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【追記あり】「デオコおじさん」の記事等を面白くさせた「みんなで推敲」を生で伝えます(8/30渋谷・参加無料)

Omosiro

「おじさんも女の子の匂いに」想定外のヒットとなった「デオコ」。売上げ4倍、株価爆上げ、今年のコミケは良い匂い(予想)の火付け役がこれ→[リアル君の名は。おっさんが女の子の匂いを買ってきて身につけたら、たまらない背徳感を味わえた]

だけどこの記事、わたし一人で書いたわけじゃないのだ。

もちろん、最初の原稿を書いたのはわたしだけど、それをみんなで寄ってたかって推敲して、あの記事に仕立てたのだ(ちなみに、初稿のタイトルは「673円で女の子の匂いを再現する」だった)。

この「みんな」というのは、ふろむださんの[面白文章力クラブ]なのだ。面白くて刺さる文章を書きたい人が集まって、互いに添削・推敲しあうコミュニティサイトで、自分の文章が面白くなっていくプロセスを目の当たりにできる。

このプロセス、門外不出なのだが、許可をもらったのでナマで公開する。わたしだけでなく、他の方も発表してくれるので、オフ会の形で開催します。

もちろん誰でも無料で参加できるので、ぜひ「文章を面白くするプロセス」を盗んでいってほしい。

オフ会の目的 面白文章力クラブで文章がどのように面白くなったかを紹介する
日時・場所

8/30(金)19:00~20:30(受付18:45~)
株式会社HENNGE (グラスシティ渋谷10F[地図]

参加する人 誰でもOK(クラブの中の人、外の人関係なく参加できます)
参加費 無料
コンテンツ
(発表者/@twitter)

「デオコ」の記事はどのようにでき上ったのか(Dain@Dain_sugohon)

面白文章力クラブに実際に入ってみてどうだったか?(内原さん@kanshinko

フィードバックをもらうことの効用(永田さん@DataVizLabsPath)

公開・非公開

公開(twitter・ブログ記事にします)します。写真は撮影しますが、顔は写り込まないよう配慮します

twitterでつぶやく際のハッシュタグは、「#面白文章」でお願いします。

ご質問は、「sli.do」にて受け付けております。イベントコードは「R123」です。

申込方法 [こちらからどうぞ] キャパMAXとなりましたので締め切りました

 

8/3 更新・追記:「交流会という名の飲み会」について

オフ会終了後、「交流会という名の飲み会」も開催します。上記「申込方法」にて承ります。こちらは有償・先着順ですので、お早めにどうぞ。 締め切りました。先着順で10名様の次の方といたします。申し込んだのにここに入っていない方は、キャンセル待ちとさせてください(ごめんなさい!! キャンセルが出た場合、優先的に受け付けます!)

  1. @DataVizLabsPath
  2. さとうよすけ
  3. しげ
  4. クラミツキヨシ
  5. ntaiji
  6. 忍者(@Ni_nja)
  7. @jayjaytakahashi
  8. あんどう/@NoriJr
  9. またんご
  10. Katson

 

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愛にできることがまだあるとすれば、それは、選んだ世界を引き受けること。

生きていく限り、私は何らかの選択を重ね続ける。

世界は選択の結果である。

望んだ結果にならなかったとしても、私は、自分の選択を引き受けなければならない。

その選択は、たとえばどんなものがあるか?

ささやかな選択(誕生日、何を贈ったら喜ばれるだろうか?)から、決定的な選択(彼女がいる世界といない世界、どちらか?)まで、さまざまな大きさの選択がある。

大きさだけでなく、時の長さもある。とっさの選択(助ける?助けない?)、何年もかかる選択(その時まで息をひそめて生きるか、何もかもかなぐり捨てて逃げるか)、これもさまざまだ。

何らかの理由により、選べないかもしれない。あるいは、選びたくないかもしれない。誰かのせいにしたり、不可抗力や運命の仕業にして、「選ばない」結果になることもある。しかし、何も選ばなかった場合、「何も選ばなかった人生を生きる」という選択をしたことになる。「選ばない」も「逃げる」含めて、選ばざるを得ない。

