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『独学大全』はこう使う

独学の達人である読書猿が書いた、独学の百科事典。「読書猿って誰?」という人がいたら、[読書猿Classic]を見に行くべし。

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787ページ、1kgは、ほぼ鈍器で、そこらの教養芸人を蹴散らすのにピッタリ。

だが、隅々まで読むのは時間がかかる。独学する人は何らかの「学びたいこと」を抱えており、それにまつわる様々な問題を解決したいが故に本書を手にするのだから、全読している時間が惜しいかもしれぬ。

そんな人のために本書の使い方を紹介するとともに、『独学大全』が、私をどのように変えたか、さらに、どのように使っていくかを書く。

  1. 『独学大全』で最初に読むところ
  2. 『独学大全』でどう変わるか
  3. 『独学大全』をこう使う

1. 『独学大全』で最初に読むところ

もちろん始めから読むのが一番だが、てっとり早く掴みたい、という方のために、p.33~39に「本書の構成と取説」がある。この6ページを読むだけで使い方が分かる……のだが、もっと切実な悩みを抱えている方もいるかもしれぬ。

  • どうやって調べればいいか分からない
  • 読むのが苦手
  • すぐ挫折して続かない
  • なんで学ぶのか分からなくなった
  • 頭が悪い ……等々

そんな具体的な悩みごとは、巻末の「独学困りごと索引」からダイレクトに引ける。

たとえば、私自身、自分の頭の悪さに腹が立つことがある。いくら読んでも分からなくて、もんもんとするか、開き直って飛ばしていたが、技法15「会読」が良いとある。要するに一冊の本をみんなで読むことだ。ゼミの輪読でおなじみだが、頭のいい人に巡り合える可能性は大いにある。

本書ではさらに踏み込んでくる。解釈が割れているところだったり、決着がつかない議論だったりする可能性もあるという。そこで、「分からないのは自分だけではない」ことを知ることが大事なんだという。

大事なのは「分からない」を自分で抱えるのではなく、表明することで外部に出す。極端な話、「みんな」がいなくったっても、一人でも会読できるとまで言う。一人で読んでレジュメを作り、「分からない」をまとめ、ネットに公開する。

誰か分からないけれど、誰かが見ているかもしれない事実が、継続を支えるという。この動機付けは強力で、「同じ書を読む人は遠くにいる」という言葉で伝えてくれる。わたしがブログを書き続ける理由も、まさにこれ。

2. 『独学大全』でどう変わるか

この「外部に出す」ことの重要性は、様々な形を変え紹介される。

たとえば、技法13「コミットメントレター」

今週の学習予定を書き出して、家族や友人に渡す。受け取った人がチェックする必要はないが、それだけで強い動機付けになるという。なんならSNSに公開してもいい。自分との約束は破りやすいが、それを見せることで、社会的な縛めにするするというのだ。

あるいは、技法12「ラーニングログ」

何をどれだけ学ぶかの目標を決め、それに向けてどれだけ進んだかを記録する。ページ数や章・節、学習単元という積み重ねを、手帳やクラウド上に、一覧できる形で記録する。そして、記録を見返すことで、目標と現在位置を把握せよというのだ。

なぜ外部に出すのか? それは、人は弱いからだ。

人間は弱い。すぐ三日坊主になる。「やらない理由」を見つけ出すのが上手い。他の方法に目移りする。おそらく、読書猿さん自身が、自分の意志の弱さを思い知り、それを何とかするために足掻いてきたのだろう(ご自身の生々しい記録が載っている)。

やろうとしていること、やってきたことを外に出す。「自分との約束」を誰かの視線にさらすことで、自分を律する。コミットメントレターとラーニングログは、実践していこう。ブログ+SNS+会読で、外に出すことを意識する。

3. 『独学大全』をこう使う

外に出すことは、「外部足場」というキーワードでも強調される。

ひと一人の頭のリソースは限られている。膨大な文献を取りまわすためには容量が足りない。だから、自分の中だけで完結するのではなく、自分の外側に考えるための足がかりを作る―――それが外部足場だ。

「外部足場」も、数多くの技法が紹介されているが、わたしは、技法28・29の「目次・引用マトリクス」を実践するぞ(宣言)。

目次・引用マトリクスとは、多くの文献・資料から情報を抽出し、整合的に結び合わせるため一覧表だ。具体的な方法は、本書の第10章か、[複数の文献を一望化し横断的読みを実装するコンテンツ・マトリクスという方法]が参考になる。

わたしは今まで、一つのテーマにつき、一つの文献を、一つずつ読んでいく方法だった。ある文献で引用される書名や、何度も目にする著者名は、次に読む一冊とはなりうるが、それもシーケンシャルなものだ。

しかし、文献はスタンドアローンではないという。

一冊の書物は、他の数多くの書物と、参照関係や影響関係を介して結びあわされているという。そうした文献同士を結ぶつながりを突き合わせ、縒り合わせる読書をしろと説く。ただし、それを頭の中だけでやろうとするのは骨なので、文献群を一望化するのだ。これは、実践するだけでなく、外に出す。

わたしが実践したいのは、認知科学の分野だ。人はどのように世界を認識し、それを知として受け継いでいるか。それは一般化(AIで代替)できるのかに興味がある。

では、この分野で外部足場を作るために適切なものは?

これまた沢山の技法やアプローチが紹介されているが、技法25「独学者最強の武器としての教科書」からやってみる。『有斐閣アルマ』シリーズが概要から専門までカバーされているとある(有斐閣アルマの『認知心理学』を買った)。さらに「教科書の使い方」まで懇切丁寧に紹介されているが、そこから「入門書として使う」「書誌として使う」を実践する。

―――こんな感じで、自分の「学びたいこと」を取っ掛かりに、様々な技法をピックアップしていく。効率よく進める技法を探しても良いし、スランプや迷った時に引いても良い。「そもそも何をすればよいか分からない」「何が分からないかが分からない」といったメタな悩みまでカバーしている。

あなたが何かを、学びたい、学ぼうとしているのであれば、具体的に何をすれば良いのか、どうすれば続けられるのかを、指し示してくれる。羅針盤のような一冊。

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物語のタネ本:ジョーゼフ・キャンベル『神話と女神』

『スター・ウォーズ』の物語構造は、ジョーゼフ・キャンベルの英雄伝説を元にしていることは有名だが、本書は、その女神版だ。つまり、『千の顔をもつ英雄』が古今東西の英雄譚から人の普遍的欲求を炙り出したことを、女神でやったのが『女神と神話』である。

