健康ディストピア
「健康は義務です、不健康は犯罪です」とアナウンスしながらドローンが行き交い、市民の健康係数を測定する。サーモグラフィで自動測定し、体温が高いと「風邪で休まないのは犯罪です」と勧告する。
健康係数が良いなら、健常者と判定され、執行対象にはならない。
しかし、規定値を下回ると、潜在的な不健康者として判定され、様々な制限が加えられる。食事制限や運動が義務化され、タバコ等の嗜好品が限定されたり、保険金の割引オプションが利かなくなる。
さらに悪くなると、当人の健康状態が周囲への悪影響を及ぼす潜在感染犯と判断され、執行対象となる。マスクと手袋の着用が強制され、守らない場合は捕縛され、厚生施設でセラピーが施される……
……という物語を思い浮かべたのは、御田寺圭さんの「コロナ後の世界」に忍び寄る「健康・健全ディストピア」を読んだから。コロナ禍の先、社会保障や医療リソースが制限され、健康であることがルール化された相互監視未来を、「ヘルシー・ディストピア」と言い表している。すごい。
「健康=正義」の社会
そこでは、「健康=正義」される。
タバコを嗜む人、お酒が好きな人、メタボといった不健康な人は、医者から注意を受けたり、白い目で見られるだけでない。はっきりとルール(条例・法令)違反として改善が義務付けられる。免疫力が低下する高齢者は、それだけで健康色相が濁っていると判別される。
もちろんこれ、アニメの『PSYCHO-PASS』から派生した、わたしの妄想だ。人の心理状態や犯罪傾向を測定し、規定値を超える犯罪係数を持つ人間を「潜在犯」と見なし、社会から排除もしくは殺処分する人々を描いた傑作だ。
人の心というものは、数値化できるか? 特に、未だ犯罪に至っていないのに、PKディックの『マイノリティ・リポート』のように犯罪予防できるのか? といった疑問は、Amazonプライムで確かめていただくとして、ここでは、「健康」について述べたい。
不健康は悪なのか
「健康」は、一見、誰も反発したり疑義を唱えられない中立的な善のように見える。誰だって病や苦痛を避けたいから、健康であるに越したことはない。どれだけお金を積んだって、健康はお金では買えない。もちろんその通りだ。健康であることは、「よいこと」とされるのが一般的だ。
しかし、誰も反対しないからこそ、この言葉を使えば、先入観を押し付けることができる。無条件に「よいこと」だと認められるからこそ、製品を売るために用いられても、そのレトリックに気づきにくい。
「健康的な体形」は、それにそぐわない体形に烙印を押す。「健康的な生活」、「健康的な食事」、「健康的なセックス」など、この言葉に訴える際、ある種の価値判断が密やかに発動する。「ダイエット」や「フィットネス」といった言葉を援用することで、健康への欲望を作り出し、操作することが可能だ。その価値判断は、健康の名のもとに押しつけられるため、健康ファシズムと呼ばれている。
こうした、健康という言葉の背後にあるモラル的な風潮をあぶりだしたのが、『不健康は悪なのか』という論文集だ [書評はここ]。
これは、不健康を賛美する本ではない。母乳育児を推進する全米授乳キャンペーン、ヘルスケア用語に覆い隠された肥満嫌悪、「ポジティブであり続けること」を強要される癌患者、定義変更により創出される精神疾患など、「健康」という言葉に隠されたイデオロギーが、グロテスクなまでに暴かれる。
健康が強制される社会
ご注意いただきたいのは、こうした健康について管理された社会が完全にダメというわけではないこと。
公衆衛生にかかるコストや健康を維持するために必要なリソースは、個人では負担しきれない。だから社会で担うのだという発想で、社会保障や医療システムができている。「健康であることは望まれること」を前提とした、このベースラインは維持していきたい。
だが、「健康であることが強制されること」となる世界を懸念している。個人の努力目標ではなく、社会から制限や強制される方向に加速し、その大義名分として「健康=正義」という棍棒が振り回される社会までを妄想する。
