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「いま・ここ」から離れる『世界文学アンソロジー』

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日ごろ「自分」を機械的にやっていると、外面の「自分」が当たり前になる。仕事上の立場だとか、SNSで被っているキャラといった、日常的に使い分けている「自分」が、内面のわたしを乗っ取りはじめる。

そんな「自分」を異化するため、他人の物語を聞く。しかも、できるだけ「いま・ここ」の自分から離れたものがいい。異なる言葉、違う文化の物語を聞くことで、自分にとっての当たり前が、当たり前でないことを思い知る。

『世界文学アンソロジー』を手にすると、このアタリマエじゃ無い感が浮彫りにされてくる。

固まった「自分」に一撃を加える

たとえば、フランツ・カフカの「夏の暑い日のこと」がそう。

わずか2頁の掌編なのに、常識が丸ごと壊される感覚を味わえる。何も悪いことをした覚えがないのに、突然逮捕される『訴訟(審判)』を思い出させる。あるいは、自分の身の上に、何か重要な間違いが起きつつあるのに、それに関わらせてもらえない『城』を予感させられる。常識というものが、いかに脆弱な日常の上に成り立っているか、嫌というほど分からせてくれる。カフカ未体験の人には、比較的短い『変身』がお薦めされているけれど、こっちを推したい。2頁でカフカの喪失感が味わえる。

あるいは、サイイド・カシューア「ヘルツルは真夜中に消える」もそれ。

昼間はユダヤ人として過ごし、真夜中を過ぎるとアラブ人へと変貌する話だ。外見はどこも変わらないのに、話す言葉や信条・思想が完全に入れ替わる。ジキル・ハイドやドリアングレイを想起させられるが、彼がなぜ、どのように変貌するかは、説明が一切ない。わたしの場合だと、社会的な立ち位置や慣習が、自分の内なる信条を強化するが、ヘルツルの場合では、なり替わる人格という内面が外化する。

「いま・ここ」を再確認する

しかし、異なる言葉・違う文化の物語を聞いているうちに、まるで自分のことを言われているような気がしてくる。自分の当たり前を外から眺め、揺さぶるうちに、ぐるりと巡って、まさに「いま・ここ」へ戻ってくる感がある。

イタロカルヴィーノの「ある夫婦の冒険」がそうだった。

夫は夜のシフトで、妻は昼の勤務の日常を切り取った短編だ。ベッドを共にはしているが、その間はわずかだ。相手が帰ってきて、身体を洗ったり食事を一緒にしたりする折々で、ちょっとしたすれ違いとときめきが同居する。自分のライフサイクルと全然違うのに、なぜかこのクスクス笑いをしたことあるぞ……という気にさせられる。仕事にでかけた伴侶が寝ていたベッドの温かい場所を足で探すその動きは、まさにわたしもしたことがある。

そして、フリオ・コルタサル「グラフィティ」がぐっときた。

軍事政権の重苦しい中で、壁に落書きをする若者たちの話だ。落書きといっても、人や鳥や抽象的な図を、チョークでこっそりと書きつける、グラフィティアートだ。監視の目が光っているから、めったなことを描くと、連行される。そんな状況で、若者は、自分が描いた図案の隣に、黒いチョークで言葉が書きつけられていることに気づく。

わたしは痛みを抱えている。

2時間と経たず、警察が直々にその絵を消しにやってくる。それからは、絵だけでやり取りをする。2人称で描かれているため、この話を最後まで聞くと、まるでチョークを渡されたような気になる。描くこと、言葉を発すること、表現することについて、「いま・ここ」も同じのかもしれぬ、そんな気分になっている。

収録作品一覧

日常に凝り固まった自分を、いったん離して眺めるために、異なる言葉、違う文化の物語を聞く。自分の当たり前は、世界の当たり前じゃないことに気づく。その一方で、異なる言葉、違う文化の中に、まさに自分自身を見出す。

短く、特徴的な話を厳選しているため、「はじめての世界文学」の入り口として最適だ。「愛」「家族」「戦争」といったテーマごとに、硬軟とり揃えて、もっと読みたい人向けのブックリストも紹介している(しかも難易度が★で分かる!)。気に入った作品を手掛かりに、もっと奥に行きたい人にはうってつけだ。

