君と僕の壊れた世界『沙耶の唄』
見るものすべてが汚辱にまみれ、腐臭をただよわせ、耳障りな音を立てている。そんな世界で「正常」なフリを強要され、できるだけ早く・なるべく楽に死ぬ方法を考えているとき、美しい少女に出会った―――
グロゲーに見せかけた純愛に、何度も胸を潰されたが、ノベライズされたこれで、さらに古傷を抉られることになる。
手塚治虫『火の鳥』に、交通事故で脳に障害を負った男の話がある。絶望視されていたものの、大手術により普通の生活ができるようになる。しかし、それは見た目だけで、男は認識能力に重大な問題を抱えていた。男の目には、人が石ころのような無機物に、機械のロボットが美女に見えるように見える。だから男は、人ではなくロボットに恋をしてしまう。男はどうするか?
『沙耶の唄』は、そのクトゥルフ版になる。主人公の目には、世界が当たり前に見えない。人は腐った汁を滴らせる肉塊であり、壁や床はミミズと豚の内臓に埋め尽くされている。会話は成り立たず、キィキィ喚く音から類推するほかない。
グロ描写は『インスマウスの影』を彷彿とさせるが、異形の者を「異形」と片付けられないのが辛い。彼の目にどう見えていようとも、この世界で「正常」なのは彼らの方であり、異常なのは自分の方なのだから。
そんな壊れた世界で出会った、たった一人の存在が、沙耶だ。彼にとって、どれだけの救いとなっただろう。透きとおる肌と、しなやかな肢体を白いワンピースに包み、深夜の病院を徘徊する。聞けば、お父さんを探しているという。
彼は、藁にもすがる思いで、手を握らせてくれと懇願する。「変な人。そんなこと言い出したの、あなたが初めて」と言いながら差し出す白い手に、壊れ物を扱うように、そうっと、やさしく手を重ねる。
こうして始まる、淫猥で残酷で哀しい関係を描いたのが、『沙耶の唄』だ。彼は、おぞましい世界で、彼女を守り抜こうとする。『火の鳥』と似ているのは入口だけで、後は全く違う方向へ転がり出す。
そのエロとエグさは虚淵玄ならではの一級品。ノベライズは別の方だが、セリフはほぼ一緒で、ガジェットや言い回しをアップデートした程度だという。ただし最後は、3つあるエンディングと微妙に重ねながら、しかしどれにも合致しないようにまとめ上げている。
実は、わたしの最も好きなラストが回避されていた。引き返せなくなるあるところで、昔の暮らしに戻りたいか、と沙耶に聞かれるのだ。
「取り戻したい」
「もういらない」
普通なら、「もういらない」が選ばれる。壊れた世界で唯一「正常」で、心を寄せてくれる沙耶がいる。彼女さえいてくれれば、それでいい。そんな心情なら、昔の世界なんていらないだろう。物語としては、こちらが王道となる。
しかし、わたしはここで「取り戻したい」を選んだほうが好きだ。もちろん話は進まず、謎は解かれないまま、物語としてはバッドエンディングになる。だが、彼が選んだ白い世界のほうが、悲恋として好きだ(わたしが泣いたラストはこれだった)。
そして、わたしが泣かなかったほう、酸っぱい絶望がこみ上げてくる、おぞましいほうのラストが、きちんと本作に引き継がれている。
ゲームの雰囲気は以下から。スクリプトの部分は小説とほぼ同じなので、"試し読み”にもなる。ただし、かなりSAN値が削られるので、耐性なき方は行かないように。
そうそう、続編が準備されている。「第二歌 ノゾミノセカイ」という仮題で、あのラストからどんな未来なのか想像を絶する(というより想像したくない)が、怖いものみたさで覗いてみたい。

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