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死 ね な い 老 人

世界一の長寿国であるこの国は、人生100年の時代ともいわれている。

リタイアして、悠々自適の毎日を送る人がいる。趣味やレジャーや学び直しなど、第2の人生を謳歌する人もいる。(未来はともかく)今の高齢者は、高度な医療・福祉サービスを低負担で享受しており、年金をやりくりすることで、暮らしは成り立っている。

その一方で、自分の長寿を喜べない高齢者が増えているという。家族や周囲の人たちに「死にたい」と訴えながら、壁の向こう側で横たわり、生きることを強制される高齢者のことである。『死ねない老人』によると、望まない延命措置を受け、苦しみの中で人生を終える人々は、かなりの数にのぼるらしい。

著者は、高齢者医療に25年携わってきた医師だ。現場の生々しい声を聞いていると、いたたまれなくなる。

生きているのが申しわけない

本書によると、「死ねない老人」は2種類に分かれる。

ひとつめは、生きがいを見失い、家族に負担をかけたくないため、死にたい(でも死ねない)老人である。

死ぬ直前までピンピンしてて、突然コロリと逝く「ピンピンコロリ」を理想とする人がいる。だが、医療の進歩により、なかなかコロリ逝かせてくれない。むしろ、病気の後遺症による苦痛や不安・不調を抱え、介護やリハビリを受けながら生きなければいけない時間の方が長くなる。

たとえば、脳梗塞の後遺症で麻痺が残り、家族の迷惑をかけることが嫌になり、「いっそのこと、あのとき死んだほうがよかった」「生きているのが申しわけない」という言葉が出てくる。内閣府[高齢者の地域社会への参加に関する意識調査]によると、生きがいと健康状態は関係があることが分かる。生きる希望を持てずに死を願う「死ねない老人」がこれになる。

意思に反して強制的に生かされる

もう一つは、本人は治療や延命を望んでいないにもかかわらず、周囲の意向によって「長生きさせられてしまう」老人だ。

もちろん、親に長生きしてほしいと願うのは自然な思いだ。だが、一方で、人生の終わりである「死」を認めたくない家族が、本人の望まない最期を強いていることも事実だという。こうした事例を見ていると、本人の意思や苦悶を無視して、ひたすら強制的に生かそうとする行為は、治療なのか虐待なのか分からなくなる。

もっとシビアな例として、パラサイト家族が登場する。本人は「充分に生きた」「楽に逝きたい」と思っていても、家族はその年金をあてにして生活しているため、死なれると困るというのだ。この場合、本人の意思に関係なく、家族の意向が優先されるという。

長生き地獄から逃れるために

人生100年の時代、長い長い、長い老後の末、幸せな長寿を全うすることは、かくも難しい。生き地獄というより長生き地獄である。この2つの「死ねない老人」に対し、本書ではそれぞれの処方箋を考察する。

まず、生きがいを見失った「死ねない老人」に対しては、「誰かの役に立つこと」がカギとなるという。

[全国社会福祉協議会]を紹介しながら、通学路の巡回・見守りや、清掃・美化活動、いじめ相談など、さまざまなボランティア活動を紹介する。「高齢者=ケアされるお荷物」という偏見を壊し、ケアする側として何ができるか? という視点で考えようと促す。

次に、意思に反して強制的に生かされる「死ねない老人」については、諸外国の事例を紹介する。

欧米の安楽死の制度やサービス、終末期の治療方針について意思表示するPOLSTの例を紹介する。ただし、日本の場合の先行きは不透明だ。2008年に、後期高齢者の終末期に関する制度が設けられたが、マスコミから「高齢者に早く死ねというのか」と非難を浴び、3か月で凍結している。

死の制度化は、充分な議論が必要だろう。POLSTが制度化されることで、いま起きていることの逆転現象が生じる可能性があるからだ。つまり、現在、意思に反して生を強制される老人がいるように、将来、意思に反して死を強制される老人がでてくるかもしれないからだ。

こうした問題がクリアされるまで、「死ねない老人」は増え続けるだろう。ネットやコンビニで目にする元気なお年寄りではなく、「老人に死ねというのか!」とデモ行進をする高齢者ではない。「死ねない老人」は、壁の向こうで静かに横たわっている。

「死ねない老人」について、わたしは、むしろ自分の問題として考えたい。問題は現状のままで、自分の順番が回ってきたら―――その可能性は極めて高いが―――[苦しまないと死ねない国で、上手に楽に死ぬために]を参考にするつもりだ。

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大人もハマる子どもの新書

知らない分野をサクッと知りたいとき、新書が便利だ。

ところが、新書の中には、かなり難解で、入門書としては厳しいのも、けっこうある。

その点、子ども向け新書は、特に分かりやすく解説されている。だから、それを大人が読めば、「サクッと読める」という新書本来のメリットを得られる。

池上彰さんがブレークする前、子ども向けニュース番組を担当していたが、これ見ていた大人もかなり多かった。わたしも見ていたが、ポイントを絞って平易な言葉で伝えてくれており、非常に分かりやすかったことを覚えている。