『世界文学アンソロジー』は、まさに世界文学スターターパックの一冊といえる。

  • エミリー・ディキンスン(アメリカ)「ことば」
  • 李良枝(韓国/日本)「由煕」
  • サイイド・カシューア(イスラエル/アラブ)「ヘルツル真夜中に消える」
  • フェルナンド・ペソーア(ポルトガル)「わたしは逃亡者」
  • ハンス・クリスチャン・アンデルセン(デンマーク)「影法師」
  • チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ(アメリカ)「なにかが首のまわりに」
  • フォローグ・ファッロフザード(イラン)「あの日々」
  • ジェイムズ・ジョイス(アイルランド)「土くれ」
  • 魯迅(中国)「狂人日記」
  • 石垣りん「子供」
  • プレームチャンド(インド)「私の兄さん」
  • チヌア・アチェベ(ナイジェリア )「終わりの始まり」
  • パウル・ツェラーン(ルーマニア)「死のフーガ」
  • イサーク・バーベリ(ロシア)「ズブルチ河を越えて/私の最初のガチョウ」
  • フリオ・コルタサル(アルゼンチン)「グラフィティ」
  • ファン・ラモン・ヒメネス(スペイン)「わたしはよく知っている/鳥達は何処から来たか知っている」
  • 石牟礼道子「神々の村」
  • クリスタ・ヴォルフ(東ドイツ)「故障――ある日について、いくつかの報告」
  • コレット(フランス)「ジタネット」
  • イタロ・カルヴィーノ(イタリア)「ある夫婦の冒険」
  • 莫言(中国)「白い犬とブランコ」
  • フランツ・カフカ(チェコ)「夏の暑い日のこと」
  • アズィズ・ネスィン(トルコ)「神の恵みがありますように」
  • 宮澤賢治「毒もみのすきな署長さん」
  • ディラン・トマス(ウェールズ)「あのおだやかな夜におとなしく入ってはいけない」
  • ジュール・シュペルヴィエル(フランス)「沖合の少女」
  • ガブリエル・ガルシア=マルケス(コロンビア)「世界でいちばん美しい溺れびと」

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ミスが全くない仕事を目標にすると、ミスが報告されなくなる『測りすぎ』

Hakarisugi

たとえば天下りマネージャーがやってきて、今度のプロジェクトでバグを撲滅すると言い出す。

そのため、バグを出したプログラマやベンダーはペナルティを課すと宣言する。そして、バグ管理簿を毎週チェックし始める。

すると、期待通りバグは出てこなくなる。代わりに「インシデント管理簿」が作成され、そこで不具合の解析や改修調整をするようになる。「バグ管理簿」に記載されるのは、ドキュメントの誤字脱字など無害なものになる。天下りの馬鹿マネージャーに出て行ってもらうまで。

天下りマネージャーが馬鹿なのは、なぜバグを管理するかを理解していないからだ。

なぜバグを管理するかというと、テストが想定通り進んでいて、品質を担保されているか測るためだ。沢山テストされてるならバグは出やすいし、熟知しているプログラマならバグは出にくい(反対に、テスト項目は消化しているのに、バグが出ないと、テストの品質を疑ってみる)。バグの出具合によって、テストの進捗と妥当性が判断できる。

「いじめ」をゼロにする方法

似たようなことは、教育行政で見かける。

「いじめゼロ」を目標にして、いじめが起きた学校や教室を処罰対象にする。「いじめの報告件数」が、教師や学校の評価に響くとなると、いじめは確かに報告されなくなり、統計上は減少する。そして、告発の手紙を遺して自殺した子どもに対しても、「いじめではなかった」と強弁される。

どんなに対策しても、いじめは起きる。重要なのは、いじめは起きる前提で準備をすることであり、その件数は準備の材料にすぎない。ここをはき違えると、いじめの報告されない社会になる。

バグ件数やいじめの報告数は、カウントできる。「数」という比較しやすい値を出せ、場所や時系列といった軸で表現しやすく、Excelやグラフとの親和性も高い。結果、カウントしやすい(加工しやすい・グラフ映えする)数が重視される。バロメーターの1つであり、いち判断材料にすぎない測定値が、目標にすりかわる。

測定値が目標にすり替わるメカニズム

この、測定値という「手段」が、本来それを役立たせるべき「目的」になるメカニズムを描いたのが、『測りすぎ』である。

テストの成績や、犯罪発生率、インパクトファクター(文献引用率)といった測定基準が、本来の役割(実態のバロメーター)から離れ、目標そのものと同一視されるようになる。さらに、目標を達成するために測定基準がゆがめられ、数字に振り回せされる顛末が、これでもかと書いてある。現場を見ずに数字だけを見る馬鹿マネージャーは、どこにでもいる。

ただし、馬鹿には馬鹿なりの理屈がある。本書は、その理屈を徹底的に掘り起こす。

マネージャーとして求められるものは、その成果になる。自分がそこに就いて、どれほどの実績を出せたかどうか、説明責任がある。この「説明責任」が厄介な問題だという。

説明責任(アカウンタビリティ)は、もともと「自分の行為に責任を負う」という意味のはず。だが、一種の言語的トリックによって、測定を通じて成果を示すことに変わっていったという。あたかも、大切なのは測定できる(カウントできる)ものだけであり、測定できないものは埒外と扱われるようになった。

