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本を読もう

Sugohon2

父から貰った言葉で、今も大切にしているのは、「本は待っていてくれる」である。

本は、読まれることを待っている。無理強いせず、辛抱強く、わたしが戻ってくることを待ち続ける。これが、テレビやネットだと、目まぐるしく変化し、見ること・反応することを強要する。

本は、何もしない。わたしが集中することを、静かに待っていてくれる。

そして、これは読書猿さんに教わった、「同じ本を読む人は遠くにいる」を大切にしている。

ただ一人、ページと向き合うとしても、同じ本を読む人は遠くにいる。これは、物理的な距離という意味でも、時間的な隔たりという意味でも然り。本に取り組んでいる限り、けっして孤独ではない。

本は、わたしを繋げる。同じ本を読む人と、時空を超えて繋げてくれる。

最後に、わたしから伝えたいのは、「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」

2どんな本を読めばいいのか。人生は短く、読む本は多い。積読山を崩しているうちに人生終わる。だから、”それ” を読んだ「あなた」を探そう。探し方は、[この本] に書いた。

人生は短い。

だから、画面を閉じて、ページを開こう。だいじょうぶ、本は待っていてくれる。本に向き合う限り、必ず誰かと繋がっている。そして、あなたが知らないスゴ本は、きっと誰かが読んでいる。

本を読もう。

スゴ本

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可憐でエロくて危うい百合 ✕ 吸血鬼『ヴァンピアーズ』

まず、このシーンを見てほしい。

Vanp2

授業を抜けだした一花(いちか)が、体育館の裏でアリアに血を吸わせるところ。首は痕が目立つから、腕を差し出す。皮膚を破る鈍い痛みと、痛みが減衰してゆき、べつの感覚に変わる快に身をよじる。第4話「INTRUDER」の一幕で、狂おしいほど好き。

血を分け与えるというのは、どんな気分なんだろう。

自分の命が相手の一部になる。昔、授乳する嫁様の表情からオキシトシンを想像して、多幸感をシンクロさせたことがある。あんな感じだろうか。あるいは、成分献血マシンに抜かれる際の、幸せな眠気みたいなものだろうか。

あるいは、血を吸う感覚はどんなものだろう。

相手の精を飲み干す。うっすら汗ばむ白い肌にむしゃぶりついて、痛くならないギリギリ甘噛みして、むせるような生々しい匂いと共に、しょっぱさを覚えながら吸い・舐めとる際の、ケモノだったことを思い出すような感覚だろうか。

この妄想を、美少女 ✕ 美少女で実現したのが、『ヴァンピアーズ』だ。

描いているのはアキリ氏、とある界隈では伝説級の方である。巧みな物語構成と、可憐さと不穏さを掻き立てるエロスには、わたしも大変お世話になっている。

主人公は14歳の一花。大好きだったお祖母ちゃんのお葬式で、目の覚めるような美少女アリアに出会う。異国の雰囲気をまとった不思議な少女に、完全にひとめ惚れしてしまうのだが、実はその子、人の血を吸う……というのが第一話で、完璧にハマってしまった。

まず、表情がイイ。血をやりとりする際の恍惚とした顔を見てるだけでイケナイモノを見ているような背徳感がぞわりと上がってくる。同時に、血を吸うアリアの目が爬虫類になるのもイイ。S.キング『呪われた町』で、血を吸われるのは性的快楽よりも良いとあったが、むべなるかな。

次に、ストーリーが好き。単なる百合 ✕ 吸血鬼の日常ほのぼの系かと思いきや、目的が与えられている。それは、「私を殺して」という目的だ。吸血鬼は基本的に不死で、アリアが主人公に近づくのは、自分を殺して欲しいから。いっぽう彼女が好きになってしまった一花は、どうしたら自分に振り向いてもらえるか悩み・試行錯誤する。

この、与える/与えられる、捕食者・被食者の関係が捻じれてて面白い。設定もキャラも違うけれど、TONO『チキタ★GuGu』を予感してヒヤっとさせられる。もし作者が意識しているのなら、号泣する準備はできている。

吸われる一花になりきる妄想もよし、吸うアリアに感情移入するのもよし、疲れた心は百合 ✕ 吸血鬼で癒そう。

第一話のお試しは、SundayGX『ヴァンピアーズ』で読める。

 

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健康ディストピア

Health

「健康は義務です、不健康は犯罪です」とアナウンスしながらドローンが行き交い、市民の健康係数を測定する。サーモグラフィで自動測定し、体温が高いと「風邪で休まないのは犯罪です」と勧告する。

