フェイク歴史を言ったもの勝ちになるいま、『なぜ歴史を学ぶのか』
フェイクニュースがまかり通り、「真実」が希釈化されるいま、歴史学は何ができるのか?
この疑問に答える手がかりは、アメリカの歴史学者リン・ハントが著した本書にある。
著者はまず、歴史の政治化という問題について、具体的に説き起こす。
ホロコーストを否認するメリット
たとえば、ホロコーストの否認だ。ナチス・ドイツが組織的に行った大量虐殺を「なかった」ことにする。それも、SNSや思想団体というレベルではなく、政府高官レベルでホロコーストを否認するところもあるという。
2005年12月、イランのアフマディネジャド大統領は、ホロコーストを「創り出された神話」だと発言した(※1)。ただし、核計画に対する国連の制裁を懸念し、イラン公式の報道機関は、この発言が最初からなかったかのように録画から取り除いている。
一つの歴史的事実について、なぜこのように発言するか。
それは、反イスラエル政策の一環として有効だと見なしているからだという。嘘も100回繰り返せば本当になる。2014年に行われた国際調査によれば、中東や北アフリカに住む人々のあいだでは、ホロコーストという言葉を耳にしたことがあり、事実だと認識する人はわずか8%に過ぎないという報告もある(※2)。
教科書に見る「都合の良い」歴史
過去の出来事を、自国に都合よく取捨選択するのは、初等教育の歴史の教科書が顕著だ。
日本では「新しい歴史教科書を作る会」による教科書の書き換えが問題視される一方、フランスの歴史教科書は、アフリカでの植民地統治がもたらした暴力や人種主義を過小評価しているという指摘がある。
合衆国やオーストラリアの教科書はもっと露骨だ。歴史の始まりは、コロンブスやジェームズ・クックから始まり、先住民であるインディアンやアボリジニの人々の長い歴史は、ほとんど無視されていた(最近では変わりつつあるらしい)。
中国の歴史家は、漢民族による支配を正当化するため、他民族を劣等な存在として描くものもいたという。二世紀あまり中国を支配した満州人は、野蛮で文字が読めない民族として描かれている。
顕著なのは香港の教科書。2012年に新カリキュラムが導入され、中国共産党を賛美する一方、文化大革命の暴力や天安門広場での弾圧については控えめにするように変わっている(何万人もの親たちによる反対デモがあったにも関わらず、政府は新基準を強制していった)。
歴史とは何であったか
なぜ、自国に都合の良い歴史を選ぼうとするか?
「歴史学の歴史」を振り返ると、合点が行く。
かつて歴史学は、エリートのエリートによるエリートのための学問だった。すなわち、将来の政治家のため教養を伝授することが目的だった。そのため、俎上に据えられるものは古代ギリシアやローマの歴史であり、王と議会と戦争の政治史だった。
そして、大衆政治が誕生すると、シティズンシップの学校としての歴史が脚光を浴びることになる。すなわち、国民のアイデンティティとしての記憶を一つにし、想像の共同体を育むための歴史だ。ナショナリズムを涵養するための歴史だからこそ、インディアンやアボリジニは除外され、植民地での暴力は過小評価される。
さらに、高等教育がエリート層以外にも開放されると、労働者や女性・移民・マイノリティを迎え入れ、それらの社会史や文化史も叙述対象として拡大していく。それぞれの立場にあった歴史を語り始める。その結果が、現代の大きな不協和音の声だというのだ。
「エリートのための歴史学」の残滓は、よく見かける。「歴史学はエリートのため」という歴史が、「歴史を知っていればエリートのふりができる」というマウンティングへの訴求力につながる。Wikipediaの雑学を並べた「教養としての世界史」のような書籍や雑誌がまかり通るのは、その証左なのかもしれぬ。
それぞれの物語があるだけ?