成果主義の風潮と、短期に目に見える結果を出すプレッシャーにさらされると、「カウントしやすい」数値目標を追い求めるようになる。実態は複雑で、その成果も複雑なのに、簡単なものしか測定せず、その数値こそが実態を完全に表していると思い込む。

そして、その数値でもって報酬や懲罰、格付けの基準とみなすのだ。馬鹿マネージャーの思い込みは、下々のものへは「数値目標」という形で上意下達される。

すると何が起きるか? その数値―――テストの成績や、犯罪発生率、インパクトファクター―――だけを良くすることが仕事になってしまうのだ。

たとえば、学力の低い生徒を「障碍者」として再分類し、評価対象から排除することで、成績の平均を引き上げる。「犯罪率を20%下げる」という目標は、記録される犯罪件数を20%に減らすため、未満・未遂に格下げされる。自分の論文の引用件数を引き上げるため、非公式な引用サークルを結成し、互いの論文を大量に引用しあう。

「非公式な引用サークルを結成し、互いに引用しあう」なんて、ランキングや口コミサイトで見かける裏技だが、大学教授もやっているのかと思うと笑ってしまう。

笑えるだけでなく真顔にもなるのがその続きだ。

大学の成果を測定するための管理コストが増えているのだという。インパクトファクターや格付け、評価ランキングを測定し、その値を上げるための「仕事ごっこ」が、本来なら研究や教育に費やす時間を食いつぶすことになる。結果、事務職員の仕事が増えることになる。

大学の教育費が上がっている現実的な原因は、こうした説明責任のための管理コストだというのである。

大学を格付けし、それに応じて助成金を配る行政そのものが、測定のためのコストを跳ね上げ、ひいては教育費の増加を招いている。本書は米国の事情だが、日本の大学も似たような弊害があるかもしれない。大学教育の費用と、事務職員の数を重ねたら、一発で見えるだろうね。

「仕事ごっこ」に気づく

馬鹿なマネージャーは丁重に追い払えばいいが、仕事ごっこが好きな上司はそこらじゅうにいる。

どうすればよいのか。本書では、そもそも何のために測定しているのかを指摘する。

コンピュータを用いて犯罪件数を統計化するのは何のためか? どの地域が最も問題を抱えていて、どこにリソースを配分するのが良いかを判断するためだ。共通テストを受けさせるのは何のためか? 科目ごとの生徒の理解度を教師が把握し、指導方法やカリキュラムを見直すためだ。

問題は、昇進や懲罰をちらつかせ、犯罪件数やテストの点数を「目標」とさせるところにある。測定値は実態の一面を切り取ったバロメーターにすぎず、判断の代わりにはならない。反対に、「それを測定するか?」は判断が必要になる。

  1. そもそも労力を払ってまで測定すべきものか?
  2. 何を、どうやって測定するのか?
  3. 測定値は、どのように扱うのか?
  4. その値は、どうみなされるのか?
  5. 結果は公開すべきか?

特に1. が重要。データの収集や分析には時間と労力がかかる。「事務作業」という名目に、膨大な測定コストが隠れてしまっている。そのコストはメリットと比較すると大きなものになるかもしれないし、本当に知りたいことと何の関係もないかもしれない。

「数値目標」は、上司や政府のスポークスマンがよく掲げる。それらがどれほどまっとうで、どれくらいバカらしいか、あらためて吟味できる一冊。

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「動作」に特化した創作者のためのシソーラス『動作表現類語辞典』

文章を書いていて、似たような表現をくりかえすことがないだろうか。

わたしは、よくある。そんなとき役立つのは、シソーラス・類語辞典だ。関連するワードや概念を別の言葉で表現することで、ボキャブラリーを広げ、マンネリに陥らぬようにする。

よく使うのは名詞や形容詞の言い換えだが、所作や行動に特化した『動作表現類語辞典』が斬新なり。これ、小説やシナリオを書く人にとって、強力な一冊になるだろう。

見出しは全て「動詞」で、五十音順に並んでいる。

たとえば、「教える(teach)」だと……アドバイスする、補助する、承知させる、文明化する、コーチする、調子を整える、忠告する、開発する、監督する、規律に従わせる、改善する、叩き込む、強化する etc……とある。

かなりのバリエーションだが、「教える」は様々な行動になる。ありがちな「アドバイスする」から、状況により「叩き込む」こともありだ。えっちなシーンだと、「教える=開発する」という意味も持つ。眺めるだけで、妄想と語彙力がマシマシになる。