健康係数が良いなら、健常者と判定され、執行対象にはならない。

しかし、規定値を下回ると、潜在的な不健康者として判定され、様々な制限が加えられる。食事制限や運動が義務化され、タバコ等の嗜好品が限定されたり、保険金の割引オプションが利かなくなる。

さらに悪くなると、当人の健康状態が周囲への悪影響を及ぼす潜在感染犯と判断され、執行対象となる。マスクと手袋の着用が強制され、守らない場合は捕縛され、厚生施設でセラピーが施される……

……という物語を思い浮かべたのは、御田寺圭さんの「コロナ後の世界」に忍び寄る「健康・健全ディストピア」を読んだから。コロナ禍の先、社会保障や医療リソースが制限され、健康であることがルール化された相互監視未来を、「ヘルシー・ディストピア」と言い表している。すごい。

「健康=正義」の社会

そこでは、「健康=正義」される。

タバコを嗜む人、お酒が好きな人、メタボといった不健康な人は、医者から注意を受けたり、白い目で見られるだけでない。はっきりとルール(条例・法令)違反として改善が義務付けられる。免疫力が低下する高齢者は、それだけで健康色相が濁っていると判別される。

もちろんこれ、アニメの『PSYCHO-PASS』から派生した、わたしの妄想だ。人の心理状態や犯罪傾向を測定し、規定値を超える犯罪係数を持つ人間を「潜在犯」と見なし、社会から排除もしくは殺処分する人々を描いた傑作だ。

人の心というものは、数値化できるか? 特に、未だ犯罪に至っていないのに、PKディックの『マイノリティ・リポート』のように犯罪予防できるのか? といった疑問は、Amazonプライムで確かめていただくとして、ここでは、「健康」について述べたい。

N/A

不健康は悪なのか

「健康」は、一見、誰も反発したり疑義を唱えられない中立的な善のように見える。誰だって病や苦痛を避けたいから、健康であるに越したことはない。どれだけお金を積んだって、健康はお金では買えない。もちろんその通りだ。健康であることは、「よいこと」とされるのが一般的だ。

しかし、誰も反対しないからこそ、この言葉を使えば、先入観を押し付けることができる。無条件に「よいこと」だと認められるからこそ、製品を売るために用いられても、そのレトリックに気づきにくい。

「健康的な体形」は、それにそぐわない体形に烙印を押す。「健康的な生活」、「健康的な食事」、「健康的なセックス」など、この言葉に訴える際、ある種の価値判断が密やかに発動する。「ダイエット」や「フィットネス」といった言葉を援用することで、健康への欲望を作り出し、操作することが可能だ。その価値判断は、健康の名のもとに押しつけられるため、健康ファシズムと呼ばれている。

こうした、健康という言葉の背後にあるモラル的な風潮をあぶりだしたのが、『不健康は悪なのか』という論文集だ [書評はここ]

これは、不健康を賛美する本ではない。母乳育児を推進する全米授乳キャンペーン、ヘルスケア用語に覆い隠された肥満嫌悪、「ポジティブであり続けること」を強要される癌患者、定義変更により創出される精神疾患など、「健康」という言葉に隠されたイデオロギーが、グロテスクなまでに暴かれる。

健康が強制される社会

ご注意いただきたいのは、こうした健康について管理された社会が完全にダメというわけではないこと。

公衆衛生にかかるコストや健康を維持するために必要なリソースは、個人では負担しきれない。だから社会で担うのだという発想で、社会保障や医療システムができている。「健康であることは望まれること」を前提とした、このベースラインは維持していきたい。

だが、「健康であることが強制されること」となる世界を懸念している。個人の努力目標ではなく、社会から制限や強制される方向に加速し、その大義名分として「健康=正義」という棍棒が振り回される社会までを妄想する。

健康な生活を営むことは、権利ではなく、義務となる。

不健康な生活は排除され、健全で安楽な社会といえば、ハクスリー『すばらしい新世界』が有名だろう。苦痛や不快のない、安楽で幸福な科学文明の未来を描いたディストピア小説だ。あるいは、伊藤計劃『ハーモニー』における、パンデミックにより崩壊した政府に成り代わった、新たな統治機構「生府」を思い出す方もいるかもしれぬ。

いずれにせよ、そこには高度な医療経済社会が築かれ、健康や幸福を目指すことは権利ではなく義務とされ、そこからの逸脱は禁じられる。「健康的である自由があるように、不健康になる自由だってある」なんてセリフは、戯言となる。

