『ニックス』はスゴ本
狂おしいほど好き。
めちゃくちゃ笑い、泣き、怒り、嘆き、途方にくれ、ハラハラ・オロオロ・ドキドキしながら夢中になって読んだ、ユーモアと切なさに満ちた最高の一冊。
面白さを物理的に証明する
「面白さ」の表現として、ページターナーとか巻を措く能わずというけれど、この小説は物理的に証明することができる。図書館で借りてきたとき、本の背表紙が「歪んで」いるのが証拠だ。
説明する。
本を開くと、本の背は開いた方向へ引っ張られる。一定のあいだ引っ張られると、背表紙は、その方向に「くせ」が付く。そして、本を閉じると引っ張られた背は戻る。閉じている時間が長いと、ついた「くせ」は戻ろうとする。つまり、「引っ張られた時間=読んでいる時間」が長いほど、「くせ=歪み」が付いた背表紙となる。
ちょっと待て。
『ニックス』のような長い作品(2段700頁)だと、当然、読む時間も長くなるから、くせが付きやすいんじゃないの? その通り。だが、ポイントは「閉じると戻ろうとする」ところ。たとえ読んでる累計時間が長くても、閉じている時間も長ければ(つまり一気に読まれなければ)、背表紙の歪みは解消される。
一行目から引き込まれる
歪んだ背表紙が約束した面白さは、一行目から報われる。こんなプロローグだ。
もし、母が去ろうとしていることに気づいていたら、サミュエルはもっと注意を研ぎ澄ませていただろう。もっと用心深く耳を傾け、もっと細やかに様子をうかがい、もっと重要な何かを書き留めていただろう。違う行動を取り、違う言葉を語り、さらには違う人間になっていただろう。 そう、捨てるには忍びないという子になっていたかもしれなかった。
母は家の中から少しずつ物を持ち出していく。あるときはフォークを一本、次の週はセーター、さらに次は詩集を一冊といった形で、自分の物を持ち出していく。一気に全部を持っていくのではなく、少しずつ自分の跡を消してゆく。
そしてある朝、いなくなる。まだサミュエルが幼い頃、1988年の夏の朝に。
それから数十年、書けない作家となったサミュエルのもとに知らせが入る―――母が州知事に暴行して逮捕されたという。SNSで炎上し、ワイドショーで騒ぎ立てられるなかで、サミュエルは自分を捨てた母を調べ始める。
最初は復讐心に駆られていたが、次第に分かってくる母の半生は、サミュエルが長い間信じていたものとは、全く違う人生だった―――こんな感じで、母の過去、サミュエルの過去、そして現在と行ったり来たりしながら進んでゆく。
群盲撫象
小説を貫くテーマは、エピグラフにもある、盲人が象を語る話だ。
目の見えない人をおおぜい連れてきて、象に触らせる。ある者は鼻を撫で、別の者は耳を撫で、またある者は尾を撫でる……といった風に。そして、「象とは何か」を語らせたところ、てんでバラバラの答えになり、盲人たちは殴り合ったという話だ。物事や人物の一面だけを見て、それが全てだと理解してしまうことを戒める説話だが、SNSで噴き上がっている「盲人」を見るにつけ、今こそ広めたい教訓だ。
しかし、2人の人生につきあってゆくと、ある重要な事実に気づく。
それは、盲人と象の話において、見過ごされがちなのは、一人ひとりの説明は正しいという事実だ。一人ひとりは偽りの象を語っているわけでない。それぞれ偽りの「象」像によって隠された、「真の象」というものが存在するわけではない。
そうではなく、それぞれにとっての「真の象」―――つまり、これこそが「真の象」だという思い込み―――によって隠された、一つの大きな象がいるだけなのだ。サミュエルの母は、さまざまな側面を持つ。生真面目で、怖がりで、でも大胆で、妻であり母であり女である。ある一面が真実だと確信することにより、別の、より大きな真実を覆い隠す。
それは結局、盲人と象の問題に帰着する。問題は彼らが目が見えないということではなかった―――彼らがあまりに早く探索をやめて、把握すべきより大きな真実があるということに気づかなかったということなのだ。
では、それぞれの人生を支えている、より大きな真実は何か―――何度もやってくる物語のうねりの中でこれに気づくとき、ほとばしる感情を留めることができなくなる。涙とか感動というよりも、むしろ、彼女がどういう気持ちでいたかが堰を切ったようにわたしの身体を走り抜ける。
人を理解するとは
人を理解するとは、(より大きな象が支えている)それぞれの真実の中で生きていることをひっくるめて、理解することなのだ。
そして、この「人」は他人だけではない。
これは、自分自身にも向けられる。あの日あのとき別の選択をしていればとか、異なる世界線上の「もう一人の自分」とか、ゲームのようにセーブ&ロードをやり直せれば……などと妄想する自分自身にとっても、同じことが言える。
それぞれの世界線上の自分にとっての「真実」を、ただ一つの真実だと確信することにより、別の、選ばなかった方の真実が覆い隠される。人は、自分の物語にすっかり心を奪われて、もう一人の自分の物語の中では脇役に過ぎないという事実がわからなくなることがある。
すべてを相対化するシニカルなものではなく、それぞれが持ち寄った真実を理解するか否かの話だ。理解することは、憎悪することよりも、難しい。
ジョン・アーヴィング絶賛との謳い文句で手にしたが、大当たり。平成最後の、最高の海外文学長編として、自信をもってお薦めする。

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