本書がユニークなのは、もとは俳優が用いる演劇の方法論「アクショニング」をベースにしている点だ。

アクショニングとは、舞台や映画で何かを演ずるとき、セリフや行為の一行一行に対し、注釈のように動詞を割り当て、何を「する」のかを考えることだという。そうすることで、俳優は、セリフの方向付けや演技のニュアンスを豊かにする。

この何かを「する」は、必ず「他動詞」すなわち目的語を持つものが選ばれる。誰か(何か)に対して「アクション」をする、常に対象となる客体が必要だというのだ。そして、動作対象に自覚的になることで、セリフの一行、一つのしぐさに、意味と具体性が出てくる。

演技に説得力を持たせるアクショニングは、小説やシナリオを書く時にも役立つ。

すなわち、キャラクターの所作や発話の背景にあるアクションを念頭に、表現を決めることができる。

たとえば、登場人物が「教える」とき、どのように教えるか? ちょっと「アドバイスする」程度から、徹底的に「叩き込む」ように教えるのか? 何かに目覚めさせるなら「開発する」も使っていきたい。

このとき、人物が何を欲し、どんなアクションをしたいのかを予め考え抜いておくことで、そのアクションに対する、より具体的でリアルな動詞を見出すことができる。

カート・ヴォネガットは創作論の中で、「たとえコップ一杯の水でもいいから、どのキャラクターにもなにかをほしがらせること」と指摘した。物語の本質は、登場人物が欲しがっているものを手に入れようと行動することにある。その行動に意味と具体性を与えることがアクショニングであり、これにより演技や描写の説得力が増す、という仕掛けである。

物語作家や俳優、パフォーマーは必携の一冊。

Dousa

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人類を平等にするのは戦争『暴力と不平等の人類史』

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貧富の差は拡大する一方。一向に格差の是正が進む気配はない。

日本に限った話ではない。北米、南米、中国、東南アジア、アフリカ……世界中、至るところで格差は絶賛拡大中だ。格差の拡大は、人類社会の宿命なのだろうか?

古今東西の不平等の歴史を分析した、ウォルター・シャイデル『暴力と不平等の人類史』を読むと、これは事実ではないことが分かる。たしかに貧富の不平等はあるが、これを一掃する平等化が果たされる。人類の歴史は、不平等の歴史でもあるが、平等化の歴史でもあるのだ

本書の目的は、この平等化のメカニズムを解明するところにある。データと史料とエビデンスでもって緻密に徹底的に分析する。

不平等のメカニズム

まず著者は、不平等は人間社会の基本的特徴だという。人類が食糧生産を始め、定住化と国家形成を行い、さらに世襲財産権を認めて以降、不平等が進むのは既定の事実だと述べる。なんとなくそうではなかろうかで済ませがちだが、著者はあくまでデータで示す。

たとえば、物質的不平等を、残された亡骸や住居跡から判別する。上流階級の人間が、その他大勢より背が高かったことを、ギリシャのミケーネで発掘された骨格記録から考証する。

あるいは、古代から中世のイギリスにおける住居サイズの中央値を調べ上げ、不平等との相関を明らかにする。そして、階層分化が激しかった社会は、そうでない社会よりも、貧富の差が体格や住居の差に現れていたことを、データでもって実証するのだ。

土地や奴隷といった資産管理や、徴税・納税が記録として残されている時代になると、著者は、「ジニ係数」と「上位1%の所得シェア」の統計値を推計する。

「ジニ係数」は0から1までの値を取り、0に近づくほど平等に分配されており、1に近づくほど不平等になる。「ジニ係数=1」なら、たった一人が全所得を独占していることになる。「上位1%」は全人類を富者から貧者まで並べ、上位の1%がどれだけ独占しているかを示す。

「ジニ係数」と「上位1%」、著者はこの2つの視点を元に、膨大なデータと史料を駆使しながら、貧富の格差がどのように拡大し、そして均されていったか明らかにする。

そこで明らかになるのは、数千年にわたり、文明のおかげで平和裏に平等化が進んだことはなかったという事実である。古代エジプトであれヴィクトリア朝時代のイギリスであれ、ローマ帝国であれアメリカ合衆国であれ、社会が安定すると不平等が拡大したことは動かしがたい。

富を紙にする「戦争」

この貧富の差を解消し、不平等を大幅に是正する存在がある。

戦争だ。

それも国家レベルで大量動員し、国土を焦土と化すほどの大規模なものになる。物理的な破壊のみならず、没収的な課税、インフレ、政府規制などにより、エリート層の富は消え去る。

著者は、戦争の規模とそれが平等化の是正に与える影響をデータでもって示してくれる。なかでも史上最大の平等化装置となったのは、第2次世界大戦だという。1935~1975年の上位1%の所得シェアの推移を見ると、大戦を境に、20%から8%へと急激に低下している。

