面白い小説・マンガ・映画・ゲームに没頭しているときは分からない。だが、お話が終わった後、あらためて、なぜそれを面白いと思ったのかは、気になる。
- その物語の「面白さ」はどこから来たのか
- 誰にでもウケるのか(「面白さ」は一般化できるのか)
- 「面白さ」は再現できるのか
そんな疑問を抱えていたら、面白い読書会があったので、参加してきた。
「物語の探求」読書会(ネオ高等遊民サークル)
小説、漫画、映画、舞台、ゲームなどジャンルの垣根を越えて、「物語」について考えるオンライン読書会。たとえば、「ラストで感動させる仕掛けはどう使われているか」「物語世界に巻き込む外的焦点化とは何か?」など、物語を創る側の視点から考える。
第1回の課題本
『物語の力 物語の内容分析と表現分析』
高田明典、竹野真帆、津久井めぐみ(大学教育出版)
目次
- 物語の役割は、現実と折り合いをつけること
- 現実の問題をずらして「面白い」を作る
- スタイルと物語を分けられるか
- ルフィの目はなぜ点なのか
- 主人公が酷い目に遭うのが面白い物語?
- 『デスノート』と『マクベス』に共通する仕掛け
1. 物語の役割は、現実と折り合いをつけること
『物語の力』は、小説やマンガ、映画やゲームにある「物語」に焦点を当てる。前半の基礎編で「表現の分析」と「内容の分析」の双方から解説し、後半の応用編で『進撃の巨人』や『ポケモンGO』『君の名は。』等の具体的な作品の中にある「物語の力」を分析する。
まず、『物語の力』を読んだときの第一印象より。
Dain:読みながら浮かんだのは、「物語とは何か?」「物語の役割とは?」という疑問だった。文字などない大昔から物語はあったはずで、共同体の価値観を伝えるという役割だったのでは。
たとえば、「良い」「悪い」という判断基準や、食物や安全な場所、毒や敵といった危険なものなどを伝える役割。祭りとか物忌みを伝えるシャーマンや神話の「物語」として生き残っているんじゃないかな。ジョーゼフ・キャンベル『神話の力』や『千の顔を持つ英雄』にある、原始的な物語です。
そういう価値観を伝えるうちに、伝える形式として「はじめ・なか・おわり」みたいなものが作り上げられていったんじゃないかと。
タケハル:私の印象だと、『物語の力』は研究者の分析ですね。小説を書く人と研究する人の違い。物語を創る方からすると、学者とは発想が違うなぁと。ル=グウィンのエッセイ『夜の言葉』の一節を思い出しました。
「どうやって小説を書くのか?」と問われたとき、ル=グウィンがこう答えたそうです―――「小説について知りたかったら、学者に聞け」と。なんでこんな答えなのか。小説は海みたいなもの。海について聞きたければ、海洋学者に聞くほうが、話が早い。『夜の言葉』では、こう記されています。
「海自身のもとへ行ってたずねたとしたら、海はなんと言うでしょうか。ただ轟き、寄せる音ばかり。海は海であることに忙しすぎて、自分のことについてなにかを知る暇などないのです」
物語を作る時は、海に「なる」ので、自分自身が見えない。海を研究するのは「自分」対「海」という構図であり、自我が保たれている。海に「なる」のは神がかり、もしくはある種の狂気を意味する。
これ、モームも似たようなことを言ってます。ある研究者がいたのですが、彼は文学を研究してはいるものの、「小説を読むのは楽しい」なんて一言もいわなかったとか。でもわたしたちが読むのは、出来事が「はじめ・なか・おわり」の形に並べられたものが好きだからじゃないかと。
うまいラーメンとまずいラーメンの差はあるけれど、ラーメンそのものを食べるのは、好きだからとしか言いようのないのと同じく、物語を楽しむのは好きだからだと思う。
Dain:僕らはなぜラーメンが好きなのかというと、油と炭水化物がたっぷりあるからで、油も炭水化物も、ヒトが生きるのに必要で、ラーメンを食べると効率的に摂れるから……スティーブン・ピンカーの「チーズケーキ仮説」を思い出した。
僕らがチーズケーキを好きなのは、糖とか油がたっぷり入っているからで、これらは生きるのに不可欠な栄養素だ。チーズケーキばかりずっと食べ続けるのは、(太っちゃうから)適応的じゃないけれど、糖や油を「美味しい」と感じて好むのは、適応で説明がつく。
同じように、僕らが物語を好むのは、何らかの要素が適応的に働いて、その結果、物語を「面白い」と感じるのではないかと(ちょうど、ラーメンやチーズケーキを「美味しい」と感じるように)。
