面白い物語の「面白さ」はどこから来るのか? 「物語の探求」読書会
面白い小説・マンガ・映画・ゲームに没頭しているときは分からない。だが、お話が終わった後、あらためて、なぜそれを面白いと思ったのかは、気になる。
- その物語の「面白さ」はどこから来たのか
- 誰にでもウケるのか(「面白さ」は一般化できるのか)
- 「面白さ」は再現できるのか
そんな疑問を抱えていたら、面白い読書会があったので、参加してきた。
「物語の探求」読書会(ネオ高等遊民サークル)
小説、漫画、映画、舞台、ゲームなどジャンルの垣根を越えて、「物語」について考えるオンライン読書会。たとえば、「ラストで感動させる仕掛けはどう使われているか」「物語世界に巻き込む外的焦点化とは何か?」など、物語を創る側の視点から考える。
第1回の課題本
『物語の力 物語の内容分析と表現分析』
高田明典、竹野真帆、津久井めぐみ(大学教育出版)
目次
- 物語の役割は、現実と折り合いをつけること
- 現実の問題をずらして「面白い」を作る
- スタイルと物語を分けられるか
- ルフィの目はなぜ点なのか
- 主人公が酷い目に遭うのが面白い物語?
- 『デスノート』と『マクベス』に共通する仕掛け
1. 物語の役割は、現実と折り合いをつけること
『物語の力』は、小説やマンガ、映画やゲームにある「物語」に焦点を当てる。前半の基礎編で「表現の分析」と「内容の分析」の双方から解説し、後半の応用編で『進撃の巨人』や『ポケモンGO』『君の名は。』等の具体的な作品の中にある「物語の力」を分析する。
まず、『物語の力』を読んだときの第一印象より。
たとえば、「良い」「悪い」という判断基準や、食物や安全な場所、毒や敵といった危険なものなどを伝える役割。祭りとか物忌みを伝えるシャーマンや神話の「物語」として生き残っているんじゃないかな。ジョーゼフ・キャンベル『神話の力』や『千の顔を持つ英雄』にある、原始的な物語です。
そういう価値観を伝えるうちに、伝える形式として「はじめ・なか・おわり」みたいなものが作り上げられていったんじゃないかと。
「どうやって小説を書くのか?」と問われたとき、ル=グウィンがこう答えたそうです―――「小説について知りたかったら、学者に聞け」と。なんでこんな答えなのか。小説は海みたいなもの。海について聞きたければ、海洋学者に聞くほうが、話が早い。『夜の言葉』では、こう記されています。
「海自身のもとへ行ってたずねたとしたら、海はなんと言うでしょうか。ただ轟き、寄せる音ばかり。海は海であることに忙しすぎて、自分のことについてなにかを知る暇などないのです」
物語を作る時は、海に「なる」ので、自分自身が見えない。海を研究するのは「自分」対「海」という構図であり、自我が保たれている。海に「なる」のは神がかり、もしくはある種の狂気を意味する。
これ、モームも似たようなことを言ってます。ある研究者がいたのですが、彼は文学を研究してはいるものの、「小説を読むのは楽しい」なんて一言もいわなかったとか。でもわたしたちが読むのは、出来事が「はじめ・なか・おわり」の形に並べられたものが好きだからじゃないかと。
うまいラーメンとまずいラーメンの差はあるけれど、ラーメンそのものを食べるのは、好きだからとしか言いようのないのと同じく、物語を楽しむのは好きだからだと思う。
僕らがチーズケーキを好きなのは、糖とか油がたっぷり入っているからで、これらは生きるのに不可欠な栄養素だ。チーズケーキばかりずっと食べ続けるのは、(太っちゃうから)適応的じゃないけれど、糖や油を「美味しい」と感じて好むのは、適応で説明がつく。
同じように、僕らが物語を好むのは、何らかの要素が適応的に働いて、その結果、物語を「面白い」と感じるのではないかと(ちょうど、ラーメンやチーズケーキを「美味しい」と感じるように)。
そして、僕らが物語を好むように適応的に働いている要素は、「変化に気づく」じゃないかなと思う。変化も事件も一切ない物語を味気ない。けれど、日常の中に変化が起きる物語は楽しい。それは、パターン化された現実で変化を見付ける―――背景に隠れた天敵だとか、木の実だとか―――ことに敏感な方が、適応的だからじゃないかと。