『千の顔をもつ英雄』は、神話・伝承に共通する基本構造として、このダイアグラムが紹介される。いわゆる「行きて帰りし物語」やね。この構造は、時代や地域を超えた恒常性を持ち、それはすなわち、人の最深層に秘められた記録だという。

『千の顔をもつ英雄』第一部 第四章「鍵」より

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いっぽう、『神話と女神』では、「女神・男神」の対比構造で紹介する。遺物やシンボルから導かれる「農耕民の女神:遊牧民の男神」という歴史から、「産む女神:殺す男神」という視点をつくり、これに沿った形で神話・伝承を紹介していく。

この比較構造から、物語のシナリオについてのヒントや、本能に近い欲求を揺さぶるエピソードを、大量に摂取できる。いわばクリエイターの種本やね。

  • マリア・ギンブタスの新石器時代の古ヨーロッパ研究における女神
  • シュメールやエジプトの神話に登場する女神
  • ホメーロスの叙事詩『オデュッセイア』のエレウシスの秘義
  • 中世のアーサー王伝説
  • ルネサンス期の新プラトン主義に登場する女神

紹介される主な女神は上の通りだが、そこから派生して様々な神話が飛び出てくる(この”脱線”が面白すぎる)。シヴァやアマテラスといった有名どころや、非女神としての聖母マリア、ハイヌウェレ伝説など、それだけで物語を広げていくことだってできそうだ。

お尻から宝物をひり出す女神

たとえば、ハイヌウェレという少女の伝説。

彼女が大便をすると、出てくるのはウンコではなく、宝物が排出される。村人たちは気味悪がって、迷宮に誘いこんで踏み殺し、埋めてしまう。ところが、彼女の死体から様々な種類の芋や穀物が育ち、人々の主食になったという話だ。

これは、赤坂憲雄『性食考』[ハイヌウェレ型神話]で目にした物語の原型なのだが、キャンベルはそこからさらに探求を進め、キリスト教に結び付ける。

死は生の終わりではなく、死体は神格だという。そこから育った植物を食べる事で、わたしたちは神を食べていることになる。これがやがて、イエスの聖体の秘跡「これがわたしの体であり、これがわたしの血である」に引き継がれてゆくというのだ。

セックスの快楽は、男と女と、どちらが大きいか

あるいは、性の快楽は、男と女でどっちが大きいかについて。

痴話げんかの大御所であるゼウスとヘラで議論になり、互いに譲らなかったので、テイレシアスが呼ばれたという。なぜテイレシアスかというと、彼は昔、8年間だけ女だったからだ(この女体化のエピソードも滑稽なり)。呼ばれたテイレシアスは即答する。

「もちろん女です。9倍気持ちいい」

ここまでは、開高健のエッセイで知ってたが、続きがある。ヘラはこれを悪く取り、テイレシアスの目を見えなくさせてしまう。いっぽうゼウスは責任を感じてか、彼に予言の力を与える。

問題は、なぜヘラが気を悪くしたかである。

本書では、こう種明かしをしている―――女の方が気持ち良いことが分かってしまったからには、ゼウスに対して「あなたのために応じているのよ」と言えなくなってしまうから。

農耕民の女神・遊牧民の男神

本書は、こうしたエピソードを大量に紹介しつつ、女神をめぐる基本的な構造を明らかにしてゆく。それは、農耕民の神話では、女神と根源的に結びついているという。一方で、遊牧民の神話では、男神と結びついている。

女性の顕現として最も分かりやすいのは母なる大地になる。大地は命を産み、命を育む。ゆえに女性の力に通じるというのだ。

初期の狩猟採集の伝統では、食用の植物を採集するのは女であり、大型動物の狩猟は男が担う。そのため、男は殺すことに結びつき、女は命を生み出すことに結びつくというのである。

農耕民族、遊牧民族とキレイに分かれているわけではないが、どちらを主としているかによって、崇める神の性別が変わってくるという指摘は、たいへん興味深い。

神話学の第一人者による、女神の変容の歴史を探求する一冊。

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認知科学から見た、多くの人が論理的に考えない理由『類似と思考』

2つ問題がある。どちらの問題が、簡単だろうか?

問題は解いても解かなくてもいい。問われているのは、「どちらが簡単か」である。

問題1

ここに四枚のカードがある。

片面にはアルファベットが印刷されており、もう片面には数字が印刷されている。このカードは、「表が母音なら、裏は偶数」というルールに従って作られている。

いま、この四枚のカードが並べられている。これらが、前述のルールに従っているか調べるために、どのカードを裏返してみる必要があるか。

1枚目のカード  U
2枚目のカード  K
3枚目のカード  3
4枚目のカード  8

問題2

あなたは警察官だとする。

あなたは、無免許ドライバーを見つけようとしている。ある駐車場に行くと、車の近くに次の4人がいた。あなたは、どの人を調べるべきか。

1人目  車を運転しようとしている人
2人目  赤ちゃん
3人目  免許を持っている人
4人目  免許を持っていない人

この2つの問題は、本質的に同じだ。

しかし、もうお分かりのように、正答率は、圧倒的に2が高い。つまり、問題2が、(人間にとって)圧倒的に易しい。

問題1は論理学の「前件肯定」「後件否定」を使う。「PならばQ」のとき、「Pである」ならば「Qである」と導き、「Qでない」ならば「Pでない」と導く推論だ。「P=表が母音」、「Q=裏が偶数」を当てはめれば解ける。

問題2の「車を運転するなら、免許が必要」……このルールから、「車を運転する人」が、本当に免許を持っているかチェックする必要がある。また、「免許を持っていない人」は、車を運転していないよね、とチェックする必要がある。

面白いことに、問題1は、「前件肯定」「後件否定」を教えた直後であっても、正答率はたいして上らなかったという。一方、問題2は、論理学のルールを知らない人であっても、文脈から自然に解けてしまう。

人が推論するときは、論理学のルールを用いるのではなく、その文脈に沿って正解を導いているのではないか? と考えられる。

本当だろうか?

