自分の死に方は自分で選ぼうと思っている『自殺学入門』
問題:自殺のリスクが大きいのは、AとBのどちらか?
A | B |
男 | 女 |
未婚、離別、死別 | 既婚 |
内向的 | 外交的 |
無職、収入無し | 有職、収入あり |
容易に想像がつくが、『自殺学入門』によると、結婚して収入のある女性よりも、無職で離婚した男性の方が、より自殺率が高いという。
さらに、
- 太平洋・瀬戸内海沿岸よりも、日本海側
- 平野部よりも、山間部
- 日照時間が短く、積雪が多い地域
の方が、自殺率が高くなるという。注意すべきは因果ではなく相関の関係にある点だ。山間部で積雪が多い地域だと、他者の支援や病院に行く必要があっても、そのコストが大きいだろうし、人口が少ないことから、福祉などの社会資源に乏しいことは明白だ。
また、パートナーと別れる場合の自殺リスクも、男女で差が出てくる。離婚であれ死別であれ、配偶者を失ってより大きなダメージを受け、自殺リスクになるのは男だというのだ。
一方で、自殺未遂は圧倒的に女が多いという。これは、男の方が、自分の身体にダメージを与える能力が高いというのと、男の方がためらわず、より致死的な方法を選ぶ傾向にあるからだという。
どんな人が、何をきっかけとして、どういった方法で、自殺を試み、どれくらい上手くいくのか―――『自殺学入門』は、容赦なく分析してゆく。
そもそも自殺は「悪い」のか
自殺に関する書籍はたくさんあるが、本書はかなり変わっている。
ふつうは、精神科医が執筆し、ヒューマニティの立場から自殺を予防し、早期に気づいてケアすることを目的とした、「温かい」自殺学になる。「死にたい」と悩む人や、その周囲の人の心に寄り添うような書きっぷりだ。
だが、本書は、心理学者である著者自身が、「冷たい」自殺学だと述べている。
「そもそも自殺は予防すべきか?」「自殺は『悪い』ことなのか?」という出発点から、科学的な知見のみならず、宗教や文化的背景も交えて考察する。
さらに、経済的価値から自殺予防の費用対効果を見積もる。「死にたい」と言っている人を死なせないために、いくらなら払える? という発想は、類書にはないものだろう。
自殺対策コスト300億、メリット260億
年間自殺者3万人を超えたこともある自殺大国ニッポン。2006年に自殺対択基本法が制定され、国や地方自治体は自殺対策の責務があり、年間100~300億円の予算が組まれている。
こうした予算は、JRなど鉄道のホームドアの設置やアルコール依存症への対策に使われ、本来であれば自殺していた人たちを助けてきたといえるだろう。
では、こうした対策の経済的価値はどれほどになるか?
国立社会保障・人口問題研究所の試算によると、単年ベースで2兆7,000億円という莫大なものになる(GDP引き上げ効果は1兆7,000億円)(※1)。これは、ある年の自殺志願者が全員死なず、働ける間は働き続けた場合の生涯所得の現在価値(期待値)がこの額になるというのだ。コストが300億で、2兆7,000億の便益なら、充分以上の投資だろう。
著者はこれに疑義を投げる。
自殺リスクを抱える人が全員、自殺を思い留まるというのは無理があるのでは、と指摘する。また、うつ病を患っている人が自殺を思い留まった後、バリバリ働いて年収を稼ぐという前提に問題があるという。
これに加え、自殺が行われることによる便益が考慮されていないという。自殺したことで、その人にかかる医療費、社会保障等の費用はゼロになる。自殺の経済的効果は、こうしたコストを見積もる必要があるというのだ(※2)。
こうした観点から試算を見直すと、得られる便益は200~260億円になるという。投資効果は非常に大きいとは言えないだろう。
「死にたい」と言える文化
宗教や文化の観点からの考察も興味深い。
切腹や輪廻転生など、日本人は自殺に許容的だと言われている。日本文化と自殺の親和性は、日本語の語彙にある、といった研究もあるくらいだ(※3)。「花と散る」「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉には、死を選ぶ(選べる)文化があると言える。
こうした文化は、SNSでの「死にたい」という告白や、自殺を後押しすると批判されがちだが、著者は、否定的にとらえるべきではないという。
例えば、ヨーロッパ圏では、自殺者の大部分(9割以上)は、精神障碍の診断がつく、とされている(アジア圏では6割)。