N/A

「うちの収容所に病人は一人もいない。健康な人と死人だけだ」

それはフィクションの話で、ディストピアに振り切った物語にすぎない、と指摘できる。

どの時代の政府であれ、国民の健康は国力に直結するのだから、大なり小なり健康管理社会になるもの。それを極端にしたフィクションなのだ、とも言える。

しかし、「健康=正義」を推し進めると何が起きるのかは、フィクションではなく過去を振り返ればいい。

T4作戦だ。

1939年ヒトラーの命令書から始まり、「不健康であり、生きるに値しない」と医師が選別した人々が、次々にガス室へ送られた作戦だ。

ナチスの強制収容所といえばユダヤ人の迫害に着目されがちだが、この作戦により、うつ病や知的障害、小人症、てんかんに始まり、性的錯誤、アル中患者といった人が、記録されているだけでも7万人、一説によると20万人も犠牲になったという[Wikipedia:T4作戦]

ヒトラーが署名したのは、治癒不能の重い病気を抱える患者に対し、十分慎重な診察のもと、安楽死がもたらされるよう、医師の権限を拡大する命令書だった。

当初は、苦しみから解放するという建前だったが、社会の幸福のため、科学的正当性のもと、社会を合理化する推進力になる。「健康であること」を医師が選別し、著しく不健康な存在は、社会から排除したのだ。

当時は戦力増強という目的があったものの、ナチスほど国民の「健康」に執着した組織はなかったという。

タバコとアルコールの追放運動を行い、飲酒運転には高額な罰金を課した。結核の早期発見のためのX線検査、学校での歯科検診、身体検査を制度化した。栄養のある食事、運動、新鮮な空気、適切な休養が啓発された。決められた「健康」を満たせない者は「役に立たない」とみなされる。つまり国民は、「健康」を強要されたのだ。

この件は、『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』に詳しい [書評はここ]。そこに出てくる、ブーヘンヴァルト収容所の所長の言葉が強烈だ「うちの収容所に病人は一人もいない。健康な人と死人だけだ」

N/A

誰が「健康」を決めるのか

繰り返すが、社会システムに組み込まれた健康に反対しているわけではない。国民皆保険制度は、半世紀以上にも渡り、日本の健康を支えてきた。必要なときに必要な医療が受けられる、いわば日本の財産ともいえる。

だが、限定される医療リソースを奪い合う状況を抜けた後、健康についての強制力が無条件に発動することを恐れている。結果として狂気への道になったとしても、始めた人は善意を敷き詰めていることが人の常だから。

ここで何らかの結論を出したいわけではない。問題は、こうした物語やレトリック、歴史的事実を吟味することなく、「ふいんき」で流されていくことを心配している。人類はムードに流されやすい。不安は煽られやすいし、恐怖は思考を止めやすくする。

「健康=正義」の世の中になるとき、この文章は非常に奇妙に見えるはずだ。だが、健康であることは、誰が決めるのか(決められるのか、そもそも決めるようなことなのか)を吟味する上で、考える材料となるだろう。

考えるきっかけや、参考となる作品を教えていただいた、御田寺圭さん、@kei9744さん、@chakabocoさん、@itachirei08さん、ありがとうございました。

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読むべき最高のテキストは東大入試現代文にある

Toudaino

いま読むべき本、考えるべきテーマは、東大入試の現代文に集まっている。

日本最高の学府は、未来の知を背負う人として、どういった人を求めているか?  何をテーマとし、どんな本を俎上に載せ、どこに着目し、どんな問いを投げ、いかなる解答を期待しているか? そこに、「入試問題」という形をとった、東京大学からのメッセージを見ることができる。

これが数学や英語の問題だと、ちょっと手が出ないかもしれない。

だが、これが現代文なら、とっつきやすい。

東大のメンツにかけて「いま考えるべきテーマ/読む価値のある本はコレだ!」として選び抜き、しかも、「良いところはこの部位」と切り出してくれる。つまり、どんな知が求められているか? への東大の応答が、入試現代文そのものなのだ。

『東大のヤバい現代文』は、そうした脂の乗った良問を、関連書籍とともに美味しく料理してくれる。ナニ、東大と臆するなかれ、丁寧な解説で、何が重要かだけでなく、なぜ重要なのかが分かる仕掛けになっている。