『物語の力』では、物語の訴求力として「有効な解決策」とか「有効な筋道」といったポジティブな意味で用いられていましたが、『物語の役割』では、それとはちょっと違う筋道です。
そこでは彼女は物語の役割を、「受け入れがたい現実を、物語の形に構成しなおして、受け入れるのだ」と語っています。
そこに、エリ・ヴィーゼルというユダヤ人作家のエピソードが出てきます。ナチスの強制収容所でことで、それは悲惨な―――子どもが首吊りをさせられるような―――体験をします。そんな酷い現実を、人間はどうやって受け止めるか。それには、こういう背景があって、こういうロジックがあって……といった形にしないと、とてもじゃないが受け入れられなかった。
同様に、現実で苦しいことや理不尽なことに直面したとき、そのままの形では受け入れ難い。そのとき、背景や理由がこうだからといった、自分自身を納得させるために、物語としてのフォーマットが必要なのでは。ポジティブな解決には至らないけれど、とにかく現実を理解させるために物語という形式がある。
2. 現実の問題をずらして「面白い」を作る
もう一つは、素材やテーマの「やり方」のアプローチ。見た目や盛り付け、出す順番など、料理の仕方としての面白さがあると思う。そしてこれこが、『物語の力』の根幹になると思う。
何もないところから作るのは難しい。だから、現実に起きている問題を、ファンタジックにするとどうなのだろう? という問いかけは、作り手としてする思考実験。
Dain:観ろと。
……あるところに三人の兄弟がいた。長男は父親から衣鉢を譲り受けてもらった。次男と長男は仲が悪くて、三男は、離れたところで暮らしてて、お父さんの言うことを守っている……
これだけ聞くと、なんのことか分からないけれど、結局、キリスト教の風刺になる。長男は「カトリック」、次男が「プロテスタント」、そして三男は「ギリシャ正教」になる。
タケハル:これ、バックグラウンドを明かさないと、各人で勝手に連想がつながっていくよね。面白い。
3. スタイルと物語を分けられるか
古池や蛙飛びこむ水の音
と、「古い池にカエルが飛びこんでポシャンといいました」は、別のもの。言いたいことと表現方法について、プラトンは分けるかもしれない。分けないと、そもそも考える事すらできないので、手段として分けようとするのは分かるのだけど。
小林秀雄で言うなら、岡潔との『人間の建設』に出てくる、素読教育の必要の話になる。江戸時代の寺子屋でやってた、そのまま音読して覚えるやつ。先生が、「師曰く」と言ったら、生徒も「師曰く」と復唱する。これが大事なんだと小林秀雄は言った。
なぜかというと、解釈なんて脆弱だから。解釈はつねに変化にする。論語で言うなら、朱子学が出てきたり、陽明学が時代によって出てくる。そこで、何が変わっていないかというと、「ことば」の本文そのもの。それを、小林秀雄は「すがた」と呼んだ。論語とか万葉集とか俳諧とか、「すがた」だと、それは動かせず、それに親しませる素読教育が重要なのだと。
「すがた」には、文体も意味も、混然一体となって凝縮されている。
「宮崎駿監督」となると、皆うわーとなるけれど、あの人にしかできないとなると、作品は限られてくる。宮崎駿がいなくても、スタジオジブリならできると言った時、じゃぁジブリにあるものは何だろうか? この問いについて「、『物語の力』の中で説明できるのではないか。
物語を書き手の人格と一体化しちゃうと、それ以上のものはできなくなる。来週、ズートピア2の脚本のレビュー、どうすればいい? という商業的な問いにどうやって答えるか。ハリウッドで商業的に物語を創る人、シナリオや小説を書く人の手法を抜き出す必要がある。
4. ルフィの目はなぜ点なのか
そこには、商業的な発想もあって他のキャラクターと被らせないためだったり、覚えられるためにそうしている。手法論をカットしすぎてしまうと、(こういう発想は出ないので)現代においてはキツいかもしれない。まだ見つかっていないところを探す努力をしていかないと。
日本の能とか伝統芸能とかは、そういう流れですね。新作落語とか、先人の積み重ねてきた、共同体が作り上げてきた芸術に身を投ずる。世阿弥の風姿花伝で似たような話もあった。
5. 主人公が酷い目に遭うのが面白い物語?
