GDPがどういう値なのか、ちゃんと理解できていますか?
数値化されるということは、標準化された手続きによって計測・集計できるから、そこに人の思惑や裁量が入り込む余地なぞ無い、と思っていた。
ところが、GDPについては違うらしい。
『GDP 小さくて大きな数字の歴史』を読むと、GDPがどういう数字なのか、実はちゃんと理解できていなかったことが分かる。
あまりにも馴染み深い言葉なので、皆その意味を考えてみようともしないという。「GDPとは何か」について聞き知っていても、「GDPがどうやってできているか」については、ほどんどの人は理解していないらしい。テレビで語っているエコノミストも然りだという。
本書によると、GDPは、国の経済状況の大まかな指標値ではあるが、国の面積や平均気温を測定するのとは訳が違うという。自然現象を測定するような客観的なものではなく、人の判断が入り混じった、思惑や裁量によって左右される数字だというのだ。
恣意的なGDP
GDPとは何か? 国内総生産(Gross Domestic Product)の略で、ある年に国内で生み出された付加価値を合計したものだ。基本的な考え方として、「国内で使われたお金を全部足したもの」を元にGDPが計算される。
その定義と求め方は、国連が作成した国民経済計算体系(SNA)にある。それをExcelか何かで計算すりゃいいと思いきや、722ページという長大なものになる(プラス、解説とマニュアルが400ページ)。
なぜ計算がそんなに膨大になるのか? ここに着目すると、面白いものが見えてくる。計算する要素としては、売上高、輸送費やマージン、税金、輸出入、在庫増減、中間財、政府へ販売した分などがあるが、それをどう扱うかが、非常に複雑なのだ。
GDPのあいまいさ
たとえば、「消費」と「投資」の境界があいまいだという。一般人が10年使う車は「消費」だが、企業が2年使うソフトウェアは「投資」になる。在庫の増減は、意図的だろうと結果そうなったであろうと、「投資」扱い。
さらに、「国内で使われたお金を全部足したもの」から引くべき中間財の計算方法が厄介になる。インフレ率、季節変動の調整や政府支出など、それぞれ計算が違う。支出と収入は原則として一致するが、データの出どころが年次、月次、サンプルなど多種多様に異なっており、寄せ集めた結果が一致することは決してない。結果、統計的差異はかなり大きなものになる。
たとえば、貧しいと言われているアフリカの経済について。10年前の使い物にならないウェイト調整でインフレ率を計算していた例がある。正しいウェイトで計算しなおしたところ、実質GDPの値が跳ね上がったという。実は、サハラ以南のアフリカ経済は、ここ20年間、正式な値の3倍のスピードで成長していたというのだ。
なぜ、不正確なウェイト値を長いあいだ使い続けたのだろうか? 政府の単なるミスに帰着してもいいが、見かけより低いGDPは、「貧しいアフリカ」というイメージを演出する恰好のエビデンスとなり、援助機関からより手厚いサポートが得られるかもしれないと考える理由となったことは想像に難しくない。
あるいは、サービス分野が弱い点について。小売店からオンラインショップへの移行をどう計算するか、家事労働や政府支出、金融サービス、研究開発費はどこに含めるのかといった境界の問題が発生している。こうした境界をどこに引くかによって、GDPは数パーセント変わることもある。
[ロイターの世界こぼれ話]にある、売春や麻薬取引をGDPに含めるかという議論が面白い。EUの算出基準では、売春や麻薬取引をGDP計算に含めるよう求めているが、フランスは拒否し、イギリスとオランダは受け入れている。これにより、イギリスは1%、オランダは0.4%もGDPが押し上げられるという。
GDPの計算に何を入れて、何を入れないかという問題は、政府の思惑や恣意性が強く反映される。いつ定義を変えるかというタイミングも重要だ。GDPだけで比較することは、かなり乱暴な議論だというのは明らかだろう。
イメージ戦略としてのGDP
こうした不確定さに加えて、定義の変更が加わる。
サービス分野の弱点を補うため、GDPの計算において、商品の「質」の変化を入れたり、サービスにおける「生産」の定義を変えている。
たとえば、商品の「質」の変化については、ヘドニック指数による調整が紹介される。パソコンやカメラなどは、技術革新によって著しく性能が向上している。言い換えるなら、同じ性能のパソコンの値段が、昔と比べて下がっていると言える。価格だけで計算するなら下がってしまうため、性能などの質を考慮した計算方法が必要になる。
あるいは、サービスについて。そもそもGDPは物質的な生産を重視する考え方から始まっているため、サービスは例外的に扱われていた。ところが、サービス業の比重が大きくなるにつれ、無視するわけにはいかなくなった。