問題3

「刑務所に入るのであれば、犯罪を犯さなければならない」というルールが守られているか調べたい。次の4人の誰を調べるべきか。

1人目  刑務所に入っている人
2人目  赤ちゃん
3人目  犯罪を犯した人
4人目  犯罪を犯していない人

まず、1人目「刑務所に入っている人」が、犯罪を犯しているかを調べるのは分かる。

本当の問題はその次だ。

論理学で選ぶなら、4人目「犯罪を犯していない人」が、刑務所に入っていないかを調べるべきだろう。しかし、3人目を選んでしまう。つまり、「犯罪を犯した人」が、ちゃんと刑務所に入っている? と確認したくなる。どうやら、私たちは、文脈で正答に辿り着けるわけではないようだ。

これら3つの問題は、論理学的には同じだ。しかし、運転免許の話と刑務所の話は異なる。「車を運転する」はメリットだが、「刑務所に入る」はそうでない。「免許が必要」という条件は、メリットへの対価となっているが、「犯罪を犯す」は対価ではない。

つまり、問題の形式としては同じだが、何がメリットで、何が対価としてふさわしいかは、推論を行う人による。前提条件と行為さえあれば、自動的に正しい推論ができるというわけではないのだ。

人は、どのように思考しているのか

では、私たちは、どのように思考しているのか? これを認知科学の成果から深掘りしたのが、鈴木宏昭著『類似と思考』だ。

本書によると、私たちは、論理学的なルールを、個々の問題に当てはめて演繹的に解いているわけではない(むしろレアケース)。また、問題に行き当たる度に、メリットは本当に利得なのか、前提条件は対価として妥当かを、いちいち深く考えているわけではないという。

代わりに、過去の典型的なメリットー対価状況と、目の前の問題状況がどれほど似ているかを判断することで、面倒で、非現実的な処理をスキップしているというのだ。これにより、確率からするとあり得ない方に従ったり、文脈や状況だけから正しい判断を下したりする。

この、非常に人間くさい思考を「準抽象化による類推」として、その理論をまとめている。

「人の思考は、規則やルールに基づいておらず、類似を用いた思考(類推)を行っている」が本書の結論だが、そこへ至るまでに、文学や科学、政治やビジネスで行われる類推の事例を紹介している。さらに、他の理論と斬り結びながら自説をブラッシュアップしているところが面白い。

  • 多重制約理論:キース・ホリオーク、ポール・サガード
  • 構造写像理論:デドリー・ゲントナー
  • 概念メタファー説:ジョージ・レイコフ
  • p-prim理論:アンドレア・ディセッサ
  • 漸進的類推写像理論:マーク・キーン
  • Copycat:ダグラス・ホフスタッター

並べると、「人はどのように思考しているか」それは「一般化できるか(≒コンピュータに任せられるか)」さらに、「人がどのように世界を理解しているか」まで議論が拡張することになる。カーネマン『ファスト&スロー』やロスリング『ファクトフルネス』が好きなら、ハマることを請け合う。

「人はどのように思考しているか」について、現在の見取り図を与える一冊。

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「名もなき家事」の減らし方

掃除、炊事、洗濯……家事には名前があると思っているのはシロウト。世の中には、名前のない家事が沢山ある。たとえば昨日やったのはこれ。

  1. 水筒のパッキンやゴムを外して洗い、乾燥させ、組み立てた後に棚にしまう家事
  2. ペットボトルを分別するため、キャップを外し、水ですすぎ、輪っかを切断してラベルを剥がす家事
  3. 家じゅうのゴミ箱からゴミを収集・分別しゴミ袋にまとめ、適切なタイミングで収集場所へ運ぶ家事
  4. 飲み終えた紙パックを洗い、切り開き、乾燥させる家事
  5. 食材や缶詰の賞味期限を確認し、棚の配置を適切にソート(手前から奥へ昇順)した後、切れたものは中身と容器に分別し処分する家事
  6. 冷蔵庫の奥で変異しつつある物体Xを探索し、適切なタイミングで(翌日にゴミに出せる)処分する(ポリ袋で密閉し臭いを封じ込める)家事
  7. 保存容器のタッパーのフタと本体を正しく組み合わせる家事
  8. ダイレクトメールの個人情報を切り刻む家事
  9. お湯を沸かしてミネラル麦茶を作り、粗熱が取れたのを確認して冷蔵庫に格納する家事
  10. 食洗機で洗い終えた食器を棚に格納する家事
  11. 便座に散った家族の誰かの水滴(尿?水?)をふき取るついでに黄ばみもこすり落とす家事
  12. 掃除機のヘッドに絡みついた髪の毛をハサミで切断する家事
  13. 台所の排水溝の水切りネットを交換し、ぬめりと生ごみの臭いをハイターする家事
  14. レジ袋で閉鎖空間を作ってホコリを散らさないようにし、その中で掃除機の集塵袋を裏返してゴミをつまみ取る家事
  15. トイレットペーパー、ティッシュペーパーを取り替えたり補充する家事

要するに、「メンテナンス」に相当するタスク。家事とは生活空間を運営していくために必要な作業だから、いわゆる「掃除・炊事・洗濯」に留まらず、諸々のタスクが存在する。

ダイワハウスの「名もなき家事妖怪」によると、妻の負担が圧倒的に多いのだ(86.5%)。妻の「私はこんなにやってるのに!」「夫は全く気づかない!」という不満が伝わってくる。

象徴的なのが3.のゴミ出し。「家じゅうのゴミを分別しながら集める」タスクと、「ゴミ袋を集積所まで持っていく」タスクがある。大変なのは圧倒的に前者なのに、なぜか後者だけが「ゴミ出し」とさる。そして、ゴミを持っていくだけで「家事をしている」と夫が言おうものなら、妻の怒りにガソリンを注ぐことになる。

我が家では、圧倒的に私がやっているので、一般家庭と逆である。

しかし、もしも妻に尋ねるなら、この何倍もの「タスク」を言い立てて、「私はこんなにやってるのに!」と一触即発となるのは火を見るよりも明らか。我が家の平和を守るため、昔のサッポロビールよろしく「男は黙って」名もなき家事に勤しむ。

