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心と時間の不思議に迫る『心にとって時間とは何か』

時間は、過去→現在→未来の順に流れており、わたしが「いま」だと感じているものは、現在のことだと思っていた。だが、[この視覚実験]をやってみると、疑わしく見えてくる。

赤い丸と青い丸が交互に点滅しているのを見るだけ。パラメータを変えると、赤丸から青丸に向かって、丸が移動しているように感じられる(私は preamble = 1000, disk = 80, inter-disk = 100にしたが、人によって微妙な調整が必要かも)。

問題はここから。タイミングを変えることで、赤丸から青丸に移動する途中で、丸の色が赤から青に変わっているように見える。まだ青を見ていないにも関わらず、未来に見えるはずの青を感じているように思われる。

なお、直前に見た青から、色の変化を予想しているわけはないらしい(色変化をランダムにしても同様の結果になるという)。

 

心にとって時間とは何か

つまり、途中での色変化(赤→青)を見ているとき、すでに青の情報を受け取っているということになる。そして、その情報を踏まえたうえで、色変化の映像を作り上げた、と考えるしかない。現在の中には、未来も含まれているのだ。わたしが「いま」のものだとして見ているものなのに、未来も視ている感覚になる。

「いま」とわたしが言うとき、その一瞬を物理的にスライスした世界を知覚するのではなく、ある程度の時間的な幅をもった物理的世界の情報を元に構成されている。すなわち、既に体験した現象と、まだ体験していない(と考えている)現象が混ざり込むような形で「いま」が体験されているのだ。

カラーファイ現象は、『心にとって時間とは何か』で知った。

他にも、知覚や記憶と自由意志を揺さぶる実験を紹介する。有名なリベットの実験の致命的な欠陥や、フッサールの時間の哲学への批判が面白い。反証が難しいとされる「5分前創造仮説」を限界まで弱める方法や、「自殺=未来の自分に対する他殺性」の思考実験もユニークだ。

こうした実験やトピックを通じて、著者は、時間とは何かについて、どこまで分かっているかを描こうとする。時間について迫るほど、それは意識の問題、心の問題になるのが面白い。

「精神と時の部屋」はタイムマシンか

特に面白かったのが、タイムトラベルの非対称性だ。

SF小説や映画に出てくるタイムトラベルについて、著者は面白いことを言い出す。すなわち、タイムトラベルにかかる「時間」に着目する

改造したデロリアンで時間を跳ぶ「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が典型で、時間旅行にかかる時間は一瞬だ。他にも、霧に包まれ気づいたら戦国時代に居たり、冷凍睡眠から覚めたら未来だったりもあるが、ポイントは、主観的な時間(主人公が感じる時間)はごくわずかなところ。

この主観的な時間と、主人公を取り巻く世界の時間の違いについて、「精神と時の部屋」を例に説明する。

「精神と時の部屋」は、ドラゴンボールに出てくる特別な部屋で、ここで一年間を過ごしても、外の世界では一日しか経っていない。

普通だと、一年間を過ごしたら、365日後の世界になるはずだ。だが、一年後より364日前の世界に居るのであれば、これは過去のタイムトラベルと見なせるのではないか? という着眼点だ。

もちろん、登場人物の誰もそう考えてはいない。マンガの読者をはじめ、「精神と時の部屋」を過去へのタイムトラベルと見なすのは不自然だという。

しかし、部屋の外と内側を逆転させると、未来へのタイムトラベルと見なすことができる。つまりこうだ、部屋の中で一日を過ごすと、外の世界では一年が経過している。これは冷凍睡眠タイプのタイムマシンと言えるのではないか。

ここから広がる、タイムトラベルにおける、未来と過去の非対称性の話が面白い。ポイントは、主観的な時間のスケールと、その外側の世界の時間のスケールの違いにある。

処刑は3時におわった

この、主観的な時間のスケールと、それを取り巻く世界の時間との違いは、手塚治虫の短編マンガ「処刑は3時におわった」を思い出す。

「時間を延長させる薬」を手に入れた男が、処刑される寸前に飲み、脱出を図ろうとする話だ。薬を飲むと、1秒の長さが1分ぐらいに感じられるようになる。つまり、主観的な時間のスケールが60倍もする世界になる。いわば、精神と時の部屋の薬バージョンである。

わたしはここに、時間の問題の難しさがあると考える。

もちろん、時間は計ったり指し示したりできるので、客観的な量としてあるように見える。わたしたちは日常的に「時間の流れ」について言及する。

だが、その時や間を認識するのために、主観がまとわりつく概念でもある。男の主観から時間をどのように流れ、その「主観」がどこまでの範囲なのかが、クライマックスとなる。

