たとえば、高速道路に「たまたま」飛び出した人をはねて死なせてしまったとする。ドライバーは「注意して運転していれば避けられたはず」として、過失の度合いが図られる。
あるいは、通勤中、「たまたま」通り魔に襲われたとする。「過失」を無理やり探すなら、その道を選んでしまったことになるのだろうか。
この「たまたま」が厄介だ。
それまでの善行・悪行に関係なく、「たまたま」悪い目に遭う。悪い結果になっていないのは、偶然に過ぎないのに、結果が「たまたま」悪ければ、悪い原因が遡及される。
理想の世界では、善人には報酬が、悪人には報復が与えられる。災厄に見舞われた人には埋め合わせとする幸福が与えられる。
だが、現実は違う。善悪と幸不幸が同期しない。現実は、むしろ運に左右される。そのため、善悪を語る場から、運を排除しようとする。
宗教や神話は、「神意」や「天命」と呼ばれる神の意志=運命を取り入れ、前世や来世の因縁で語る。善悪と幸不幸は同期しているが、それは前世からの報いであり、来世へ持ち越されるという理屈だ。
では、善悪を語る倫理学の場では、「運」はどのように扱われるのか?
「道徳と運」をペアで語れる哲学者は少ない。ほとんどは、運の要素に目を背けて、道徳の側面を語りたがる。
実際のところ、理想は道徳が支配し、現実は運に左右される。道徳を否定するものが運であり、運に抗うものが道徳である。「不道徳」とはすなわち「運」なのである。道徳と運は、いかにも相性が悪い。
『不道徳的倫理学講義』では、この食い合わせの悪い「道徳と運」に真っ向取り組む。タイトルの「不道徳」は「運」を指し、いわば「運」を倫理学で解く講義になる。確固とした道徳理論を語る哲学者たちも、「運」の要素から見ると、みな苦戦している(または見なかったことにしている)。
運の問題を回避したプラトン
まず、プラトン。彼は因果応報の神話を真実だという。善への報酬と悪への報いは、あの世を含めると公正だという。
そして、現実は違い、運の要素がついてまわる。プラトンは、この運の影響を最小限にするのが、知恵や勇気、節制や正義といった「徳」だとする。徳を最大化することで、運に関係ない善さを手に入れることができるとする。
だが、そうした徳も、運の影響下にあるのではないか? と著者は指摘する。知恵や勇気を身に付けたり、節制や正義を実現できる条件自体が、まさしく運によって左右されるのではないかというのだ。不遇な星の下に生まれ育ったのであれば、徳もへったくれもなかろう([On a plate]は、この格差を分かりやすく描いている)。
プラトンは『国家』のラストで、この運と徳の問題を巧妙に回避する。因果応報の神話にて、前世での自分が「選んだ」ことにするのだ。よりどりみどりではないものの、自分がどう生まれ・育ちとなり、どんな人になるかは、あの世で自分が決めたことであり、神意でも偶然でもないとする。
ポイントは、「よりどりみどり」ではない、という点だ。実は、選択肢を選ぶ順番が決まっているのだ。すなわち、前世で積んだ徳の順で、選んでいくという仕掛けだ。
悪い結果が出たとき、本当は運が悪いだけなのに、「前世の選択」や「徳」の概念で説明しようとする。これは[公正世界仮説]と呼ばれる認知バイアスによるものだろう。プラトンのみならず、多くの哲学者や宗教家が因果応報で説明しようとしてきたが、これは人としての仕様バグなのかもしれぬ。
「運」を排除したカント
次はイマヌエル・カント。道徳をめぐる問題圏から運の要素をどこまでも排除しようと試みた論者が、カントだという。
カントは、善いものを2つに分ける。一つは、才能や気質、権力や財産、名誉、健康といった「恵み」である。こうした恵みは、必ずしもそれ自体として善いものではないという。
もう一つは、善い意志になる。これは、無条件で普遍的な義務を自らに立ててそれを果たそうとする意志であり、それ自体として善いものだという。
そして、善い意志の元で行動しても、運が悪かったり、体力や健康に恵まれていなかった場合、良い結果を出せないときがある。だが、それでも善い意志はそれだけで光り輝くという。カントは、外的な要因に左右される結果より、内的な意志に価値を与える。
徳と幸福が一致する条件として、人間の理性を最上に持ってきて、運がもたらす結果に関係なく、善い意志は善いとする思想は素晴らしい。
だが、本当だろうか? どれほど不正や暴力にさらされていようとも、善い意志を持ち続け、道徳的な人生を送っているのであれば、それだけで幸福といえる、とすべきだろうか? 健気だ、不憫だ、と思いこそすれ、その人が幸福だと思うのは難しい。
倫理を語るうえで、道徳的な評価は運に左右されてはならないとするあまり、「道徳と運」について目をそらすか、敵視してきた。運は、理想を裏切る現実であり、秩序や安定を乱す厄介者だからである。
ネーゲルの道徳的運
そんな中で異彩を放つのは、トマス・ネーゲルになる。彼は、「道徳的運」という考え方を提示するのだが、この発想が面白い。
そもそも「道徳」の原理は、個人の自由意志に基づいて選択した行為に対し、責任を帰するところにある。一方「運」とは、個人の意志では制御できない偶然的要素であるが故、責任を帰せないことを指す。だから、「道徳と運」は排他的な存在なのかもしれぬ。運が通れば、道徳は引っ込むのだ。
ネーゲルは、道徳的な義務や責任を負うべきなのは、個人の意志で制御できる行動においてだけだとする。そして、個人で制御できないのだけれど、道徳的な判断の対象として扱われるものを、道徳的運と名づける。
運が良い場合・悪い場合、いずれも個人の意志で制御できるものではない。そうした運一般のうち、道徳的に責任が問われるものが道徳的運という訳である。
もし現実が、個人の意志で完全に制御でき、運の要素が一切入らない均質な世界であるのなら、行為が引き起こした結果を全て引き受ける責任が生ずるだろう。
だが、現実はそうではなく、個人ではどうしようもない状況が「たまたま」起きることがある。また、非難されることは一切していないにもかかわらず、起きてしまったことが「たまたま」悪いこともある。
だから、行為と結果の間には、完全な因果だけしか成り立っていないわけではなく、運の要素がついてまわる。現実は、均質な世界ではないのだ(このあたりの議論は、[行為の哲学『それは私がしたことなのか』]に詳しい)。
これを無視して、「個人の意志で制御できたならば、悪い結果にならなかった」として、個人に責任を求めるには無理がある。ネーゲルの道徳的運という考え方は、現在は常識とされる現実の不均質な面を浮き彫りにしている。
道徳と運、ままならないものをどのように扱うかを考える一冊。
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