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自分の死に方は自分で選ぼうと思っている『自殺学入門』

問題:自殺のリスクが大きいのは、AとBのどちらか?

A B
未婚、離別、死別 既婚
内向的 外交的
無職、収入無し 有職、収入あり

容易に想像がつくが、『自殺学入門』によると、結婚して収入のある女性よりも、無職で離婚した男性の方が、より自殺率が高いという。

さらに、

  • 太平洋・瀬戸内海沿岸よりも、日本海側
  • 平野部よりも、山間部
  • 日照時間が短く、積雪が多い地域

の方が、自殺率が高くなるという。注意すべきは因果ではなく相関の関係にある点だ。山間部で積雪が多い地域だと、他者の支援や病院に行く必要があっても、そのコストが大きいだろうし、人口が少ないことから、福祉などの社会資源に乏しいことは明白だ。

また、パートナーと別れる場合の自殺リスクも、男女で差が出てくる。離婚であれ死別であれ、配偶者を失ってより大きなダメージを受け、自殺リスクになるのは男だというのだ。

一方で、自殺未遂は圧倒的に女が多いという。これは、男の方が、自分の身体にダメージを与える能力が高いというのと、男の方がためらわず、より致死的な方法を選ぶ傾向にあるからだという。

どんな人が、何をきっかけとして、どういった方法で、自殺を試み、どれくらい上手くいくのか―――『自殺学入門』は、容赦なく分析してゆく。

そもそも自殺は「悪い」のか

自殺に関する書籍はたくさんあるが、本書はかなり変わっている。

ふつうは、精神科医が執筆し、ヒューマニティの立場から自殺を予防し、早期に気づいてケアすることを目的とした、「温かい」自殺学になる。「死にたい」と悩む人や、その周囲の人の心に寄り添うような書きっぷりだ。

だが、本書は、心理学者である著者自身が、「冷たい」自殺学だと述べている。

「そもそも自殺は予防すべきか?」「自殺は『悪い』ことなのか?」という出発点から、科学的な知見のみならず、宗教や文化的背景も交えて考察する。

さらに、経済的価値から自殺予防の費用対効果を見積もる。「死にたい」と言っている人を死なせないために、いくらなら払える? という発想は、類書にはないものだろう。

自殺対策コスト300億、メリット260億

年間自殺者3万人を超えたこともある自殺大国ニッポン。2006年に自殺対択基本法が制定され、国や地方自治体は自殺対策の責務があり、年間100~300億円の予算が組まれている。

こうした予算は、JRなど鉄道のホームドアの設置やアルコール依存症への対策に使われ、本来であれば自殺していた人たちを助けてきたといえるだろう。

では、こうした対策の経済的価値はどれほどになるか?

国立社会保障・人口問題研究所の試算によると、単年ベースで2兆7,000億円という莫大なものになる(GDP引き上げ効果は1兆7,000億円)(※1)。これは、ある年の自殺志願者が全員死なず、働ける間は働き続けた場合の生涯所得の現在価値(期待値)がこの額になるというのだ。コストが300億で、2兆7,000億の便益なら、充分以上の投資だろう。

著者はこれに疑義を投げる。

自殺リスクを抱える人が全員、自殺を思い留まるというのは無理があるのでは、と指摘する。また、うつ病を患っている人が自殺を思い留まった後、バリバリ働いて年収を稼ぐという前提に問題があるという。

これに加え、自殺が行われることによる便益が考慮されていないという。自殺したことで、その人にかかる医療費、社会保障等の費用はゼロになる。自殺の経済的効果は、こうしたコストを見積もる必要があるというのだ(※2)。

こうした観点から試算を見直すと、得られる便益は200~260億円になるという。投資効果は非常に大きいとは言えないだろう。

「死にたい」と言える文化

宗教や文化の観点からの考察も興味深い。

切腹や輪廻転生など、日本人は自殺に許容的だと言われている。日本文化と自殺の親和性は、日本語の語彙にある、といった研究もあるくらいだ(※3)。「花と散る」「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉には、死を選ぶ(選べる)文化があると言える。

こうした文化は、SNSでの「死にたい」という告白や、自殺を後押しすると批判されがちだが、著者は、否定的にとらえるべきではないという。

例えば、ヨーロッパ圏では、自殺者の大部分(9割以上)は、精神障碍の診断がつく、とされている(アジア圏では6割)。

これは、ヨーロッパ中世における「狂気(非理性)」の考えが背景にあるという。キリスト教の影響下、自殺を禁止する意識の強い文化圏においては、自殺を非難されないため、「自殺者=精神障碍者」である必要がある、という仮説だ。

