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おっぱいは誰のものか?『乳房論』

問:おっぱいは誰のものか?
答:それを持つ本人のもの

2行で終わるはずなのだが、『乳房論』を読むと、こんな単純なものではないようだ。この答えに至るまでに様々な紆余曲折があり、今でも続いていることが分かる。

本書は、人類史を振り返り、西洋を中心とした乳房をめぐる欲望の歴史をたどっている。乳房に対する概念は一様ではなく、それを求める人や時代や文化によって尊ばれ・蔑まれ・弄ばれてきたという。

著者はマリリン・ヤーロム、スタンフォード大学のジェンダー研究所の上級研究員である。

彼女は、乳房に対する視線、すなわち乳房がどのように見せられ、見られてきたかという観点から振り返る。絵画や彫刻、映画やポスターに現れる、ビジュアルとしての乳房だけでなく、詩歌や論文、プロパガンダに現れるレトリックとしての乳房にも着目する。さらに、乳房がその時代や文化圏でどんな役割を果たしたかという機能面にまで掘り下げている。

本書の背景には、「乳房は誰のものか」という疑問がある。すなわち、乳房を求めるもの―――乳児、パートナー、画家、詩人、医師、政治家、ポルノ業者、商人、司法家、宗教家など、それぞれの立場によって、乳房は様々な役割を担わされてきたというのだ。

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乳房はいつから性的に見られるようになったか

たとえば、絵画におけるモチーフとしての乳房の変遷が面白い。ギリシャ・ローマ時代の彫刻における女性の美しさの理想が、ルネサンスを機に俗世趣味的なものとなったという。授乳する聖母の乳房から宗教的な意味が剥奪され、乳房は、あからさまな男性の欲望の象徴になったと主張する。

乳房に手を置く男性図はルネッサンス美術によくみられるモティーフだが、乳房の所有権は自分たちにあると考えている証左だというのだ。本書では、ハンス・バルドゥング・グリーンの『老人と若い女』が紹介されている。老人は若い女の乳房に手を伸ばし、女は老人の財布に手を伸ばす構図だ[europeana:Ungleiches Paar]

そして、ルネサンス期に生まれた価値観が西洋文明に根強く残り、乳房は女性ではなく男性を性的に興奮させる意図で美術や文学に取り上げられ、鑑賞者や読者に愉しみを提供したというのだ。

絵画ではなく詩歌になるが、ルネサンスよりずっと前のヘレニズム期に、女性の胸を讃える歌があった([ギリシア詞華集選『ピエリアの薔薇』]の俗歌で見た)。この時代の男たちは、どちらかというとお尻を愛でていたが、乳房にも性的な意味は込められていた。おそらく「西洋画の歴史において」というカッコ付きの中で、おっぱいが性的に見られるようになった決定打がルネサンスなのかもしれぬ。

母乳神話はルソーが作った

「おっぱい」には母乳としての意味もある。乳児にとっては死活問題だが、これに男がからむと厄介なことになる。

著者は、その中核がエミールの『ルソー』だと主張する。それまでは、授乳は乳母がするものという慣習だった。だが、母親が自らのお乳をあげることで、社会は変革するとして、母乳育児とフランス革命をつなげたのがルソーだというのだ。

さらに、彼が与えた影響はフランス革命を超えて現代にまで繋がっているという。

ルソーが言うには、男性が女性の乳房を魅力的だと思うとしたら、それは究極的に種を残し、家族の絆を保存しようとするためである。社会的推進力としての母親の詩学と、平等主義者の母乳育児の裏に、西洋文化に深く根差した性差別的な世界観が潜んでいる。あまりにも根深いので、気づく人は少ない。

女性は生まれつき与え、愛し、自己犠牲的で、依存的な生き物であるというルソー主義者の理想が、理想的な母親のあり方という新思想の基本を形成し、200年にわたってヨーロッパと米国を支配する思想となった。

確かに、母乳神話は現代につながっている。どちらで育ててもいいのに、「おっぱい vs 粉ミルク」闘争は、今の時代でも目にするからだ。

たとえば、「母乳で育てるほうが赤ちゃんの健康にいいですよ」と主張する全米授乳キャンペーンがあるが、この動画には「粉ミルクで育てるおまえは、ロデオマシーンに乗る妊婦と同じぐらいリスキーだ」というメッセージが含まれている。母乳を神聖視する根っこをたどると、ルソーと、さらにその先にまで至る。

「赤ちゃんが生まれる前に危険なことはしないのに、生まれた後にするのはなぜですか」

「理想的なおっぱい」の商品化

おっぱいが何に覆われていたかを追いかけると、下着とファッションの歴史になり、ひいては「理想的なおっぱい」の歴史になる。

生まれたままの姿を美しいと崇めながらも、絵画や彫刻に描かれてきたのは、その時代における一般的な女性像ではない。どの時代の女性の乳房もたいして変わらないのに、それぞれの時代で、「リンゴのような」「魚雷のような」「ボウルのような」それぞれの形容詞を求められ、その求めに応じて「整え」られてきたというのだ。

乳房用下着はギリシャ・ローマ時代からあり、中世後期からコルセットは富裕層を中心に普及していたという。だが、すべての階層の女性にコルセットやブラが行き渡るようになったのは、19世紀半ばに広がった機械縫製による。そして、機械縫製による大量生産は、「乳房矯正」を強制的なものにする。