つまり、生きるとは、選ぶことなのだ。

これは、好き嫌い・可能不可能に関わらない。

そして、選んだ結果がハッキリ見えるものもあるし、見過ごしてしまうものもある。見えないから、見るのが嫌だからといっても、「選んだ」ことなのだ。そして、見える・見えぬにかかわらず、選んだことが今の世界を構成することを自覚する。これが、「選んだことを引き受ける」ことなのだ。

選択によって、そこに「責任」が生じたり、良心を痛めたり、「罪」になることもある(ただし、それは"見える"場合の話だ)。

結果が見える・見えぬもひっくるめて、選ばざるを得ないこと、選んだ世界を生きるしかないことに、諦めではなく、勇気と、そして愛をもって取り組む。選んだことを正面から引き受けるとき、その心の別名が、愛であり、勇気であるのかもしれぬ。

その選択により、世界じゅうを敵に回した場合、それは美しい物語となるかもしれない。あるいは、自分を裏切って下したような選択の場合、それは、悲しい現実と呼ばれるかもしれない。

それでも、選ばざるを得ない。選んだ世界を引き受ける他ない。愛にできることがまだあるのだとすれば、それは、選んだ世界を引き受けることなのだ。

 

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運が通れば道徳は引っ込む『不道徳的倫理学講義』

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たとえば、高速道路に「たまたま」飛び出した人をはねて死なせてしまったとする。ドライバーは「注意して運転していれば避けられたはず」として、過失の度合いが図られる。

あるいは、通勤中、「たまたま」通り魔に襲われたとする。「過失」を無理やり探すなら、その道を選んでしまったことになるのだろうか。

この「たまたま」が厄介だ。

それまでの善行・悪行に関係なく、「たまたま」悪い目に遭う。悪い結果になっていないのは、偶然に過ぎないのに、結果が「たまたま」悪ければ、悪い原因が遡及される。

理想の世界では、善人には報酬が、悪人には報復が与えられる。災厄に見舞われた人には埋め合わせとする幸福が与えられる。

だが、現実は違う。善悪と幸不幸が同期しない。現実は、むしろ運に左右される。そのため、善悪を語る場から、運を排除しようとする。

宗教や神話は、「神意」や「天命」と呼ばれる神の意志=運命を取り入れ、前世や来世の因縁で語る。善悪と幸不幸は同期しているが、それは前世からの報いであり、来世へ持ち越されるという理屈だ。

では、善悪を語る倫理学の場では、「運」はどのように扱われるのか?

「道徳と運」をペアで語れる哲学者は少ない。ほとんどは、運の要素に目を背けて、道徳の側面を語りたがる。

実際のところ、理想は道徳が支配し、現実は運に左右される。道徳を否定するものが運であり、運に抗うものが道徳である。「不道徳」とはすなわち「運」なのである。道徳と運は、いかにも相性が悪い。

『不道徳的倫理学講義』では、この食い合わせの悪い「道徳と運」に真っ向取り組む。タイトルの「不道徳」は「運」を指し、いわば「運」を倫理学で解く講義になる。確固とした道徳理論を語る哲学者たちも、「運」の要素から見ると、みな苦戦している(または見なかったことにしている)。

運の問題を回避したプラトン

まず、プラトン。彼は因果応報の神話を真実だという。善への報酬と悪への報いは、あの世を含めると公正だという。

そして、現実は違い、運の要素がついてまわる。プラトンは、この運の影響を最小限にするのが、知恵や勇気、節制や正義といった「徳」だとする。徳を最大化することで、運に関係ない善さを手に入れることができるとする。

だが、そうした徳も、運の影響下にあるのではないか? と著者は指摘する。知恵や勇気を身に付けたり、節制や正義を実現できる条件自体が、まさしく運によって左右されるのではないかというのだ。不遇な星の下に生まれ育ったのであれば、徳もへったくれもなかろう([On a plate]は、この格差を分かりやすく描いている)。