イスラム文化圏では、もっと顕著になる。イスラム教徒が多い地域では、自殺率が極端に低くなる。コーランやハディースで自殺が禁止されている上に、自殺が法的な罰の対象となる国もあるからだ。

こうした文化圏では、人々は自殺をしないのかというと、違うという。不慮か故意か決定されない外因死が多いと指摘する。また、刑罰を免れるため、自殺が曖昧な形で処理される例もある。こうした文化では、「死にたい」という告白は、より一層重くなるだろう。

確かに、日本は自殺許容的かもしれない。だが、死にたくなったときに、「死にたい」と言えるような環境は、そうした人たちを見出し、ケアしやすいとも言える。

死にたいのに、「死にたい」と言えない(言いにくい)文化や、自殺したのに自殺とカウントされない国々より、自殺対策の整備がしやすいという。

メディアの問題

自殺対策としては、メディアの扱い方に重点を置いている。

「他人の不幸は蜜の味」「シャーデンフロイデ」「メシウマ」など、自分よりも不幸な人を見ることで、人は優越感に浸ったり、安心感を得ることができる。そのため、自殺はニュースバリューがあり、有名人であるほど、価値が出ることになる。

本書では、江戸時代の曾根崎心中、ゲーテの小説から社会現象となった「ウェルテル効果」、さらにはアイドルの上原美優(2011)、岡田有希子(1986)の自殺をメディアがどのように扱ったかを分析している。

同年代の若者たちが、同じ方法で自殺したことについて、テレビや新聞などのメディアの影響は大きいという(確かFRIDAYだったはずだが、岡田有希子の写真が衝撃的だったことを覚えている)。

さらに、2000年代の前半は七輪での練炭、後半では硫化水素による自殺が多くあった。特にピーク時の2008年には、年間1000人が硫化水素で自殺したとある。これは、ネット心中を報道したテレビの影響が大きいという。

2008年に内閣府が呼びかけ、警視庁による関連報道の削除要請があり、現在では沈静化している(Googleトレンドでも2008年がピーク)。こうした流れを受けて、厚生省ではメディア関係者に対し、自殺報道のガイドラインを示している(※4)。

  • 自殺の報道記事を目立つように配置しないこと。また報道を過度に繰り返さないこと
  • 自殺をセンセーショナルに表現する言葉、よくある普通のこととみなす言葉を使わないこと、自殺を前向きな問題解決策の一つであるかのように紹介しないこと
  • 自殺に用いた手段について明確に表現しないこと
  • 自殺が発生した現場や場所の詳細を伝えないこと
  • センセーショナルな見出しを使わないこと
  • 写真、ビデオ映像、デジタルメディアへのリンクなどは用いないこと

死に向かいあって生きる

本書は、いわゆる自殺防止やケアについての本ではない。

むしろ、「自殺学」を総合的に目指したものだといえる。そのため、「死にたい」と思い悩んでいる人には向いていない。もちろん、自殺対策についても書かれているが、「自殺=絶対悪」という見方ではない。

人はいずれ死ぬ。

その死に方が選べないかと検討している。その上では、本書は非常に有効だった。今すぐ、というわけじゃないが、いつにするか、どうやってするかは自分で決めて、準備しておくつもりだ。

言い換えるなら、それが決められないような死に方はしたくない。

生き方は、ある程度、選んできた(選べてこれた)。もちろん不本意なものもあるが、努力と運となりゆきで、ここまで生きてきた。生き方を自由に選べないように、死に方を完全には選べないはずだ。だが、その不自由さの中で生き方を選んできたように、時間をかけて、死を準備していく。

※1 自殺・うつ対策の経済的便益(自殺やうつによる社会的損失)[URL]
※2 Recalculating the Economic Cost of Suicide [URL]
※3 『日本人の自殺』スチュワート・ピッケン、サイマル出版会、1979
※4  厚生労働省:メディア関係者の方へ [URL]

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オデュッセイアを読むと何が起きるのか具体的に述べる

100年前、米国で刊行された世界文学全集で、「モテるための古典」「1日15分であなたも教養人に!」と謳っている(※1)。

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「人生を豊かにする教養」とか「必読の名著」といった教養を売り物にする本があるが、びっくりすほど何にもない。

書店でパラ見してみるがいい。どこからか引き写した簡単なまとめだけで、その名著とやらを読んで、本人の何がどう変わったのか、ほとんど書いていないから。せいぜい、アイスブレイクのネタになったとか、「多面的な視点」みたいなふわっとした言い回しが関の山だ。

