した簡単なまとめだけで、その名著とやらを読んで、本人の何がどう変わったのか、ほとんど書いていないから。せいぜい、アイスブレイクのネタになったとか、「多面的な視点」みたいなふわっとした言い回しが関の山だ。

『オデュッセイア』を読んで起きたこと

ここでは、反例として、わたしが古典を読んで、何がどう変わったかを述べる。できるだけ具体的に、ホメロス『オデュッセイア』を読んで起きたことを書く。

英雄オデュッセウスが故郷に帰る冒険譚で、行く手を阻む怪物や魔法使いを、知恵と勇気と女神様で乗り切る。ラストの、ライバルたちとの対決は、虐殺と言ってもいいほど一方的&圧倒的で、ドーパミンが出まくった。

この物語から切り出して、様々なエピソードやトピックが生まれている。翻案したり置換することで、元の話とは似ても似つかぬ、でも既視感のあるストーリーができあがる。

たとえば、『千と千尋の神隠し』で父母が豚になるところなんて、キルケ―の魔法を思い起こす。千尋(オデュッセウス)が豚になるのを免れたのは、あるものを食べなかったからだ。もちろん、『オデュッセイア』のエピソードがそのまま使われているわけではない。他の、様々な物語を介して伝播していったと想像すると、面白い。

あるいは、怪物に捕らえられたとき、自分の名前を「誰でもない」と告げるトンチ。オデュッセウスは怪物の眼を潰し脱出を図る。その一方で、怪物の仲間が「誰にやられた?」と尋ねても、「誰でもない」と返事する―――このネタ、まんが日本昔話で聞き覚えがあるほか、様々な場所で使われるだろう。

オデュッセイア=進研ゼミ

そして、ラストの1対多のバトル。

戦いの女神アテナの加護のもと、オデュッセウスは無双となる。俺の嫁に手を出す奴は絶対に殺すマンと化して、大勢の敵を、一射一殺の勢いで殺戮してゆく(読んでいるときは全身の毛穴が総毛立ち、マリオの無敵音楽が脳内をずーっと流れてた)。直前まで、自分の正体を隠し、プレッシャーがすごかったので解放感がハンパない。

このアドレナリン感覚は、スタローン主演の映画『ランボー/怒りの脱出』やスティーヴン・ハンターの小説『極大射程』の無双と酷似している。映画を観たのも小説を読んだのも、ずっと前だったのだが、『オデュッセイア』を読んだ途端、「あのときのアレはコレだったのか!」と完膚なきまで腑に落ちた。

そして、映画やゲームや小説で無双シーンに出会うと、『オデュッセイア』を思い出すことになる。要するに「これ進研ゼミでやった」状態になるのだ(『魔法少女まどか☆まどか』の覚醒まどかがそれだった)。オデュッセウスは無双の元祖、彼を観察することで、未来の作品のタネが見つかるだろう。ずっと正体を隠してきてラストで無双するところなんて、なろう系の元祖と言ってもいいかも。

では、こうした物語を楽しむ/作るエピソードを見つけることが、古典のメリットなのかというと、それだけではない。人間の仕様を理解する手がかりとしても使える。

オデュッセイアで人の仕様を理解する

読書猿『独学大全』によると、ヒトの意志は環境や状況に左右されやすい。強い意志を持っていても、周りの状況により変わってしまう。ヒトは、意志や理性の産物というよりもむしろ、それまでの自分を取り巻いてきた環境の産物だというのだ。

だから、意志を変えないように努めるよりも、むしろ、意志が変わっても努力が続くよう、自分の外側に理性をデザインせよと説く。その例として、「オデュッセウスの鎖」(※2)が登場する。

Draper-Ulysses and Sirens

Herbert James Draper, Public domain, via Wikimedia Commons

オデュッセウスの鎖とは、オデュッセウス自身が自らを縛れと部下に命じた鎖だ。なぜ自分を鎖で縛るのか? それは、セイレーンの歌声を聞きたいからである。彼女らの美声に惑わされ、船を岩に激突させた挙句、命を落とす船乗りは数多くいた。だからオデュッセウスは自分を縛らせ、耳栓をした部下に船を漕がせたのだ。