精神と時の「部屋」は、明確な部屋の出入りがある。だが、男の身体に生じている時間の延長は、主観とは何かまで踏み込まないと、明らかにならない。

ニュートンをはじめ、多くの物理学者が時間の流れを扱わなかったと言われるのは、こうした理由によるのかもしれぬ。

時間とは何か、どこまで分かっているかを確かめ、どこが議論されているかを確かめる一冊。

Kokoroni

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読書は毒書、マンディアルグ『黒い美術館』

ぬるい小説はいらん。読んだら心が抉られるような劇薬を、読みたい。

「号泣した」とか、「ページを繰る手が止まらない」といった誉め言葉が満ちているが、そんな気分じゃない。むしろ、「読まなきゃよかった」とか、「ページを繰る手をためらう」作品が読みたい。

そんな劇薬を『スゴ本』で語った(怖いもの知らずは、特別付録の「禁断の劇薬小説・トラウマンガ」をご覧あれ)。すると嬉しいことに、「それが猛毒なら、これなんていかが?」と紹介していただいた。

それが、マンディアルグの傑作短篇集『黒い美術館』だ。

マンディアルグ!

知ってる人はドン引く強烈な作家で、代表作の『城の中のイギリス人』では、エロスと残虐性を徹底的に追求している。これ喜んで読む人は、ウェルカムトゥ・ザ・変態・ワールドやね。

収録されているのは以下の5編、純粋無垢の存在を、残虐に汚す才能が、如何なく発揮されている。

  • サビーヌ
  • 満潮
  • 仔羊の血
  • ポムレー路地
  • ビアズレーの墓

マンディアルグの凄いところは、物語に出てくるイメージが、読者に与えるコントラストを操作しているところ。読み手の脳内で起こる「映え」やね。

たとえば、由緒あるホテルの真っ白な浴室と、そこでリスカして飛び散った大量の血潮のコントラスト。あるいは、ウサギの可愛いモフモフした感じと、屠殺人が使う冴えわたった刃物の鋼鉄のイメージ。月の運動によって生じる満潮のタイミングと、処女の口の中にぶちまけるという発想。

猛毒だとお薦めされたのが、「仔羊の血」だ(@hikimusubi さん、ありがとうございます!)

これは素晴らしくエロスなやつ。えっちなやつではなく、油ギッシュで臭うやつ。

少女と黒人、仔羊と屠殺人、赤い血と黒い手といったコントラストに、色とりどりに塗られた仔羊の群れが加わったり、脂でべとついた毛皮から処女の秘処に這い上るシラミ(後に猛烈な痒みをもたらす)のイメージが美麗なり。

むせるような麝香(じゃこう)の匂いと、股の下の仔羊のべとついた肌ざわりと、うごめくシラミの痒みのせいで、少女はこらえきれず尿を洩らしてしまう。その直後の、黒人の手の描写が秀逸だ。

間髪を入れずに、黒人の両手が彼女をひっつかんだ。なめらかに乾いた大きな二つの手が、知能をそなえた高等な寄生虫みたいに、ゆだねられた肉体の上で我がもの顔に、肌着の下へもぐり込み、乳房のまわりへ忍び寄り、下腹部に触れ、まさぐり、さまよい、それから濡れた股に沿って太腿の付け根へと引き返すのだった。

どうして二人がそんなことをしているのか、これらから彼女がどうなるのか、さらに黒人にどんな運命が待ち構えているのか。気にするな、ストーリーこそ余談だ。代わりに、ビジュアルの鮮烈さに撃たれ、もどかしい体感に身をよじり、おぞましい臭いを嗅ぐがいい。

読書は毒書、ただ酔えばいい。



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やりたいことは全部やる『キミオアライブ』

Kimioa

病院のベッドで、ひたすらノートに書く少年。

大病を患い、未来に絶望しかない状況で、「やりたいこと」を書き続ける。リストには、たくさんの「夢」が並んでいる。

  • リコーダーを吹きたい
  • 風船の中に入ってみたい
  • 自分で考えた物語を本にしたい
  • 部屋中を使ってピタゴラ装置をつくりたい
  • 空を飛びたい
    ………………

ささやかな願いから、とんでもない冒険まで、さまざまな夢がある。

あなたは、こんな「やりたいこと」リストを作ったことがあるだろうか?