日本における不平等も、太平洋戦争が解消してくれたと言える。

まず、戦争が行われている間、政府規制、大量動員、インフレ、物理的破壊が、所得と富の分配を平準化した。戦後になると、財閥の解体による私有財産の再分配が行われ、農地改革による地主制度が根絶したという。これに加え、海外資産の喪失と金融の崩壊により、富は紙になった。

さらに、企業別労働組合の創設や、累進性の高い所得税や相続税といった制度の適用により、所得と不平等と富の蓄積はある程度押さえられたと分析している。

太平洋戦争を境に、日本のジニ係数は0.6から0.3へと大幅に低下している。何百万もの人命と、国土に甚大な被害をもたらした戦争が、結果として、他に見られない独自の平等化をもたらしたというのだ。

ただ、あらゆる戦争が平等化をもたらすかというと、違う。近代以前の略奪と征服を特徴とする伝統的な戦争は、たいてい勝者側のエリートに利をもたらし、急激に不平等を拡大させていた。さらに、戦争規模が小さい場合、平等化は一時的なものにすぎないという。格差解消のために戦争を求める声もあるが、徹底的な破壊と大量の血が必要となりそうだ。

全員を貧民にする「革命」

不平等を是正するのは戦争だけではない。それは何か?

革命だ。

持てるものから強制的に奪い、持たざる者に分け与える。抵抗するエリートは追放するか、抹殺する、暴力的な革命だ。本書では、レーニン、スターリン、毛沢東が成し遂げたことが、どれほど平等化において効果的であったかを検証する。

「金持ちを吊るせ、奴ら全員に死を!」というレーニンの訴えは、スターリンの富農撲滅策で遂行される。小作農が地主の土地を奪い取ることを奨励し、標的が不足すると富農の定義を拡大した。雇用している者、碾き臼などの生産設備を所有しているもの、商売をしている者が、次々と含められ、逮捕や強制差し押さえが行われた。ブルジョアやエリートを標的とした大粛清では、150万人が逮捕され、その半数が抹殺されたという。

その経済の行く末は破滅的になる。没収を免れるため、農民は生産を抑え、家畜を殺し、農具を破壊した。耕地面積も収穫量も、革命前と比べて激減した。金持ちを殺し、追放し、奪ったことにより、格差は激減する。国全体が貧しくなったのだから。

毛沢東が成し遂げた平等化も、緻密に検証されている。

1950年の土地改革法により、地主の土地のみならず商業資産も没収対象となった。村の集会に強制的に引き出された地主は、糾弾され、財産は没収され、処刑されたという。最終的には1000万人以上の地主が財産を没収され、土地の40%が再分配され、殺されるか、自殺に追いやられたのは200万人に上る。

大量の血が流されたが、この革命により、中国における平等化は劇的に進んだという。中国全体の市場所得ジニ係数は、実証的には分かっていないものの、推測値として0.31(毛沢東が死去した1976年)が挙げられている。さらに、1980年前後の都市部の所得ジニ係数は0.16と推計されている。

ただ、あらゆる革命が平等化をもたらすかというと、違う。これは戦争と同様で、平等化のためには中途半端な暴力は役に立たず、充分な破壊と血を必要とする。キューバやニカラグアでの革命政権は、暴力的な強制に頼らず、民主的共存を目指したため、有効な平等化を果たせなかったことが、データでもって示される。特に、フランス革命は歴史として有名だが、富の分配への影響は地味なものだったことが明らかにされている。

暴力革命がもたらしたもの

血と暴力による革命のおかげで小さくなったジニ係数は、経済自由化により劇的に反転する。

毛沢東の死後、20年で国民市場所得のジニ係数は0.23から0.51になり、本書が執筆された時点(2017年)では0.55とみられている。さらに、家計純資産のジニ係数は、1990~2012年の間に、0.45から0.73まで上昇したというデータも示されている。また、ロシア市場収入のジニ係数は、1980~2011年で0.26から0.51に上昇する。

社会が安定し、資産が保護され、経済が回り、富が蓄積するようになると、ほとんど人類の仕様のように格差は広がる。著者は、暴力革命が平等化において果たした役割と、その後に拡大した貧富の差を指摘した後、こうまとめる。

これらの事例のほとんどでは、共産主義政権が名目上は権力を握り続けているものの、経済の自由化が急速に不平等を押し広げてきた。同じことが共産主義政権崩壊後の中欧社会にも当てはまる。共産主義が何億何千万という人命を犠牲にしてまで、どんな価値あるものを得たのかということは、本書の研究の対象外とするところではない。だが、ひとつだけ確かなことがある。共産主義が多くの血を流して手に入れた大幅な物質的平等というものは、もはや影も形もなくなっている