要するに、それを負担だと思うかどうか、という問題なのかもしれぬ。

この発想は大事で、「それを負担にしない」ように工夫することだってできる。

たとえば、昨日の「名もなき家事」を振り返ると、が工夫できそうだ。

<名もなき家事 No.2>

ペットボトルを分別するため、キャップを外し、水ですすぎ、輪っかを切断してラベルを剥がす家事

解決策:軽減

最も負担なのは、「輪っかを切断する」ところ。ペットボトルハサミを使うのだが、本体と輪っかのスキマがほとんどなく、無理に刃を入れようとして勢いあまって指をケガすることが何度もあった。

見方を変えて、「分別の際、輪っかを切断しなければならないのか?」と調べたところ……私の住んでる地域では、必要がないことが分かった。よし、輪っかはずすの止めよう。

<名もなき家事 No.7>

保存容器のタッパーのフタと本体を正しく組み合わせる家事

解決策:回避

「そもそもなぜフタと本体を組み合わせる必要があるのか?」と考えると、「様々な種類のタッパーがあるから」になる。贈答品やオマケでもらった容器を使い続ける限り、バラバラの規格になる。ここは一念発起して、規格を統一すればいい。

<名もなき家事 No.8>

ダイレクトメールの個人情報を切り刻む家事

解決策:転嫁・軽減

三つ考えた。「切り刻む必要ある?」→「要するに見れないようにすればいい」という発想から、スタンプローラーで上書きする(Amazonで「個人情報」「スタンプ」で出てくる)。

「そもそもDMが来なければいい」→「受け取りを拒否しよう」として、日本郵便の「郵便トラブルQ&A」や、ヤマト運輸の「よくあるご質問」を参考にやってみる。

「捨てる行為にお金を出す」→切り刻もうと、スタンプしようと、ゴミは出る。「ゴミ処理は無料」という発想を止め、「有料だけど簡単に捨てられる」と考える。ヤマト運輸で「機密文書リサイクルサービス」があるが、法人向けらしい。個人向けを探してみよう。

軽減、回避、転嫁……と、要するにリスクマネジメントを適用したわけだが、名もなき家事を、家事にすらしない(させない)アイデアは、いくつかありそうだ。「家事」「ライフハック」「裏技」で検索すると、参考になりそう。

家庭内平和維持軍からの報告は、以上です。

Gomi_arau

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面白い物語の「面白さ」はどこから来るのか? 「物語の探求」読書会

面白い小説・マンガ・映画・ゲームに没頭しているときは分からない。だが、お話が終わった後、あらためて、なぜそれを面白いと思ったのかは、気になる。

  • その物語の「面白さ」はどこから来たのか
  • 誰にでもウケるのか(「面白さ」は一般化できるのか)
  • 「面白さ」は再現できるのか

そんな疑問を抱えていたら、面白い読書会があったので、参加してきた。

「物語の探求」読書会(ネオ高等遊民サークル

小説、漫画、映画、舞台、ゲームなどジャンルの垣根を越えて、「物語」について考えるオンライン読書会。たとえば、「ラストで感動させる仕掛けはどう使われているか」「物語世界に巻き込む外的焦点化とは何か?」など、物語を創る側の視点から考える。

第1回の課題本

『物語の力 物語の内容分析と表現分析』
高田明典、竹野真帆、津久井めぐみ(大学教育出版)

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目次

  1. 物語の役割は、現実と折り合いをつけること
  2. 現実の問題をずらして「面白い」を作る
  3. スタイルと物語を分けられるか
  4. ルフィの目はなぜ点なのか
  5. 主人公が酷い目に遭うのが面白い物語?
  6. 『デスノート』と『マクベス』に共通する仕掛け

1. 物語の役割は、現実と折り合いをつけること

『物語の力』は、小説やマンガ、映画やゲームにある「物語」に焦点を当てる。前半の基礎編で「表現の分析」と「内容の分析」の双方から解説し、後半の応用編で『進撃の巨人』や『ポケモンGO』『君の名は。』等の具体的な作品の中にある「物語の力」を分析する。

まず、『物語の力』を読んだときの第一印象より。

Dain:読みながら浮かんだのは、「物語とは何か?」「物語の役割とは?」という疑問だった。文字などない大昔から物語はあったはずで、共同体の価値観を伝えるという役割だったのでは。

たとえば、「良い」「悪い」という判断基準や、食物や安全な場所、毒や敵といった危険なものなどを伝える役割。祭りとか物忌みを伝えるシャーマンや神話の「物語」として生き残っているんじゃないかな。ジョーゼフ・キャンベル『神話の力』『千の顔を持つ英雄』にある、原始的な物語です。

そういう価値観を伝えるうちに、伝える形式として「はじめ・なか・おわり」みたいなものが作り上げられていったんじゃないかと。

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タケハル:私の印象だと、『物語の力』は研究者の分析ですね。小説を書く人と研究する人の違い。物語を創る方からすると、学者とは発想が違うなぁと。ル=グウィンのエッセイ『夜の言葉』の一節を思い出しました。

「どうやって小説を書くのか?」と問われたとき、ル=グウィンがこう答えたそうです―――「小説について知りたかったら、学者に聞け」と。なんでこんな答えなのか。小説は海みたいなもの。海について聞きたければ、海洋学者に聞くほうが、話が早い。『夜の言葉』では、こう記されています。

「海自身のもとへ行ってたずねたとしたら、海はなんと言うでしょうか。ただ轟き、寄せる音ばかり。海は海であることに忙しすぎて、自分のことについてなにかを知る暇などないのです」

物語を作る時は、海に「なる」ので、自分自身が見えない。海を研究するのは「自分」対「海」という構図であり、自我が保たれている。海に「なる」のは神がかり、もしくはある種の狂気を意味する。

これ、モームも似たようなことを言ってます。ある研究者がいたのですが、彼は文学を研究してはいるものの、「小説を読むのは楽しい」なんて一言もいわなかったとか。でもわたしたちが読むのは、出来事が「はじめ・なか・おわり」の形に並べられたものが好きだからじゃないかと。

うまいラーメンとまずいラーメンの差はあるけれど、ラーメンそのものを食べるのは、好きだからとしか言いようのないのと同じく、物語を楽しむのは好きだからだと思う。

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Dain:僕らはなぜラーメンが好きなのかというと、油と炭水化物がたっぷりあるからで、油も炭水化物も、ヒトが生きるのに必要で、ラーメンを食べると効率的に摂れるから……スティーブン・ピンカーの「チーズケーキ仮説」を思い出した。

