愛にできることがまだあるとすれば、それは、選んだ世界を引き受けること。
生きていく限り、私は何らかの選択を重ね続ける。
世界は選択の結果である。
望んだ結果にならなかったとしても、私は、自分の選択を引き受けなければならない。
その選択は、たとえばどんなものがあるか?
ささやかな選択(誕生日、何を贈ったら喜ばれるだろうか?)から、決定的な選択(彼女がいる世界といない世界、どちらか?)まで、さまざまな大きさの選択がある。
大きさだけでなく、時の長さもある。とっさの選択(助ける?助けない?)、何年もかかる選択(その時まで息をひそめて生きるか、何もかもかなぐり捨てて逃げるか)、これもさまざまだ。
何らかの理由により、選べないかもしれない。あるいは、選びたくないかもしれない。誰かのせいにしたり、不可抗力や運命の仕業にして、「選ばない」結果になることもある。しかし、何も選ばなかった場合、「何も選ばなかった人生を生きる」という選択をしたことになる。「選ばない」も「逃げる」含めて、選ばざるを得ない。
つまり、生きるとは、選ぶことなのだ。
これは、好き嫌い・可能不可能に関わらない。
そして、選んだ結果がハッキリ見えるものもあるし、見過ごしてしまうものもある。見えないから、見るのが嫌だからといっても、「選んだ」ことなのだ。そして、見える・見えぬにかかわらず、選んだことが今の世界を構成することを自覚する。これが、「選んだことを引き受ける」ことなのだ。
選択によって、そこに「責任」が生じたり、良心を痛めたり、「罪」になることもある(ただし、それは"見える"場合の話だ)。
結果が見える・見えぬもひっくるめて、選ばざるを得ないこと、選んだ世界を生きるしかないことに、諦めではなく、勇気と、そして愛をもって取り組む。選んだことを正面から引き受けるとき、その心の別名が、愛であり、勇気であるのかもしれぬ。
その選択により、世界じゅうを敵に回した場合、それは美しい物語となるかもしれない。あるいは、自分を裏切って下したような選択の場合、それは、悲しい現実と呼ばれるかもしれない。
それでも、選ばざるを得ない。選んだ世界を引き受ける他ない。愛にできることがまだあるのだとすれば、それは、選んだ世界を引き受けることなのだ。
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