わたしはある。むかし「夢ノート」が流行ったとき、やりたいこと、行きたいところ、食べたいものなどを綴った覚えがある。リストを作り、名前を付けて保存した。それから十年にもなる。

しかし、少年は違う。名前はキミオ、『キミオアライブ』の主人公だ。

  1. ノートに、やりたいことを書く
  2. 書いたことは、必ず実行する
  3. 実行したら線を引く

キミオは、律儀に、真面目に、一つ一つ、実行していく。

「リコーダーを吹く」は簡単にできるが、ピタゴラ装置はちょっと大変かも。さらに、「空を飛ぶ」のはもっと難しい。飛行機に乗ればいいのか? あるいは、[ジェットマン][ウイングスーツ] みたく、命をカネをかけて飛ぶのか? 

できない理由ではなく、できる方法を探す

しかし、キミオは違う。別の方法で「空を飛びたい」を実現する。

ここが、キミオとわたしの大きな違いだ。

わたしは、「やりたいこと」が浮かんだとき、まず、その「できない理由」を探し始める。お金が無いから、もっと時間があったなら、スキルが足りない、仲間が必要、そもそも法律で許されているの? なんて考えてるうち、名前を付けて保存したくなる。

一方、キミオはこう考える。「もしそれを実現できるなら、どんなやり方がある?」と考える。あるいは、「何が実現されたなら、『できた!』になる?」と考える。そして、できる方法を探し始めるのだ。

やりたいことで、生きていく

この発想力と企画力、そして実行力がすごい。

最初は呆れて馬鹿にしていた周囲の人も、だんだんとキミオに巻き込まれてゆく。

その一方で、キミオ自身も、自分のためだけではなく、仲間と一緒に企画して、知恵を出して実現する喜びを知る。さらに、「あの人の笑顔が見たい」という新たな「やりたいこと」を見出す。

そして、この喜び、楽しさ伝える、動画配信という方法があることを知る。動画配信は、「やりたいことで、生きていく」ための強力な武器になりえる。

後に、チャンネル登録数1000万人を超える youtuber となるのだが、それはまた別のお話らしい……

今をやり直す

『キミオアライブ』の第一話を読んだとき、以下を初めて読んだときと同じ衝撃を受けた。

きっとお前は、二十年、せめて十年でいいから、

戻って人生をやり直したいと思っているのだろう。

今やり直せよ、未来を。

十年後か、二十年後か、五十年後から戻ってきたんだよ、今。

第一話は、『キミオアライブ』 から読める。

第一巻は、コロナで書店が閉まっていた時期に発売され、気づかなかった。読書猿さんが呟いてくれたおかげで、知ることができた。読書猿さんありがとう! おかげで、「やりたいこと」をやらなかった十年後から、今に戻ってくることができた。

人生の持ち時間は少ない。やりたいことは、全部やろう。


 

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適応としての笑い『ヒトはなぜ笑うのか』

  犬、売ります:なんでも食べます。子どもが好きです。

意味が分かったとき、めっちゃ笑った。誤りに気づいて愕然とする男と、その傍らでシッポ振ってる犬まで目に浮かんで、笑いが止まらなくなった。同時に、男が殺人鬼だったパターンも浮かんで、自分のブラックジョークに、息が止まるほど笑った。

ひとしきり笑ったあと、可笑しかった理由を考えても、出てこない。「子どもが好きです」のダブルミーニングは分かるが、それが、どうして狂おしいほどの可笑しみを招いたのか、説明するのは難しい。

絶妙なネタが飛び込んできたり、とんでもない大失敗を目の当たりにしたとき、胸の奥・腹の底に、抑えようのない情動が沸き起こってくる。

このユーモアの情動がどのように引き起こされるのか、さらに、それをどうして愉快だと感じ、笑いにつながるのか―――認知科学者(ハーレー)、哲学者(デネット)、心理学者(アダムズ)の3人の共同研究『ヒトはなぜ笑うのか』が、この謎を解き明かす。

「可笑しさ」のメカニズム

本書では、ユーモアの情動が発動するとき、そこに何らかのエラーの発見があることに注目する。私たちは、ある知識や信念に不一致を見出したとき、可笑しみを感じる。私たちは、何かがおかしいと分かったとき、それを可笑しいと感じる

しかも、不一致であれば必ず可笑しく感じるとは限らない。いったん真だとコミットメントされた要素が偽だと判定されるとき、ユーモアが生じる―――これが「可笑しさ」のメカニズムだという。暗黙裡に当然視していたものが、一気に一挙にひっくり返る発見、これがカタルシスにつながる。