プラトンは『国家』のラストで、この運と徳の問題を巧妙に回避する。因果応報の神話にて、前世での自分が「選んだ」ことにするのだ。よりどりみどりではないものの、自分がどう生まれ・育ちとなり、どんな人になるかは、あの世で自分が決めたことであり、神意でも偶然でもないとする。

ポイントは、「よりどりみどり」ではない、という点だ。実は、選択肢を選ぶ順番が決まっているのだ。すなわち、前世で積んだ徳の順で、選んでいくという仕掛けだ。

悪い結果が出たとき、本当は運が悪いだけなのに、「前世の選択」や「徳」の概念で説明しようとする。これは[公正世界仮説]と呼ばれる認知バイアスによるものだろう。プラトンのみならず、多くの哲学者や宗教家が因果応報で説明しようとしてきたが、これは人としての仕様バグなのかもしれぬ。

「運」を排除したカント

次はイマヌエル・カント。道徳をめぐる問題圏から運の要素をどこまでも排除しようと試みた論者が、カントだという。

カントは、善いものを2つに分ける。一つは、才能や気質、権力や財産、名誉、健康といった「恵み」である。こうした恵みは、必ずしもそれ自体として善いものではないという。

もう一つは、善い意志になる。これは、無条件で普遍的な義務を自らに立ててそれを果たそうとする意志であり、それ自体として善いものだという。

そして、善い意志の元で行動しても、運が悪かったり、体力や健康に恵まれていなかった場合、良い結果を出せないときがある。だが、それでも善い意志はそれだけで光り輝くという。カントは、外的な要因に左右される結果より、内的な意志に価値を与える。

徳と幸福が一致する条件として、人間の理性を最上に持ってきて、運がもたらす結果に関係なく、善い意志は善いとする思想は素晴らしい。

だが、本当だろうか? どれほど不正や暴力にさらされていようとも、善い意志を持ち続け、道徳的な人生を送っているのであれば、それだけで幸福といえる、とすべきだろうか? 健気だ、不憫だ、と思いこそすれ、その人が幸福だと思うのは難しい。

倫理を語るうえで、道徳的な評価は運に左右されてはならないとするあまり、「道徳と運」について目をそらすか、敵視してきた。運は、理想を裏切る現実であり、秩序や安定を乱す厄介者だからである。

ネーゲルの道徳的運

そんな中で異彩を放つのは、トマス・ネーゲルになる。彼は、「道徳的運」という考え方を提示するのだが、この発想が面白い。

そもそも「道徳」の原理は、個人の自由意志に基づいて選択した行為に対し、責任を帰するところにある。一方「運」とは、個人の意志では制御できない偶然的要素であるが故、責任を帰せないことを指す。だから、「道徳と運」は排他的な存在なのかもしれぬ。運が通れば、道徳は引っ込むのだ。

ネーゲルは、道徳的な義務や責任を負うべきなのは、個人の意志で制御できる行動においてだけだとする。そして、個人で制御できないのだけれど、道徳的な判断の対象として扱われるものを、道徳的運と名づける。

運が良い場合・悪い場合、いずれも個人の意志で制御できるものではない。そうした運一般のうち、道徳的に責任が問われるものが道徳的運という訳である。

もし現実が、個人の意志で完全に制御でき、運の要素が一切入らない均質な世界であるのなら、行為が引き起こした結果を全て引き受ける責任が生ずるだろう。

だが、現実はそうではなく、個人ではどうしようもない状況が「たまたま」起きることがある。また、非難されることは一切していないにもかかわらず、起きてしまったことが「たまたま」悪いこともある。

だから、行為と結果の間には、完全な因果だけしか成り立っていないわけではなく、運の要素がついてまわる。現実は、均質な世界ではないのだ(このあたりの議論は、[行為の哲学『それは私がしたことなのか』]に詳しい)。

これを無視して、「個人の意志で制御できたならば、悪い結果にならなかった」として、個人に責任を求めるには無理がある。ネーゲルの道徳的運という考え方は、現在は常識とされる現実の不均質な面を浮き彫りにしている。