健康な生活を営むことは、権利ではなく、義務となる。
不健康な生活は排除され、健全で安楽な社会といえば、ハクスリー『すばらしい新世界』が有名だろう。苦痛や不快のない、安楽で幸福な科学文明の未来を描いたディストピア小説だ。あるいは、伊藤計劃『ハーモニー』における、パンデミックにより崩壊した政府に成り代わった、新たな統治機構「生府」を思い出す方もいるかもしれぬ。
いずれにせよ、そこには高度な医療経済社会が築かれ、健康や幸福を目指すことは権利ではなく義務とされ、そこからの逸脱は禁じられる。「健康的である自由があるように、不健康になる自由だってある」なんてセリフは、戯言となる。
「うちの収容所に病人は一人もいない。健康な人と死人だけだ」
それはフィクションの話で、ディストピアに振り切った物語にすぎない、と指摘できる。
どの時代の政府であれ、国民の健康は国力に直結するのだから、大なり小なり健康管理社会になるもの。それを極端にしたフィクションなのだ、とも言える。
しかし、「健康=正義」を推し進めると何が起きるのかは、フィクションではなく過去を振り返ればいい。
T4作戦だ。
1939年ヒトラーの命令書から始まり、「不健康であり、生きるに値しない」と医師が選別した人々が、次々にガス室へ送られた作戦だ。
ナチスの強制収容所といえばユダヤ人の迫害に着目されがちだが、この作戦により、うつ病や知的障害、小人症、てんかんに始まり、性的錯誤、アル中患者といった人が、記録されているだけでも7万人、一説によると20万人も犠牲になったという[Wikipedia:T4作戦]。
ヒトラーが署名したのは、治癒不能の重い病気を抱える患者に対し、十分慎重な診察のもと、安楽死がもたらされるよう、医師の権限を拡大する命令書だった。
当初は、苦しみから解放するという建前だったが、社会の幸福のため、科学的正当性のもと、社会を合理化する推進力になる。「健康であること」を医師が選別し、著しく不健康な存在は、社会から排除したのだ。
当時は戦力増強という目的があったものの、ナチスほど国民の「健康」に執着した組織はなかったという。
タバコとアルコールの追放運動を行い、飲酒運転には高額な罰金を課した。結核の早期発見のためのX線検査、学校での歯科検診、身体検査を制度化した。栄養のある食事、運動、新鮮な空気、適切な休養が啓発された。決められた「健康」を満たせない者は「役に立たない」とみなされる。つまり国民は、「健康」を強要されたのだ。
この件は、『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』に詳しい [書評はここ]。そこに出てくる、ブーヘンヴァルト収容所の所長の言葉が強烈だ「うちの収容所に病人は一人もいない。健康な人と死人だけだ」。
誰が「健康」を決めるのか
繰り返すが、社会システムに組み込まれた健康に反対しているわけではない。国民皆保険制度は、半世紀以上にも渡り、日本の健康を支えてきた。必要なときに必要な医療が受けられる、いわば日本の財産ともいえる。
だが、限定される医療リソースを奪い合う状況を抜けた後、健康についての強制力が無条件に発動することを恐れている。結果として狂気への道になったとしても、始めた人は善意を敷き詰めていることが人の常だから。
ここで何らかの結論を出したいわけではない。問題は、こうした物語やレトリック、歴史的事実を吟味することなく、「ふいんき」で流されていくことを心配している。人類はムードに流されやすい。不安は煽られやすいし、恐怖は思考を止めやすくする。
「健康=正義」の世の中になるとき、この文章は非常に奇妙に見えるはずだ。だが、健康であることは、誰が決めるのか(決められるのか、そもそも決めるようなことなのか)を吟味する上で、考える材料となるだろう。
考えるきっかけや、参考となる作品を教えていただいた、御田寺圭さん、@kei9744さん、@chakabocoさん、@itachirei08さん、ありがとうございました。
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