では、自国に都合の良い教科書があるように、自説に都合の良い出来事や解釈があるだけなのだろうか。
著者は、慎重に説明する。「事実は1つ、解釈は無数」や、「それぞれの物語があるだけ」といった、よくある逃げに徹しない。互いに同意し合えない「事実」を巡って意見が対立するとき、事実と解釈を切り離すことで、落としどころを探ることもできる
だが、著者は、事実と解釈は表裏一体であり、どの事実を眺め、どの事実を強調するかによって解釈は変わるという。さらに、解釈という語りに一貫性を持たせるために事実を選択する必要も出てくる。
このとき、バイアスの罠が出てくる。
著者リン・ハントは白人で、アメリカで教育を受け、ヨーロッパ文化史とジェンダー論の専門家だ。過去の出来事について振り返るとき、こうした立場や視点からフリーになることは難しい。著者自身が「完全に客観的な解釈はできない」と述べている。たとえ歴史の専門家が下したとしても、その解釈が、バイアスを持ち込んでいないとは言い切れないのだ。
暫定的真実
それでも歴史家は、重要な事実と照らし合わせて、首尾一貫した解釈を論理的に提供できるかに気を配る。それでしか、自分が信じる物語に真実性をもたらすことができないからだ。
たとえ、自説に都合のよい出来事を検索してきても、それらは単なる寄せ集めでしかなく、事実としての一貫性も論理的な説明能力もないのだから。
そして、ある解釈が事実に立脚し、論理的に首尾一貫し、完全なものに整えられているときでさえ、その解釈の真実性は暫定的なものにとどまるという。なぜなら、後世に、新たな事実が発見されることもあるし、完全性の指標が変化するかもしれないからだ。
この考え方は、自然科学における仮説の扱いと似ていて面白い。
完璧な理論というものは存在せず、あらゆる理論や法則は、究極的には仮説だという考え方だ。19世紀末までニュートン力学は揺るぎない理論であったが、アインシュタインの登場によってその場を譲り、相対性理論における特殊な場合となっている。
それまでの理論よりも正確で、かつ論理的に過去の現象も首尾一貫して説明できるのであれば、その理論がとってかわる。一つの現象に一つの説明で満足するのではなく、あくまで仮説の一つに過ぎないと意識することで、思い込みや固定観念に囚われることを回避する。
本書では、実績のある歴史解釈を「暫定的真実」と呼んでいるが、これは自然科学における仮説といって良いのかもしれぬ。
固定化しないのが歴史
では、歴史について起きうる論争は、良いものなのだろうか。
歴史の民主化に伴い、日本や欧米で、歴史教科書について論争が繰り返されている。これは、かつての確固とした国民のアイデンティティが定まらない、不毛な弱さなのではないか?
この疑問に著者は、むしろ健全性の証だと答える。アイデンティティが最終的なものとして固定化することは決してないという。さらにこう加える。
歴史がそのことを証明している。歴史に関する論争は、政治体制が安定して、国民の過去を再考して再定式化することが可能な時に発生する。歴史的真実をめぐる議論を遮断することは、専制主義と手を携えて進んでいくことになる。
歴史のみならず、現代を広く見てみると、自国の歴史について議論が可能な国の方が、専制主義から遠いように見える。あるいは、歴史解釈や事実についてオープンな批判や議論ができない国の方が、より専制的だとも言える。
自分の主張に歴史的事実を添えたり、誰かの言説に過去の事例を参照したりするとき、わたしは、知らず知らず歴史家の仕事の恩恵にあずかっている。そして、歴史を学び、自分の解釈と照らし合わせ、批判的に検討することは、民主主義の実践そのものなのだろう。
※1
Karl Vick, “Iran’s President Calls Holocaust ‘Myth’ in Latest Assault on Jews”(Washington Post, December 14, 2005) [URL]
※2
Emma Green, “The World if Full of Holocaust Deniers”(The Atlantic, May 14, 2014) [URL]
最近のコメント