僕らがチーズケーキを好きなのは、糖とか油がたっぷり入っているからで、これらは生きるのに不可欠な栄養素だ。チーズケーキばかりずっと食べ続けるのは、(太っちゃうから)適応的じゃないけれど、糖や油を「美味しい」と感じて好むのは、適応で説明がつく。

同じように、僕らが物語を好むのは、何らかの要素が適応的に働いて、その結果、物語を「面白い」と感じるのではないかと(ちょうど、ラーメンやチーズケーキを「美味しい」と感じるように)。

そして、僕らが物語を好むように適応的に働いている要素は、「変化に気づく」じゃないかなと思う。変化も事件も一切ない物語を味気ない。けれど、日常の中に変化が起きる物語は楽しい。それは、パターン化された現実で変化を見付ける―――背景に隠れた天敵だとか、木の実だとか―――ことに敏感な方が、適応的だからじゃないかと。
スケザネ:これに近い文脈で、「現実を理解するための物語」が挙げられます。そこで、『博士が愛した数式』で有名な小説家・小川洋子のエッセイを紹介したいです。『物語の役割』というそのものズバリのタイトルで、ちくまプリマ―新書から出ています。なぜ私たちは物語を必要とするのかがテーマです。

『物語の力』では、物語の訴求力として「有効な解決策」とか「有効な筋道」といったポジティブな意味で用いられていましたが、『物語の役割』では、それとはちょっと違う筋道です。

そこでは彼女は物語の役割を、「受け入れがたい現実を、物語の形に構成しなおして、受け入れるのだ」と語っています。

そこに、エリ・ヴィーゼルというユダヤ人作家のエピソードが出てきます。ナチスの強制収容所でことで、それは悲惨な―――子どもが首吊りをさせられるような―――体験をします。そんな酷い現実を、人間はどうやって受け止めるか。それには、こういう背景があって、こういうロジックがあって……といった形にしないと、とてもじゃないが受け入れられなかった。

同様に、現実で苦しいことや理不尽なことに直面したとき、そのままの形では受け入れ難い。そのとき、背景や理由がこうだからといった、自分自身を納得させるために、物語としてのフォーマットが必要なのでは。ポジティブな解決には至らないけれど、とにかく現実を理解させるために物語という形式がある。


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Dain:それ、映画『ライフ・イズ・ビューティフル』を思い出しました。ユダヤ人の親子が強制収容所に連れていかれる話。収容所でなんでこんな恰好をさせられるのか、なんで自由に出歩けないのか、という子どもの疑問に、お父さんは嘘をつく「これはゲームなんだ、遊びなんだ」と。その嘘―――というか物語を貫き通そうとする。ガス室に送られて死ぬかもしれないという悲惨な現実を、「ゲーム」という物語で子どもに理解させようとする。
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2. 現実の問題をずらして「面白い」を作る

スケザネ:さっきのラーメンじゃないけど、うまいラーメンと、そうでないラーメンがあるように、面白い物語と、そうでない物語がある。じゃぁ、その「面白い」というのはラーメンみたいに作れるのかな。
Dain:「面白い」を作るのに、2つのアプローチがあると思う。一つは、素材やテーマとしての面白さ。生と死や、セックス、金、健康といった定番のもの。『SAVE THE CAT の法則』では、「原始人でも分かる、プリミティブな感情や欲求をテーマにすると、「面白い」を引き出せる。

もう一つは、素材やテーマの「やり方」のアプローチ。見た目や盛り付け、出す順番など、料理の仕方としての面白さがあると思う。そしてこれこが、『物語の力』の根幹になると思う。
スケザネ:とっかかりとして、現実の問題を少しずらす手法、これファンタジーでよくやるよね。テーマとしての面白さがあるけれど、現実をそのまま描けないときに、例えば「魚人族が差別されていました」(ワンピース?)のように。現実世界では、黒人差別に通底するところがある。あるいは、「取り返しのつかない大規模な爆弾」(コード・ギアス)だと、核爆弾を想起させるとか。

何もないところから作るのは難しい。だから、現実に起きている問題を、ファンタジックにするとどうなのだろう? という問いかけは、作り手としてする思考実験。
高等遊民:『ズートピア』とか典型かなぁ……


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Dain:なにそれ気になる! ネタバレにならない程度に詳しく。
高等遊民:『ズートピア』……ウサギが主人公なんだけど、いろんな動物、草食動物も、肉食動物も、平和に和気あいあいとして暮らしているのが、ズートピアという世界。でも、根源的には草食動物は肉食動物を恐れているし、肉食動物は、どこかで自制している。教育の力で本能は自制されているけれど、狐はウサギを捕食する、だから狐に気をつけろ、といわれる。少数の肉食動物と、圧倒的多数の草食動物で、ズートピアの頂点にいるのは百獣の王ライオンの市長になる。で、副市長は女性で羊。
スケザネ:アメリカっぽいな。
高等遊民:そう、マジョリティとマイノリティ、有色人と白人という構造。これはまさにアメリカ社会をモデルとしているんじゃないか。数が少ないけれど、圧倒的な力を持ち、最初から支配的な立場だった、一部のエリートをうまく描いている。これ、傑作じゃないかな。
Dain:ありがとうございます、観ます!
スケザネ:観てない方は『ライフイズビューティフル』と『ズートピア』を……

Dain:観ろと。

タケハル:さっきの「物語のテーマ」の話を伺ってて、漱石の『文学評論』で似たようなのを思い出した。ウィットとユーモアの違いというやつ。お金とかセックスとか、文化の違いに関係なく味わえる笑いがユーモアになる。そして、もうちょっと知識が必要で、スウィフトの話が出てくる

……あるところに三人の兄弟がいた。長男は父親から衣鉢を譲り受けてもらった。次男と長男は仲が悪くて、三男は、離れたところで暮らしてて、お父さんの言うことを守っている……