道徳と運、ままならないものをどのように扱うかを考える一冊。

スペシャルサンクス:面白文章力クラブ

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惑星と電子をつなぐもの『科学とモデル』

Scienceandmodel

惑星も電子も中学で習うが、そこで学んだ常識を疑うのは難しい。惑星は太陽のまわりを回り、電子は原子のまわりを回る、と考えていた。
ところが、みんな大好き量子論からすると不確定性が生じ、電子とは、惑星のように軌道を描いているよりも、雲のように確率的に分布する存在となる。

アインシュタインは「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのこと」と述べたが、ラザフォードのモデルに太陽系を見てしまう「偏見」は、弦理論を学んだところで捨てるのは難しい。

Atom

Wikipedia 「ガイガー=マースデンの実験」By 投稿者自身による作品 (CreateJODER Xd Xd), CC 表示-継承 3.0, Link

モデル=世界の一部?

これは、モデルを通じて世界を見るあまり、「モデル=世界」が成立してしまっているからだ。教科書で学んだ原子核モデルはフィクションかもしれないが、太陽や月や星の動きを見た経験から得られる確信が結びついてしまっているのだ。

だから、弦理論は知識として「知って」はいるもの、「確信する」ことはないだろう。モデルは、そのモデルを適用する研究対象にとって分析したり説明するにあたって便利であるように作られている。すなわち、モデルは現象を切り取る断面なのだ。

そのため、超弦理論を扱う一般書を読んだだけで、あたかもそれらが絶対的な真であるかのように確信する人には戸惑いを感じる。その確信はどこからやってくるのか、不思議に思うのだ。専門家なら、もっと慎重に仮説とモデルを扱うだろう。

では、科学者がモデルを扱うとき、そこにどのような確信があるのだろうか? それとも、わたしのように「モデル=現実」の罠に陥ってしまうのだろうか?

「モデルとは何か?」という問いを掘り下げた『科学とモデル』(マイケル・ワイスバーグ)を読むと、科学は、この罠を上手く避けていることが分かる。

モデリングの本質

本書では、モデルを使って問題を解く典型的な例を示しながら、モデリングの本質を探る。モデルとは、ある種の理想化を行うことで、現実を調べる方法だとする。そして、モデリングとは、モデルの構造や分析を通じて、現実世界を「間接的」に研究する方法であるが故、現実世界の完全な表現を目指しているわけではないとする。

その上で、モデリングを3つに類型化する。

まず、「具象モデル」で、ミニチュア模型のような物理的特性によって、現実世界の現象を再現することを目的とする。風洞などが典型的だ。次に「数理モデル」で、現象を数式の形に表現したものになる。最後は「数値計算モデル」と呼ばれ、現実の振る舞いを手続き化し、コンピュータ上の数値計算としてシミュレートする。

そして、モデルは2つの部分から成立するという。

一つはモデルの「構造」で、それぞれのモデルは物理的・数学的な構造から構成されている。そしてもう一つは「解釈」で、モデルの制作者が現実のどの部分を理想化して表そうとしているかによって変わってくる。

このような整理を経て、「”良い”モデルとは何か」「特徴の重みづけはどのようになされるのか」といった分析を行い、「”似ている”とはどういうことか?」という哲学的な領域まで踏み込んでゆく。

モデル=フィクション説

なかでも面白かったのは、「モデル=フィクション」だとするフィクション説。モデルは理想化された現実だから、フィクション的なシナリオを記述するという考え方である。

フィクション説によると、わたしたちは、物語を読んだり映画を観たりするのと似たやり方でモデルに関わっている。フィクションではその世界の全てが書かれているわけではなく、物語の進行や演出上、特徴的なものに絞られる。それ以外の特性は、つじつまの合うよう補う必要がある。

同様に、モデリングされた世界では、死亡率やGDP、引力やクーロン力といった特徴的な数値に絞られ、それらを通じて理想化された現実を理解することになる(他の特性はつじつまの合うよう補正される)。