「歴史=記録されたもの」を揺さぶる

常識に揺さぶりをかけるのが、宇野邦一『反歴史論』からの入試問題と解説だ。

わたしが当然のように考えていた「歴史とは、人間社会の活動の記録だ」という常識に、ガツンと一撃を喰らわせられる。

『反歴史論』から切り出された入試問題文では、「記録されたもの」だけが歴史ではないという主張が展開される。国家や社会の代表的な価値観によって中心化されがちな、いわばメインストリームとしての歴史に対し、歴史を「記憶」とする考え方が紹介される。

そこでは、記録されたものだけを歴史とする「常識」に抗うかのような、「記憶としての歴史」が対比される。これにより、わたしの常識だった「歴史」とは、国家や社会の価値観によって等質化され、個人の思考や欲望のありかたを方向づける装置であることが暴かれる。

東大現代文には、こうした常識を問い直す、当たり前の前提を取っ払うような問題文が、よく出題されるという。これは、学問の入口にいる受験生へのメッセージだという。すなわち、知性というものは知識で頭を一杯にすることではなく、そうした知識の前提となっているものを問い直す行為になる。

本書は、この問題文の「~を説明せよ」の背後にある意図にまで踏み込んで解説するだけでなく、その意図をさらに掘り下げ・拡張する書籍を紹介してくれる。クライブ・カッスラーの冒険小説からエマニュエル・カントの哲学書まで幅広く、ブックガイドとして扱うのもいいかも。

「芸術=オリジナリティ」を疑う

あるいは、わたしの芸術観が、浅沼圭司『読書について』からの入試問題と解説で揺さぶられる。

優れた創作とは天才の証であり、芸術作品は唯一無二の存在だと信じていた。だが、それは近代に確立された通念に過ぎないということが暴かれる。

芸術は、唯一無二のオリジナリティが求められるものである一方で、「芸術」というジャンル・枠組みに組み込まれている……これが近代における芸術の常識だという。唯一無二なのに、同じジャンルというのは矛盾している。真に独創的であるならば、そうした「枠組み」自体を破っているから。

つまり、独創的な作品Aと、オリジナリティあふれる作品Bが、同じ枠組みにあるということは、原理上ありえない。にもかかわらず、その矛盾を解消するために、芸術に「ジャンル」が求められるのだ、という考え方である。

例えば、個々の作品を「水彩画」、「油絵」、あるいは「グラフィック・デザイン」といったジャンルで括れる一方、さらに広げて「平面作品」というネーミングも可能だ。

そして、「平面作品」があるということは、「立体作品」が出てくる。さらに、「視覚芸術=美術」として括れる。視覚があるということは、聴覚芸術=音楽が出てくる……芸術のオリジナリティを疑うところから、芸術の体系システムを導き出すことができるのが面白い。

解説では、今村仁司『近代の労働観』や青山昌文『美学・芸術学研究』を引きながら、古代ギリシャの手仕事の序列(ポイエーシスとテクネ―)や、ルネッサンス期の工房の職人の位置づけを説明する。

そこでは、画家や彫刻家という表現はあっても、作品のオリジナリティや個性を目指すところではないという説が紹介されている。ゴンブリッチ『美術の物語』とぶつけると面白い反応が得られるかも。

問うことで読めること

東大現代文は、知的意外性に満ちた文章を突きつけて、「説明しなさい」というスタイルで突き放す。読み手(受験生)は否が応でもその意外性も含め、理解することを余儀なくされる。

おそらく、意外性のない、誰でも思いつきそうな文章では、ロクに読まれることなく解答できてしまうからこそ、こうした知的に歯ごたえのある食材が求められるのかもしれぬ。

漫然と読むだけでは「なるほどー」で終わってしまうが、問いを念頭に置くことで、同じ文を別の目で読むようになる。書き手が疑っている常識に向き合い、さらに―――ここからは入試の外に出るが―――「書き手が疑っていること」そのものを、批判的に見るのだ。

知的な姿勢というものは、自分自身も含めた反証可能性を頭のどこかに置きつつ、問いを抱えて向き合う態度なのかもしれぬ。

良い問いで、良い読みを。

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オンラインで読書会したら、すごく楽しかった

好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合うオフ会、それが [スゴ本オフ]

いつもはワインやビール、サンドイッチや唐揚げを持ち寄って、食べながら飲みながら歓談するのだが、このご時世、無理というもの。

なので、オンラインでやってみた。

時間を決めてURLを伝えて、各人は自分のPCやスマホからアクセスする。オンラインミーティングみたく顔出してもいいし、エヴァンゲリオンよろしくSOUND ONLYも、ROM専ならぬBGM代わりに聞く専もあり。