『オデュッセイア』を読んで起きたこと

ここでは、反例として、わたしが古典を読んで、何がどう変わったかを述べる。できるだけ具体的に、ホメロス『オデュッセイア』を読んで起きたことを書く。

英雄オデュッセウスが故郷に帰る冒険譚で、行く手を阻む怪物や魔法使いを、知恵と勇気と女神様で乗り切る。ラストの、ライバルたちとの対決は、虐殺と言ってもいいほど一方的&圧倒的で、ドーパミンが出まくった。

この物語から切り出して、様々なエピソードやトピックが生まれている。翻案したり置換することで、元の話とは似ても似つかぬ、でも既視感のあるストーリーができあがる。

たとえば、『千と千尋の神隠し』で父母が豚になるところなんて、キルケ―の魔法を思い起こす。千尋(オデュッセウス)が豚になるのを免れたのは、あるものを食べなかったからだ。もちろん、『オデュッセイア』のエピソードがそのまま使われているわけではない。他の、様々な物語を介して伝播していったと想像すると、面白い。

あるいは、怪物に捕らえられたとき、自分の名前を「誰でもない」と告げるトンチ。オデュッセウスは怪物の眼を潰し脱出を図る。その一方で、怪物の仲間が「誰にやられた?」と尋ねても、「誰でもない」と返事する―――このネタ、まんが日本昔話で聞き覚えがあるほか、様々な場所で使われるだろう。

オデュッセイア=進研ゼミ

そして、ラストの1対多のバトル。

戦いの女神アテナの加護のもと、オデュッセウスは無双となる。俺の嫁に手を出す奴は絶対に殺すマンと化して、大勢の敵を、一射一殺の勢いで殺戮してゆく(読んでいるときは全身の毛穴が総毛立ち、マリオの無敵音楽が脳内をずーっと流れてた)。直前まで、自分の正体を隠し、プレッシャーがすごかったので解放感がハンパない。

このアドレナリン感覚は、スタローン主演の映画『ランボー/怒りの脱出』やスティーヴン・ハンターの小説『極大射程』の無双と酷似している。映画を観たのも小説を読んだのも、ずっと前だったのだが、『オデュッセイア』を読んだ途端、「あのときのアレはコレだったのか!」と完膚なきまで腑に落ちた。

そして、映画やゲームや小説で無双シーンに出会うと、『オデュッセイア』を思い出すことになる。要するに「これ進研ゼミでやった」状態になるのだ(『魔法少女まどか☆まどか』の覚醒まどかがそれだった)。オデュッセウスは無双の元祖、彼を観察することで、未来の作品のタネが見つかるだろう。ずっと正体を隠してきてラストで無双するところなんて、なろう系の元祖と言ってもいいかも。

では、こうした物語を楽しむ/作るエピソードを見つけることが、古典のメリットなのかというと、それだけではない。人間の仕様を理解する手がかりとしても使える。

オデュッセイアで人の仕様を理解する

読書猿『独学大全』によると、ヒトの意志は環境や状況に左右されやすい。強い意志を持っていても、周りの状況により変わってしまう。ヒトは、意志や理性の産物というよりもむしろ、それまでの自分を取り巻いてきた環境の産物だというのだ。

だから、意志を変えないように努めるよりも、むしろ、意志が変わっても努力が続くよう、自分の外側に理性をデザインせよと説く。その例として、「オデュッセウスの鎖」(※2)が登場する。

Draper-Ulysses and Sirens

Herbert James Draper, Public domain, via Wikimedia Commons

オデュッセウスの鎖とは、オデュッセウス自身が自らを縛れと部下に命じた鎖だ。なぜ自分を鎖で縛るのか? それは、セイレーンの歌声を聞きたいからである。彼女らの美声に惑わされ、船を岩に激突させた挙句、命を落とす船乗りは数多くいた。だからオデュッセウスは自分を縛らせ、耳栓をした部下に船を漕がせたのだ。

セイレーンの島に近づき、美しい歌声が聞こえてくると、オデュッセウスは鎖を解くよう叫び、身悶えした。だが部下たちは何も聞こえず、命じられたとおりに船を漕ぎ続け、海域を脱出することになる。

オデュッセウスは自らの意志を信じていなかった。だから自らを鎖で縛らせることで、意志の変化を乗り越えたといえる。読書猿は、このオデュッセウスの鎖を応用して、「コミットメントレター」「ゲートキーパー」という技法を編み出している。