セイレーンの島に近づき、美しい歌声が聞こえてくると、オデュッセウスは鎖を解くよう叫び、身悶えした。だが部下たちは何も聞こえず、命じられたとおりに船を漕ぎ続け、海域を脱出することになる。

オデュッセウスは自らの意志を信じていなかった。だから自らを鎖で縛らせることで、意志の変化を乗り越えたといえる。読書猿は、このオデュッセウスの鎖を応用して、「コミットメントレター」「ゲートキーパー」という技法を編み出している。

オデュッセウスの鎖は、ヒトは環境の動物だということを思い知らせてくれる。大前研一はこれを逆手に取って、こうアドバイスする。

  人が変わる方法は、3つしかない。
  1つは、時間配分を変える。
  2つめは、住む場所を変える。
  3つめは、付き合う人を変える。

このアドバイスには続きがあって、人が変わる方法の中で、最も無意味なのは、「決意を新たにする」というやつだそうな。自分の意志という鎖がいかにアテにならないかは、わたしが一番よく分かっている。

オデュッセイアのリアリズム

『オデュッセイア』をリアリズムの道具として読むこともできる。

アウエルバッハ『ミメーシス』が好例だ。ヨーロッパ文学のテクストを比較しながら、現実がどのように描写されているかを分析する。『オデュッセイア』のリアリズムは、旧約聖書と比べて紹介されている。

描写に奥行きがなく、照明はくまなく当たっており、人物は心の裡を余すことなく語り尽くす『オデュッセイア』と、光と影が際立ち、暗示に満ちた表現や多様な意味の解釈を求める旧約を並べると、確かに対照的である。

『オデュッセイア』のフラットな書き方だと、読み手(観客)に秘密にされるものがない。時間は常に現在に焦点があたり、「語られたもの=現実の全て」で完結している。感覚的実在の快楽が全てであり、それを如実に伝えることが文学の目的だとされている(※3)。

ホメロスから数千年、わたしたちが普通の小説を安心して読めるのは、全てが隈なく説明される(はず)という確信があるからだろう。

あるいは、演劇の傍白を遡ると、オデュッセイアに至るだろう。傍白は、相手には聞こえないことにして、観客にだけ心中を明かすセリフだ。これが成り立つのは、舞台の上が現実の全てだという暗黙の了解があるから。

もちろん、これをフェイクにひっくり返すやり方もあるし、前提を裏切る叙述トリックだってある。だが、そうした手法が出来たのは、オデュッセイアのリアリズムがあったからといえる。

オデュッセイアは一冊ではない

このように、『オデュッセイア』について語ろうとすると、様々な経験や技法、教訓や素材、そして注釈が、次々と積み重ねられることになる。

たとえ、オデュッセウスの冒険物語のダイジェストに閉じて語ろうとしても、『オデュッセイア』に言及する様々な作品や注釈が、それを許さない。『オデュッセイア』は、決して、一冊だけでは成立しないのだ(岩波赤で言うなら、上下巻だけでは成立しない)。

読書猿『独学大全』では、もっとシンプルに、「古典とは、多くの注釈書が書かれてきた書物のこと」(※4)と述べている。元の古典テキストに加えて、積み重ねられてきた読み方もすら注釈書として残っているものが、古典になるというのだ。

これまでの様々な読みに加え、それまでの自分の経験が呼び覚まされる。そして、(創る方であれ、受け取る方であれ)未来の作品に向かい合う知恵を手にする。ホメロス『オデュッセイア』を読むということは、そういう経験だった。

※1 『「世界文学」はつくられる』秋草 俊一郎、東京大学出版会、p.68
※2 『独学大全』読書猿、ダイヤモンド社、p.176
※3 『ミメーシス』アウエルバッハ、筑摩書房、上巻p.17
※4 『独学大全』読書猿、ダイヤモンド社、p.280

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