このフィクション説を唱えている一人に、『タコの心身問題』のピーター・ゴドフリー・スミスがいるという。[懐かしい名前]に思わず微笑むが、はワイスバーグは反対の立場をとる。

シンプルな数理モデルならフィクション説も通るかもしれないが、現実的なものからかけ離れた数学的モデリングだとそうは行かないという。p.99より引用する。

たとえば、化学結合についての、近似的な量子力学モデルを調べているとしよう。こうしたモデルは、分子システムに作用する力を考慮し、力すべてに近似的な説明を与えることによって作られる。結果として得られるモデルは、ポテンシャルエネルギー面を通る経路の集合という形をとる。
空間そのものは高次元である(3N-5次元モデル・Nは分子内の原子の数)。この空間を通る経路は、考えることも想像することもできない。それらは、ポテンシャルエネルギーと分子座標系の座標との間に相関があるということ以外は、物質的分子の持つ具体的特性に似たところはほとんどない。

要するに、あまりに抽象的すぎて、端的に想像不可能なのだ。

死亡率や引力といった具体的で経験と結びつけやすいモデルだからといって、モデルと経験を結びつけてもいいわけではない。わたしが陥っていた、惑星と電子の同一視は、この結びつけを自分で強化してしまっていたからなのだろう。

モデル=理論を説明するための方法

理論がモデルで説明されるとき、経験と直接結びつけられて解釈されるのではなく、理論を記述できるモデルによって解釈されることになる。理論が厳密に真だと言えるのは、あくまでモデルの中での話だけなのだ。

これは、かなり難しい。惑星と電子に限らず、わたしが何度もやってしまう誤ちだ。

ある理論を説明するとき、分かりやすく特徴的な側面を抜き出したモデルが用いられることが多い。ところが、わたしは、そのモデルを理解しただけでその理論を「分かった」気になる。そして、そうしたモデルの集積=世界だと判断してしまうのだ。

モデルとアナロジーの違い

これは、アナロジーとモデルを混同させるときにも生じる。

モデルは、現実世界を間接的に分析する方法である一方、分析から導かれる理論を説明し、理解してもらうための方法としても使われる。これは、例えなどの類推を経て説明されるため、アナロジーと分かちがたく結びついている(ex.光は「粒のようなもの」「波のようなもの」)。

だが、本書で扱われる「モデル」の目的が、現実を調べるための抽象化である以上、「理解や説明のため」のアナロジーと重ねてしまうと、意味が拡散してしまう。あくまでも、「具象モデル」「数理モデル」「数値計算モデル」といった、調査のための方法に落とし込めるものにしたい。

現実を、「そのまま」理解することは、人間である限り不可能である。その結果、モデルやアナロジーを通じて理解する他ない。だが、「現実とどれほど似ているか」について厳密に調べようとするならば、本書のようにモデリングの本質まで掘り下げる必要がある。

モデルとは何か、シミュレーションの哲学とは何かについて考える一冊。

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「倫理的に正しい金儲け」が資本主義を最強にする『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

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プロテスタンティズムが資本主義を生みだした? さらっと流すと、そう読めてしまう。

もちろん、マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムが資本主義を生んだ」と言ってない。むしろ『プロ倫』では、そうした安易な一般化はダメと批判する。

ところが、そうした誘惑に駆られるのよ。はっきりした統計データが得られると、そこに「ストーリー」を捏造して説明したくなる誘惑は、抗いがたい。

ヴェーバーが魅せられた誘惑はこれ。弟子の書いた本を読んでいて、あることに気づいた。信じている宗派と、経済的な裕福さに相関があるのだ。

信仰は財産を生む?