これだけ聞くと、なんのことか分からないけれど、結局、キリスト教の風刺になる。長男は「カトリック」、次男が「プロテスタント」、そして三男は「ギリシャ正教」になる。


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Dain:なるほどー!
スケザネ:wwww
タケハル:バックグラウンドを知っていないと、面白さが伝わらない。でも、知っていると、面白い。これがウィット。カトリックとプロテスタントって仲悪いよねって、直接言われると、話にも何にもならないけれど、今の三兄弟の話にすると、違う感覚で現実を見ることができる。
Dain:面白い! 三兄弟の話のとき、「キリスト教」のキーワードが出る前に頭に浮かんだのが、三匹の子豚の話。イソップも何かを寓意しているはずなので、ちょっと調べます!
スケザネ:私は「ユダヤ」「キリスト」「イスラム」を思い出しましたね。

タケハル:これ、バックグラウンドを明かさないと、各人で勝手に連想がつながっていくよね。面白い。

スケザネ:作るときって、「これ寓意してやろう」と考えたりします?
タケハル:僕はあんまりやらない、ル=グインやトールキンの影響を受けていて、彼らは寓話は嫌いなんです。寓話だと、結局それが言いたかったので、で終わっちゃう。
スケザネ:自分は結構どこかで考えながら作っちゃう。無のところからではなく、「寓意とは」というところからでもなく、これをどうやって換骨奪胎しようかな、という発想はよくしますね。
タケハル:それはありますね。最初は身近な事件とかをきっかけにするのはあるけれど、それを転がしていくうちに、そもそもスタート時点がどうだったかは気にならなくなる。
スケザネ:寓意というテーマだと、寓意が徹底された時代がありましたね。中世の『薔薇物語』とかダンテの『神曲』とか。愛情くんと勇気くんが手に手を取って、憎しみくんを倒します的な……


N/A

Dain:まさにアンパンマンwww
タケハル:インサイド・ヘッドwww
スケザネ:そうそう、『インサイド・ヘッド』みたいな。いまもアンパンマンのオープニングとか聞くと、「ああ、ダンテだな」なんて思うwww これ、キリスト教とか宗教につながっているのかも。宗教がプリミティブな形であったところに寓意、アレゴリーがあったのでは。


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3. スタイルと物語を分けられるか

タケハル:『物語の力』だと、内容と表現に分けて分析してゆく。この二分法だと、小林秀雄的には、こんなに簡単に分けられるかよ、ということになるのでは。つまり、言いたいことと表現方法は不可分になるのではないか。たとえば、

古池や蛙飛びこむ水の音

と、「古い池にカエルが飛びこんでポシャンといいました」は、別のもの。言いたいことと表現方法について、プラトンは分けるかもしれない。分けないと、そもそも考える事すらできないので、手段として分けようとするのは分かるのだけど。
Dain:スタイルの話だと思いました。物語を語る表現(文体や演出)と、その物語の内容そのものは不可分で、スタイルと書き手が不可分なものと一緒で、分けることがナンセンス……というのが小林秀雄の考えなのかな? ただ、スタイルと物語を分けずにやろうとすると、研究すらできないかも。
まるる:表現と形式の話、ロシア・フォルマリズムとかで言われている気がします。(チャット欄より)
スケザネ:たしかに! 1910~20年頃に、ロシアの作家でシクロフスキーという人が、まさに表現と形式についてそのものずばりの論文を書いてましたね。あと、プロップとかソシュールとか、レヴィ=ストロースとか、言語学を用いて研究していましたね。言語学といっても比較言語学で、どういう歴史をたどって、その言語が成立したかがテーマとなっている。言語学というものと手法が結びついていって、物語を分解していくとどうなるんだろう? というムーブメントが始まったのが、その辺りからになる。

小林秀雄で言うなら、岡潔との『人間の建設』に出てくる、素読教育の必要の話になる。江戸時代の寺子屋でやってた、そのまま音読して覚えるやつ。先生が、「師曰く」と言ったら、生徒も「師曰く」と復唱する。これが大事なんだと小林秀雄は言った。

なぜかというと、解釈なんて脆弱だから。解釈はつねに変化にする。論語で言うなら、朱子学が出てきたり、陽明学が時代によって出てくる。そこで、何が変わっていないかというと、「ことば」の本文そのもの。それを、小林秀雄は「すがた」と呼んだ。論語とか万葉集とか俳諧とか、「すがた」だと、それは動かせず、それに親しませる素読教育が重要なのだと。

「すがた」には、文体も意味も、混然一体となって凝縮されている。


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Dain:『人間の建設』読みます!
スケザネ:とはいっても、作る側からすると別で、文体をどうするかと、ストーリーテリングをどうするかは、分けて修行しています。
Dain:自分は小林秀雄の反対側の立場にいる。意味と一体化したスタイルを苔にするつもりはないけれど、「おもしろい」を再生産するにあたり、その人にしかできない、書けない、演出ができない、となると大変。

「宮崎駿監督」となると、皆うわーとなるけれど、あの人にしかできないとなると、作品は限られてくる。宮崎駿がいなくても、スタジオジブリならできると言った時、じゃぁジブリにあるものは何だろうか? この問いについて「、『物語の力』の中で説明できるのではないか。

物語を書き手の人格と一体化しちゃうと、それ以上のものはできなくなる。来週、ズートピア2の脚本のレビュー、どうすればいい? という商業的な問いにどうやって答えるか。ハリウッドで商業的に物語を創る人、シナリオや小説を書く人の手法を抜き出す必要がある。

4. ルフィの目はなぜ点なのか

タケハル:理想もある一方、現実問題としてもある。これ、『ワンピース』のルフィの目がなぜ点なのか、という話。あれは、たまたまなっているわけではなくて、他のキャラ、例えばナミは点じゃない。ルフィの目が点なのは、ちゃんと理由がある。尾田栄一郎が色々な漫画を研究して、あえて主人公の目を点にした。井上雄彦は勇気あると凄く誉めていて、目に表情があったほうが感情を乗せやすいんだけど、主人公にそれを持たせない。

そこには、商業的な発想もあって他のキャラクターと被らせないためだったり、覚えられるためにそうしている。手法論をカットしすぎてしまうと、(こういう発想は出ないので)現代においてはキツいかもしれない。まだ見つかっていないところを探す努力をしていかないと。