オデュッセウスの鎖は、ヒトは環境の動物だということを思い知らせてくれる。大前研一はこれを逆手に取って、こうアドバイスする。

  人が変わる方法は、3つしかない。
  1つは、時間配分を変える。
  2つめは、住む場所を変える。
  3つめは、付き合う人を変える。

このアドバイスには続きがあって、人が変わる方法の中で、最も無意味なのは、「決意を新たにする」というやつだそうな。自分の意志という鎖がいかにアテにならないかは、わたしが一番よく分かっている。

オデュッセイアのリアリズム

『オデュッセイア』をリアリズムの道具として読むこともできる。

アウエルバッハ『ミメーシス』が好例だ。ヨーロッパ文学のテクストを比較しながら、現実がどのように描写されているかを分析する。『オデュッセイア』のリアリズムは、旧約聖書と比べて紹介されている。

描写に奥行きがなく、照明はくまなく当たっており、人物は心の裡を余すことなく語り尽くす『オデュッセイア』と、光と影が際立ち、暗示に満ちた表現や多様な意味の解釈を求める旧約を並べると、確かに対照的である。

『オデュッセイア』のフラットな書き方だと、読み手(観客)に秘密にされるものがない。時間は常に現在に焦点があたり、「語られたもの=現実の全て」で完結している。感覚的実在の快楽が全てであり、それを如実に伝えることが文学の目的だとされている(※3)。

ホメロスから数千年、わたしたちが普通の小説を安心して読めるのは、全てが隈なく説明される(はず)という確信があるからだろう。

あるいは、演劇の傍白を遡ると、オデュッセイアに至るだろう。傍白は、相手には聞こえないことにして、観客にだけ心中を明かすセリフだ。これが成り立つのは、舞台の上が現実の全てだという暗黙の了解があるから。

もちろん、これをフェイクにひっくり返すやり方もあるし、前提を裏切る叙述トリックだってある。だが、そうした手法が出来たのは、オデュッセイアのリアリズムがあったからといえる。

オデュッセイアは一冊ではない

このように、『オデュッセイア』について語ろうとすると、様々な経験や技法、教訓や素材、そして注釈が、次々と積み重ねられることになる。

たとえ、オデュッセウスの冒険物語のダイジェストに閉じて語ろうとしても、『オデュッセイア』に言及する様々な作品や注釈が、それを許さない。『オデュッセイア』は、決して、一冊だけでは成立しないのだ(岩波赤で言うなら、上下巻だけでは成立しない)。

読書猿『独学大全』では、もっとシンプルに、「古典とは、多くの注釈書が書かれてきた書物のこと」(※4)と述べている。元の古典テキストに加えて、積み重ねられてきた読み方もすら注釈書として残っているものが、古典になるというのだ。

これまでの様々な読みに加え、それまでの自分の経験が呼び覚まされる。そして、(創る方であれ、受け取る方であれ)未来の作品に向かい合う知恵を手にする。ホメロス『オデュッセイア』を読むということは、そういう経験だった。

※1 『「世界文学」はつくられる』秋草 俊一郎、東京大学出版会、p.68
※2 『独学大全』読書猿、ダイヤモンド社、p.176
※3 『ミメーシス』アウエルバッハ、筑摩書房、上巻p.17
※4 『独学大全』読書猿、ダイヤモンド社、p.280

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「世界文学」の日本代表が夏目漱石ではなく樋口一葉である理由

世界文学全集を編むなら、日本代表は誰になる?

漱石? 春樹? 今なら葉子?

審査は、世界選手権の予選のようになるのだろうか。投票で一定の評価を得た著者なり作品が、トーナメントを勝ち抜いて、これぞ日本代表としてエントリーするのだろうか。

スポーツならいざ知らず、残念ながら、文学だと違う。春樹や葉子ならまだしも、夏目漱石は予選落ちである。

なぜか?

『「世界文学」はつくられる』に、その理由がある。近代日本語の礎を築いたことで誉れ高い漱石でも、世界的に見た場合、西洋文学のコピーとして低く評価されているという。

「世界文学」での漱石

『坊ちゃん』『猫』が有名だし、教科書で『こころ』を読んだ人もいるだろう。何と言っても千円札の顔だから、諭吉よりは見慣れている。やたら有難がる人もいるのは、ザイアンス単純接触効果じゃね? と思うのだが、彼の造語とされる「沢山」「反射」「価値」「電力」は、人口に膾炙している(※1)。