テーマは「いま、何を読んでいる?」

本を読む人は、言葉に力があることを知っている。心を削る物言いや、注意を擦り減らせるテロップのダメージ敏感だ。

だから、テレビを消して、SNSを閉じて、好きなものに没頭したくなる。そんな、自分を楽に、夢中に、解いてくれる本はなんだろうか? リアルに集まって話せない今だからこそ、ネットで交流してみよう。

もちろん、いつもどおり、本に限らず、映画やドラマやゲームなど、「いま読んでる/観てる/プレイしてる」作品もOKだ。

行けない旅を慰める『乙嫁語り』

俺得だったのが、友美さんご紹介の森薫『乙嫁語り』

聞けば、このGWに、中央アジアの旅を予定してたという。何百年も昔からあるブハラのサウナで蒸され、サマルカンドの家庭料理を習い、キルギスの草原を馬の背に揺られ、夜はユルト(遊牧民の天幕)で眠る旅を計画していたのが―――行けなくなった代わりに『乙嫁語り』を読み返しているとのこと。

『乙嫁語り』を未読という幸せな方向けに説明すると、これは、19世紀後半の中央アジア・シルクロードを舞台に、厳しい自然の中に生きる人々を描いたコミックだ。「乙嫁」(かわいいお嫁さん)というキーワードで、のんびりした生活からハラハラする活劇まで、ゆっくり、たっぷり楽しめる。

以前、[結婚は素晴らしい v.s. 結婚は人生の墓場] というテーマでスゴ本オフをしたのだが、そこで強力にプッシュされ、手に取って大正解だった。美しく、可笑しく、ときに愚かで、愛おしい人々の群像劇に、ほっこりしたり目を潤ませたり。

スゴ本オフ「結婚」より

Kekkon

そこで出てくる食べ物がめちゃめちゃ気になるんだ(私の偏見だが、本好きは食いしん坊と相場が決まっている)。巨大な鍋で皿を蓋代わり作る焼きメシや、キジの串焼きなど、あれ美味しそうだよねーと語っていたら、こんな記事を紹介される(このレスポンス、オンラインのいいところだね)。

[レッツ乙嫁クッキング~森薫と作るかんたんおいしい中央アジア料理]

これ、作者自身が、『乙嫁語り』に出てくる料理を再現するという企画。絵こそ描いたものの作るのは初めてらしいが……めちゃめちゃ美味そうやん! 特に鉄串にトリ肉刺して唐辛子振ってグリルするなんて最高やん。

さらに、物語の時代背景や地域の状況を解説したムック本『超解読 乙嫁語り ~中央アジア 探索騎行』を紹介してもらう。知らなかった! こんな素敵な解説本が出ているなんて。

さらにこれ、本で買うと1,980円なのに、kindle unlimitedなら無料という情報も教えてもらう(嬉々として借り出す、なんという俺得)。

まだある。『乙嫁語り』から派生して、メンバーから次々と出てくる本が繋がってゆく。

特に、『文明の十字路=中央アジアの歴史』(岩村忍、講談社学術文庫)が凄い。シルクロードを舞台に、アレクサンドロス大王とチンギス・ハーンの侵攻から、仏教・ゾロアスター教・マニ教・イスラムも行き交う中央アジアの雄大な歴史を一冊にしている。これは読む!

他にも、『興亡の世界史 東南アジア 多文明世界の発見』(石澤良昭、講談社学術文庫)や、『ウマ駆ける古代アジア』(川又正智、講談社選書メチエ)、『シルクロード全史』(王鉞、中央公論新社)、『イスラム飲酒紀行』(高野秀行、講談社文庫)など、積山がさらに高くなる。

アジア繋がりで教わったのが、[天空のヒマラヤ部族 決死の密着取材150日] という特番。テレビ朝日60周年記念で力作だったらしい。アマプラに出ないかなぁ……

心の在処が分かる『宇宙よりも遠い場所』

ズバピタさんが熱く紹介するのが、[宇宙よりも遠い場所] 、息子さんのオススメで見始めて、ドハマりしているという。「よりもい」かー! これ大好き。

「よりもい」、すなわち「宇宙よりも場所」を未見の幸せな方に紹介すると、女子高生たちが南極を目指すアニメ。平凡な女の子が、とあることをきっかけに、一歩踏み出す……

高校生が南極? なぜ? どうやって? という疑問に動かされ、コミカルだったりシリアスだったりする展開に振り回され、考証に裏付けられたリアルな描写を通じ、夢や友情、そして生きることを否が応でも考えさせられることになる。