そして、僕らが物語を好むように適応的に働いている要素は、「変化に気づく」じゃないかなと思う。変化も事件も一切ない物語を味気ない。けれど、日常の中に変化が起きる物語は楽しい。それは、パターン化された現実で変化を見付ける―――背景に隠れた天敵だとか、木の実だとか―――ことに敏感な方が、適応的だからじゃないかと。
スケザネ:これに近い文脈で、「現実を理解するための物語」が挙げられます。そこで、『博士が愛した数式』で有名な小説家・小川洋子のエッセイを紹介したいです。『物語の役割』というそのものズバリのタイトルで、ちくまプリマ―新書から出ています。なぜ私たちは物語を必要とするのかがテーマです。
『物語の力』では、物語の訴求力として「有効な解決策」とか「有効な筋道」といったポジティブな意味で用いられていましたが、『物語の役割』では、それとはちょっと違う筋道です。
そこでは彼女は物語の役割を、「受け入れがたい現実を、物語の形に構成しなおして、受け入れるのだ」と語っています。
そこに、エリ・ヴィーゼルというユダヤ人作家のエピソードが出てきます。ナチスの強制収容所でことで、それは悲惨な―――子どもが首吊りをさせられるような―――体験をします。そんな酷い現実を、人間はどうやって受け止めるか。それには、こういう背景があって、こういうロジックがあって……といった形にしないと、とてもじゃないが受け入れられなかった。
同様に、現実で苦しいことや理不尽なことに直面したとき、そのままの形では受け入れ難い。そのとき、背景や理由がこうだからといった、自分自身を納得させるために、物語としてのフォーマットが必要なのでは。ポジティブな解決には至らないけれど、とにかく現実を理解させるために物語という形式がある。
Dain:それ、映画『ライフ・イズ・ビューティフル』を思い出しました。ユダヤ人の親子が強制収容所に連れていかれる話。収容所でなんでこんな恰好をさせられるのか、なんで自由に出歩けないのか、という子どもの疑問に、お父さんは嘘をつく「これはゲームなんだ、遊びなんだ」と。その嘘―――というか物語を貫き通そうとする。ガス室に送られて死ぬかもしれないという悲惨な現実を、「ゲーム」という物語で子どもに理解させようとする。
2. 現実の問題をずらして「面白い」を作る
スケザネ:さっきのラーメンじゃないけど、うまいラーメンと、そうでないラーメンがあるように、面白い物語と、そうでない物語がある。じゃぁ、その「面白い」というのはラーメンみたいに作れるのかな。
Dain:「面白い」を作るのに、2つのアプローチがあると思う。一つは、素材やテーマとしての面白さ。生と死や、セックス、金、健康といった定番のもの。『SAVE THE CAT の法則』では、「原始人でも分かる、プリミティブな感情や欲求をテーマにすると、「面白い」を引き出せる。
もう一つは、素材やテーマの「やり方」のアプローチ。見た目や盛り付け、出す順番など、料理の仕方としての面白さがあると思う。そしてこれこが、『物語の力』の根幹になると思う。
スケザネ:とっかかりとして、現実の問題を少しずらす手法、これファンタジーでよくやるよね。テーマとしての面白さがあるけれど、現実をそのまま描けないときに、例えば「魚人族が差別されていました」(ワンピース?)のように。現実世界では、黒人差別に通底するところがある。あるいは、「取り返しのつかない大規模な爆弾」(コード・ギアス)だと、核爆弾を想起させるとか。
何もないところから作るのは難しい。だから、現実に起きている問題を、ファンタジックにするとどうなのだろう? という問いかけは、作り手としてする思考実験。
高等遊民:『ズートピア』とか典型かなぁ……
Dain:なにそれ気になる! ネタバレにならない程度に詳しく。
高等遊民:『ズートピア』……ウサギが主人公なんだけど、いろんな動物、草食動物も、肉食動物も、平和に和気あいあいとして暮らしているのが、ズートピアという世界。でも、根源的には草食動物は肉食動物を恐れているし、肉食動物は、どこかで自制している。教育の力で本能は自制されているけれど、狐はウサギを捕食する、だから狐に気をつけろ、といわれる。少数の肉食動物と、圧倒的多数の草食動物で、ズートピアの頂点にいるのは百獣の王ライオンの市長になる。で、副市長は女性で羊。
スケザネ:アメリカっぽいな。
高等遊民:そう、マジョリティとマイノリティ、有色人と白人という構造。これはまさにアメリカ社会をモデルとしているんじゃないか。数が少ないけれど、圧倒的な力を持ち、最初から支配的な立場だった、一部のエリートをうまく描いている。これ、傑作じゃないかな。
Dain:ありがとうございます、観ます!