ところがこれは、日本の話。海外に行くと、知名度は下がる。

たとえば、米国の大学生が学ぶ『海外文学アンソロジー』がある。古今東西の古典から近現代の作品を取り上げ、体系的にリベラルアーツを教授するために構成されたアンソロジーだ。出版社ごとに趣向を凝らし、日本人作家も多数取り上げられている(カッコ内は近現代の日本人作家の登場回数)(※2)。

樋口一葉(7)
川端康成(6)
谷崎潤一郎(4)
与謝野晶子(3)
芥川龍之介(3)
村上春樹(3)
三島由紀夫(2)
大江健三郎(2)

漱石は0である。漱石に限らず、尾崎紅葉や二葉亭四迷など、明治の文豪は軒並み苦戦しており、鷗外はかろうじて1回収録されているのみになる。どうやら米国では、漱石はマイナーどころか無名に近い。

対照的に、樋口一葉は『たけくらべ』『わかれ道』など、数多く収録されている。ノーベル文学賞という理由で川端康成が入るのは分かるが、彼を除くと、ぶっちぎり日本代表と言っていい。なぜか?

その手がかりは、『世界文学アンソロジー』の解説にある。

そこでは、漱石や鷗外といった明治期の文学者について、辛辣な評になる。フローベールやゾラ、ツルゲーネフといった同時代の西洋のリアリストを盲目的に(slavishly)真似た、と斬っている(※3)。

一方、一葉は、西洋文学の影響を受けなかったと言われている。一葉自身が英語を解さず、日本独自のリアリズムを発達させたとして、高く評価されているのだ(※4)。

この感覚は、わたしと異なる。

たしかに、一葉は優れた文学作品を残した。だが、日本文学に与えた影響から考えると、漱石が遥かに大きいだろう。『草枕』や『猫』の冒頭は、そのまま日本を代表する文章になるし、短編なら『夢十夜』がアンソロジー向けになる。

なぜ、一葉が評価され、漱石は無名なのか。

樋口一葉が日本代表の理由

それは、「世界文学」の文脈にある。この言葉が、どのような意図で使用されているかに着目すると、見えてくる。

『海外文学アンソロジー』を用いるのは、北米の大学で教鞭を取る英文科の教員になる。主要顧客である彼らの目的は、自分たちのアメリカ文学が、いかに西洋の歴史と不可分かを教えることになる(∵英文科の飯の種であり存在理由そのもの)。

それゆえ、収録される作品は、聖書から始まりホメロス等のギリシャ・ローマの古典、中世、ルネサンス、西洋の有名作品が紹介されてゆく。あたかも世界史の史料を拡張したかのような構成になる。この時点で、かなりのボリュームになる。

これに多様性を加える必要がある。いわゆるカノン(正典)としての世界文学では、「ヨーロッパ」「古典」「白人男性作家」が多数を占める。バランスを取るために、「非ヨーロッパ」「女性作家」「マイノリティ」を選ぶ必要が出てくる(しかも限られたページで)。

こうした、「米国大学の教員にとっての世界文学」という文脈で考えると、樋口一葉がくり返し採択される理由が見えてくる。

まず一葉は、女性作家である。それだけでなく、近代日本(おそらく東アジアでも)最初期の職業的女性作家として挙げられる。次に、作品の短く、紙面が限られたアンソロジーに適しているといえる。

さらに、教員向けの解説ページを見ると明らかになる。

『海外文学アンソロジー』は、作品を収録しているだけでなく、それらをどう比較して読むか、生徒に対し何に注意を向けさせるかといったポイントも解説されている(日本で言うなら、教師向けの「赤本」やね)。

そこにおいて、一葉の『十三夜』は、スタントン&モットの『感情宣言』と比較して読まされる。『十三夜』は、子どものために離縁を思いとどまる母を描いた作品で、『感情宣言』は離婚時に母親に親権を与える話だ。両者をフェミニズム的枠組みの中で解釈することが、授業の目的となる。

「世界文学」の恣意性

シェイクスピアやダンテといったヨーロッパ文学の中核ともいうべき男性作家を締め出すことはできない。

さらに、ポーやメルヴィルといったアメリカ文学の伝統を作り上げた男性作家も入れなければならない。

その上で、全体の頁数を増やすこともなく、多様性や平等を実現しようとすると、どうしてもどこかで調整が必要となってくる。

世界文学アンソロジーを編むことは、あやういバランスの上になりたっている。日本代表を決めるのは、日本における評価や審査だけでなく、日本を外から眺めるとき、眺めたい方向に沿った形であることも、ポイントとなるのだ。

