「いまを生きる」に自覚的になる『瞬間を生きる哲学』
tumblr で知った仏陀の言葉が好きだ。
過去にとらわれるな
未来を夢見るな
いま、この瞬間に集中しろ
Do not dwell in the past,
Do not dream of the future,
Concentrate the mind on the present moment.
そう、わたしは過去や未来ばかり見る。やったことを後悔し、不確かなことを心配する。ああすれば良かったと憤慨し、こうなったらダメだと心を痛める。
この、今を後回しにする生き方を批判し、「いま」「ここ」に充足する方法を考察したのが『瞬間を生きる哲学』だ。哲学や芸術から援用し、瞬間を生きるための具体的な技術を指し示す。
生のユーティリティ化
たとえば、今を後回しにして、「何かのため」に生きる生き方を、「生のユーティリティ化」と喝破したところがすごい。ユーティリティとは、「有用性」「効用」と訳され、何らかの役に立つということ。何の役に立つというのか?
それは、入試のためとか就職のため、あるいは家族のためとか老後のため。安定した幸せな人生のため、明日や来年、場合によっては死後に設定された目標に役立たせるために、「いま」を立て続けに収奪する。
つまり、アリとキリギリスの教訓を内面化し、将来のために、いま努力する社会だ。「いつか」「どこか」のために、今を最適化する。わたしは、今を生きることしかできない。それにもかかわらず、「いま」「ここ」以外に、何かの目的や価値があると思い、そのために生きようとしてしまう。
「いまを生きる」技術
では、どうしたら「いまを生きる」ことができるのか?生を生として瞬間をじっくりと味わう―――そもそもそんなことが可能なのか?
こうした疑問に対し、プルースト文学やフロー体験、赤塚不二夫「これでいいのだ」や、サルガドの報道写真、イスラーム哲学やサティ瞑想など、様々なアプローチから「いま」「ここ」に迫る。
特に面白いのは、リアリティ炙り出し装置としての芸術のところ。漫然と過ごしてきた瞬間の一つを切り取り、それに光を当て、生々しく浮かび上げるのは、芸術の役割だという。プルースト『失われた時を求めて』の、紅茶に浸したマドレーヌが象徴的だ。
たしかに「そのとき」そこに居たはずなのに、「いま」「ここ」として実感を持って生きられなかった―――そんな瞬間が蓄積したのが過去だという。そうした中から、なにかのはずみで、思いがけず、現に生きられた時間として襲来してくる。これを、現実の再創造と呼ぶという。
記憶の彼方から圧倒的なリアリティをもって迫ってくる感覚は、確かにある。マドレーヌではないが、味や香りがトリガーとなって、それを食べた昔をありありと思い出すことはある。
いまを生きるものは永遠を生きる
では、過去を想起する形でしか「いまを生きる」ことはできないのか? 本書ではチクセントミハイのフロー体験を元に、今現在「いまを生きる」方法を紹介する。
いわゆる「時を忘れる」ことだ。何か好きなものに夢中になって、気づいたらえらい時間が経っていた……なんてことはないだろうか?
たとえば、物語に夢中になったり、音楽と一体化したり、仕事に没頭するような体験だ。行動へのフィードバックが即座に返る全能感と、行動と思考と感覚が一体化した多幸感で、時間ばかりか我を忘れるような活動だ。無我夢中で愛し合うこともそうだろうし、スポーツだと、「ゾーンに入る(being in zone)」と表現される。
この感覚はある。わたしの場合、いまがそうで、こうやって記憶をまさぐり、体験と照らしながら文章を書くとき、溢れる脳汁を感じる。あるいは、最初の中ジョッキを傾けるとき、SEKIROのラスボスを倒すとき、「生きてる!」と触れるくらい感じることができる。
このとき、人は永遠を生きるという。
この世、この生を大肯定し、死すら圧倒するほど生が露出する瞬間だというのだ。ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』にある、「現在に生きる者は永遠を生きる」という言葉と、アウグスティヌスやトルストイが言った「過去や未来なんて存在せず、ただ現在だけがある」が、重ね合わさるところ。
えいえんはあるよ、ここにあるよ
この「永遠」は、無限に遠い未来という時間的な意味ではない。
過去や未来のない無時間を指すと考える。ずっと「いま」なら死も無い(なぜなら、死は「いま」として体験できない、生の外側の存在だから)。『ONE』のラストの「えいえんはあるよ、ここにあるよ」にある、時間の無い「いま」である。
どんな未来になるのか不透明な状況で、どうしたら不安から逃れ、いまを生きることができるか? おそらく、わたしがやってはいけないのは、「テレビやネットを見る」だろう。未来が不確定であることを改めて確認し、不安を強化するか、ガセやデマに翻弄されるだろうから。
代わりに、「いま」「ここ」を充足させよう。読むこと、食べること、表現することに集中しよう。そして何より―――『失われた時を求めて』に取り掛からなくちゃ。

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コメント
震災のころDainさんのこのブログで仏陀の言葉を知り、それ以来自分の指針としています。古東 哲明さんがマインドフルネスについて自分の考えをかかれた総説(「マインドフルネスの背後にあるもの (存在神秘の覚醒をめぐるクロストーク」)もかなりおすすめです。存在驚愕(タウマゼイン)、永遠の今。まあ仏陀が説いたのも現代風にいえばマインドフルに生きるということなのでしょうが。
投稿: H.Aka | 2020.05.10 11:45
>>H.Akaさん
ご教示ありがとうございます! H.Akaさんの「仏陀が説いたのも現代風にいえばマインドフルに生きるということ」というコメントに激しく同意します。「マインドフルネス」というカッコいい用語は、マーケティングの賜物だと思っています。
なお本書では、仏教の行「サティ」の実践が紹介されています。今やっている行動や、経験していることの一つ一つに集中する行法です。他にも、「なにもしない」行や、「ゆ~~っくりと歩く」という技法があります。
一つ一つ、実践していこうかな、と思っています。
投稿: Dain | 2020.05.10 12:17