スケザネ:観てない方は『ライフイズビューティフル』と『ズートピア』を……
Dain:観ろと。
タケハル:さっきの「物語のテーマ」の話を伺ってて、漱石の『文学評論』で似たようなのを思い出した。ウィットとユーモアの違いというやつ。お金とかセックスとか、文化の違いに関係なく味わえる笑いがユーモアになる。そして、もうちょっと知識が必要で、スウィフトの話が出てくる
……あるところに三人の兄弟がいた。長男は父親から衣鉢を譲り受けてもらった。次男と長男は仲が悪くて、三男は、離れたところで暮らしてて、お父さんの言うことを守っている……
これだけ聞くと、なんのことか分からないけれど、結局、キリスト教の風刺になる。長男は「カトリック」、次男が「プロテスタント」、そして三男は「ギリシャ正教」になる。
Dain:なるほどー!
スケザネ:wwww
タケハル:バックグラウンドを知っていないと、面白さが伝わらない。でも、知っていると、面白い。これがウィット。カトリックとプロテスタントって仲悪いよねって、直接言われると、話にも何にもならないけれど、今の三兄弟の話にすると、違う感覚で現実を見ることができる。
Dain:面白い! 三兄弟の話のとき、「キリスト教」のキーワードが出る前に頭に浮かんだのが、三匹の子豚の話。イソップも何かを寓意しているはずなので、ちょっと調べます!
スケザネ:私は「ユダヤ」「キリスト」「イスラム」を思い出しましたね。
タケハル:これ、バックグラウンドを明かさないと、各人で勝手に連想がつながっていくよね。面白い。
スケザネ:作るときって、「これ寓意してやろう」と考えたりします?
タケハル:僕はあんまりやらない、ル=グインやトールキンの影響を受けていて、彼らは寓話は嫌いなんです。寓話だと、結局それが言いたかったので、で終わっちゃう。
スケザネ:自分は結構どこかで考えながら作っちゃう。無のところからではなく、「寓意とは」というところからでもなく、これをどうやって換骨奪胎しようかな、という発想はよくしますね。
タケハル:それはありますね。最初は身近な事件とかをきっかけにするのはあるけれど、それを転がしていくうちに、そもそもスタート時点がどうだったかは気にならなくなる。
スケザネ:寓意というテーマだと、寓意が徹底された時代がありましたね。中世の『薔薇物語』とかダンテの『神曲』とか。愛情くんと勇気くんが手に手を取って、憎しみくんを倒します的な……
Dain:まさにアンパンマンwww
タケハル:インサイド・ヘッドwww
スケザネ:そうそう、『インサイド・ヘッド』みたいな。いまもアンパンマンのオープニングとか聞くと、「ああ、ダンテだな」なんて思うwww これ、キリスト教とか宗教につながっているのかも。宗教がプリミティブな形であったところに寓意、アレゴリーがあったのでは。
3. スタイルと物語を分けられるか
タケハル:『物語の力』だと、内容と表現に分けて分析してゆく。この二分法だと、小林秀雄的には、こんなに簡単に分けられるかよ、ということになるのでは。つまり、言いたいことと表現方法は不可分になるのではないか。たとえば、
古池や蛙飛びこむ水の音
と、「古い池にカエルが飛びこんでポシャンといいました」は、別のもの。言いたいことと表現方法について、プラトンは分けるかもしれない。分けないと、そもそも考える事すらできないので、手段として分けようとするのは分かるのだけど。
Dain:スタイルの話だと思いました。物語を語る表現(文体や演出)と、その物語の内容そのものは不可分で、スタイルと書き手が不可分なものと一緒で、分けることがナンセンス……というのが小林秀雄の考えなのかな? ただ、スタイルと物語を分けずにやろうとすると、研究すらできないかも。
まるる:表現と形式の話、ロシア・フォルマリズムとかで言われている気がします。(チャット欄より)
スケザネ:たしかに! 1910~20年頃に、ロシアの作家でシクロフスキーという人が、まさに表現と形式についてそのものずばりの論文を書いてましたね。あと、プロップとかソシュールとか、レヴィ=ストロースとか、言語学を用いて研究していましたね。言語学といっても比較言語学で、どういう歴史をたどって、その言語が成立したかがテーマとなっている。言語学というものと手法が結びついていって、物語を分解していくとどうなるんだろう? というムーブメントが始まったのが、その辺りからになる。