世界文学(World literature)という言葉は曲者だ。

世界陸上とか、ワールドカップといった、グローバルで評価されるニュアンスと、「世界文学全集」という出版物がつくりあげた正統性やカノンといった響きが発動する。

こうしたイメージが、「つくられたもの」であることを、本書は実証的に解き明かす。ゲーテから始まる「世界文学」の歴史を辿りながら、そこに潜むイデオロギーや恣意性を暴いた一冊。

 

※1:https://ja.wikipedia.org/wiki/夏目漱石
※2:『「世界文学」はつくられる』秋草俊一郎著、東京大学出版会、2020、p.315
※3:Davis,et al. “The Bedford Anthology of World Literature, vol. E, p.1076
※4:Martin Puchner, et al. “The Norton Anthology of World Literature, vol F 3rd edition, New York: 2012. p.xix.

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全人類が共有できる歴史はありうるのか?『新しい世界史へ』

「歴史は勝ったほうが書く」のだから、いま主流の価値観や集団に焦点を当てるのが普通だと思ってた。各時代の支配層が、自らの正統性の証(あかし)を過去に求め、上書き保存してきたのが、歴史叙述だと考えてきた。

だから、本書で紹介される「新しい世界史」は、斬新で、困難だと考える。その一方で、この世界史を知りたい、と強く願う。

『新しい世界史へ』は、いわゆる「世界史まとめ」ではない。

よくあるWikipediaのコピペに「教養」というレッテルを貼った本でもない。そういう巷の「世界史」に隠されている先入観や意図を明るみに出し、改善策を示し、代案を提示する本だ。いうなれば、世界史を語るのではなく、「世界史の語り方」を考える一冊なのだ。

全人類に向けた世界史という、ある意味、ぶっ飛んだ構想を議論しているのは、羽田正氏である。比較歴史学の専門家で、東京大学の東洋文化研究所の所長のキャリアを持つ。著書も多数で、『輪切りで見える! パノラマ世界史』の著者だといえばピンとくるだろうか。

そして大真面目に、全人類のための歴史叙述の可能性を説く。

「日本における世界史」に共通するストーリー

書店に行くと、世界史を冠した様々な本が並んでいる。思想、疫病、戦争といったテーマで斬ったものから、何十巻と続くもの、(ムリヤリ?)一冊にした世界全史まで、色々ある。

一見するとバラエティ豊かだが、これらの世界史は、定番の世界史があることが前提だという。それは、「高校で学ぶ世界史=文部科学省の学習指導要領に準拠した教科書」の枠組みを共有しているというのだ。

その枠組みとは、ヨーロッパを中心とした歴史観だ。

本書の序盤で、学習指導要領を年代順に読み解いてゆく。そこで、西洋の扱い方や記述量を比較しながら、教科書の世界史観を振り返る。そして、全体としてはヨーロッパ中心史観が大きく影響している、と結論付ける。

  1. 世界は異なる複数地域から構成されており、異なる歴史をもっていた
  2. ヨーロッパ文明世界とそこから生まれた諸国家が優位に立ち、実質的に世界史を動かし、世界の一体化が進んだ

つまり、「バラバラだった世界が、欧米が主導して一体化してきた」というストーリーになる。

高校世界史の語り方も、この流れを踏襲する。複数の文明世界や国家の歴史を時系列に沿ってまとめ、それぞれの束として理解される。そして、その束どうしの交流は、現代に近づくほど密接となる、という流れだ。

そして、「異なる地域や国から成る世界を、欧米が主導している」という世界の見方と呼応しているという。著者曰く、「世界の見方と世界史の理解が表裏一体となって、私たちの世界認識を強く規定している」のだ。

ここで言う「ヨーロッパ」は、特殊なものとなる。

それは、ユーラシア大陸の西端に位置する地域ではなく、概念としてのヨーロッパだという。ルネッサンスで古代文明の叡智を「再発見」し、大航海時代で世界を広げ、科学技術を発展させ、自由・平等・民主主義を「発明」し、政治や経済を改革するサクセスストーリー、いわば勝者の世界史なのだ。

「世界史」という名のフランス史

世界史の大筋はすでに定まっており、確定した知識として高校で学習する―――この常識に、著者は疑問を投げかける。

そして、私たちが当たり前のように思っている世界史の理解が、決して絶対ではないことを、さまざまな事例で伝える。

たとえば、フランスやの高等教育における世界史が紹介される。

そこでは、アジアなど「非ヨーロッパ」地域の過去は、ほとんど教えられない。ただし例外があり、植民地など、自国の歴史と直接関係がある場合は、その部分において語られる。これはフランスに限らず、イギリスにとってのインド、オランダにとってのインドネシアは、重要なトピックとして扱われる。