人を金持ちにする宗教があるのか、金持ちが信じたがる宗教があるのかは分からない。だが、プロテスタントとカソリック教徒を、収益税を課税する対象1000人当たりで比較すると、こうなる。(p.18 [注6]よりグラフにした)

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この着眼を出発点として、プロテスタントと経済合理性との関係を掘り下げ、近代資本主義への影響を問うたのが本書になる。

本書を面白くかつ難解にしているのは、「ストーリー」の捏造を戒める書きっぷり。

ヴェーバーにはずいぶん論敵がいたようで、膨大な注釈のあちこちで反論する。この丁々発止が面白いが、論難されないよう、言い回しを駆使して捏造を回避する。

おかげで何を言っているのか分からなくなったり、真逆の主張が混ざっているように見えて迷いがちだ。

倫理的に正しい金儲け

だが、タイトルの「資本主義の精神」とは何かを追いかけていくと、「正当な利潤を合理的に、職業として追い求める心構え」だということが見えてくる。ベンジャミン・フランクリンの例を挙げながら、この心構えこそが、資本主義的な企業を推進する原動力として働いたというのである。

では、金を稼ぐことを最高善という倫理は、どのような背景をもとに生まれたのか?

それは、宗教改革によって、キリスト教の合理的な禁欲と生活方法が、修道院から世俗の労働生活のうちに持ち出されたという。

例えば、信仰日記をつけるという習慣がある。自分の犯した罪とさらされた誘惑、恩寵による進歩を日々記録する習慣だ。

これらは表形式で記入され、あたかも功罪の勘定がバランスシートのように扱われる。ヴェーバーはこれを、「生活の聖化は、事業経営にも似た性格をおびるようになりえた」と結論づける。

そして、宗教を土台とする倫理は、信仰によって生み出された生活態度を規定してゆく。労働を義務とみなし、生産性の向上に勤しみ、信用という価値を蓄積する態度は、近代資本主義の原動力となったというのである。

ヴェーバー v.s. マルクス

『プロ倫』が面白いのは、『資本論』に真っ向勝負を挑んでいるところだ。ヴェーバーは、マルクスの唯物史観の真逆をやろうとしている。

つまりこうだ。

社会を上部構造(政治や法律、宗教や芸術)と下部構造(所有や分配といった経済構造)に分けた場合、下部構造が上部構造を規定すると主張したのがマルクスで、それに異を唱えたのが『プロ倫』になる

マルクスの唯物史観が「社会的・経済的存在が、その人の意識を規定する」とするならば、ヴェーバーは「プロテスタンティズムによって作られた倫理が近代資本主義を進めた」と、いうならば唯心史観を突きつけているのだ。

『プロ倫』は正しかったのか?

ただ、ここまで言い切ってしまうと先走りすぎることになる。最初の着眼点から話を膨らませすぎやしないか?

ヴェーバー本人も分かっていたようで、例えば先のグラフに「ユダヤ教」を入れるとこうなる。

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ここ、「話が違うじゃねぇか」と声出して笑った。

近代資本主義に対する影響として、「プロテスタント v.s. カソリック」よりも、「キリスト教 v.s. ユダヤ教」で比較した方が明白で面白いんじゃないかとツッコミ入れたくなる。ユダヤ教は(文字通りの)生存バイアスを考慮する必要があるだろうが、一考の余地があるだろう。

だがヴェーバーはめげない。ユダヤ教は冒険商人的な資本主義の側に立っており、その倫理(富の追求、勤勉さ、信用、節約)をピューリタニズムは抜き取ったのだという。

結局のところ、ヴェーバーは正しかったのだろうか?

その答え合わせは、ハーバード大学のロバート・バローとラシェル・マクレアリーがしている。1960~90年代の国ごとの経済成長にもとづき、成長率に対して宗教がどの程度影響を与えるかを調査している。

結論からいうと、プロテスタントよりもカソリックの割合が高い国ほど、経済成長していることが明らかになっている。

さらに面白いことに、どの宗派にも共通しているのが、いわゆる「地獄」を信じる人の比率が高い国ほど、経済成長率が高いという結果が出ている。地獄を信じるからこそ、現世で徳を積むべく経済活動に勤しむのだろうか。「ストーリー」を捏造したくなる誘惑に駆られる。

めっちゃ読みにくい岩波文庫と異なり、新訳ではするりと読める。ヴェーバーが描いた「ストーリー」、ご自身の目で検証あれ。

 

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