小林秀雄で言うなら、岡潔との『人間の建設』に出てくる、素読教育の必要の話になる。江戸時代の寺子屋でやってた、そのまま音読して覚えるやつ。先生が、「師曰く」と言ったら、生徒も「師曰く」と復唱する。これが大事なんだと小林秀雄は言った。
なぜかというと、解釈なんて脆弱だから。解釈はつねに変化にする。論語で言うなら、朱子学が出てきたり、陽明学が時代によって出てくる。そこで、何が変わっていないかというと、「ことば」の本文そのもの。それを、小林秀雄は「すがた」と呼んだ。論語とか万葉集とか俳諧とか、「すがた」だと、それは動かせず、それに親しませる素読教育が重要なのだと。
「すがた」には、文体も意味も、混然一体となって凝縮されている。
Dain:『人間の建設』読みます!
スケザネ:とはいっても、作る側からすると別で、文体をどうするかと、ストーリーテリングをどうするかは、分けて修行しています。
Dain:自分は小林秀雄の反対側の立場にいる。意味と一体化したスタイルを苔にするつもりはないけれど、「おもしろい」を再生産するにあたり、その人にしかできない、書けない、演出ができない、となると大変。
「宮崎駿監督」となると、皆うわーとなるけれど、あの人にしかできないとなると、作品は限られてくる。宮崎駿がいなくても、スタジオジブリならできると言った時、じゃぁジブリにあるものは何だろうか? この問いについて「、『物語の力』の中で説明できるのではないか。
物語を書き手の人格と一体化しちゃうと、それ以上のものはできなくなる。来週、ズートピア2の脚本のレビュー、どうすればいい? という商業的な問いにどうやって答えるか。ハリウッドで商業的に物語を創る人、シナリオや小説を書く人の手法を抜き出す必要がある。
4. ルフィの目はなぜ点なのか
タケハル:理想もある一方、現実問題としてもある。これ、『ワンピース』のルフィの目がなぜ点なのか、という話。あれは、たまたまなっているわけではなくて、他のキャラ、例えばナミは点じゃない。ルフィの目が点なのは、ちゃんと理由がある。尾田栄一郎が色々な漫画を研究して、あえて主人公の目を点にした。井上雄彦は勇気あると凄く誉めていて、目に表情があったほうが感情を乗せやすいんだけど、主人公にそれを持たせない。
そこには、商業的な発想もあって他のキャラクターと被らせないためだったり、覚えられるためにそうしている。手法論をカットしすぎてしまうと、(こういう発想は出ないので)現代においてはキツいかもしれない。まだ見つかっていないところを探す努力をしていかないと。
Mr.深煎り : 『キングダム』も主人公の目の大きさを変えて売り上げが伸びたとか何かで聞いた気がします(チャット欄より)。
タケハル:キングダム! あったね。確か、最初のころ、キングダムの人気がいまいちで、原泰久が井上雄彦にアドバイスを求めに行ったら、「話は面白いので、目をもう少し大きくしろ」と言われ、その通りにしたら大ヒットした。
スケザネ:一人で作るものと集団でつくるものの違いになるのかも。『ピクサー流 創造するちから』を思い出したんだけど、ピクサーは集団で物語をつくる。会議の中で物語を揉んでいって、ブラッシュアップしていく、新海誠や宮崎駿とは対極にあるやりかたをしている。作家と編集者が共同してやっていくのにも似てるんだけど、どこまで一人でやるのかは、難しい。その人らしさ、そのタイトルらしさは、常に考えている問題だと思う。
日本の能とか伝統芸能とかは、そういう流れですね。新作落語とか、先人の積み重ねてきた、共同体が作り上げてきた芸術に身を投ずる。世阿弥の風姿花伝で似たような話もあった。
