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日本史に残る巨大 IT プロジェクトから学べること『みずほ銀行システム統合 苦闘の19年史』

Minori

大規模 IT プロジェクトの成功事例と、大規模システム障害の失敗事例を合わせた一冊。読み手に応じ、さまざまな学びが得られる。

困難な状況で、プロジェクトを成功に導く教訓を学ぶこともできるし、史上最悪のシステム障害がどのように発生し、波及していったかを生々しく読めるし、二度と起こさないための再発防止策を具体的にピックアップすることもできる。

  1. 「東京スカイツリー7本」の ITプロジェクト
  2. なぜアズイズ(As-is)が問題なのか
  3. プロジェクト推進体制を強化する具体的な方法
  4. 2002年と2011年の大規模システム障害の顛末
  5. IT システムの赤の女王説
  6. 日経コンピュータの「演出」

1. 東京スカイツリー7本分

IT業界のサグラダファミリアと呼ばれてきた、みずほの勘定系システム「MINORI」が、2019.7月、ついに完成した。

  • 4,000億円という巨費を投じて
  • 富士通、日立製作所、日本IBM、NTTデータを筆頭に1,000社のSIerを巻き込み
  • みずほ銀行、みずほコーポレート銀行、みずほ信託銀行のシステム要件を元に
  • 8年の歳月をかけて要件定義・設計開発・テストを進め
  • 足かけ2年、計6回システムを止めてデータ移行を行い
  • みずほFGの400営業店の事務担当17,000人が利用する勘定系システムを作り上げた

東京スカイツリーで換算すると、7本建てられるというMINORI。その元となるのは以下の勘定系システムになる。

  • みずほ銀行の勘定系システム「STEPS」
  • みずほコーポレート銀行の「C-base」
  • みずほ信託銀行「BEST」

この場合、普通なら「片寄せ」、つまりどれか一つのシステムに統合させることで、開発コストやリスクを下げようとする。ところが、旧システムから一切を引き継がず、一から作り直す完全な新規開発だったという。

当然、順風満帆で進まない。要件定義に難航し、2度のリリース延期を強いられ、体制の抜本的な見直しを行い、産みの苦しみを経てきた。終わらないプロジェクトに、「横浜駅・渋谷駅とどっちが先か」などとも揶揄されていた。

そこで、みずほFG(ファイナンシャルグループ)の人々は、どこに苦しみ、どんな工夫を積み重ね、どうやって課題を発見・克服していったか。

2. アズイズ(As-is)を殺せ

MINORIの要件定義は4年遅れたという。システムが担う機能面や求められる性能を明確にしていくフェーズなのだが、そもそも現状がどうなっているのかを掘り起こすのに難航したとある。

そこで徹底されたのは、「アズイズ(As-is)の全面禁止」だ。As-is とは、今の・現状の姿のこと。

もとは、現状の業務フローや手順書を洗い出すことを指す。そして To-be というあるべき姿と照らし合わせ、システムがどのような役割をはたすかを検討する。

しかし、「アズイズ」という言葉が独り歩きし、ユーザ部門が「現状のままで良い」「業務を変えずにシステムで効率化してくれ」という要求を押し付けるために使われるようになる。現在の業務をろくに調べもせず、「アズイズでよろしく」―――これを変えるため、アズイズを全面禁止にする。

代わりに、To-be をユーザ部門に考えさせる。

銀行業務を棚卸して、あるべき業務フローを描かせる。そうすることで、なぜその業務を行っているかを考え、全体の中での位置づけや、先行・後続業務の必要性も検討しはじめるようになったという。

「前からやってたから」「そう引き継がれたから」という発想から離れ、「そもそもその業務は何なのか」と考えさせるための、アズイズ禁止令なのだ。これ、CIOの命令だからできたものだと考える。強制力さえあれば、かなり有効な技だろう。

3. プロジェクト推進体制を強化する

それまで、各グループの情報システム部門がバラバラに動いていたという。

みずほFG、みずほ銀行、みずほコーポレート銀行のそれぞれに情報システム部門と企画部門があり、連携コストがかかっていたとある。これらを統合し、持ち株会社であるみずほFGに一本化させ、そこでシステム刷新を推進する体制に改めたという。

そして、みずほFGのCIOは、「みずほグループCIO」に就任し、システム担当役員、常務取締役を兼務し、さらに取締役副社長・副頭取まで兼務させる。

かつて、みずほFGのCIOは取締役会のメンバーではなかったという。つまり、情報戦略の最高責任者を一段低く見なしていたのだ。それを改め、CIOの立場をより重くし、経営トップの強いリーダーシップが発揮できるようにしたとある。

そして、実働部隊はみずほ情報総研となる。そのトップ「情報システムグループ長」はみずほFGの情報システム部門の兼任とし、権力を集める。その上で、情報総研のベテランをFGに出向させることで、「システムが分かる持ち株会社」を作り上げる。これまで、どれだけ冷遇されてきたかが惻隠されて泣けてくる。

他にも、様々な施策が紹介されている。

例えば、会社や部門間の利害を調整し、全体最適の視点で意思決定を下すためのタスクフォース+事業部会の両輪体制や、ユーザ部門に上流工程支援ツールXupperを強制的に使わせるスルタンなやり方、移行管理システム「みずほ天眼システム」が解説されている。

特に、全てのコードを自動生成させることを徹底したのは驚いた。「超高速開発ツール」を採用し、コードに混ざる属人性を排除したという。しかも、「生成されたコードの手修正すら禁止」とある。処理の冗長化による性能問題が懸念されるが、そこもうまく乗り越えている。