わたし自身、後半のあるシーンで、やばいぐらい泣いた。ええトシこいたオッサンが、声を枯らして号泣したんだ。これ、感動したからとかというよりも、むしろ、自分の心の内側が、名づけえない感情で一杯になってあふれ出した結果が、涙になったんだと思う。

良いナイフを当てると、血が滲み痛いと感じる場所が「私の肉」であることが分かる。同じように、良いアニメを観ると、潮のように押し迫りで一杯になる場所が「私の心」であることが分かる。素晴らしいアニメは、心の在処を教えてくれる。

観てない人は幸せ者だと、わりと本気で思ってる。自分の心の在処を、ぜひ確かめてみて欲しい。

ウイルス感染症は、やっぱり気になる

状況が状況なだけに、ウイルスや感染症に関連する本も出てくる。

たとえば、『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド、草思社)。今の状況で再読すると、また違った味わいがあるという。確かに! 

本書は、地球規模の格差がなぜ生じたのか? という疑問を、遺伝学や進化生物学、地質学、行動生態学、疫学、言語学、文化人類学、技術史など膨大なアプローチから解こうとする。

昔これを読んだとき、説得力のある仮説が実証的に示され、とても面白いという印象だった。だが今読むと、人類と疫病がどのように付き合い、社会や生活デザインにどのように影響を与えたのか、という別の示唆が得られる。

また、ウイルス感染症根絶の歩みを解説する『ウイルスの脅威』(マイケル・オールドストーン、岩波書店)が紹介される。天然痘、黄熱、麻疹、ポリオ、エボラ、エイズ、インフルエンザなど、猛威をふるうウイルス感染症が、国境を変えてしまったこともあるという。

あるいは、『迷惑な進化』(シャロン・モアレム、NHK出版)も面白そうだ。なぜ病気の遺伝子がこれほど多くの人に受け継がれてしまったのか? という観点から、進化医学についてミステリを解くように解説してくれる本らしい。

わたしは、「進化」という言葉を気軽に使う。だが、人類が延々とやってきたことは、どこかに向かって「進み化ける」というよりも、状況の変化に「適応」しているだけなんだと思い知る。

文学に登場する疫病の話も出てくる。カミュの『ペスト』は有名すぎるのでスルーされ、ミッチェル『若草物語』や、スティーヴン・キング『ダークタワー』シリーズが紹介される。

考えてみると、疫病と文学の歴史も古い。確か『デカメロン』はペストを避けて引きこもった男女が語る猥談というふれこみだし、『フランケンシュタイン』も疫病のため疎開するシーンがあった(はず)。疫病で疎開と言えば、アイザック・ニュートンが万有引力のアイデアを閃いたのは疎開先のケンブリッジだった(はず)。

この辺りの、人類と疫病の長い付き合いは、『疫病と世界史』(ウィリアム・マクニール、中公文庫)を再読したくなる。自分で書いててなんだが、この辺りを読むと、かなり予言的なことを述べていたように思える。

本書では、疫病が人類を規定する様が語られる。人と疫病は、あるバランスの上で「共存共栄」してきたともいえる。WHOが天然痘の根絶宣言をしても、エボラ出血熱やSARSなど、新しい疫病が待ちかまえている。ヒトという、ウィルスにとって「肥沃な」場所がある限り、感染症は、人類にとっての基本的なパラメーターなのだ。

ちなみにこれ、Amazonでセドリ屋が高値をつけているけれど、リアル書店で山積みしているぞ。本は買いだめ推奨なので、要かつ急のお出かけ時に買い込むべし。

新しいことを始める=変化に適応する

面白い発見もある。

外に出られない→ネットやテレビ見て心を削る→本や映画に戻る……というパターンを繰り返しているのだが、この状況の変化を、もし利用するなら? という発想だ。

ずばりこれ、「新しいことを始めてみる」である。この際だから、やったことのない料理を始める人、ベランダを菜園にする人、犬を飼い始める人と、様々な「新しいこと」を教えてもらう。

私と同じだったのが、「新しく創作を始める」である。

今まで、読み専、ROM専だった。つまり、次から次へと物語を読むという立場だったのだが、今度は自分で書いてみよう、それも創作してみようというチャレンジだ。

そこで、『めんどくさがりなきみのための文章教室』(はやみねかおる、飛鳥新社)が紹介される。単純に文章テクニックを解説するだけでなく、「いかにその気にさせるか」という、モチベに火をつけるという点でも優秀らしい。