平等化の四騎士

人類の仕様としての不平等と、それを大幅に解消する暴力的破壊。ここでは、「戦争」と「革命」を中心に紹介したが、本書では、これに2つを加え、以下を平等化の四騎士として紹介する。

  1. 大量動員戦争
  2. 暴力革命
  3. 国家の破綻
  4. 致死的伝染病の大流行

どれも膨大なデータと徹底的な検証により導き出された「平等化の騎士」であり、どれだけ不都合だろうとも、いったんはファクトとして受け止める必要がある。

読んでいて、どうしてもぬぐえぬ違和感があった。それは、「平等化」をジニ係数や上位1%で見る視点だ。

わたしは、「平等化」とは、富の分配の話だと考える。単純に、富める者から貧しい者へ、富を分配すればいいのに、人類はそれをするのが不得意だ。一方、平等化の四騎士は、極めて得意だということが、本書の主張である。

だが、そこでなされていることは、「富の分配」ではなく、富の破壊である(2.は、「富の分配」を目指していたかもしれないが、実際は、富の破壊だった)。戦争、革命、崩壊、疫病の現場において、エリートは奪われる富を持っていた。だが、貧乏人は奪われるといったら命しか残っていなかった

生き残ったエリートは、富の大部分を失い、生き残った貧者は、生産設備に対する労働力の相対的な価値が上がり、賃金が上昇した。これを数字にすると、ジニ係数の低下になるが、死んだ人は「貧者」としてカウントされない(文字通り、死人に口なし)。違和感の正体はこれだ。

平等化の四騎士がやっていることは、富の破壊であるだけでなく、貧者の口減らしでもある。ジニ係数だけを見ていると、貧者が奪われるものを見失うだろう。

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世界文学全集を語り尽くすためのリストを作る

日常生活には質量があるので、「いま・ここ」で生きることに、痛みや、息苦しさを感じることがある。そんなとき、違う人生を違う言葉で描いた文学を読んでいる。読んでいる限り、いっときのあいだ、「いま・ここ」から離れることができる。

性別も文化も言語も時代も飛ばして、まったく馴染みのないほうがいい。今の自分から遠ければ遠いほうがいい。「いま・ここ」から、目を背けることができる。

現実から目を背け、見知らぬ感情を追体験していると、あっという間に時が経ち、気づいたら、息をするのが楽になっている。一方で、自分と同じ痛みに、自分と違うやり方で向き合う様を見て、目を背けていた現実に向き合わされることもある。

そうした、自分と伴走してきた文学を持ち寄ると、世界文学になる。世界文学について語るときに私たちが語ることは、あったはずの人生だったり、あるはずもない現実のカタログになる。

この、現実のカタログとしての世界文学について、秋草俊一郎准教授が特別講座を行う。

100年前、ゴーリキーは「世界文学出版所」をたちあげ、文学全集を作り上げようとした。それは、ソ連版「世界文学全集」とも言うべき存在になる。秋草先生はこれを踏まえ、日本を含めた全世界のカタログとして世界文学を紹介するとのこと。 

 
ゴーリキーと世界文学出版所――シリーズ「世界文学の最前線」

 9月29日(日)14:30-16:00

 日本大学通信教育部1号館

 無料・予約不要

Sekaibungaku

秋草先生の特別講座「世界文学の最前線」はこれで3回目で、これまでのは以下にまとめている。世界文学をメタに見た分析はたいへん鋭く、興味深いので、参加をお薦めする。

第1回 文学とコンピュータが出会うとき―――デジタル・ヒューマニティーズの現場

第2回 アメリカの世界文学全集における「日本文学」のシェア

わたしも見てくるつもりだが、せっかくだから推しを教えてくれないか? あなたの人生に寄り添って、あなたと伴走してきた文学があるはず。@Dain_sugohon につぶやいてほしい。

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驚くほど上達する「みんなで推敲」体験事例の発表会まとめ

「文章の推敲は、自分一人でやるものだ」と思いこんでいないだろうか?