巨大な組織を編成する方針から、開発体制や方式の作り方まで、こうした施策は、CIOか、CIOに近い人にとって参考になるだろう。これが、本書の前半だ。

4. 2002年と2011年の大規模システム障害

本書の後半では、みずほ銀行で起きた、2度の大規模システム障害を分析する。

まず、第一勧業、富士、日本興業の経営統合に伴うシステム統合において、2002年に発生したもの。

  • 現場に丸投げされた統合方針の決定が紆余曲折し
  • 結果、システム統合のスケジュール・統合作業が遅れに遅れ
  • 予定していたシステム運用テストの開始がずれ込み
  • ろくなテスト検証が果たされないまま開業が見切り発車され
  • 開業初日からATMの障害が発生し、公共料金の自動引き落とし等の口座振替に遅延
  • トラブル発生後も対応が遅れるなどで、振替の遅延が拡大、大混乱となった

次に、2011年、東日本大震災の義援金口座に振り込みが殺到したことがトリガーとなって引き起こされたもの。

  • 2007年に口座の設定を誤っていたため
  • 義援金の殺到を適切にさばけず異常終了を引き起こし
  • その復旧に8時間かかり、38万件が積み残された
  • それが翌日のオンライン起動に影響を及ぼし
  • 二重振込、振替遅延、ATM一部停止を引き起こした
  • さらに未処理データが雪だるま式に膨らむ悪循環に陥り
  • 勘定系システムが強制終了することになり、全業務が停止した

最初は単なる業務エラーなのに、想定外が重なり、大規模障害へと被害が拡大してゆく。その様子は生々しく、読んでるこっちの胃が痛くなる。即辞表を叩きつけ、逃げ出したくなるようなエグい話が淡々と描かれている。

5. IT システムの赤の女王説

前任者の不手際による障害について、詰められたことはないだろうか? 

わたしはある。前任者が誰であれ、現在が自分の担当なのだから、詰問にも耐えるし火消しにも努力を惜しまない。

だが、その前任者が何代も前の人で、ひょっとすると自分が入社する以前に設計されたことが、時代の移り変わりとともに、利用状況に合わなくなり、不具合となって潜み、何かのきっかけに顕在化し、それが重なりシステム障害となる。

リスクが顕在化するまで、システム更改の必要性が挙げられては「予算がないから」と先送りされる。経営層の言い分は、「何も起きていないから」だが、その安定運用するために膨大なインシデントが人力で回避されているという現実は見ていない。

システムは、リリースしたその日から陳腐化が始まる。

目まぐるしく変わる環境変化に対し、「何も起きない」として安定稼働するため全力を尽くす。その様は、まるで「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」と言った、ルイス・キャロルの物語の女王のようだ。

6. 日経コンピュータの「演出」

2度にわたるシステム障害の経緯と原因、暫定対処と本格対処の分析は、圧巻だ。

特に、p.188の再発防止策の一覧は、ブラックボックスと化したレガシーシステムが引き起こす問題を乗り越えるための対策として、そのまま使えるだろう。

だが、随所で気になる点があった。日経コンピュータの面目躍如というか、よりセンセーショナルにしようという「演出」に引っ掛かったり、みずほFG社長のインタビューの編集が気になった。

もともと、複数の雑誌記事の寄せ集めのため、まとめると不具合に見えるものなのかもしれぬ。特に気になったことを2点、書いてみよう。

一つめ、2011年のシステム障害について。

最初のエラーは、3/14 AM10:16 に起きたものだが、内容は、義援金口座に振込が殺到し、一日に受け付けられる上限値を超えたという業務エラーだ。担当は別口座を設けて、そこを案内する対処を行った。

このエラーが、担当役員に伝わるのに17時間かかり、頭取に伝わるのに21時間かかったことを、「不手際」としている(p.161 重なった三十の不手際)。

もちろん甚大なシステム障害になったことは否定しないが、この業務エラーを伝えなかったことを、17時間ないし21時間の遅延にするのはさすがに酷だろう。

二つめ、社長インタビューにおける、COBOLの扱いについて。

勘定系システムを刷新し、新たなシステムMINORIを作り上げたことに胸を張る件で、「COBOLやFORTRANをベースにしたシステムをいつまでも使い続けるわけにはいかない」という発言がある。

COBOLって、よく「枯れている」といわれているが、古くて時代遅れという意味ではなく、不具合は出尽くしており、アーキテクチャーとして安定していると思う。

社長の言い分とは裏腹に、p.66 にある、MINORIの業務コンポーネントごとの開発言語一覧が明瞭だ。

様々なコンポーネントがあるが、MINORIの主要業務である「取引メイン」「為替取引」「顧客管理(CIF)」「流動性預金」「手数料」は、COBOLで書かれている。これは、もともとは日本IBMが1980年代に開発したミドルウェア「SAIL」を採用したためであると解説されている(p.44 十五年を経て復活したミドルウェア)。

これ、社長が知らないのなら問題だし、事実でないなら記事が問題だろう。別々のタイミングで掲載された記事を集める際、書き方を改めるべきだったのかもしれぬ。

いずれにせよ、学ぶところ、憤慨するところ、胃が痛くなるところ大の一冊なり。お薦めしなくても SIer な人は手にするだろうが、涙なしでは読めない一冊でもある。

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エドワード・サイードの遺言『人文学と批評の使命』

わたしの価値観を変える契機となる一冊だった。

Humanities

読んだら一気に変わる即効的なものではなく、これをきっかけとして、世界の見え方の次元が変わる。二次元の世界から三次元へ離陸させるような言葉を、サイードは語る。

どう変わるのか?