大塚英志の『キャラクター小説の作り方』だと、主人公が大切にしているものを、物語の序盤で奪いなさい。そうすると、主人公は失ったものを探し始めるから……とアドバイスしてますね。親とか兄弟とか恋人とか故郷とか、ありがちなのが「記憶」ですね。
そして、失われたものが大きければ大きいほど、言い換えるなら、主人公が酷い境遇に陥れれば入れるほど、得られたときの達成感が大きい。同時に、読み手の方も共感しやすい。だから、物語の序盤では、できるだけ主人公を酷い目に遭わせろというのがセオリー。
あと、回復と獲得の物語は、「ピークエンドの法則」にしやすいですね。その体験が面白かったかどうか、後から振り返ったとき、一番盛り上がる「ピーク」とラストの「エンド」によって全体の印象が決まってしまう。
たとえば、ジェットコースターに乗るために行列に並んだとする。すごい行列で一時間も待って大変だったけれど、最後にジェットコースターに乗って、めっちゃ興奮して絶叫した、凄かった! というとき。ジェットコースターに乗っているのが、たとえ3分だったとしても、一時間のことは忘れて、最後の思い出(ラスト)と最高の思い出(ピーク)が合わさって、「良かった」になる。物語のラストを盛り上げるのはこれ。
そして、獲得のところも、一気に獲得するのではなく、ちょっと獲得するのが大事。「初期状態→手段・方法→帰結状態(目的状態)→次の初期状態→…」の連続で説明します。
物語を分解していって、最小の単位にすると、まず最初の状態(初期状態)がある。そこで、何かが起きる(手段・方法)。それにより、何かが変わる(帰結状態)。その結果が次の前提(次の初期状態)をもたらし、次の行動につながる。その行動は何らかの結果を生み、さらに次の前提をもたらすことになる……こんな感じで、「初期状態→手段・方法→帰結状態(目的状態)→次の初期状態→…」 を繰り返しながら、行動によって新しい次の前提が生まれるように仕組むと、物語が有機的につながっていく。
なので、最初に何かを失って、最後に獲得する途中にも、ちょっと獲得する。たとえば、取り戻す途中で仲間ができる、その仲間が「あそこへ行こうぜ」と言い出して、そこへ行ってアイテムを手に入れるとか。それが次の前提になって、何か行動を起こす……こんな風に、物語を作る方は波を考える。
そうじゃなく、最初に思いついた100%キツいやつは、一番最初に持っていく。そこでもっとキツい120%を考えて、さらにキツい150%を考えて、最後は200%ぐらいにしないと。
6. 『デスノート』と『マクベス』に共通する仕掛け
久しぶりに読み返して面白いなーと思ったのは、ライトもエルも「正義」という言葉を使っているんですよね。どちらも「正しい」と思ってやっている。
ライトの正義:「社会を良くするために殺す」正義
エルの正義:「どんな悪人でも裁きが必要」正義
そして、読者は読者で、自分の考えを持っているはず。ライトに共感している人もいれば、エル派もいる。あるいは、ぜんぜん別の考えだってある。
この物語では、ライトの立場から描かれるときと、エルの立場から描かれるときと分かれており、それぞれの立場に寄り添って(焦点化)して描写される。
物語がライトに焦点化し、ライトの視点・思考・感覚に寄り添って描かれるとき、読者はライトの立場からしか物語を知ることができず、(読み手の主義主張に関係なく)ライトの思考や感情に寄り添って読むほかない。
いっぽう、物語がエルに焦点化したとき、同様にエルの立場からしか物語世界を知ることができず、否が応でもエル目線で世界を理解する。『物語の力』では内的焦点化と呼んでいる。
こんな風に、ライト、エル、ライト、エル……と入れ替わるたびに、読み手は、それぞれの思考や感情を通じて物語世界に触れていくうちに、いつしか、現実の自分の思考から遠く離れて、物語世界の中にどっぷりと浸かっている……という仕掛け。同じ「正義」という言葉で異なる価値観をぶつけ合わせる時、内的焦点化を上手く使って、物語世界へ導いている。
ライト自身も、いきなり悪人だったわけではない。ヴィジュアル的には、ライト=探偵の顔、エル=犯人の顔だし、ライトは真面目な学生、エルは食べ方や姿勢で奇行をとる。単純に、どっちが良いか悪いかにさせていないところが面白い。
「悪人なら殺してもいい」と突っ走っちゃうとヤバいやつなので、ライトを端正な顔にしてる。それこそエルを品行方正な探偵のビジュアルにしちゃうと、読者は「早くライトを捕まえろ、エルがんばれ」になっちゃう。そうさせずに、エルを悪人顔にしたり、ライトを記憶喪失にしたりして、読者を揺さぶっている。確かにライトは悪い奴なんだけど、読み手に簡単に決めさせないようにしている。
これ、演劇でいうなら『マクベス』ですね。マクベスは、王様を始め人を殺すし、やりたい放題やっていて、行動だけ見たら感情移入できない。だけど観客が感情移入できるのは、マクベスは殺した後、悩むんですね。良いのか悪いのかだとか、なんでこんなことをしてしまったのだろうとか。すると観客は、本当はこいつは、本当は殺りたいわけじゃないのかもみたいな、同情が入る。普通に考えたらおかしいんだけど、そう思わせないような工夫みたいなもの。シェイクスピアはかなり剛腕に、良心を持った殺人者を作り上げている。矛盾している所があると、現実は生きるようになってくる……「惑わし」がかかる。
第2回は、『ズートピア』を俎上に、物語を探求します。
聴講を希望される方は、ネオ高等遊民サークルの読書会からどうぞ。

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