つまり、「世界史=フランス史+関連地域のトピック」という構図になる。この見方で教育を受けた人々と、世界史についての共通認識を得るのは、困難かもしれぬ。

「中華は統一されている」というstory(≠history)

これに抗うような、中国の歴史の教科書が興味深い。

そこでは、中華が世界の中心になる。漢や唐などの王朝国家が成立すれば、それは統一の時代であり、それ以外は分裂の時代だとみなされる。この見方の前提には、はじめから広大な中国大陸は統一されているはず、という価値判断が入っている。

さらに、「漢民族」という人間集団がはるか昔から存在し、中国史は漢民族の歴史として展開してきたという前提があるという。その結果、モンゴル人の建てた元や満州人が中心となってできた清は、「征服王朝」と捉えられる。

近代中国の姿を過去に投影し、「中華」や「漢民族」は過去においても成立していたと考えると、こんなストーリーになる。

交通や通信の手段が限られている中で、あれほど広大な領土が政治的に統一されているとするほうが特殊だと思うのだが、ともあれ、そういうストーリーでないと、現在の体制と合わなくなってしまう。

このように、現在の体制から自国と他国を分け、程度の差こそあれ、自国を中心に据えて歴史を語る。

地球人のための世界史

著者は、この現状に異を唱え、揺さぶりをかける。

日本の歴史、フランスの歴史、中国の歴史など、国民ごとの歴史では不十分だと考える。

世界全体で、経済が一体化し、文化や価値観にも共通点がある。それにもかかわらず、国民国家の観点から共同体への帰属意識を強調し、その利害を第一に考えさせる「世界史」では、地球規模の問題に取り組めないとする。

帰属意識の先を、国家から地球に拡張する、地球市民が共有する知識の基盤―――そんな世界史が必要だという。いうなれば、日本でもフランスでも中国でも用いられる世界史だ。

新しい世界史は、「自国/自国以外」を強調しない。さらに、ウォーラーステインのように中心となる地域を定め、「中心/周辺」のような構造化もしない。

その代わりに、共通点や関連性を重視し、世界中の人々がこれが自分たちの過去だと思える―――そんなつながりを自覚できるような歴史を目指すという。

冗談かよ、とツッコミを入れたくなる。地球規模どころか、とある二国間ですら歴史認識問題が喧しいのに、そんなことが可能なのか!? と耳を疑う。

だが、著者は真面目だ。

大真面目に、「地球人のための世界史」の様々な可能性を語る。

新しい世界史の方向性

可能性の一つの方向が、グローバル・ヒストリーだという。

ヨーロッパ世界を相対化し、あつかう時間を巨視的に眺め、対象テーマと空間を地球規模で採り、異なる地域間の相互影響を重視する歴史だ。

例えば、ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』だ。これは、「現在の富がなぜ偏在しているか」という疑問に答えるため、地球の初期設定から語りなおした世界史になる。これまでの歴史研究の中心である政治・経済・社会・文化史の常識を変えてくる。

あるいは、あるモノや概念に注目して、それを通じて世界の人々の活動や生活のつながりを描き出したものとして、川北稔『砂糖の世界史』が紹介される。このブログで紹介してきたものだと、胡椒疫病戦争土木不潔工学テクノロジー情報など、様々なテーマがある。

さらに、国民国家や国境を自明とする枠組みから離れる試みとして、海洋世界史がある。海とその周辺の陸地を一体のものと捉え、その空間内での人・モノ・情報の動きの関連性をダイナミックに描く。本書では、ブローデル『地中海』を紹介している。

ただし、著者は全面的に賛成しない。

グローバルな語り方をしているが、その前提としてヨーロッパ中心史観に基づいた歴史解釈を保持している場合があるという。グローバル・ヒストリーのように見えるが、実際は、「ヨーロッパ」と「非ヨーロッパ」の二項対立に落とし込むものも少なくないという。

では、どうすれば「新しい世界史」を語ることになるのか? 理想ではなく具体的に描こうとすると、どのような形になるのか。

世界の見取り図

ひとつの試案として、「見取り図」を提示する。

何の見取り図か? それは、価値についての見取り図だという。

そして、現代社会において、地球市民として持つべき価値として、兼原信克『戦略外交原論』(2011、日本経済新聞出版)を参考しながら、以下を例示する。

  • 法の支配
  • 人間の尊厳
  • 民主主義の諸制度
  • 国家間暴力の否定
  • 勤労と自由市場

上記を基準にして、見取り図を作ろうというのだ。

ちょっと待って。

「民主主義」や「自由市場」というのは、欧米が生み出した価値観じゃないの? 前者は古代ギリシャまでさかのぼるし、後者は近代ヨーロッパが生み出したものじゃないの?