現在進行形で変わりつつあるため、うまく語れるか分からない。だが、やってみよう。そのためのブログなのだから。

認識されたものを認識しなおす

まず、人文学の射程がとてつもなく長いことが実感できた。乱暴に一言でまとめると、「認識されたを認識しなおす ≒ 人が書いたものすべて」になる。

今までは、こんなイメージを抱いていたのだが、それが一掃された。

  人文科学(哲学とか歴史とか) ←このへんに人文学
  社会科学(経済とか教育とか)
  自然科学(物理とか生物とか)

最初は哲学から始まり、そこから研究対象や手法によって領域が分かれてゆき、それぞれの縄張りがゆるやかにある。そこで、人文学は哲学や歴史を扱うため、その領域の中の伝統的な学問だと考えていた。

しかし、その認識を変えるほうが面白いことが分かった。大学のカリキュラムならこれで良いが、人文学を、分野ではなく、方法として捉えるのだ。

サイードは、人文学とは、人の働きの産物、表現を作り上げる個人の能力にかかわるものだと説く。物理的、生物的といった、自然法則による説明や、社会的状況や集団心理による説明には、うまく適さないものすべてから成り立っているという。

人文学は、人間の意志と営為による形式の達成である。市場や無意識の働きをどれほど信じようと、人文学はそうしたシステム、非個人的な力とは別物である。

要するに、「人間の業績」と言われるもののことだという。

人文学という方法

ここからは、本書から発火した、わたしの妄想になる。

見方を変えると、人間の業績となるためには、それが記述されなければならない。記述され、評価され、残されたものが人文学の対象となる。認識され、記述されたものを批判的に認識しなおし、受け継いでいく。人文学は、「人文科学」の一分野というよりも、むしろ人文学という方法なのだ。

極端な話、「物理学から認識された世界を認識しなおす」行為は、人文学の対象になる。近年議論となっている例なら、医療倫理や環境問題、人権と公的福祉などが挙げられる。

すると、「人文科学vs.自然科学」や「人文科学vs.社会科学」という対立構造ではなく、こうなる。

  人文科学(哲学とか歴史とか) ←人文学の方法
  社会科学(経済とか教育とか) ←人文学の方法
  自然科学(物理とか生物とか) ←人文学の方法

人文学からほど遠いと考えていた、天文学ですら射程に入ってくる。もともと「天文」と「人文」は対で、春夏秋冬など天の描いた美しい文様を天文、文化や文明など人が作り上げたものが人文になる。

それが、天を眺めるために電波望遠鏡や素粒子観測装置を作るようになるにつれ、天の概念も変化する。だが、その変化がどのように生じているかを考えるのは、人文学の方法になる。

人文学の射程

たとえば、天動説と地動説だ。

星辰の振る舞いを、この地を中心として宇宙が動いているとみなすのか、地球も一つの惑星として自転しているからだと考えるのか。コペルニクス=ガリレオ以来、決着のついた問題だ。神に創られしこの星こそが、宇宙の中心であるというキリスト教的世界観と、膨大な観測データを積み重ねた客観事実が対決した問題だ。

なぜこの問題があったのかを人文学的に考えるならば、今日、まさに現在進行形で更新されつつあることが分かる。

それは、系外惑星の問題だ。

太陽系以外の、恒星を公転する惑星のことだ。その観測歴史は浅く、科学的観測に基づいて初めて発見されたのは1988年だった。だが、当時はなかなか受け入れられず、正式に認められたのは1992年になる。いったん認められると、系外惑星は爆発的に「発見」されるようになり、今では4,000を超えるという[Wikipedia:太陽系外惑星]

なぜ、認められなかったのか? なぜ、数多くの星を見落としていたのか? 人文学的に考えてみよう。もちろん技術革新による観測精度の向上もあるが、それよりも、神に作られしこの太陽系こそが、宇宙で唯一のモデルであるというキリスト教的宇宙観が、天を見る目を阻害していたのではないか、と考える。

さらに、キリスト教的宇宙観が観測データに影響を与えている例として、ビッグバン理論を考えてみよう。「光あれ=ビッグバン」はメタファーではなく、本当にそう信じているからこそ、理論としているのではないか? という疑いだ。

ビッグバン理論を支える様々な観測データや仮説は、まさにその理論をもっともらしくするために取捨選択されたものだ。そこに至るまでに、完全にピュアな―――言い換えるなら、「光あれ」のキリスト教的宇宙観からフリーな―――観点で検討され、取捨選択されたのだろうか?

あるいは、ある仮説が浸透し、確かな理論として確立するためには、それを熱烈に支持するグループが必要だ。そのグループは、もっと大きな、たとえば宇宙物理学を研究するグループの中で力があり、かつ多数派であることが重要だ。

もちろん、自然科学は多数決ではない。だが、エビデンスが充分に揃っていない仮説群の中、どんぐりの背比べ的な状況で何が採択されやすいかと考えるならば、多数派であり有力(≒予算を持っている)グループになる。そのグループは、キリスト教的世界観の教育を受けたグループと重なるのではないか?