これは、ヨーロッパ中世における「狂気(非理性)」の考えが背景にあるという。キリスト教の影響下、自殺を禁止する意識の強い文化圏においては、自殺を非難されないため、「自殺者=精神障碍者」である必要がある、という仮説だ。
イスラム文化圏では、もっと顕著になる。イスラム教徒が多い地域では、自殺率が極端に低くなる。コーランやハディースで自殺が禁止されている上に、自殺が法的な罰の対象となる国もあるからだ。
こうした文化圏では、人々は自殺をしないのかというと、違うという。不慮か故意か決定されない外因死が多いと指摘する。また、刑罰を免れるため、自殺が曖昧な形で処理される例もある。こうした文化では、「死にたい」という告白は、より一層重くなるだろう。
確かに、日本は自殺許容的かもしれない。だが、死にたくなったときに、「死にたい」と言えるような環境は、そうした人たちを見出し、ケアしやすいとも言える。
死にたいのに、「死にたい」と言えない(言いにくい)文化や、自殺したのに自殺とカウントされない国々より、自殺対策の整備がしやすいという。
メディアの問題
自殺対策としては、メディアの扱い方に重点を置いている。
「他人の不幸は蜜の味」「シャーデンフロイデ」「メシウマ」など、自分よりも不幸な人を見ることで、人は優越感に浸ったり、安心感を得ることができる。そのため、自殺はニュースバリューがあり、有名人であるほど、価値が出ることになる。
本書では、江戸時代の曾根崎心中、ゲーテの小説から社会現象となった「ウェルテル効果」、さらにはアイドルの上原美優(2011)、岡田有希子(1986)の自殺をメディアがどのように扱ったかを分析している。
同年代の若者たちが、同じ方法で自殺したことについて、テレビや新聞などのメディアの影響は大きいという(確かFRIDAYだったはずだが、岡田有希子の写真が衝撃的だったことを覚えている)。
さらに、2000年代の前半は七輪での練炭、後半では硫化水素による自殺が多くあった。特にピーク時の2008年には、年間1000人が硫化水素で自殺したとある。これは、ネット心中を報道したテレビの影響が大きいという。
2008年に内閣府が呼びかけ、警視庁による関連報道の削除要請があり、現在では沈静化している(Googleトレンドでも2008年がピーク)。こうした流れを受けて、厚生省ではメディア関係者に対し、自殺報道のガイドラインを示している(※4)。
- 自殺の報道記事を目立つように配置しないこと。また報道を過度に繰り返さないこと
- 自殺をセンセーショナルに表現する言葉、よくある普通のこととみなす言葉を使わないこと、自殺を前向きな問題解決策の一つであるかのように紹介しないこと
- 自殺に用いた手段について明確に表現しないこと
- 自殺が発生した現場や場所の詳細を伝えないこと
- センセーショナルな見出しを使わないこと
- 写真、ビデオ映像、デジタルメディアへのリンクなどは用いないこと
死に向かいあって生きる
本書は、いわゆる自殺防止やケアについての本ではない。
むしろ、「自殺学」を総合的に目指したものだといえる。そのため、「死にたい」と思い悩んでいる人には向いていない。もちろん、自殺対策についても書かれているが、「自殺=絶対悪」という見方ではない。
人はいずれ死ぬ。
その死に方が選べないかと検討している。その上では、本書は非常に有効だった。今すぐ、というわけじゃないが、いつにするか、どうやってするかは自分で決めて、準備しておくつもりだ。
言い換えるなら、それが決められないような死に方はしたくない。
生き方は、ある程度、選んできた(選べてこれた)。もちろん不本意なものもあるが、努力と運となりゆきで、ここまで生きてきた。生き方を自由に選べないように、死に方を完全には選べないはずだ。だが、その不自由さの中で生き方を選んできたように、時間をかけて、死を準備していく。
※1 自殺・うつ対策の経済的便益(自殺やうつによる社会的損失)[URL]
※2 Recalculating the Economic Cost of Suicide [URL]
※3 『日本人の自殺』スチュワート・ピッケン、サイマル出版会、1979
※4 厚生労働省:メディア関係者の方へ [URL]
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