だから、「子ども向け新書を、大人にも紹介する」という千代田図書館の企画は、知らない分野を広げるのにピッタリだろう。

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もちろん、子ども向け新書を読んで「簡単すぎる」と感じる場合もある。その場合、巻末の文献案内から進むことができる。偏りを減らし、網羅性を目指した知の入り口として、子どもの新書を使うのだ。

千代田図書館の企画[おとなもハマる‼こどもの新書]が斬新なのは、テーマごとにキーとなる新書を決め、そこから派生する形で紹介しているところ。一つに興味が湧けば、そこから芋づる式に引き出せる仕掛け。子ども向けの入り口から、どんどん深みにハマっていける。キーとなる本は「★」で示す。

たとえば、テーマでたどる歴史の新書だ。世界史といっても、深さも広がりも莫大だから、どこから手を付けていいやら分からない。だから、興味のあるテーマで歴史を貫いた新書で掴んだら、そこから派生する関連本に手を伸ばす。

  • 『パスタでたどるイタリア史』(池上俊一、岩波ジュニア新書)★
  • 『麺の文化史』(石毛直道、講談社学術文庫)
  • 『ヨーロッパがわかる』(明石和康 、岩波ジュニア新書)

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あるいは、『10代に語る平成史』で、平成を振り返る。まさにその時代を生きた自分からでは、「平成」は近すぎて客観視が難しい。おそらく、興味がある分野や社会風俗ばかりに目が行き、昭和との接続といった歴史的な観点や、グローバルな視点は曇りがちだろう。

『10代に語る平成史』は、消費税の導入やバブル経済の終焉、冷戦構造の崩壊からテロとの戦い、自然災害など、様々な視点から「平成」を浮かび上がらせようとしている。これをキーにして、以下の本が紹介されている。

  • 『10代に語る平成史』(後藤謙次、岩波ジュニア新書)★
  • 『財政から読みとく日本社会』(井手英策、岩波ジュニア新書)
  • 『平成史講義』(吉見俊哉、ちくま新書)

さらに、『正しいパンツのたたみ方』関連。

「豊かに生きるとは何か?」というテーマを、家庭科から答えた一冊になる。暮らしを整えるだけにとどまらず、現代で他者とともに生きていく力を身につけることを目指している。

あらためて「豊かに生きるとは?」と問われると窮する。だが、テーマを分けて置き換え「家族、消費、労働、性愛のスキルを上げる方法」で考えると、より具体的に見えてくる。「子ども向け」を謳っているが、ヒントが得られるかもしれぬ。

  • 『正しいパンツのたたみ方』(南野忠晴、岩波ジュニア新書)★
  • 『社会を生きるための教科書』(川井龍介、岩波ジュニア新書)
  • 『正しい目玉焼きの作り方』(森下えみこ他、河出書房新社)

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他にも、『めんそーれ!化学 おばあと学んだ理科授業』から化学を、『ハッブル 宇宙を広げた男』から宇宙論、『クマゼミから温暖化を考える』から地球温暖化問題など、新書を通じて様々な学問分野への入り口が見える。

全てのリストは[PDFファイル]をどうぞ。千代田区図書館にて8月下旬まで展示してるので、ぜひ立ち寄ってみてほしい。既知からは新たな発見が、未知の分野からは面白そうな入り口が、必ず見つかるはず。

※写真は許可を得て撮影・掲載しています

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秘密の悩みは、バーチャル師匠に相談せよ

精神的にヤバいとき、どうするか? 自分ではどうしようもできず、かつ、誰にも相談できない悩みだったら、どうするか?

そんなとき、バーチャル師匠を召喚する。いわば仮想的な師匠である。

バーチャル師匠とは

あらかじめ「人生の師」を決めておき、困ったときに相談する。師から直接、教えを受けてなくてもいいし、生きている必要すらない。師を模範として慕い、学んでいればいい。それこそ、マスター・ヨーダを師としてもいい。私淑と呼ばれる方法で、『アイデア大全』(読書猿、フォレスト出版)から学んだ。

700年前の詩人ペトラルカも、私淑を実践した一人だ。
Peto

彼は詩人としての名声を博してはいたものの、うつ病に悩まされ、精神的危機に陥っていた。自己欺瞞による惨めさと、絶対に叶うことのない恋と、欲情が生み出したドロドロの愛憎関係に悩まされていた。

誰にも言えない悩みだから、脳内で相談する。彼にとっての、バーチャル師匠はアウグスティヌスだった。『告白』を読み込み、写本に書き込み、ついには脳内で擬人化できるまでに至る。

彼は、このバーチャル師匠向かって、赤裸々に心情を吐露する。アウグスティヌスは霊的な存在として立ち上がり、雄弁に弟子を叱る。『わが秘密』は、この師弟問答の対話体で成り立っている。

不幸だという嘆きには……

たとえば、自分のことを不幸だ、惨めだという嘆きには、「死」を考えよという。絶対確実なのは死ぬことだから、死をひたすら省察えよと説く。落ち込んでるとき、不吉なことを考えない方がよいのではと思うのだが、アウグスティヌスによると、人はみな死を遠くに見すぎだという。そして、愛や名誉といった欲望によって、死への省察が曇らされることが、苦悩の原因だというのだ。