さっきの「犬、売ります」だと、掲示板かSNSのような場所に、犬の買い手を募集していることが分かる。続く「なんでも食べます」は、「(犬は)好き嫌いせず何でも食べる」と整合的に理解される。

そして、「子どもが好きです」が入ってくると、いったんは「子どもに懐きやすい犬」と受け入れられる。だが、その後、「なんでも食べる犬」という全体像と比べると、「好き嫌いせず子どもを食べる犬」と読み取ることができてしまう。

いったん受け入れた「子どもに懐きやすい犬」が偽だと判定されるとき、わたしは、可笑しみを感じる。もちろん、「子どもを食べる犬」というグロテスクな結論は偽なのだが、それも含め、この文章に促された誤読(おかしさ)の発見こそが、愉快なのだ。

ユーモアは適応である

この「愉快だ」というユーモア情動には、適応的な働きがあるという。この情動は一種の報酬であり、これを求める動機付けになるというのだ。

たとえば、私たちは果糖がもたらす感覚を「甘い」として心地よく味わう。それは、エネルギーたっぷりであるが故に、グルコースの摂取を求めるよう、「甘さ」が動機づけられている。甘い・美味しいという感覚は、グルコースを摂取した報酬になる。

それと同様に、「可笑しい」という感覚は、今まで当然だと思っていた知識や信念の中にに、首尾よくエラー(おかしさ)を見つけた報酬だという。私たちは、チョコやケーキを求めるように、ジョークやユーモアを求めているのは、こうした理由によるというのだ。

ユーモアの報酬システム

本書では、このユーモアの報酬システムを、「メンタルスペース」を用いて説明する。

頭の中で活性化する概念や記憶、耳や目などから入ってくる情報や感覚などは、粒度も精度も種々雑多だ。だから、トピックごとに一定のまとまりを持って、ワーキング領域を割り当て、その中で理解しようとする(この概念的な領域のことを、メンタルスペースと呼ぶ)。

時間に追われながら、リアルタイムでヒューリスティックな検索をしている脳が、入ってくる言葉や概念を完璧にチェックできるわけではない。だからこそ、エラー発見に報酬を与えるのだ。本書の p.37 にこうある(太字化は私)。

検証されないままであれば、メンタルスペースで生じるエラーは、最終的には世界に関するぼくらの知識を汚染し続けることになる。そのため、信念と推量の候補たちを再点検する方策が欠かせない。エラーを猛スピードで発見・解消する作業は、強力な報酬システムにより維持されねばならない

この強力な報酬システムこそが、ユーモアの情動となる。ユーモアの情動とは、メンタルスペースをひっくり返すぐらいの「おかしさ」を発見した「可笑しみ」というご褒美なのである。

適応としての「笑い」

では、愉快なとき、なぜ笑うことがあるのか。

愉快な情動に身を任せて爆笑し、身体を揺すって大声で笑うのはなぜか。単に愉快なら、「甘い」という感覚と同じように、黙って味わえばよいではないか。笑う発声や身振りは、どこから来たのか。

この「笑い」は一つであるが、そこへ至るまでは複数の要因があるとする。本書では、笑う発声や身振りについては、「誤情報だった」というシグナルの適応だ主張している。

つまりこうだ、「敵が近づく音がした!(緊張)→物音は間違いだった(緩和)」から生じるときの声や動作が始まりだという。「安心しろ、ヤバいのはいねぇよ」という合図が、後の私たちにとっての笑い声になるのだ。

そして、「誤情報だ、警戒を解け」というシグナルのレパートリーを持っている者たちにとっての適応度を強化した、と述べている。仲間が笑っていると、つられて笑ってしまう(笑いの伝染)のは、こうした理由で説明することができる。

たしかに私は、「心配いらないよ」という時でも「安心したよ」という時でも笑うし、一緒に笑うことに、人の繋がりを感じる。『新世紀エヴァンゲリオン』の第6話の、この言葉を思い出す。

「ごめんなさい。こういうときどんな顔すればいいかわからないの」

「笑えばいいと思うよ」

人間だけが笑う

「おかしい」を発見すると「可笑しい」と感じるユーモアの報酬システムや、「安心しろ」「愉快だな」という連帯を伝える笑いの適応を見てきたが、本書には、古今東西の賢人たちのアプローチが紹介されている。

面白いのは、「笑い」について調べれば調べるほどに、人間とは何か、知性とは何かといった問題に向き合うことになる。アリストテレスの「動物のなかで人間だけが笑う」理由にも答えることになるのだ。

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