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Mr.深煎り : 『キングダム』も主人公の目の大きさを変えて売り上げが伸びたとか何かで聞いた気がします(チャット欄より)。
タケハル:キングダム! あったね。確か、最初のころ、キングダムの人気がいまいちで、原泰久が井上雄彦にアドバイスを求めに行ったら、「話は面白いので、目をもう少し大きくしろ」と言われ、その通りにしたら大ヒットした。
スケザネ:一人で作るものと集団でつくるものの違いになるのかも。『ピクサー流 創造するちから』を思い出したんだけど、ピクサーは集団で物語をつくる。会議の中で物語を揉んでいって、ブラッシュアップしていく、新海誠や宮崎駿とは対極にあるやりかたをしている。作家と編集者が共同してやっていくのにも似てるんだけど、どこまで一人でやるのかは、難しい。その人らしさ、そのタイトルらしさは、常に考えている問題だと思う。

日本の能とか伝統芸能とかは、そういう流れですね。新作落語とか、先人の積み重ねてきた、共同体が作り上げてきた芸術に身を投ずる。世阿弥の風姿花伝で似たような話もあった。


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Dain:今ので、『アルブキウス』にあるローマの脚本家の話を思い出した。あの時代は演劇なんだけれど、ストーリーは決まっている。僕らでいうなら、カチカチ山とか。ストーリーは分かっていて、それをどう演出するかが作家の腕の見せ所になる。妻を寝取られた男の話とか、みんな知っている話を、その作家ならではのお話にする。同じ話でも、作家によって異本が出てくる。そういうものが積み重ねられた結果、ぼくらが「ギリシャ悲劇」というカノンになっているのかも。パスカル・キニャールという人が書いているんですけど、お勧めです。


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スケザネ:キニャール! 読みます。
高等遊民:『塩一トンの読書』に『アルブキウス』取り上げられてるぜ。
Dain:そうそう、『塩一トンの読書』で須賀敦子が手放しで誉めてたから、そこから『アルブキウス』読んだ。今日の話はつながってますね。


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5. 主人公が酷い目に遭うのが面白い物語?

スケザネ:これまで、「物語とは何か」という根源的な話をしてきたんだけど、ここからは少し具体的に踏み込んで、じゃぁどういった物語の展開だと面白くなるの? という話をしていきましょう。
Dain:いいですね! 『物語の力』で王道として挙げられているのが、「回復と獲得の物語」というやつですね。主人公は何かを失っていて、それを回復ないし獲得することが、物語になるやつ。『物語の力』では、『インディペンデンス・デイ』や『のだめカンタービレ』あたりが例として挙げられてた。

大塚英志の『キャラクター小説の作り方』だと、主人公が大切にしているものを、物語の序盤で奪いなさい。そうすると、主人公は失ったものを探し始めるから……とアドバイスしてますね。親とか兄弟とか恋人とか故郷とか、ありがちなのが「記憶」ですね。

そして、失われたものが大きければ大きいほど、言い換えるなら、主人公が酷い境遇に陥れれば入れるほど、得られたときの達成感が大きい。同時に、読み手の方も共感しやすい。だから、物語の序盤では、できるだけ主人公を酷い目に遭わせろというのがセオリー。



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あと、回復と獲得の物語は、「ピークエンドの法則」にしやすいですね。その体験が面白かったかどうか、後から振り返ったとき、一番盛り上がる「ピーク」とラストの「エンド」によって全体の印象が決まってしまう。

たとえば、ジェットコースターに乗るために行列に並んだとする。すごい行列で一時間も待って大変だったけれど、最後にジェットコースターに乗って、めっちゃ興奮して絶叫した、凄かった! というとき。ジェットコースターに乗っているのが、たとえ3分だったとしても、一時間のことは忘れて、最後の思い出(ラスト)と最高の思い出(ピーク)が合わさって、「良かった」になる。物語のラストを盛り上げるのはこれ。
スケザネ:回復と獲得の物語は、確かに物語の王道ですね。例えば、ホメロス『オデュッセイア』も、最初に漂流してしまい、遠く離れた故郷へ帰還する物語だし、ダンテ『神曲』だって、「いま私はどこにいるのだろう?」という喪失から始まっている。

そして、獲得のところも、一気に獲得するのではなく、ちょっと獲得するのが大事。「初期状態→手段・方法→帰結状態(目的状態)→次の初期状態→…」の連続で説明します。

物語を分解していって、最小の単位にすると、まず最初の状態(初期状態)がある。そこで、何かが起きる(手段・方法)。それにより、何かが変わる(帰結状態)。その結果が次の前提(次の初期状態)をもたらし、次の行動につながる。その行動は何らかの結果を生み、さらに次の前提をもたらすことになる……こんな感じで、「初期状態→手段・方法→帰結状態(目的状態)→次の初期状態→…」 を繰り返しながら、行動によって新しい次の前提が生まれるように仕組むと、物語が有機的につながっていく。

なので、最初に何かを失って、最後に獲得する途中にも、ちょっと獲得する。たとえば、取り戻す途中で仲間ができる、その仲間が「あそこへ行こうぜ」と言い出して、そこへ行ってアイテムを手に入れるとか。それが次の前提になって、何か行動を起こす……こんな風に、物語を作る方は波を考える。
タケハル:アクションが連続していく、というの言われてるよね。演劇とか映画でもそうだし、映画だと特に、「アクションがどんどんキツくなる」のがある。序盤のハードルよりも、次のハードルの方がキツくなる。最後のやつが一番キツい。それが作る方としては大変なんですよね。
スケザネ:分かるッ!
タケハル:序盤でこんな酷いことやらかしたら、まだあるの? となる。ありがちなのが、120分の話を作ってて、作り始めたときに、「これは凄くキツいハードルだ!」というアイデアを思いついたら、それを最後に持っていく……このやり方は失敗する。一番キツい100%のやつを最後にしちゃって、それより弱い50%のやつ、さらに弱い30%のやつを逆算して考えると、お客さんにバレちゃう。なぜかお客さん分かっちゃう。