天動説や系外惑星、ビッグバンなど、自然科学の範疇にあるものであっても、いったん人の手で記述されたものとして向き合うならば、それを、認識されたものを認識しなおすことができる。そして、認識されたものを批判的に検討することで、そこで陥っている状況をメタに見直すことができる。これが人文学だ。

以上、わたしの妄想おわり。

人文学の実践

サイードは、「オリエンタリズム」として認識されたものを認識しなおすことで、この人文学を実践した。

もともと、「オリエンタリズム」は、東洋趣味を指す美術用語だった。サイードは、膨大な文献や文芸読み込み、大量の美術作品を渉猟し、西洋から見た東洋に対する思考様式を「オリエンタリズム」として定義した。

その上で、オリエンタリズムに包摂される人種主義的、帝国主義的な姿勢を批判的に検討した。さらに、この検討を通じて、人間は異文化をどのように表象するのか、また、異文化とは何なのかという問題提起も行なっている。

『人文学と批評の使命』は、サイードの晩年に編まれ、死後に出版された、いわば彼の遺書とも言える。生涯をかけて人文学を実践したサイードの姿勢は、ここに凝縮されている。

その具体的な方法としての文献学(フィロロギー)や、ヴィーコ『新しい学』、アウエルバッハの『ミメーシス』も紹介されている。特に『ミメーシス』は、読書猿さんもお薦めしている。サイード&読書猿という大先生が推すのなら、読まずに死ねるわけがない。読むぜ読むぜ。

グスタフ・マーラーの言葉に、こうある。

  伝統とは火を守ることであり、
  灰を崇拝することではない。

人文学という火を、受け継いでゆこう。

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銀河系の知的生命体の数は90『アストロバイオロジー』

Astro

我々はどこから来たのか
我々は何者か
我々はどこへ行くのか

この疑問に科学的に答えるのが、アストロバイオロジーである。宇宙を意味する接頭語「astro」と、生物学を意味する「biology」を組み合わせた造語で、日本語では宇宙生物学と訳される。

生命は、いつ、どこで、どのように生まれたのか? 地球以外の天体にも生命は存在するのか? 生命が存在する惑星としての地球は、どのくらい特殊で、どの程度に普遍的な存在なのか? こうした疑問に答えることを目指す。

アストロバイオロジーの射程

非常に興味深いのは、生物学に限った学問領域ではないところ。最新の研究成果を惜しみなく注ぎ込まれる総合科学、いわば「全部入り」なのだ。

たとえば、生命活動が可能な領域を探るためには天文学、惑星科学、地球物理学の成果が求められ、生命誕生にアプローチするために生化学、微生物生態学、地質学、海洋学の知見が適用され、単純な機構から複雑な生命へのプロセスについては分子進化学、地球化学が用いられる―――しかもこれはほんの一部なのだ。

アストロバイオロジーは机上の研究ではない。自然科学研究機構では、「宇宙における生命」を科学的に探査し、その謎を解き明かすことを目的とし、2015年に「アストロバイオロジーセンター」を設立している。

そこで様々なプロジェクトが実行されているのだが、ひときわ目を惹いたのが、「望遠鏡で分子を探す」宇宙生命探査プロジェクトだ。電波望遠鏡を用いて生命の材料物質であるアミノ酸を探査している。遠いものを見るための望遠鏡を用いて、非常に小さい分子を探すというアンバランスさが面白い。

土星の衛星に微生物がいる可能性

本書はその格好の入門書だ。

地球外生命の存在の可能性あるか、その誕生は必然かといった枠組みを検討し、そもそも生命とは何かといった哲学的な定義を掘り下げ、具体的に、太陽系の中で生命がいるとしたらどこか、太陽系外ならどの辺りに目星をつけるのか、その探し方までを検討する。

もちろん机上論ではなく、最新の観測成果や研究結果、進行中のプロジェクトも併せて紹介してくれるので、リアルなSFドラマを目の当たりにしているような感覚になる。

たとえば、土星探査機カッシーニが採取した「有機物」について。土星の衛星エンセラダスの南極から煙状のものが噴出されており、「プルーム」と呼ばれている。

カッシーニはこのプルームを突っ切って、その中に有機物を検出したとある。わたしの(古い)知識では、複雑な有機物は地球でしか生成されず、したがって生命は地球でしか誕生しえないという論が幅を利かせていた。だが、本書は楽々と更新してくれた。

さらに、プルームに含まれるナノシリカと呼ばれる石英の粒子は、エンセラダスの地下には90度以上の熱噴出孔があることを示唆している。80年代に見つかった深海の熱噴出孔こそが生命誕生の唯一の場所だと主張する人がいた。だが、本書は楽々とエビデンスを更新してくれた。

星を渡る生命を証明する

また、火星の高温や薄い大気による過酷な環境では、生存できるだけの耐性を持つ生命はいないだろうと考えられていた。だが、地球において、火星表面の環境に耐え・生き延びることができる微生物が発見されている。わたしの常識が楽々と更新されていくのが楽しい。

現在進行中のプロジェクト「たんぽぽ計画」も、結果が楽しみだ。超低密度のスポンジ(エアロゲル)を宇宙空間に曝し、宇宙塵を捕集することで、そこに含まれる生命誕生の鍵となる物質を探す計画だ。これは、日本人が主導で開発し、現在、エアロゲルが国際宇宙ステーションに曝されている状態となっている。

仮に、地球低軌道(高度400キロメートル)で微生物が検出されれば、地球上の生命が他の惑星へと移動する可能性があることを示す。つまり、生命は一つの惑星に閉じた存在ではなく、たんぽぽが綿毛で種子をとばすように、星を渡り宇宙へ広がっていく証左となる。

知的生命体がいる惑星の数

具体的なエビデンスや成果を紹介しながら、本書はドレイクの方程式を検証する。

ドレイクの方程式とは、わたしたちがいるこの銀河系に存在し、人類とコンタクトする可能性のある地球外文明の数を推定する数式である。それは、以下の値をかけ合わせたものになる。