わたしも似たようなことを考えているので、同じ流れで『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』(シド・フィールド、フィルムアート社)を紹介する。映画のシナリオ・物語を創作するメソッドが、これでもかと詰め込まれている。さらに、『ドキュメンタリー・ストーリーテリング―「クリエイティブ・ノンフィクション」の作り方』(シーラ・バーナード、フィルムアート社)が紹介される。

あと、短篇集に手を出すというのもいいかも。

わたしは、読んでも読んでも終わらない超弩級級に面白い『氷と炎の歌』(RRマーティン、ハヤカワ)を粛々と読んでいるのだが、小説読むにも体力が要る。もっと手軽に、さらっと読める短篇が紹介される。

たとえば、モームやオコナー、ボルヘスといった短篇の名手や、時代モノの五味康祐『秘剣・柳生連也斎』、あるいは、飯田茂実『一文物語集』が面白そう。スゴ本オフ [この短篇が好き] でおさらいして、再読するのもい良いかも。あるいは、積山リストに刺さっているルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』も短篇集だったっけ…… この際だから、新しい、知らないジャンルにも手を伸ばしてみよう。

人の優れた能力は、可塑性だと思う。

状況の変化に対し、過去の経験や知見を振り返りながら、上手いやり方を試行錯誤で見つける。これ、AI がどんなにもてはやされたとしても、ヒトに適わない所だと考える。自分の行動をメタに見て、ときには目的すらをも変えて、より「よい」と思われる選択肢を試す。

厄災であれなんであれ、「それ」が終わった後になって、その時していたことは「変化に適応すること」だったことに気づく。そして、その「変化に適応すること」とは、厄災の最中では、「新しいことを試みる」うちの一つの選択肢だったことに、過ぎ去った後になって気づくのだ。

オンラインでするオフ会は楽しい

他にも、様々なネタが紹介される。やすゆきさんの海外ドラマの話が面白い。米国のドラマは本当に玉石混交で、ダメはものは本当に酷いレベルらしい(そしてその数はかなりの割合を占める)。で、その中で最も優れた一握りだけが、邦訳されて日本で紹介される。

確かに、考えてみれば翻訳コストを払ってもペイできる見込みがないのなら、そもそも日本に入ってこないよなぁ、と思う。「日本のドラマは酷い、アメリカは最高」という人がいるが、それは輸入された上澄みだけしか知らないが故の発言なのかもしれぬ。

やはり、Webミーティングだと反応が早いし、「今開いている画面」を共有できるというメリットもある。本棚晒してみた反応も楽しい。Web呑み会も参加したことがあるが、楽しいね。

読書猿さんから「同じ本を読む人は遠くにいる」という寸鉄を教わったが、これは時代や場所を超えて、人は本で繋がれるという意味だ。この応用で、Webミーティングで同じ本を朗読したり、読み合う形式にしてもいいかもしれぬ。

今回はお試しで zoom でやってみたのだが、セキュリティリスクもあるらしい。zoom は、アカウント不要でURLを伝えればWeb会議ができるという優れモノなのだが、それはつまり、URLだけ分かればいくらでも入れてしまうリスクもある。Google ハングアウトも良いらしいので、試してみる。

いずれにせよ、いつものオフ会をオンラインでするのは新鮮だった。「それはオフ会ではないのでは?」というツッコミは正しい。だから、これは「スゴ本オフ」ではなく、今度からは、「スゴ本オン」として開催しよう。

こんな時だからこそ本を読もう。

 

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世界はこんなにも不思議で面白い『銀河の片隅で科学夜話』

Ginga

これ好き、丁寧で上質な科学エッセイ。

深夜に寝しなにちびちび読みたいのに、軽妙洒脱な語り口に引き込まれ、するすると読んでしまう。多宇宙論と文学の深い関係を語ったかといえば、民主主義を壊すには、サクラが17%いればいいことを証明したり、倫理学のトロッコ問題を4,000万ものビッグデータでねじ伏せる。

量子力学とボルヘス

たとえば、多宇宙論と文学について。

量子力学と論理学を成立させるため、1957年にヒュー・エヴェレットが唱えた、「複数の宇宙」を仮定した主張だ。これによると、観測する度に分岐する、複数の平行世界が作り出されることになる。世界が進行するにつれ、無数の瞬間に、いくつもの多世界への分岐が生じるというのだ。

わたしは物語に毒されているので、複数世界を行き来するギャルゲーや小説をいくつか思い出してしまうのだが、エヴェレットが多宇宙論を主張する「前」に世に出た、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの作品が紹介される。