Dain:今ので、『アルブキウス』にあるローマの脚本家の話を思い出した。あの時代は演劇なんだけれど、ストーリーは決まっている。僕らでいうなら、カチカチ山とか。ストーリーは分かっていて、それをどう演出するかが作家の腕の見せ所になる。妻を寝取られた男の話とか、みんな知っている話を、その作家ならではのお話にする。同じ話でも、作家によって異本が出てくる。そういうものが積み重ねられた結果、ぼくらが「ギリシャ悲劇」というカノンになっているのかも。パスカル・キニャールという人が書いているんですけど、お勧めです。
スケザネ:キニャール! 読みます。
高等遊民:『塩一トンの読書』に『アルブキウス』取り上げられてるぜ。
Dain:そうそう、『塩一トンの読書』で須賀敦子が手放しで誉めてたから、そこから『アルブキウス』読んだ。今日の話はつながってますね。
5. 主人公が酷い目に遭うのが面白い物語?
スケザネ:これまで、「物語とは何か」という根源的な話をしてきたんだけど、ここからは少し具体的に踏み込んで、じゃぁどういった物語の展開だと面白くなるの? という話をしていきましょう。
Dain:いいですね! 『物語の力』で王道として挙げられているのが、「回復と獲得の物語」というやつですね。主人公は何かを失っていて、それを回復ないし獲得することが、物語になるやつ。『物語の力』では、『インディペンデンス・デイ』や『のだめカンタービレ』あたりが例として挙げられてた。
大塚英志の『キャラクター小説の作り方』だと、主人公が大切にしているものを、物語の序盤で奪いなさい。そうすると、主人公は失ったものを探し始めるから……とアドバイスしてますね。親とか兄弟とか恋人とか故郷とか、ありがちなのが「記憶」ですね。
そして、失われたものが大きければ大きいほど、言い換えるなら、主人公が酷い境遇に陥れれば入れるほど、得られたときの達成感が大きい。同時に、読み手の方も共感しやすい。だから、物語の序盤では、できるだけ主人公を酷い目に遭わせろというのがセオリー。
あと、回復と獲得の物語は、「ピークエンドの法則」にしやすいですね。その体験が面白かったかどうか、後から振り返ったとき、一番盛り上がる「ピーク」とラストの「エンド」によって全体の印象が決まってしまう。
たとえば、ジェットコースターに乗るために行列に並んだとする。すごい行列で一時間も待って大変だったけれど、最後にジェットコースターに乗って、めっちゃ興奮して絶叫した、凄かった! というとき。ジェットコースターに乗っているのが、たとえ3分だったとしても、一時間のことは忘れて、最後の思い出(ラスト)と最高の思い出(ピーク)が合わさって、「良かった」になる。物語のラストを盛り上げるのはこれ。
スケザネ:回復と獲得の物語は、確かに物語の王道ですね。例えば、ホメロス『オデュッセイア』も、最初に漂流してしまい、遠く離れた故郷へ帰還する物語だし、ダンテ『神曲』だって、「いま私はどこにいるのだろう?」という喪失から始まっている。
そして、獲得のところも、一気に獲得するのではなく、ちょっと獲得するのが大事。「初期状態→手段・方法→帰結状態(目的状態)→次の初期状態→…」の連続で説明します。
物語を分解していって、最小の単位にすると、まず最初の状態(初期状態)がある。そこで、何かが起きる(手段・方法)。それにより、何かが変わる(帰結状態)。その結果が次の前提(次の初期状態)をもたらし、次の行動につながる。その行動は何らかの結果を生み、さらに次の前提をもたらすことになる……こんな感じで、「初期状態→手段・方法→帰結状態(目的状態)→次の初期状態→…」 を繰り返しながら、行動によって新しい次の前提が生まれるように仕組むと、物語が有機的につながっていく。
なので、最初に何かを失って、最後に獲得する途中にも、ちょっと獲得する。たとえば、取り戻す途中で仲間ができる、その仲間が「あそこへ行こうぜ」と言い出して、そこへ行ってアイテムを手に入れるとか。それが次の前提になって、何か行動を起こす……こんな風に、物語を作る方は波を考える。
タケハル:アクションが連続していく、というの言われてるよね。演劇とか映画でもそうだし、映画だと特に、「アクションがどんどんキツくなる」のがある。序盤のハードルよりも、次のハードルの方がキツくなる。最後のやつが一番キツい。それが作る方としては大変なんですよね。
スケザネ:分かるッ!
