「語りえぬもの」とは何か?『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 』
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』は、この一文で終わっている。
ウィトゲンシュタインは、この一文を証明するために『論考』を書いた。
すなわち、この一文が分かることは、『論考』が分かることに等しい。
何度も挑戦し、挫折し、さまざまな回り道をしてきたが、古田徹也氏が著した『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』で、ようやくたどり着いた。やっと「分かった」と言えるようになった。
しかし、本当に「分かった」のか? 独りよがりに陥っていないか?
それを確かめるために、自分の言葉で説明しなおす。「語りえぬもの」とは何か? なぜ沈黙しなければならないのか? 「語りえぬもの」について、わたしの理解を確かめたい。
「語る」とは何か
まず、「語る」について語ろう。ここで言っている「語る」とは、何か意味のあることを言葉で表現することだ。たとえば、
- あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。
- ない僕達はまだ知らあの日の名前を花見た。
最初の文は、意味が通るが、二番目の文は何を言っているのか分からない。「語る」とは、最初の文の、何事か意味のあることを言っていることだ。
そして、この語ることができるものを、どんどん積み上げてゆく。
- あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(経験の記述)
- 火星のオリュンポス山頂にiPadが刺さってる。(想像上の話)
- 運動方程式はF=maである。(科学的知見)
日本語だけではなく、英語でもドイツ語でも「語る」ことができる。どんなに突飛な話でも、肯定文でも否定文でも、順序を入れ替えても、意味が通るのであれば、「語る」ことはできる。まだ発見されていない物質や物理法則も、「語る」に入れていい。
そうやって、語ることができることで世界を埋め尽くしてゆく。でも、未来のことや発見されていないことなんて、何て呼べば良い?
「究極の言語」で語りつくす
なので、『論考』は、「究極の言語」を提案する。語りえるものを最大限に拡張するため、古今東西の(未来も含めた)あらゆるものを語りつくすことができる言語だ。これなら、すべてのことが「語りえる」のだろうか?
『論考』によると、否、になる。
なぜなら、世界を語りつくしたとしても、その「語り」を保証する対応づけそのものは、語ることができないから。「語り」を保証する対応づけとは、語りを構成する文字列(音声)が、まさにその対象である、とわたしたちが信じていることだ。
たとえば「あの花」という文字列から、それがあの日見たまさにあの花であることは想起できるが、その関係性(「あの花」=「あの夏の日に見た花」のイコールの部分)は、語ることができない。わたしたちは、「あの花」と言われて、あの夏に見た花を思い浮かべるのみである。
「語る」に先立ち成り立っているもの
「言葉とその対象に対応づけがあること」なんて、わたしたちは当たり前すぎて見過ごしてしまうかもしれない。だが、わたしたちが意味のあることを語るに先立ち、それを意味あるものにするために、言葉と対象に対応づけがある。
そして、その対応づけは、語ることができない。世界を埋め尽くす「語ることができるもの」の中で、わたしたちは想起する他ないのだ。
では、「語りえぬもの」とは、語りを保証する対応づけだけなのか?
「視界=世界」という思考実験
これも、否、になる。
『論考』では、独我論者を攻撃することで、「語りえぬもの」が見えてくる。独我論者とは、自分にとって存在していると確実に言えるのは、自分だけだという立場である。つまり、自分の目に映るものだけが全て(=世界)であり、それ以外は疑いうる、と主張する。
つまり、彼の目には世界はこうなっている(視界=世界)。
『論考』では、独我論者は間違っていると指摘するが、「言おうとしていること」は正しいという。
まず、この絵は正しいかというと、間違っている。仮に、「視界=世界」としよう。すると、この「目」は何なのか? ということになる。独我論者の世界の中に、独我論者自身のの目は存在しない。しかし、彼の目は確かに存在する。だから、この絵は間違っている。
私の限界=世界の限界
しかし、独我論者が「言おうとしていること」は正しい。確実に存在するといえるのは、自分という主体が認識する範囲が限界であり、それを超えたものは、あるかないか分からないという考え方である。最も目がいい人でも、視界が届く範囲が世界になるのだ。
これを言葉で置き換えると、言葉が届く範囲が「語ることができる」範囲になる。語ることができる最大最長の範囲なら、究極の言語を持ってくればいい。その究極の言語をもってしても、届く範囲は、主体が認識する限界を超えることができない。
究極の言語でもって最大限に語りつくした世界が主体なのであり、その向こう側は、語ることができないのである。
『論考』には、他にも「語りえぬもの」が出てくるが、ここでは2つの方向から「語りえぬもの」にアプローチした。
ひとつは、「語りえる」ことを語り尽くす前に、語ることそのものを成立させている対応づけであり、もうひとつは、「語りえる」ことを語り尽くした後に、それでも届かない限界になる。
語りえることを語り始めるに先立つ静寂、あるいは、語りえることについて語り尽くした後の沈黙、これこそが、「語りえぬもの」になるのだ。
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コメント
F=maでは?
投稿: | 2020.08.24 22:00
>>名無しさん@2020.08.24 22:00
確かにそうですね! ありがとうございます。修正しました。
投稿: Dain | 2020.08.25 15:21
≪…語りえることについて語り尽くした後の沈黙、これこそが、「語りえぬもの」になるのだ。…≫で、数の言葉⦅自然数⦆の【1】を『カオス表示』で。
「愛の水中花」の歌に、
これも 愛 あれも 愛 きっと 愛 たぶん 愛
とある。
1・2・3・4次元での【1】を(eー1)などの因数でそれぞれ積み重ねると、カオスな因数積に生るようだ。
『数の核(ジャーゴン)』は、≪…「語りえぬもの」…≫か・・・
投稿: 替え歌メドレー | 2021.08.27 11:00