特に金融サービスで流通するお金は莫大で、2008年より生産的な活動として計上されるようになったという。あたかも、製造業者が原料から価値ある製品を生み出すように、銀行はリスクをとることでより高いリターンを「生産」しているという考え方だ。
こうした定義の変更により、面白い現象が見られる。もともと世界経済で傑出しているのがアメリカ合衆国だが、同時にこうした定義の変化をいち早く取り入れることで、諸外国に比べ、より有利な計算方法でGDPを算出している。
米国は2008年にこの制度を導入したことで、金融危機による世界経済の冷え込みの中、金融サービスがGDPを大幅に押し上げるという、矛盾した(でも正当な)結果になる。アメリカ経済の「強さ」は、こうした変化に柔軟に対応することで、自国により有利なイメージを見せる戦略にも裏打ちされているのだ。
MONIAC:コントロールできる経済
経済史を遡りながら、GDPの概念に潜む考え方を暴くのも楽しい。
1940年代の米国では、「政府は経済をコントロールできる」という風潮があったという。計量経済学モデルを用いて国内需要を管理し、金利と投資の関係を見ながら、増減税と財政支出を制御することで、あたかも自動車を運転するかの如く経済をドライブできるというのだ。
その象徴的なものが、MONIACというアナログ計算機である。沢山のタンクやパイプが接続されており、そこを流れる水は、銀行や消費者支出、貯蓄、外貨準備といった経済活動の様々な側面を現わしている。いわば、経済の視覚化とでもいうべきか。
MONIAC
https://ja.wikipedia.org/wiki/MONIAC
タンクが一杯になりそうであれば、バルブをゆるめて水を逃がし、あふれるのを抑制する。循環する水はお金であり、バルブの開け閉めやパイプの接続を制御することで、望ましい流れにすることができるという仕掛けだ。
おそらく、コンピュータ黎明期の計算機ENIACを捩ったのだろうが、MONIACの意図は、「経済というものは適切な政策ハンドルさばきで、完全にコントロールできる」という考え方である。
この驕りがどんな結果になったか? 様々な経済モデルが次から次へと誕生し、その時々の経済政策に適用されてきた。失敗した政策は、環境その他のせいにされ、新たなモデルを生み出す動機となった。モデルは、経済学者の数だけ存在するのである。
経済モデルは複雑怪奇なものに化け、パラメータの関係性には「未来への期待」といった摩訶不思議なものまで組み込まれるようになった。さらには、複数の経済モデルを駆使しながら、経済予測という新たなビジネスが成り立つことにもなった。
MONIACは、今では骨董品として残されているが、経済を機械として考えるエンジニア精神は、今においても力強く支配し続けているという。
GDPは無意味か?
たしかに、経済を完全にコントロールすることなんて不可能だ。
同様に、完璧に計算されたGDPといったものも、やはり夢物語だろう。データの出所があいまいだったり、計算対象をどうするかなどの定義が変ったりで、GDPを厳密な測定値と言うのは難しい。
さらに、複雑な計算を経るため、その間違いに気づいたり、外からチェックするのはさらに難しい。そのため、数字を偽装していたギリシャや、まともなデータ収集すらしていなかったアフリカの一部の国の例もある。
まだ表立っていないだけで、お手盛りしまくり、見かけ上の経済成長を宣伝することで、外国からの投資を呼び込んでいる国もあるかもしれぬ。計算に使う要素が明確な分、そして、要素のほとんどが政府主導で収集する統計情報である分、より少ない良心で裁量を振るうことができる。
しかし、だからといってGDPが無意味かというと、そうでもない。本書では、幸福指数やダッシュボードなどの他の指標値について検討されるが、どれも一長一短で、GDPに成り代わりになりそうなものはない。しばらくはこの指標を使うのが続きそうだ。
だが、問題はこの数字を何らかの実体として錯覚してしまうことにある。GDPは数十年にわたり蓄積され、経済理論や政策判断の基盤としてあまりにも広く使われているため、あたかも「GDPという実体」がどこかに存在しているかのように思ってしまっている。そして必要なのは、その実体の測定精度をあげることだと勘違いしてしまっているというのだ。
著者は言う、GDPはただの概念に過ぎない以上、正確な測定というものは本来ありえない。これをわきまえた上で、条件づけて使うなら、これほど便利な数字もないといえる。21世紀の経済における急激なイノベーションやデジタル化されたサービスについては不得意かもしれない。だが、どれほど実際の経済が成長したかについては、GDP以外には適当な測定方法はないのだから。
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