そうじゃなく、最初に思いついた100%キツいやつは、一番最初に持っていく。そこでもっとキツい120%を考えて、さらにキツい150%を考えて、最後は200%ぐらいにしないと。
スケザネ:〇ィ〇〇ー〇ーの「〇〇〇〇ッ〇の冒険」というアトラクションを思い出した。船に乗って周遊して、人形がワーワーやっているのを見ていくんだけど、大きく3つぐらいのシーンがあって、しょっぱなで、盗賊の軍団を倒すんですよ。やったーとかすごい盛り上がるんだけど、その後、ダチョウの卵を盗む話とかショボくなるんですよ。で、ずっとショボいまま。
Dain:あかんやんwww
タケハル:逆に見たくなったwww
スケザネ:逆算して20%にしちゃうとあかんよ、という例。
Dain:いかにして主人公を酷い目に遭わせるかってことですね。
タケハル:しかも、次々と遭わせるかが大事。
スケザネ:それ、黒澤明って上手いですよね。一個解決したかと思ったら次にまた問題が生まれてとか、『七人の侍』なんて本当に見事で。村が盗賊に襲われるから、侍を探そうというんだけど、この侍探しが難航するんですよね。一人目から舐めんなとか言われて、やっと見つかった! と思ったら金が足りないとかになって……それでもなんとか集まって、村へ戻ったら戻ったで、「侍怖い!」とかになって、村人たちが出てこないんですよ。そういう連続が本当に上手いんですよね。


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Dain:観ます、もう一度。映画を観ることが「体験」だったと言える、稀有の作品です。『ゴースト・オブ・ツシマ』をクリアしたからには観ないではいられない。


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スケザネ:ですね、黒澤モードがあるくらいだし。
タケハル:黒澤モード?
スケザネ:画面の設定で白黒にできるんですよ、しかも荒めの白黒で、ノイズみたいなものが入るんです。
Dain:いずれにせよ、ツシマにハマったら『七人の侍』は必見やね。それに比べてラスアス2は……(以降、グチが続く)

6. 『デスノート』と『マクベス』に共通する仕掛け

スケザネ:ここからは、どうやって読み手を物語世界の中に巻き込むかについて、お話しましょう。『物語の力』では、『デスノート』が紹介されていますが……
Dain:はい、『デスノート』……ネタバレにならないように話しますね。第一部になる、「ライト対エル」の対決のあたりです。死神のノートを拾って、悪人を殺していくライトと、それを追い詰めるエルの物語。

久しぶりに読み返して面白いなーと思ったのは、ライトもエルも「正義」という言葉を使っているんですよね。どちらも「正しい」と思ってやっている。

ライトの正義:「社会を良くするために殺す」正義
エルの正義:「どんな悪人でも裁きが必要」正義

そして、読者は読者で、自分の考えを持っているはず。ライトに共感している人もいれば、エル派もいる。あるいは、ぜんぜん別の考えだってある。

この物語では、ライトの立場から描かれるときと、エルの立場から描かれるときと分かれており、それぞれの立場に寄り添って(焦点化)して描写される。

物語がライトに焦点化し、ライトの視点・思考・感覚に寄り添って描かれるとき、読者はライトの立場からしか物語を知ることができず、(読み手の主義主張に関係なく)ライトの思考や感情に寄り添って読むほかない。

いっぽう、物語がエルに焦点化したとき、同様にエルの立場からしか物語世界を知ることができず、否が応でもエル目線で世界を理解する。『物語の力』では内的焦点化と呼んでいる。

こんな風に、ライト、エル、ライト、エル……と入れ替わるたびに、読み手は、それぞれの思考や感情を通じて物語世界に触れていくうちに、いつしか、現実の自分の思考から遠く離れて、物語世界の中にどっぷりと浸かっている……という仕掛け。同じ「正義」という言葉で異なる価値観をぶつけ合わせる時、内的焦点化を上手く使って、物語世界へ導いている。


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スケザネ:焦点化の使い方では、第二のキラが出てくるあたりで印象的でしたね。人がどんどん死んでいって、警察やマスコミがてんやわんわしているのに、ずっとエル視点で物語が進んでいるところ。ライトがどこにいて何を見ているのか、一切情報がないまま読み手をモヤモヤさせる。これは焦点化の使い方が上手い。
Dain:ライトどこにいるんだ! と、読者としては、一番知りたいことが伏せられてて物語が進んでいく状態ですね。
タケハル:『デスノート』で面白いのは、ライトとエルを、単純にライバルにしているだけではなくって、対立概念の捻じれを引き起こしているところ。みんなデスノート知っているから想像しにくいかもしれないけれど、例えば、タイムマシンで昔に戻って、ライトとエルを並べて、どっちが犯人で、どっちが探偵ですかと尋ねたら、たいていの人はエルが犯人だと言うはず

ライト自身も、いきなり悪人だったわけではない。ヴィジュアル的には、ライト=探偵の顔、エル=犯人の顔だし、ライトは真面目な学生、エルは食べ方や姿勢で奇行をとる。単純に、どっちが良いか悪いかにさせていないところが面白い。

「悪人なら殺してもいい」と突っ走っちゃうとヤバいやつなので、ライトを端正な顔にしてる。それこそエルを品行方正な探偵のビジュアルにしちゃうと、読者は「早くライトを捕まえろ、エルがんばれ」になっちゃう。そうさせずに、エルを悪人顔にしたり、ライトを記憶喪失にしたりして、読者を揺さぶっている。確かにライトは悪い奴なんだけど、読み手に簡単に決めさせないようにしている。

これ、演劇でいうなら『マクベス』ですね。マクベスは、王様を始め人を殺すし、やりたい放題やっていて、行動だけ見たら感情移入できない。だけど観客が感情移入できるのは、マクベスは殺した後、悩むんですね。良いのか悪いのかだとか、なんでこんなことをしてしまったのだろうとか。すると観客は、本当はこいつは、本当は殺りたいわけじゃないのかもみたいな、同情が入る。普通に考えたらおかしいんだけど、そう思わせないような工夫みたいなもの。シェイクスピアはかなり剛腕に、良心を持った殺人者を作り上げている。矛盾している所があると、現実は生きるようになってくる……「惑わし」がかかる。


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スケザネ:確かに、言われてみれば捻じれてますね……すごく分かりやすい……どっちかにさせないようにしている。
タケハル:デスノートがすごいのは、そういうキャラクターをライトとエルの2人も作ったところですね。

第2回は、『ズートピア』を俎上に、物語を探求します。

聴講を希望される方は、ネオ高等遊民サークルの読書会からどうぞ。

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