しかし、グループウェアなどのコラボレーションツールを使って「みんなで推敲」すると、文章は、驚くほどよくなる。

「Googleドキュメントを文章推敲プラットフォームとして使う」という、誰でも思いつきそうな、しごく単純なアイデアだが、実際にやってみると、驚くほどの威力があり、新鮮な感動を覚える。これは、集合知を使った文章推敲のイノベーションだ。

この「みんなで推敲」の体験談の発表会が8月30日に開催された。具体的に、どのように「みんなで推敲」が行われ、文章が改良されていくのか、そのプロセスが分かる、たいへん興味深い内容だったので、この記事でまとめる。

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今回発表を行ったのは、ふろむださん主催の[面白文章力クラブ]のメンバーの3人。このクラブは、ライティングの初心者からプロまでが集まって「みんなで推敲」を行う場所だ。

わたし自身、行き詰まったり、誰かの意見が聞きたいとき、お世話になっている。[デオコを使うと女の子の匂いになって脳がバグる記事]が社会現象を起こすほど影響があったので、この記事に対する「みんなで推敲」のプロセスを発表した。いつもは門外不出だが、許可をもらって公開するので、ぜひ参考にしてほしい。

  1. 「デオコ」の記事はどのようにでき上ったのか [プレゼン資料](@Dain_sugohon)
  2. 面白文章力クラブに実際に入ってみてどうだったか? [プレゼン資料](内原さん@kanshinko)
  3. フィードバックをもらうことの効用 [プレゼン資料](永田さん@DataVizLabsPath)

「デオコ」の記事はどのようにでき上ったのか

まず、わたしのプレゼン。デオコの記事について。実際のところ、初稿はもっと長文だったのだが、みんなで推敲していくうちに、バッサリ削ったのである。最初はトピックが2つあった。

 a. なぜ女の子はいい匂いがするのか?
 b. おっさんが女の子の匂いになったら脳がバグる

a.は、女の子の匂いを、なぜ「良い」と価値づけするのかの話だ。進化心理学の立場から、性別や成熟度を判断するために「良い匂い」と価値づけするに至った経緯を説明する。そしてb.は、女の子の匂い物質「ラクトン」を含むボディソープを使ったら、「くたびれたおっさんの身体から、女の子の匂いがする」異様な体験をしたというレポートだ。

ところが、2つの話題の面白さの方向性が違っており、面白さの本質はb.にあるという指摘を貰った。せっかく書いたものを削るのは残念だが、よく考えてみると、たしかにa.が冗長となっており、b.に到達するまでに離脱されるかもしれぬ。

この辺りの経緯は、[生原稿とレビューコメント]を見たほうが早い。同じ原稿に対し、全体的な構成や代案を、チャットしながらレビューする、みんなで推敲のプロセスを見ることができる。

私がよくやる失敗として、「お寿司ラーメン」がある。「お寿司は美味しい。ラーメンも美味しい。だからお寿司とラーメンを一緒に出したら、もっと美味しい」という理屈だ。「何を美味しいと思ってもらうかによって、メニューを組み立てる」という発想がない。ここは戒めたいところ。

面白文章力クラブに実際に入ってみてどうだったか?

次は、内原さんの体験記。文字通り「ぶつかり稽古」のような試行錯誤で文章をモノにしていく過程を紹介する。

最初は、「ドン・キホーテは箱羊の夢を見るか?」というタイトルで、本業の話を書こうとしたところ、問題が多岐にわたりすぎて収拾がつかなくなる。テーマを明確にし、トピックを絞り、掘り下げるというスキルが無いことを痛感したという。

「ふわっとした」書き方をすると、「ふわっとした」コメントが返ってくる。内原さんは、内容を絞り・描写を具体的にすることで「文章の解像度を上げる」のを課題として、ブラッシュアップに取り組む。

クラブで反響が出たのは、「読経しながら号泣した話」の件から。ほぼ毎日、趣味として観音経を読経されているとのことで、ある日、いつも通りに読経しているうちに、小学生時代のこと、亡き祖母のことを思い出し、ふいに「祈るとはどういうことか」が腑に落ちて涙が止まらなくなる、という文章だ。

これに対し、「読者を感情移入させるためのキャラ設定」や「物語の本質に潜む『切実さ』を出す」「いったん読者を予測させた後、裏切れ」といったアドバイスがなされ、どんどん原稿を直していって、最終的には出版される。

本人はスゴロクめかして楽しんでいたみたいだが、傍から見るとドラマチックなり。

フィードバックをもらうことの効用

最後は永田さんのプレゼン。データ分析・データ視覚化のエキスパートで、仕事としてのライティングに役立てているという。

みんなで推敲することによって、自分の原稿がどのように変わっていくのかをbefore・after形式で示してくれる。

わたしがめちゃくちゃ納得したのが、「後知恵バイアスと注意集中バイアス」の件だ。

文章を書く上で、「本文」に入る前の前置きを短くする。言われてみれば当たり前のことだが、前置きを書くのに夢中になって、どんどん長くなっていることに気づかない。

だが、これに気づかないのは「注意集中バイアス」のせいだという。すなわち、自分が注意を向けているものの価値を過大に評価する傾向があり、前置きを書いていると、前置きが重要な気がしてきて、本文そっちのけになってしまう。