  1. 人類がいる銀河系の中で1年間に誕生する星(恒星)の数
  2. ひとつの恒星が惑星系を持つ割合(確率)
  3. ひとつの恒星系が持つ、生命の存在が可能となる状態の惑星の平均数
  4. 生命の存在が可能となる状態の惑星において、生命が実際に発生する割合(確率)
  5. 発生した生命が知的なレベルまで進化する割合(確率)
  6. 知的なレベルになった生命体が星間通信を行う割合
  7. 知的生命体による技術文明が通信をする状態にある期間(技術文明の存続期間)

発案者のドレイクが1961年に推定した結果では、その地球外文明の数は「10」であった。本書では、最新のデータを用いて再計算したところ、その値は「90」になる。増えた理由は、技術革新によりの観測精度が上がったことと、ここ数十年で系外惑星(太陽系外の惑星)が爆発的に見つかったことによる。

常識を書き換えるアストロバイオロジー

昔は、地球こそが宇宙の中心であり、星々は地球の周りをめぐると考えられてきた。

なぜなら、神に選ばれたこの地球こそが、宇宙で唯一無二の場所だから。だが、そうではないエビデンスが続々と集まり、ガリレオやコペルニクスが地球が中心ではないことを明らかにした。

地球を、生命が誕生する唯一の場所と「みなしたい」気持ちは分かる。特に、「神に選ばれし人」という宗教や「人こそが生命進化の究極の存在」という文化に染まるほど、そんな気持ちになることは分かる。だが、そうではないエビデンスが続々と集まっている。ガリレオ以来なら、400年ぶりに歴史が書き換わりそうな領域、それがアストロバイオロジーである。

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男子医大は憲法違反か

きっかけはこの記事「日本になぜ「男子医大」は存在しないのか?」*1

男子医大を作ろうとしたら、憲法違反にされたという。元ネタは厚生労働省の検討会。発言者は全国自治体病院協議会会長の邉見公雄氏で、医師不足の解消のためには総数を上げる前に偏在を解消するべきという流れでこの発言をしている。

女性医師が 4 割を超えるのに、東京女子医科大学はあると。東北に作るのだったら、東北男子医大にしてくださいと、私は申し上げました。これも、憲法違反だとか何とか言ってペケされました。
(2016.4.20 医療従事者の需給に関する検討会(第5回)議事録*2 より)

「男子医大は憲法違反」これ、本当だろうか?

まず、ネットで検索してみた。すると、昔の大学は男子だけという歴史や、男子のみ募集している学部や大学は珍しいという話が出てくる*3。ネットだけで全てだと見るのは、わたしの悪い癖だ。だから図書館のレファレンスに聞いてみた。

「男子大」が憲法違反という判例はない

結論を先に言うと、「違憲性が判断された事例は見つからなかった」になる。男子「医科」大学の条件を緩めて、男子大学にしても、やはり判例は見いだせなかった

むろん、悪魔の証明(無いことの証明)だから、完全ではない。だが、調べもののプロが以下を駆使しても見つからないのであれば、ないと判断してよかろう。

  • 法情報総合データベース(D1-LAW)(第一法規)
  • 判例秘書INTERNET(LIC)
  • 聞蔵(きくぞう)Ⅱビジュアル(朝日新聞社)
  • ヨミダス歴史館(読売新聞社)
  • 毎索(毎日新聞社)
  • 中日新聞・東京新聞記事データベース(中日新聞社)
  • CiNii Articles(国立情報学研究所)

「男子医大は憲法違反」と言う人は、行政側にあれこれ理屈をつけられて断られたのではなかろうか。男子だけの大学を設立することに、行政側が難色を示すのは想像するに難くない。

「女子大」が憲法違反として提訴された事例はある

じゃぁ女子大は?

男子大がNGなら、女子大はなぜ許されるのか? 特に、税金が充てられる国公立大学の場合だと、どのように判断されるのだろうか。これも調べてもらった。

現在、「女子であること」を入学資格とする国公立女子大学は、短期大学も含めると以下の通り。

  • 国立のお茶の水女子大学
  • 奈良女子大学
  • 公立福岡女子大学
  • 群馬県立女子大学
  • 山形県立米沢女子短期大学
  • 岐阜市立女子短期大学

そして、女子大が違憲だとして訴えられた事例があった。

公立福岡女子大に入学願書を受理されなかった男性が、性差別であり憲法違反だとして提訴した事例だ。男性は、社会人枠の受験のため願書を提出したが、大学は、出願資格を女子としているとの理由で不受理にした。

しかし、この訴訟は「裁判所から争点に無関係の立証を求められたため」男性側が訴えを取り下げ、判決は出なかった。

判決こそ出なかったものの、女子大の憲法適合性については議論は続いている。情報化社会・メディア研究における野田元樹氏によると、「今後、福岡女子大学に対する男性の訴訟提起と同様な訴えの提起も十分考えられ、違憲判断が下される可能性もありうる」*4としている。

もともと大学は男ばかりだった

ただし、とここに加えたい。

「男子大学はNG、女子大学はOK」という切り取り方で見てしまうと、まるで男性が不当に差別されているかのような印象を与えてしまう。だが、戦前の日本では大学は男性にのみであり、女性は例外的な扱いだった。

男女平等の観点からすると、女性は不当な差別的扱いをされてきた。戦後、男女共学化が進み、女性のための高等教育機関が設立されたのは、そうした差別の是正を目的としたものだろう。

そして、女子大学という存在は、過去の差別を補償し、是正する象徴的な役割だとも言える。『女子大は憲法違反か!?』にこうある。

現代の社会が「男女平等」という憲法の保障にもかかわらず多くの女性差別を根強く抱え込んでいることから、その女性差別を是正する"砦"としての役割がある。
『女子大は憲法違反か!?』(加藤大地著、三一書房、1996)p.18 より

国の見解「 違憲ではない」

ネットで騒がれると、それが特に目新しいものであるかのように見えてしまう。わたしの悪い癖だ。だが、完全無欠の新ネタなんてなく、ほとんどの話は、既に語られたか、忘れられたものになる。

実際、これは2000年の国会で答弁されていた*5。結果だけ書くとこうなる。

  Q:国公立大学の男女別学は、憲法14条の法の下の平等に違反するか?