そうじゃない、と著者は反論する。これらの価値は、全てヨーロッパが生み出したとされ、非ヨーロッパと区別される。だが、その見方自体が、ヨーロッパ中心の見方なのだという。

世界各地を振り返ると、用いられている言葉こそ違えど、これらの価値とほぼ同じ内容を持つ概念は考え出され、実現されてきたという。そうした価値が、それぞれの地域で、どのように扱われてきたのかを並べることで、世界の見取り図が作れるという。

「新しい世界史」の例

例えば、著者は、17世紀後半を概観する。

  • 綱吉治下の徳川政権
  • 粛宗治下の朝鮮王国
  • 康熙帝の清朝
  • ガルダン・ハーンのジュンガル・ハーン国
  • ナライ王のアユタヤ朝
  • アウラングゼーブ下のムガル朝
  • ソレイマーン時代のサファヴィー朝
  • メフメト四世のオスマン朝
  • ピョートル一世のロシア
  • レオポルド一世の神聖ローマ帝国
  • オランダ共和国
  • ルイ14世のフランス王国
  • 名誉革命直後のイングランド王国
  • カルロス二世のスペイン

上記に加え、アルメニア系、ユダヤ系、華人系等ユーラシアに散在するディアスポラ的な人間集団、南北アメリカの植民地と先住民の社会、アフリカやオセアニア各地のように強力な政治権力が存在しなかったとされる地域における人間集団に目を向ける。

それぞれの人間集団に焦点を当て、その社会秩序と政治体制がどのように維持されていたのか、正統性はどう保障されていたのか、社会における男女の役割は区別があったか、宗教と社会秩序との関連性はどうなのか……という観点から描きなおせという。

そうすることで、それぞれの人間集団がどのように異なり、どこが共通していたかが明らかになるという。そして、17世紀後半の世界における人間社会全体の特徴的な姿が明らかになるというのだ。

それぞれの人間集団で、上記に挙げた価値がどのように扱われていたかに着目し、人間集団の類型化を図ることを提案する。どんな共通的な特徴を持った人間集団が、どのように分布して、どんな関係を作っていたかを述べていくことで、全体を鳥瞰的に示す見取り図になるというのだ。

これは、「ヨーロッパ/非ヨーロッパ」の単純構造ではなく、かなり複雑な図面になるだろう。また、年代に沿って通時的に描ける代物ではない。数十年程度の単位でスライスした、厚みのある世界のスナップショットになる。

イメージ的には、世界史の資料集にある、「ある時代における世界全体の様子」の解像度を凄まじく上げた図になる。

例えば『世界史図説 タペストリー』の特集「世界全図でみる世界史」に書き込みをしまくると出来上がる感じかなぁ……あるいは、各時代ごとに人類社会全体を見わたし、つながりと交流をイラストで描いた『輪切りで見える!パノラマ世界史』の高解像度版になるのだろうか。

見取り「図」という言葉にすると、パノラマの「絵」のようなものを思い浮かべてしまうが、これはVR(仮想現実)と相性が良いかもしれない。全体像を俯瞰して、知りたいところへズームしていくと、その地域の解像度が上ってゆき、その中での人間集団の営みが見えてくる仕組みだ。その営みの一つ一つに、他の地域とのつながりの線がオーバーレイされるようなもの(UIは、ゲームのシヴィライゼーションが近い)。

グローバル・ヒストリー共同研究拠点の構築

歴史認識の共有は、隣国でも(だからこそ?)難しい。だが、価値の共有なら、まだやりやすいかもしれぬ。これは、歴史叙述者が、いったん自国や自文化から脱け出た上で書く必要がある。それは、かなり難しいだろう。

しかし、新しい世界史は、間違いなく面白いものになるだろう。それを読むことで、価値があるとされる概念が、どのように世界の様々な地域で共有され、受け継がれてきたかが明白になるに違いない。そして地球という共同体に生きる一人だと認識できるものになるだろう。

この構想は、2014年から「グローバル・ヒストリー共同研究拠点の構築」で実行されている。東京大学、プリンストン大学、フランスの社会科学高等研究院、ベルリン・フンボルト大学と連携し、新しい世界史認識を生み出す挑戦的なプロジェクトだ。日本学術振興会から支援を受け、現在進行形で進められている。

 

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