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エドワード・サイードの遺言『人文学と批評の使命』

わたしの価値観を変える契機となる一冊だった。

Humanities

読んだら一気に変わる即効的なものではなく、これをきっかけとして、世界の見え方の次元が変わる。二次元の世界から三次元へ離陸させるような言葉を、サイードは語る。

どう変わるのか?

現在進行形で変わりつつあるため、うまく語れるか分からない。だが、やってみよう。そのためのブログなのだから。

認識されたものを認識しなおす

まず、人文学の射程がとてつもなく長いことが実感できた。乱暴に一言でまとめると、「認識されたを認識しなおす ≒ 人が書いたものすべて」になる。

今までは、こんなイメージを抱いていたのだが、それが一掃された。

  人文科学(哲学とか歴史とか) ←このへんに人文学
  社会科学(経済とか教育とか)
  自然科学(物理とか生物とか)

最初は哲学から始まり、そこから研究対象や手法によって領域が分かれてゆき、それぞれの縄張りがゆるやかにある。そこで、人文学は哲学や歴史を扱うため、その領域の中の伝統的な学問だと考えていた。

しかし、その認識を変えるほうが面白いことが分かった。大学のカリキュラムならこれで良いが、人文学を、分野ではなく、方法として捉えるのだ。

サイードは、人文学とは、人の働きの産物、表現を作り上げる個人の能力にかかわるものだと説く。物理的、生物的といった、自然法則による説明や、社会的状況や集団心理による説明には、うまく適さないものすべてから成り立っているという。

人文学は、人間の意志と営為による形式の達成である。市場や無意識の働きをどれほど信じようと、人文学はそうしたシステム、非個人的な力とは別物である。

要するに、「人間の業績」と言われるもののことだという。

人文学という方法

ここからは、本書から発火した、わたしの妄想になる。

見方を変えると、人間の業績となるためには、それが記述されなければならない。記述され、評価され、残されたものが人文学の対象となる。認識され、記述されたものを批判的に認識しなおし、受け継いでいく。人文学は、「人文科学」の一分野というよりも、むしろ人文学という方法なのだ。

極端な話、「物理学から認識された世界を認識しなおす」行為は、人文学の対象になる。近年議論となっている例なら、医療倫理や環境問題、人権と公的福祉などが挙げられる。

すると、「人文科学vs.自然科学」や「人文科学vs.社会科学」という対立構造ではなく、こうなる。

  人文科学(哲学とか歴史とか) ←人文学の方法
  社会科学(経済とか教育とか) ←人文学の方法
  自然科学(物理とか生物とか) ←人文学の方法

人文学からほど遠いと考えていた、天文学ですら射程に入ってくる。もともと「天文」と「人文」は対で、春夏秋冬など天の描いた美しい文様を天文、文化や文明など人が作り上げたものが人文になる。

それが、天を眺めるために電波望遠鏡や素粒子観測装置を作るようになるにつれ、天の概念も変化する。だが、その変化がどのように生じているかを考えるのは、人文学の方法になる。

人文学の射程

たとえば、天動説と地動説だ。

星辰の振る舞いを、この地を中心として宇宙が動いているとみなすのか、地球も一つの惑星として自転しているからだと考えるのか。コペルニクス=ガリレオ以来、決着のついた問題だ。神に創られしこの星こそが、宇宙の中心であるというキリスト教的世界観と、膨大な観測データを積み重ねた客観事実が対決した問題だ。

なぜこの問題があったのかを人文学的に考えるならば、今日、まさに現在進行形で更新されつつあることが分かる。

それは、系外惑星の問題だ。

太陽系以外の、恒星を公転する惑星のことだ。その観測歴史は浅く、科学的観測に基づいて初めて発見されたのは1988年だった。だが、当時はなかなか受け入れられず、正式に認められたのは1992年になる。いったん認められると、系外惑星は爆発的に「発見」されるようになり、今では4,000を超えるという[Wikipedia:太陽系外惑星]

なぜ、認められなかったのか? なぜ、数多くの星を見落としていたのか? 人文学的に考えてみよう。もちろん技術革新による観測精度の向上もあるが、それよりも、神に作られしこの太陽系こそが、宇宙で唯一のモデルであるというキリスト教的宇宙観が、天を見る目を阻害していたのではないか、と考える。

さらに、キリスト教的宇宙観が観測データに影響を与えている例として、ビッグバン理論を考えてみよう。「光あれ=ビッグバン」はメタファーではなく、本当にそう信じているからこそ、理論としているのではないか? という疑いだ。

ビッグバン理論を支える様々な観測データや仮説は、まさにその理論をもっともらしくするために取捨選択されたものだ。そこに至るまでに、完全にピュアな―――言い換えるなら、「光あれ」のキリスト教的宇宙観からフリーな―――観点で検討され、取捨選択されたのだろうか?

あるいは、ある仮説が浸透し、確かな理論として確立するためには、それを熱烈に支持するグループが必要だ。そのグループは、もっと大きな、たとえば宇宙物理学を研究するグループの中で力があり、かつ多数派であることが重要だ。

もちろん、自然科学は多数決ではない。だが、エビデンスが充分に揃っていない仮説群の中、どんぐりの背比べ的な状況で何が採択されやすいかと考えるならば、多数派であり有力(≒予算を持っている)グループになる。そのグループは、キリスト教的世界観の教育を受けたグループと重なるのではないか?

天動説や系外惑星、ビッグバンなど、自然科学の範疇にあるものであっても、いったん人の手で記述されたものとして向き合うならば、それを、認識されたものを認識しなおすことができる。そして、認識されたものを批判的に検討することで、そこで陥っている状況をメタに見直すことができる。これが人文学だ。

以上、わたしの妄想おわり。

人文学の実践

サイードは、「オリエンタリズム」として認識されたものを認識しなおすことで、この人文学を実践した。

もともと、「オリエンタリズム」は、東洋趣味を指す美術用語だった。サイードは、膨大な文献や文芸読み込み、大量の美術作品を渉猟し、西洋から見た東洋に対する思考様式を「オリエンタリズム」として定義した。

その上で、オリエンタリズムに包摂される人種主義的、帝国主義的な姿勢を批判的に検討した。さらに、この検討を通じて、人間は異文化をどのように表象するのか、また、異文化とは何なのかという問題提起も行なっている。

『人文学と批評の使命』は、サイードの晩年に編まれ、死後に出版された、いわば彼の遺書とも言える。生涯をかけて人文学を実践したサイードの姿勢は、ここに凝縮されている。

その具体的な方法としての文献学(フィロロギー)や、ヴィーコ『新しい学』、アウエルバッハの『ミメーシス』も紹介されている。特に『ミメーシス』は、読書猿さんもお薦めしている。サイード&読書猿という大先生が推すのなら、読まずに死ねるわけがない。読むぜ読むぜ。

グスタフ・マーラーの言葉に、こうある。

  伝統とは火を守ることであり、
  灰を崇拝することではない。

人文学という火を、受け継いでゆこう。

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