世界の見え方を変える『オーバーストーリー』
リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』を読むと、「木」に対する見え方が変わる。
木ってあの木? そうだ、街並みや公園で見かける木であり、山を見るときに目に入ってくるあの木のことだ。
これを読むと、木を、新しい目で見るようになる。いっぽん一本の違う木が「ある」のではなく、全体として木が「いる」ように感じられる。一つの木に焦点を当てて見るという感覚よりも、もっとカメラを引いて地表を覆う存在を想像するような……
この感覚、読んでもらうのが一番だが、このイメージで伝えたい。この長編小説に入り浸っている幸せなあいだ、わたしの心は、ずっとこの光景で覆われていた。
地上の目からすると、それぞれの木は独立している。だが、数十メートルの空からだと、互いの枝葉を譲り合いながら全体として森全体が蠕動しているように見える(樹冠が空間を譲り合う現象を、クラウン・シャイネスと呼ぶ)。そして、地面の下では、それぞれの幹から伸びた根が複雑に絡みあい、コミュニケーションを行っている。
『オーバーストーリー』も同じように見える。その前半は、8つの章に分かれた、9人の生きざまを追いかける、それぞれ独立した短編として読める。各人に象徴的な木が登場するのが面白い。
- 一本の栗の木を、四世代に渡り撮影し続けた写真を相続した芸術家(栗)
- 中国からの移民の末裔で王維の美術画を受け継いだエンジニア(扶桑)
- ヒトという動物を観察しつづける心理学者(楓)
- 素人演劇で結ばれる恵まれた若いカップル(オーク)
- ベトナム戦争で撃墜されるも巨木に救われた空軍兵士(菩提樹)
- 世界をシミュレートするゲームを作り上げた天才プログラマ(ボトルツリー)
- 障害を抱えながら、樹木同士のコミュニケーションを発見する科学者(ブナ)
- セックスとドラッグに溺れたあげく感電死→蘇生した女子大生(銀杏)
幼少期から大人にかけて、線形に描写されたそれぞれの人生は、生きることの苦しみや、ままならなさを抱えており、ちょっと読むたびにグッと胸にこみ上げてくるものがある。ひとり一人の生い立ちや思想は異なるものの、突然の不幸や社会の逆風に揉まれる様は皆同じ、風に吹かれて揺れ動く木のようだ。
中盤、ばらばらに見えていたそれぞれが、集まってくる。
考え方は違っても、何かがおかしいと感じることは一緒。非常に長い年月をかけて大きくなった木を、ただ消費するために伐採する状況に異を唱える。それぞれの大切にする木は違っていても、「このままではいけない」と声を上げ、行動を起こす。
最初は、各人の行動はバラバラで、望む結果に結びつかない。むしろ、互いを知らないまま、意図せず足を引っ張り合ったりする。共通項といえば、アメリカ合衆国という場所で生きているだけで、それぞれの信ずるがままに動けばそうなるだろう。
それが集まるにしたがって、少しずつ譲り合い、協調して、全体として振舞おうとする。草の根レベルでつながって、同じ場所でコミュニティを形成する人々もいる。互いに面識はなくとも精神的紐帯を保ちながら、結果として連携している人たちもいる。
後半は、いわば数十メートルの空から、そうした譲り合いや連携を見る。互いの人生を譲り合いながら登場人物ひとり一人が全体として蠕動している、人のクラウン・シャイネスのようだ。反発しあう人、自己犠牲に殉ずる人、裏切る人……それぞれの振る舞いが急ぎ足で活写され、数十年がいっぺんに経過する。
木のスピードで見るならば、ヒトの営みなんて、タイムラプスで早送りされた一瞬なのかもしれぬ―――そして、それこそがまさに、9つの人生が伝えていることなのかも。この小説がいちばん変えたのは、わたしの時間の感じ方なのかもしれぬ。こんな風に。
人間は、時間は一本の直線だと思い、直前の三秒と目前の三秒だけを見ている。本当の時間は年輪のように外側を覆う形で広がっているのだということを人は知らない。”今”という薄い皮膜が存在しているのは、既に死んだすべてのものから成る巨大な塊のおかげだ。
めったにお目にかからないが、読む前と世界を違ったものにする作品がある。
世界というより自分が変わる。世界の「見え方」が変わる。いかに見えていなかったかが分かり、世界の解像度が上がる。プルーストが言ったように、新しい世界を見るのではなく、新しい目で見るようになる。
リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』が、まさにこれだ。新しい目で、世界を眺めてみよう。

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