それは、1935年に出版された『伝奇集』にある短編で、「枝分かれする小径の庭園」になる。分岐してたえず数を増やしていく庭園の小道が登場する。それは失われた、「迷路でできた迷路」であり、曲がりくねりつつ広がり、迷路そのものに過去と未来を収め、星々までも含んでしまう―――エヴェレットがこれを読んだかどうかは分からないが、響きあうものがあるという。

言われてみれば確かにそうかも。そして、いったんそうした目を持ってしまったなら、今度はボルヘスを科学の可能性として読めやしないかと試みたくなる。

たとえば、認識が存在を規定する世界観なら、「庭園」よりも「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」の方がしっくりくる。捏造された百科事典をめぐる奇譚なのだが、この宇宙が誰かの夢ではないことは、確率に過ぎないという読後感が残る。ひょっとすると、エヴェレットはこっちを読んでいたのかもしれない。

H.G.ウェルズと核爆弾

あるいは、中性子爆弾とSF小説について。

物理学者レオ・シラードが、1933年、中性子をぶつけて原子核を崩壊させる実験で、あるアイデアを思いつく。

それは、「崩壊で中性子が飛び出し、それが別の崩壊を連鎖的に引き起こしたら、膨大なエネルギーが放出されるのではないか?」という着想だ。シラードは仲間とともにこのアイデアを検証するのだが……後はご存じの通り、マンハッタン計画で実現することになる。

本書では、なぜシラードは核兵器の原理を構想したのだろうかという点に着眼する。

そして、1914年に出版されたH.G.ウェルズの『解放された世界』の影響が決定的だったという。小説では、ウラニウム放射線を用いて、何日も繰り返し爆発する手投げ弾が登場する。あらゆる戦場で強力な核兵器が用いられ、人類は絶滅の危機に瀕する。

そこで目覚めた指導者たちが世界政府を作り、人類に最終的な平和をもたらす―――というストーリーだが、現実がそうでないことは今を見ればわかる。事実は小説よりも奇なりというが、現実が芸術を模倣すると喝破したワイルドが正しいのかも。

民主主義を壊すには、サクラが17%いればいい

たいへん興味深いのが、セルジュ・ガラム博士の「世論力学」だ。

様々な利害が対立する中で、どのように合意を形成するか? 単純に多数決を取るのではなく、互いの意見を出し合い、メリット・デメリットを検証していく、コンセンサス形成が重要だ。

このコンセンサス民主主義をモデル化したのが、ガラム博士だという。

人は全ての事案に対して詳しいわけではない。巨大不明生物の進行状況だとか、なぜ宇宙船がカウントダウンしてるといった、専門家でも難しい問題に、適切な判断が下せるわけがない。

だから、他人の意見を尋ねたり、定見を持った人(専門家とは限らない)の主張を参考にしたりする。そうして意見の変更や調整が繰り返され、集団全体が合意する方向性が定まってゆく。

ガラム博士は、この意見形成をシミュレートし、確率分布の時間的分布を記述する式を作成することで、民主主義のコンセンサスを数理モデル化した。

そして、このモデルを色々動かすことで、集団は非常に興味深い振る舞いをすることが見えてくる。

まず、全員が浮動票―――つまり、みんな確固たる意見がない―――状態からスタートした場合、時間の経過につれて賛否のいずれかが優位になり、最後は全員賛成、もしくは全員反対になる。どちらに倒れるかは運しだいといったところだ。

だが、一定の固定票―――つまり、確固とした主張を持つ人がいる―――場合、賛否に与える影響は大きくなる。重要なのは、その主張の正しさ如何ではなく、どの程度の固定票がいるかになる。固定票が17%を超えると、無敵になる。残りの浮動票がどう動いても、最終的に固定票に収束する。

つまり、サクラを雇ってレビューを書かせたり、組織票をSNSにバラまいたり、切り取った「民意」をブロードキャストしたり、やり方はさまざまだが、その数が17%を超えると、合意形成を恣意的に操れるようになる。

これは良いことを聞いた。わたしは、「操られる」ほうの立場だが、(エコーチェンバーでなく)周囲の声が一つに合わさろうとするとき、その中にどの程度のサクラがいるのだろうか? という目で見るとしよう。その上で一緒に合唱するか、その輪から外れるかを選ぶこととしよう。

著者は量子力学の専門家なのだが、文学や歴史についても造詣が深く、世界の面白さについて、様々な分野から、縦横無尽に語ってくれる。寝る前に一話ずつ読むと、一ヵ月くらい不思議で楽しい夢が見れそう。

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