コルセット、ブラ、クリーム、ローション、シリコン注入、痩身プログラム、ボディビルといった乳房の商業化は、わずかここ百年のことだという。

1920年代のボーイッシュスタイルでは平たい胸がもてはやされ、女性たちは自分の胸を締めあげた。1950年代になると豊でセクシーな乳房が求められ、下から持ち上げるようなワンダーブラが競って買い求められた。そして、1970年代に一世を風靡したヌードモデルが、この風潮について決定的なコメントを残している。

「おっぱいが女性らしさの最高のシンボルのように強調されすぎている。おっぱいが大きくない女性たちに、自分は女ですらないと感じさせてしまうのは、とても良くないこと」

著者はこれを、身体イメージの問題だととらえる。その時代その場所に応じた理想的な身体イメージに適合していなければ、女性は自分の乳房を快く思うはずがない。「理想的な美しさ」というあいまいな規範に、大多数の女性が拘束されているというのだ。

ブラを焼く

著者は、西洋史の大部分を通じて、乳房を支配してきたのは男性だったという。

夫や愛人による個人的な支配であろうと、教会や国家、医学会など男性中心的な社会による集合的なものだろうと、おっぱいが支配されてきたことには変わりないという。

こうした支配に対抗するためのデモンストレーションとして、「ブラを焼く」という行為が、60~70年代に広まる。そもそも、女性の乳房が恥ずかしいものとして隠されたり、猥褻で邪なものとして見なされるのは、こうした男性支配による影響だとし、自由に胸をさらす権利を求める運動だ。

胸をさらす自由を求めるといえば、ラ・チチョリーナだろう。ある年齢層からだと思い出すかもしれない。

上半身裸で選挙活動を行ったチリョリーナはは、1987年にイタリアの国会議員に当選する。「おっぱい丸出し議員」として物議をかもしたぐらいしか覚えていないが、彼女の功績は本書で知った。性的開放を訴え、議員としての4年間で「囚人にセックスする権利を認める」「学校で性教育を行う」「国営娼館の再開」など、7つの法案を提出したというのだ。

デモンストレーションとしての乳房は、啓蒙運動にも用いられる。原子力発電所の建設反対デモで、乳房除去手術痕をさらしたレイヴン・ライトや、ディーナ・メッツガーの「Warrior(戦士)」が紹介される。

「戦士」は、乳がんで乳房が片方になってしまった女性を映した、美しい写真だ。裸になったメッツガーは両腕を広げ、左右非対称の乳房を太陽に向けてさらしている。片側には従来の乳房、もう一方には切除痕に施した入れ墨が見て取れる。わたしは、これほど自由で力強い乳房を見たことがない。

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Deena Metzger as the Warrior
(cite from Jewish Women's Archive)

Jewish Women's Archive. "Deena Metzger as the Warrior Poster." (Viewed on November 26, 2019) <https://jwa.org/media/warrior-poster>.

おっぱいから見た人類史

おっぱいの歴史は一筋縄ではゆかぬ。

絵画や母乳神話、乳房の商品化とそれに抗う運動と紹介してきたが、他にも、乳がんを巡る医学史や、第一次大戦のプロパガンダにおける乳房の役割、おっぱいをさらすことで搾取される/する女性とポルノ業者の歴史などが語られる。

おっぱいが持つ意味は、立場によって異なってくる。赤ん坊には生きる糧、男性にはセックス、医者は診察対象で、商売人にはドルマーク、宗教家には神聖なシンボルで、政治家にはプロパガンダに利用する。そして、歴史や文化によって、それぞれ何が良しとされ、何が避けられるかは変わってくるという。

どの視点どの立場からしても、「おっぱいは誰のものか」という問いに対する答えは明白だ。おっぱいの持ち主のものに他ならない。だが、乳房の持ち主である本人が、自分のおっぱいをどう扱うかについて自由にできないことが問題なのだ。

著者は言う。乳房についてもっと自由に振舞うこと認められれば、それだけ女性が自由になれる。公共の場で赤ん坊に自由に母乳をやることができる。トップレスで自由に泳げる。ノーブラで出勤してもとやかく言われない。そんな未来は不可能ではないという。

そして、百年前の女性の脚を引き合いにする。慎み深い女性は人前で脚など見せないとされていたが、今は違う。出したい人は出せばいいし、そうでない人は出さなくてもいい。乳房についても、同じ時代が来ると言うのだ。

わたしがその時代を見届けられるか、分からない。だが、メディアが喧伝する「理想的な乳房」「健康的なおっぱい」といった身体イメージから自由になれることは、全ての女性にとって幸せな未来であることは分かる。

人類の祖先が四足歩行から二足歩行に移り変わるとき、女性の成熟度のバロメーターがお尻から乳房に代替されたと言われる。また、大きく張りのある乳房を持つ女性を選ぶことで、自分の子孫を残す確率を上げることができる(より多くの赤ん坊を育てられると見込まれるから)という説もある。

本書は、芸術作品を元に歴史・社会学的な視点だったが、進化生物学のアプローチからおっぱいの歴史をたどると、さらに興味深い分析ができるに違いない。

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