なるほど、死が確定的なことは分かる。だが、「まだ」死なないつもりでいる限り、真にやりたいことが先送りされる。結果、目の前の欲望に引きずられ、現実とのFIT/GAPを感じるというわけか。自分の意思で、自分の不幸を選び取るという感覚は、確かにそうかも。

脳内アウグスティヌスは、キケロの言葉を引きつつ、「死ほど確かなものはなく、死の時ほど不確かなものはない」と述べる。それは明日どころか、次の瞬間だってありうる。これをありありと実感できるのなら、「まだ」死なないつもりから生じるさまざまな苦悩も消えることだろう。代わりに、限られた時のなかで真にやりたいこと(すべきこと)が何かを探し、それを実行しようとするに違いない。

悩みごとで自分を壊さないために

笑ってしまうのが、バーチャル師匠に嘘をつくこと。自分の脳内の話だから、嘘なんてつきようがない。にもかかわらず、あえて嘘を言い、論破され、考えを改める。本音の自分を守りつつ、建前の自分に折伏される経緯を記すことで、自己欺瞞を表面化させる。

本音の自分の「昔の女が忘れられないけど、今の女が愛おしい」という告白に、バーチャル師匠は叱責する。それを「愛」という名で呼ぶこと自体が、神の愛への冒涜になる。恋人どうしが互いに掻き立てる感情を「愛」と呼ぶことで、宗教的口実を与えているというのだ。

アウグスティヌスにとって愛とは、神の愛しかないのだから、同じ名で呼ぶなという建前は分かる。だが、本人は、あまりにも俗物的な告白をする。このコントラストが非常に面白いのだが、本音 vs 建前でキャラを分けるのは、自分を壊さないための多重人格なのかも。

さらに、異なる人格どうしの対話を記すことで客観視できる。脳内でこれをやると、だんだんすごい勢いになって収拾がつかなくなる。いったん「書く」ことで、正しいか否かに関係なく、確定させる。その上で吟味できるから、暴走を押さえることもできる。

ペトラルカは本書を誰にも見せず、生涯にわたって何度も手を加えたという(『わが秘密』というタイトルにした所以はこれ)。

私淑の実践をお試しあれ。

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女の子の匂いを追い求めた男の話『香水』

目はそむけることができる。
耳は塞ぐことができる。
だが、息を止め続け、匂いを拒むことはできない。
匂いはそのまま体内に取り込まれ、胸に問いかけ、即座に決まる。好悪、欲情、嫌悪、愛憎が、頭で考える前に決まってしまう。

匂いは、どんな意志より説得力をもち、感情や記憶を直接ゆさぶる。人は匂いから逃れられない。

だから、匂いを支配する者は、人を支配する。
そんなことができればだが。

これは、そんなことを目指した男の物語である。

Perfume

男の名は、ジャン=バティスト・グルヌイユ。

超人的な嗅覚をもち、あらゆる物体や場所を、においによって知り、識別し、記憶に刻みこむ。におい(匂い、臭い)に対し、異常なまでの執着心をもち、何万、何十万もの種類を貪欲に嗅ぎ分ける。彼に言わせると、世界はただ匂いで成り立っている。

舞台は18世紀のパリ。

通りは汚濁まみれ、垂れ流しの糞尿が鼻を刺す。魚と屠畜の腐臭と、鼻を背けたくなる疫病の膿んだ臭い、死体の山から漂ってくるものは、目にクる。小便とカビと経血の臭いが入り混じり、日常的に街を覆う。バリの香水が世界一なのは、パリが世界一臭い都市だったからなのかもしれぬ。

このパリで、グルヌイユは「匂い」でのし上がろうとする。

においという、精緻で的確で膨大な「語彙」をもつがゆえ、人とコミュニケートする「言葉」の貧弱さを低く見る(というか興味がない)。さらに、においを組み合わせ、新しいにおいを創造することができる。私たちが言葉を操るように、いや、それ以上に、グルヌイユはにおいを操り、意思を伝えることができる。しかも匂いは言葉より強い。私たちは、匂いを拒むことができないのだ。

そんな彼が、究極の匂いを持つ少女を嗅ぎつけてしまったら?

鋭敏すぎる嗅覚を持つグルヌイユにとって、世界一臭い都市パリは、端的にいって地獄である。誰と会っても、どこへ行っても、ひどい臭いから逃げられない。そんな彼にとって、馥郁たる香気を纏わせる少女が、どのように感じられるか。

本書は、「臭い」に限らず「匂い」の描写が素晴らしい。食欲をそそる香ばしさ、情欲を招き寄せる生々しいにおいと、眠りを誘う芳香。危険を発するきな臭さと、もう手遅れとなった血腥さ。あらゆる「におい」がここにある。そして、においは強烈であればあるほど儚い。ページを繰る手を止めて、思わずくんくんする。

目を凝らすように、耳を澄ますように、鼻に集中する。グルヌイユの運命をたどることで、わたしの嗅覚も鋭くなった気がする。

匂いは言葉より強い。彼が追い求めた究極のにおい、ぜひ一緒に嗅いでほしい。

 

 

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