美は人を沈黙させるが、饒舌にもさせる『栗の樹』
小林秀雄の読書会をするというので、『栗の樹』を読んだら、激しく同意するところと、納得いかないところが割れて、なかなか面白かった。
西行や孔子、ゴッホ、トルストイといった、骨董の真贋といったテーマを通じて、批判対象に徹底的に具体的たらんとする姿勢は、激しく同意する。別の書の「美しい花がある。花の美しさというものはない」なんて、美とは何かについて、有力な応答だと思う。
あるいは、「『平家』は読んでも分からない。昔の人は聞いたのである」という件は100回膝を打った。古川日出男『平家物語』を読んでいる際、たくさんの声・声・声を肌合いで感じつつ、自分でも音読していたから。
言葉は目の邪魔になる
しかし、美について言葉は無用というのは、ちょっと違うのではないか。「美を求める心」でこう述べる。
例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でおしゃべりをしたのです。
そして、「菫の花」という言葉が心の中に入ってくると、もう目を閉じてしまうという。花の姿や色の美しい感じを、「菫の花」という言葉に置き換えて、見たことにしてしまう。それはしゃべることであり、見ることではない。言葉は目の邪魔になるというのだ。
ここは、「言葉」を「名前」に替えるなら、その通りだと思う。わたしたちは、ものに名前を付けて、分かったふりをするのが得意だ。新たな経済現象から新種の元素まで、名前さえつければ解明できたとする、悪い癖だ。
名前で分かったふりをせず、その花の美しい感じをそのまま持ち続け、見続けることで、花はかつて見たこともないような美しさを明らかにするという。その通りだろう。
美は人を沈黙させる
半分同意で、もう半分はツッコミを入れたい。
美しいものは、諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。絵や音楽が本当に解るということは、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味わうことに他なりません。
ここまでは、そうだなと感じる。心を震わせる芸術に触れたとき、息をのむほどの景色を目の当たりにしたとき、わたしたちは言葉を失って、ただ目だけ・耳だけの存在になる。
しかし、ここから先、物の本質を知ろうとする行為は、物の姿を壊すことだという点には、少し違うと思う。対象の構成要素を分解して、それぞれについて一つ一つ分析していく方法では、美しさを解ることには至らないという。
たとえば、ある花の性質を知るとは、どんな形の花弁が何枚あるか、雄蕊、雌蕊はどんな構造をしているか、色素は何々か、という様に、物を部分に分け、要素に分けて行くやり方ですが、花の姿の美しさを感ずるときには、私たちは何時も花全体を一目で感ずるのです。
言わんとしていることは分かる。それでも、美が強いる沈黙に負け、分析したり、誰かに伝えたくて饒舌になることを、「美が解っていない」かのように語られると、それは違うと思う。
分かるとは分けること
おそらく、小林自身も承知しているだろうが、「分かる」という言葉は「分ける」とも使える。文章では「解る」と表現しているが、これは「分解する」につながる。わたしたちは、世界を知るときに、時間なら因果、空間なら要素の軸に沿って分けようとする。
そのため、菫の花の美に触れたとき、それがどこからやってきたかを知るためは、因果や要素に沿って解る必要がある。小林は、花そのものを分解し、雄蕊や雌蕊に分けてみせた。そんなことをしたら、花はばらばらになってしまう。
しかし、花の色合いが好ましいのであれば、自分を落ち着かせる効果があるからと、因果関係を見て取ることができる。物理的に分解せずとも、花弁のある部分の形が黄金比を成していることに、普遍的な美を見出したのかもしれぬ。
こうした還元主義的なアプローチだけでない。あるいは、関連する古典や歴史、生物学の知識や、その花から想起される思い出をつなぎあわせ、花の美しさは、自分の内側に積み上げてきた経験にも裏打ちされていることに気づくかもしれぬ。
菫の美しさを詠った歌人は、万葉集や西行、良寛そして宣長と連綿と続く。人は、美しいものに触れたとき、それを何とか言葉にして伝えようとする存在なのだ。
理解するためには言葉が必要
菫の花のような自然ではなく、芸術作品だと、人は、さらに饒舌になる。
たとえば、わたし自身、何も知らず、無手でゴッホやセザンヌに向かい合ったとき、「なにかが違う」という違和感しかなかった。なぜ対象物を正確に写し取らず、歪んでいるのかが解らなかった。
しかし、E.ゴンブリッチの世界的な名著である『美術の物語』を通じて、自分が受けたものが何であるかを知ることができた。ピラミッド時代から続く「見たままを写す」美術の歴史から外れたことで、セザンヌはこの世界に地滑り的な変化をもたらしたという。
セザンヌがやろうとしたことは、「色彩によって立体感を出す」ことだという。明るさを殺さずに奥行きを感じさせ、奥行きを殺さず整然とした構成にするために工夫を重ねた結果、多少輪郭が正確でなかろうとも、あまり気にしなかったというのである。
この解説を手がかりに、彼らがやろうとしたことは、写真のような正確さではなく、その絵を見た人がどう感じるかの知覚や体験を重視していると考えるようになった。本書を通じて、いわば新しい目を手に入れたともいえる。
これ、独りでセザンヌの絵を眺めていても、決して得られない「目」だろう。小林を始め、評論家という存在は、まさにそのためにあるのだと考える。
語り尽くしたあとの沈黙
もちろん、言葉を尽くしても語りえぬものがある。ひょっとすると、小林秀雄は、この語りえぬものまでも念頭に置いていたのかもしれぬ。
美しいものに触れ、言葉を失った後、我に返り、ひとしきり饒舌に語る。そこで語りつくせなかった感動が静かに身体に満ちてゆくのを、「感動に満ちた沈黙」と名づけたのかもしれぬ。
小林秀雄の読書会は、哲学Youtuberネオ高等遊民さんの[哲学読書会サークル]でやってる。講師役のスケザネさんの第0回の解説は、[ここ]で聴くことができる。

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