これ、わたしも非常によくやってしまう。

人の仕様である認知バイアスのため、自分で回避するのは難しい。しかし、他人が書いた文章なら問題ない。自分の文章でないから、冷めた目で「前置きが長い」と言える。このフィードバックは有難い。

ライティングの世界で「編集者」という存在が必須なのは、こうしたバイアスから離れた目で、その文章を取り巻く世界を含み、第三者的なコメント・代案が必要だからだろう。

永田さんの原稿は、みんなで推敲され、最終的には新聞寄稿記事や、自分史上最高の「いいね」「スキ」がもらえたnote記事になる。

QAいろいろ

会場からいただいた質問で、「どこまで書くか?」があった。書きたいことについていくらでも出てくるが、何を、どこまで書くべきかという問いだ。

答えは、「全部」だ。構成クソ食らえって感じで、そのテーマで書きたいものをとにかく全部、重複も筋道も関係なく、全部吐き出すつもりで書く(読書猿『アイデア大全』のレヴィ・ストロースのように書きなぐれ)。その上で、推敲する。わたしの場合になるが、書きなぐったものが最終的に記事になるのは、ほぼ1割。

sli.doでいただいた質問で「仕事でミスをして謝罪文を書かなければいけないけれど、それも面白文章クラブでレビューしていい?」について。

答えは、ぜんぜんオッケー。会社名などを伏せればいいし、レビューイーは(投稿した時間帯にもよるけれど)数分~1、2日でフィードバックしてくるから、それほど時間もかからない。

このクラブでは、「みんなで推敲する」対象の文章は問われない。わたしのような書評をはじめ、日常をエッセイ風に描いた記事や、永田さんのようなガチの寄稿記事もあるし、いわゆる小説のプロットやアイデア、物語もOK。ちなみに、わたしのブログで[上手な謝り方]を紹介しているので、ご参考までに。

かなり重要なのが、「YKTのように記事をフィードバックする際に意識している基準はほかにありますか?」という質問だ。

これはまず、「YKT」について説明する必要がある。

YKTとは「読みたい気持ちタンク」の略で、クラブ内の共通用語だ。読みたい気持ちが入っている仮想的なタンクで、面白そうだと感じたら増え、つまらなくなりそうだと感じたら減る。そして、YKTが空になったら、読者は離脱するという仕組みだ。

クラブでは、「つまらない」という代わりに、「この説明が長いのでYKTが減った」と言い、「面白い」という代わりに「このリード文でYKTが増えた」と言う。単に「面白い」「つまらない」ではなく、「どこが」面白い/つまらないかをYKTで説明するのだ。

この「どこが」は超重要。なぜなら、普通の人は「面白い」と思ったら先を読み、「つまらん」と思ったらブラウザを閉じるだけだから。そして、どちらの場合もわざわざ教えてくれるものではないから、「どこが面白い/つまらない」を読者視点で教えてくれるのは、本当にありがたい。

そして、YKT以外にもフィードバックの基準があるか? というのがsli.doの質問だ。この答えは、ふろむださん本人のコメントを引用しよう。

YKT以外では、たとえば「モデル- ビュー構造」、「モデル - 企画 - 原稿 構造」、「ログライン - 企画 - 原稿 構造」、「書き出し - ハロー効果 - 確証バイアス 構造」などを意識してレビューすることが多いです。

これ、さらりとまとめているけれど、めちゃくちゃ圧縮しまくっている。

たとえば「モデル(what/何を書くか)」を自問自答した後、「ビュー(how/どう書くか)」へ落とし込んでいく段階を踏んだプロセスが必要だ。さらに、それぞれのプロセスについて詳細な解説がある。これ以上は、「モデルービュー」ができていない文章の実例を併せて説明しないとピンとこないので割愛する(そのうちふろむださんがまとめてくれることを期待してる)。

まとめと次回

まとめ。めっちゃ楽しいオフ会でした! 参加された皆さま、サポートいただいた方、そして何よりも、クラブ主催者のふろむださん、ありがとうございました! 

次回もやりましょう~ 案として、

  • sli.doで会場からQAを募集するのに加え、ライブ中継して質問をやりとり
  • Googleドキュメントのコメント+チャットレビューを、リアルでやる(同じ文章について、みんなでリアルタイムにレビューするワークショップみたいなやつ)
  • 土曜の半日ぐらいみっちりと、時間をかけてやる(ビール飲みたくなるなぁ)
  • 文章指南本を持ち寄って、みんなで紹介する([スゴ本オフ]みたいw)
  • クラブの中の人限定でやる(ネタバレし放題)

みんなで推敲すると、文章は面白くなる。この「みんなで推敲」のプロセスは、編集をシェアするという、新しい編集のやり方なのかもしれぬ。

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