  A:違反するものでない。

質問の背景として、1999年の男女共同参画社会基本法の施行がある。男女が互い尊重しつつ、能力を発揮できる社会の実現を目指した法律だ。男女がより平等になったという意見がある一方、性別による積極的改善措置への反対の声も出ている*6

そして、この法律に従えば、全ての公立高校・国立大学を共学にしなければならないのか? というのが質問の主旨だ。さらに、こうした現状は憲法に違反しないか? とも問うている。

その回答としては、男女共学は教育上尊重すべきだが、個々の学校の実情や特色においてそれぞれで判断するものだという。さらに、憲法14条を踏まえた教育基本法は、性別に関係なく教育を受ける機会を均等に付与し、教育内容や水準を同等に確保することを目的としているのであって、全ての学校で男女共学を強制するものではない、という判断だ。

 

*1 本がすき「日本になぜ「男子医大」は存在しないのか?」
https://honsuki.jp/pickup/20220.html

*2 厚生労働省:審議会・研究会
https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi2/0000127780.html

*3 しらべぇ「どうして女子大はあるのに男子大はないの?」
https://sirabee.com/2015/03/01/20088/

*4国公立女子大学の合憲性を考える-教育における性差別-
http://ua-mis.mints.ne.jp/repository/nc2/html/htdocs/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=150&item_no=1&page_id=4&block_id=22

*5 「質問主意書第147回国会(常会)質問第五号」(2000.2.1)
https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/147/syuh/s147005.htm

「質問主意書第147回国会(常会)答弁書第五号内閣参質一四七第五号」(2000.2.18)
https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/147/touh/t147005.htm

*6 男女共同参画社会基本法
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E5%A5%B3%E5%85%B1%E5%90%8C%E5%8F%82%E7%94%BB%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%B3%95

 

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検索する情報と、咀嚼する知識『人文学概論』

Jinbun

世の中には、情報を得る本と、知識を得る本があるが、これは後者だ。

情報と知識って、似たようなものに見えるが?

著者に言わせると、明確に区別する必要があるらしい。

情報は「判断を下したり起こしたりするために必要なもの」に過ぎないが、知識は「学問的な成果であって原理的に組織づけられた判断の体系」だという。情報は自分の外部にあるもので、体得され自己化されると知識になる、という構造だ。

本を読むことを「インプットする」と言う人がいるが、喩えるなら、インプットするのが情報で、インストールするのが知識になるとも言える。あるいは、検索するときのキーワードは情報なら、何をキーにするかは知識になる。知識がないと、そもそも何を検索すればよいかすら分からないから。

情報としての「無知の知」

具体例で考えてみる。

たとえば、ソクラテスの「無知の知」について。

検索すればヒットする。ギリシャの哲学者ソクラテスは、知恵があると評判の人との対話を通して、自分の無知を知っているという点で優れていると考えた……という話がいくつか出てくる。

も少し気の利く説明だと、論語の「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」が出てくる。無知の知とは、「無知のほうが優れている」という意味ではなく、無知を自覚していることで、知ろうとするからこそ優れている(不知の知)という視点だ。

「無知の知」を知識にする方法

「無知の知」で検索すれば出てくるものは情報になる。では、「無知の知」を咀嚼してインストールして知識にするためには、どうすればよいか?

ソクラテスを読めばいい。誰かのまとめ情報ではなく、ソクラテスに取り組むのだ。

すると、すぐに気づくだろう。ソクラテスは本なんて書いていない。重要なのは生きた対話なのに、書物は沈黙しか返さないとして、文字を嫌っていたのだ。ソクラテスの言葉は、プラトンが書き残したおかげで、向き合うことができる。

そして、プラトンの著書でソクラテスに触れると、すぐに気づくだろう。ソクラテスは史上最悪のウンコ豚野郎であることに。

プラトンの本は、基本的に対話だ。いわゆる「地の文」みたいなものはなく、ソクラテスがこういった、誰それがああいった、という掛け合いで続く。問答形式のターン制バトルのように話が進んでいく。

ソクラテスが糞なわけ

ソクラテスの基本的な戦略はこうだ。

「わたしは分かっていないので、教えて欲しい」と問うのだ。ソクラテスは、「あなたがAAだということは、何なのか?」と質問する。すると相手は、AAとはBBだ、と答える。さらに、BBとは何か? なぜBBと言えるのか? と問う。

これを続けていくと、ほころびが生じる。言い換えながら説明していくと、最初の意味とは似ても似つかぬものが出てくる。矛盾した語義をはらんだり、場合によって使い分ける言葉になったりする。ソクラテスはそこを衝くのだ。

相手にとっては嫌なものだ。なぜなら、自分自身が吐いた言葉によって刺されるのだから、反論しようのない。無知の立場から教えを乞うことで言葉を引き出し、その相手の言葉で切り刻むのが、ソクラテスの戦法なのだ。

しかも俎上に乗るのは「正義」とか「知恵」といったあいまいで多義的な言葉なのだ。ソクラテスは相手の言葉をよく覚えており、相手にしゃべりたいだけしゃべらせた後、かなり前の言葉に戻って切り崩し始める。