タケハル:序盤でこんな酷いことやらかしたら、まだあるの? となる。ありがちなのが、120分の話を作ってて、作り始めたときに、「これは凄くキツいハードルだ!」というアイデアを思いついたら、それを最後に持っていく……このやり方は失敗する。一番キツい100%のやつを最後にしちゃって、それより弱い50%のやつ、さらに弱い30%のやつを逆算して考えると、お客さんにバレちゃう。なぜかお客さん分かっちゃう。
そうじゃなく、最初に思いついた100%キツいやつは、一番最初に持っていく。そこでもっとキツい120%を考えて、さらにキツい150%を考えて、最後は200%ぐらいにしないと。
スケザネ:〇ィ〇〇ー〇ーの「〇〇〇〇ッ〇の冒険」というアトラクションを思い出した。船に乗って周遊して、人形がワーワーやっているのを見ていくんだけど、大きく3つぐらいのシーンがあって、しょっぱなで、盗賊の軍団を倒すんですよ。やったーとかすごい盛り上がるんだけど、その後、ダチョウの卵を盗む話とかショボくなるんですよ。で、ずっとショボいまま。
Dain:あかんやんwww
タケハル:逆に見たくなったwww
スケザネ:逆算して20%にしちゃうとあかんよ、という例。
Dain:いかにして主人公を酷い目に遭わせるかってことですね。
タケハル:しかも、次々と遭わせるかが大事。
スケザネ:それ、黒澤明って上手いですよね。一個解決したかと思ったら次にまた問題が生まれてとか、『七人の侍』なんて本当に見事で。村が盗賊に襲われるから、侍を探そうというんだけど、この侍探しが難航するんですよね。一人目から舐めんなとか言われて、やっと見つかった! と思ったら金が足りないとかになって……それでもなんとか集まって、村へ戻ったら戻ったで、「侍怖い!」とかになって、村人たちが出てこないんですよ。そういう連続が本当に上手いんですよね。
Dain:観ます、もう一度。映画を観ることが「体験」だったと言える、稀有の作品です。『ゴースト・オブ・ツシマ』をクリアしたからには観ないではいられない。
スケザネ:ですね、黒澤モードがあるくらいだし。
タケハル:黒澤モード?