わたしは、ソクラテスのやり方が嫌いだ。青年を堕落させたとして裁判にかけられ、死刑を宣告されたというが、むべなるかな。

しかし、この「教えを乞う」やり方は使わせてもらっている。

議論をする際、原則として、質問をするほうが有利だ。「基本的な質問で恐縮ですが……」で切り出すと、たいてい相手は油断する。で、相手から引き出した言明のうち、キーワードを強調してオウム返しする。

「……とは何か」「なぜそう言えるのか」を複数重ねれば、話が接合しない所が出てくる。そこを衝くのだ。公の場で「相手をやりこめる」ただその一点に賭けるやり方で、めちゃくちゃ嫌われる。

ソクラテスが「使える」わけ

では、ソクラテスの無知の知は、人を不快にする邪悪なテクニックかというと、そうではない。使いどころによっては、素晴らしい方法にもなる。

それは、「わたしに教えてください」という教え方だ。

説明する。誰かに対してレクチャーしたとしよう。その人がどこまで理解できているかを、教えてもらうのだ。そのやり方は、「わたしが何も知らない人だとして、わたしに教えるように話して欲しい」とするのだ。

すると、その人は、無知なわたしに向かって、「……とは何か」「なぜそう言えるのか」と説明を始める。いくつかのキーワードは、最初にわたしが教えたものなるだろうが、そのうち、自分の表現で伝えるようになる。

相手の中にある知を、相手の言葉で引き出すのだ。ソクラテスはこうした考え方を持っており、そもそも知とは、各々の中に持っており、適切な問答を重ねることで引き出すことができるという(産婆術が生み出すものは知なのだ)。

うろ覚えだが、「教えることこそが最良の学び方だ、小学6年生でも分かるように説明できるようにしなさい」と物理学者のリチャード・ファインマンが言ったとか。

「無知の知」を知識にする

「無知の知」を検索するだけでは、こうした邪悪なテクニックや最良の学び方を知ることがない。これらは、プラトン『国家』や『テアイテトス』を紐解いて、ソクラテスの問答の意地悪さに付き合うことで身に付ける。

くりかえす。「無知の知」から検索できるものは情報だが、それを生み出したものと取っ組み合って身に付けたものは知識だ。「大人の教養」みたいな、まとめ情報のコピペ本を100冊読むよりも、知識を身に付けられる1冊に、直接向き合うほうが良い。『人文学概論』は、その素養を鍛え、入口を示してくれる。

本書は読書猿さんのつぶやきで手にした一冊。読書猿さん、ありがとうございます。

『人文学概論』目次

01 「人文学の終焉」からのスタート

「人文主義の終焉」――ペーター・スローターダイクの問題提起/人文主義と人文学/人文学と教養/人文学部と文学部/中世の大学と人文学/人文学の中心課題/「パンのための学問」と人文学

02 ギリシアにおける学知の誕生

ミュトスからロゴスヘ/ソクラテスにおける「哲学の人間学的転回」/プラトンとイデアの学説/アリストテレスの学問体系/真理探求と師弟関係

03 パイデイアとヨーロッパ的教養の伝統

パイデイアとは/フマニタス,自由学芸/リベラル・アーツの理念

04 知識人の覚醒と大学の誕生

革新の12世紀/12世紀ルネサンスの背景/12世紀の知識人とアベラール/大学の誕生

05 ルネサンス人文主義と「フマニタス研究」

ヒューマニズム/フマニタス研究/ルネサンス人文主義/北方人文主義とエラスムス/エラスムス的人文主義と「文芸共和国」の理想

06 「フンボルト理念」と近代的大学の理想

近代知のパラダイムと新しい大学の誕生/フンボルトの大学理念――孤独と自由/学問による教養/研究を通じての教育/自立的思考の練成場としてのゼミナール

07 人間と文化

文化とは何か/「文化」と「文明」の対立/クルトゥール・カルチャー・文化/人間と文化/異文化との出会いと知的覚醒

08 言語と芸術

「シンボルを操るもの」(animal symbolicum)/ミメーシス/言語/芸術の原理としての表象性

09 神話・宗教・祝祭

神話/宗教とは何か/絶対依存感情とヌミノーゼ/「究極的関心」と実在の自己実現/祝祭

10 時間・記憶・歴史

時間/存在と時間/記憶/記憶と忘却/記憶の媒体と記憶の大変動/歴史

11 原典と翻訳

人文学にとっての原典の意義/翻訳とは何か/翻訳の実際/「文人の翻訳」と「学人の翻訳」/文化の翻訳

12 文献学と解釈学

フィロロギーと文献学/解釈学とは何か/解釈学の命題/古典を学ぶ意義

13 書籍と図書館

図書館とアーカイブズ/博物館・美術館/アレクサンドリア図書館/セプトゥアギンタの翻訳/パピルスから羊皮紙へ/中国における図書館/中世西欧の修道院/イスラーム世界における図書館/ルネサンスと宗教改革期の図書館/近現代の図書館/納本制度と国立国会図書館/デジタル図書館・美術館の出現

14 情報とメディア

メディアとは何か/情報と知識基盤社会/インターネット/デジタル人文学?/クリティカとトピカ

15 新人文学/新人文主義のゆくえ

人文学の現代的境位/新人文主義の多義性/サイードと「新しい人文学」/文献学への回帰/理解の突如性/新人文学/新人文主義のゆくえ

補遺 人文学研究とその方法

ディルタイと「精神科学」/西南学派と「文化科学」/人文学の方法/人文学の学問性

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皮肉が分かる人・分からない人『アイロニーはなぜ伝わるのか?』

Irony

せっかくの休日。ゆっくりしたいのに、「ほら、お出かけ日和だよ!」と友人にピクニックに連れ出される。みるみるうちに曇ってきて、どしゃ降りになる。びしょ濡れでになりながら友人に、「ほんと、お出かけ日和だね!」と叫ぶ。

晴天を期待してピクニックに行ったのに、どしゃ降りの大雨という現実に見舞われる。この期待と現実の違いを際立たせるために、「お出かけ日和」なんて逆を言う。これがアイロニーだ。

アイロニーとは何か

この「期待」と「現実」を巧みに対比させ、あてこする構造から、アイロニーを解き明かしたのが『アイロニーはなぜ伝わるのか?』だ。

紹介される豊富な例を聞いていると、語られている言葉とは違う意味(意図)が飛び交っていることが分かる。「お出かけ日和」は分かりやすいが、小説やシナリオでは、かなり高度な「意図のやりとり」をしている。

これ、流行の機械学習では解析できないだろう。自然言語を形式的に解析して真偽や条件といった「意味」に置き換えるのではなく、その発話がどんな「意図」を含んでいるかを、会話の状況や話の流れから、構造的に汲み取るプロセスが必要だから。

これ、人間同士であっても難しい。アイロニーが洗練されるほど、その発話がどういう話の流れでなされているかが焦点になってくるから。気づかない人ならば、それがアイロニカルな文脈で語られているということすら分からないかもしれぬ。

反復によるアイロニー

たとえば、本書で紹介されているアントニーの演説だ。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』からの引用だ。

その前に、野暮を承知で、この演説がなされている状況を説明させてもらう。

<状況>ローマ市民に人気のあるジュリアス・シーザー。その人気に不満を覚えるブルータスが暗殺を企み、シーザーを殺してしまう。シーザーの友人であったアントニーは、追悼の弁を表したい申し出る。そして、「暗殺を非難しない」という条件で、演説は許可されるのだが……

ここに私は、ブルータス、その他の諸君の許しをえて――
と言うのも、ブルータスは公明正大な人物であり
その他の諸君も公明正大の士であればこそだが――
こうしてシーザー追悼の辞をのべることになった。

シーザーは私にとって誠実公正な友人であった、
だがブルータスは彼が野心を抱いていたと言う、
そしてそのブルータスは公明正大な人物だ

シーザーは多くの捕虜をローマに連れ帰った、
その身代金はことごとく国庫に収められた、
このようなシーザーに野心の影が見えたろうか?
貧しいものが飢えに泣くときシーザーも涙を流した、
野心とはもっと冷酷なものでできているはずだ、
だがブルータスは彼が野心を抱いていたと言う、
そしてそのブルータスは公明正大な人物だ

諸君はみな、ルペルクスの祭日に目撃したろう、
私はシーザーに三たび王冠を献げた、それを
シーザーは三たび拒絶した。これが野心か?
だがブルータスは彼が野心を抱いていたと言う、
そして、もちろん、ブルータスは公明正大な人物だ

もちろんアントニーは、暗殺を非難することなく、シーザーに追悼の辞を捧げている。シーザーが残した功績や、野心なんて無いことが具体的に挙げられる一方で、「ブルータスは公明正大な人物だ」という言葉だけが繰り返される。

空虚な言葉を繰り返すことで、期待される「公明正大な人物であるブルータス像」に疑義が生じ、現実はそうではないことに、ローマ市民に気づいてもらう。アントニーの意図は恐ろしいほど伝わり、ローマを揺るがす大逆転が始まるのだが、それはまた別のお話。

前段の<状況>がないと、なぜ「ブルータスは公明正大」とわざわざ付け足すのだろう? ほめ殺し? という疑問で終わってしまうかもしれぬ。アントニーの演説の「意味」を知るのは難しくはないが、彼が伝えたい「意図」を汲むには、発話が置かれている状況が必要なのだ。

アイロニーが伝わらないアイロニー

そして、こうした状況が共有されていない場合、アイロニーが伝わらないというメタ・アイロニカルな話になる。

本書には無いが、次の発言なんて、わたしにとって、大変アイロニカルに聞こえる。だが、状況が共有されていないと、全く伝わらない。

ファクトに目を向けよう。
極度の貧困に暮らす人は、確実に減少している。
飢えた人々は、少なくなっている。
世の中は、良くなっているのだ。

これも、野暮を承知で説明する。

極度の貧困に暮らす人―――たとえば、戦争や災害で故郷を失い、難民キャンプで暮らしていた、餓死寸前の人たちだ。飢えた人たちはどうなったか? 死んだのだ。飢え死ぬ人は死んだからこそ、飢える人は居なくなった。生存バイアスを脇に置き、選択されたファクトでもって声高に語られれば語られるほど、その意図しないアイロニーに項垂れる他ない。

もっと分かりやすい例は、本書に出てくる。1970年ロンドン救済基金のポスターの標語だ。皮肉が効きすぎて刺さるぐらい。

飢えた人々のことは無視しよう、
そうすれば、そのうちいなくなるから。

おそらく、これでも気づかない人は気づけないだろう。だが、この意図に気づいた人は、自分の裡に価値の逆転が生じていることに気づき、次にどんな行動に移すべきか、言われるもなく分かるだろう(それこそが、ポスターの目的なのだ)。

本書の結論で、アイロニーとは、「期待」と「現実」の極小の虚構世界における、一種の「ごっこ遊び」と語られる。この「ごっこ遊び」を通じて意図が伝わるとき、価値観が裏返るような感覚が生じる。

小さいクスッと笑えるものから、世界を反転させるものまで、アイロニーが伝わる瞬間を楽しむ一冊。

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