スケザネ:画面の設定で白黒にできるんですよ、しかも荒めの白黒で、ノイズみたいなものが入るんです。
Dain:いずれにせよ、ツシマにハマったら『七人の侍』は必見やね。それに比べてラスアス2は……(以降、グチが続く)
6. 『デスノート』と『マクベス』に共通する仕掛け
スケザネ:ここからは、どうやって読み手を物語世界の中に巻き込むかについて、お話しましょう。『物語の力』では、『デスノート』が紹介されていますが……
Dain:はい、『デスノート』……ネタバレにならないように話しますね。第一部になる、「ライト対エル」の対決のあたりです。死神のノートを拾って、悪人を殺していくライトと、それを追い詰めるエルの物語。
久しぶりに読み返して面白いなーと思ったのは、ライトもエルも「正義」という言葉を使っているんですよね。どちらも「正しい」と思ってやっている。
ライトの正義:「社会を良くするために殺す」正義
エルの正義:「どんな悪人でも裁きが必要」正義
そして、読者は読者で、自分の考えを持っているはず。ライトに共感している人もいれば、エル派もいる。あるいは、ぜんぜん別の考えだってある。
この物語では、ライトの立場から描かれるときと、エルの立場から描かれるときと分かれており、それぞれの立場に寄り添って(焦点化)して描写される。
物語がライトに焦点化し、ライトの視点・思考・感覚に寄り添って描かれるとき、読者はライトの立場からしか物語を知ることができず、(読み手の主義主張に関係なく)ライトの思考や感情に寄り添って読むほかない。
いっぽう、物語がエルに焦点化したとき、同様にエルの立場からしか物語世界を知ることができず、否が応でもエル目線で世界を理解する。『物語の力』では内的焦点化と呼んでいる。
こんな風に、ライト、エル、ライト、エル……と入れ替わるたびに、読み手は、それぞれの思考や感情を通じて物語世界に触れていくうちに、いつしか、現実の自分の思考から遠く離れて、物語世界の中にどっぷりと浸かっている……という仕掛け。同じ「正義」という言葉で異なる価値観をぶつけ合わせる時、内的焦点化を上手く使って、物語世界へ導いている。
スケザネ:焦点化の使い方では、第二のキラが出てくるあたりで印象的でしたね。人がどんどん死んでいって、警察やマスコミがてんやわんわしているのに、ずっとエル視点で物語が進んでいるところ。ライトがどこにいて何を見ているのか、一切情報がないまま読み手をモヤモヤさせる。これは焦点化の使い方が上手い。
Dain:ライトどこにいるんだ! と、読者としては、一番知りたいことが伏せられてて物語が進んでいく状態ですね。
タケハル:『デスノート』で面白いのは、ライトとエルを、単純にライバルにしているだけではなくって、対立概念の捻じれを引き起こしているところ。みんなデスノート知っているから想像しにくいかもしれないけれど、例えば、タイムマシンで昔に戻って、ライトとエルを並べて、どっちが犯人で、どっちが探偵ですかと尋ねたら、たいていの人はエルが犯人だと言うはず。
ライト自身も、いきなり悪人だったわけではない。ヴィジュアル的には、ライト=探偵の顔、エル=犯人の顔だし、ライトは真面目な学生、エルは食べ方や姿勢で奇行をとる。単純に、どっちが良いか悪いかにさせていないところが面白い。
「悪人なら殺してもいい」と突っ走っちゃうとヤバいやつなので、ライトを端正な顔にしてる。それこそエルを品行方正な探偵のビジュアルにしちゃうと、読者は「早くライトを捕まえろ、エルがんばれ」になっちゃう。そうさせずに、エルを悪人顔にしたり、ライトを記憶喪失にしたりして、読者を揺さぶっている。確かにライトは悪い奴なんだけど、読み手に簡単に決めさせないようにしている。
これ、演劇でいうなら『マクベス』ですね。マクベスは、王様を始め人を殺すし、やりたい放題やっていて、行動だけ見たら感情移入できない。だけど観客が感情移入できるのは、マクベスは殺した後、悩むんですね。良いのか悪いのかだとか、なんでこんなことをしてしまったのだろうとか。すると観客は、本当はこいつは、本当は殺りたいわけじゃないのかもみたいな、同情が入る。普通に考えたらおかしいんだけど、そう思わせないような工夫みたいなもの。シェイクスピアはかなり剛腕に、良心を持った殺人者を作り上げている。矛盾している所があると、現実は生きるようになってくる……「惑わし」がかかる。
スケザネ:確かに、言われてみれば捻じれてますね……すごく分かりやすい……どっちかにさせないようにしている。
タケハル:デスノートがすごいのは、そういうキャラクターをライトとエルの2人も作ったところですね。
第2回は、『ズートピア』を俎上に、物語を探求します。
聴講を希望される方は、ネオ高等遊民サークルの読書会からどうぞ。
コメント