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マジック・リアリズムを『20世紀ラテンアメリカ短篇選』で体験する

Raten

次の一文には「マジック・リアリズム」が潜んでいる。

カーテンを開けた。夏もたけなわの八月、窓の向こうには、燃え立つ月世界のような土地が島の反対側まで広がっているのが見え、太陽は空で動きを止めていた。

『20世紀ラテンアメリカ短篇選』にあるガルシア=マルケス「フォルベス先生の幸福な夏」からの一文だ。あまりにも何気ないので、読み流してしまうかもしれない。

ここは、主人公が薄暗い浴室で弟とシャワーを浴びるシーンだ。薄気味悪い話をしていたので、カーテンを開けることで、視覚ばかりか気持ちも明るくなったことが分かる。

ここから重要。これ見ているのは主人公(兄)であるにもかかわらず、避暑地になっているくらいの大きな島(パンテレッリア島)の反対側まで一望できるはずがない。

パンテレッリア島

ところが、さっと開けた窓ごしに島の反対側まで広がっているのが見えるのは、窓の外へ「見」ている存在が漂い出て、そのまま上昇し、俯瞰している。まるで急上昇するドローンから空撮したかのような画を、さらっと描いている

アリストテレスのカタルシス効果

カーテンを開けるまでは、暗い場所で怖い話をしていたため、湿気や不安に囲まれている状況が読み手に伝染し、落ち着かない気分にさせている。そのカメラが(切り替えなしに)明るく燃え立つ世界に移るため、一気に胸のつかえがとれる。

つまり、アリストテレスのカタルシス効果を描写でこなしているのだ。

登場人物を鬱屈させて読み手に伝染させた後、重しを取り払うことでスッキリさせる。息苦しい接写から、いきなり開けた場所に放り出す。視覚的な緩急をつけ、緊張感を自在に出したり引っ込めたりできるのは、マルケス一流の話法である。

ただ、この技法そのものは、マジック・リアリズムとは限らない。欧米の幻想小説でもさんざ扱われている。「制約→開放」のプロセスは、小説や漫画・映画において、カットあたり情報量の疎密でコントロールする基本的な技法だから。

しかし、この「制約→開放」プロセスを、人でない存在に任せることが、「魔術的」だと言える。窓から漂い出たドローンから空撮したような視覚は、見えるはずもない。

「見えないもの」をどう扱うか

この、人でない存在、見えるはずもないものを「見る」となると、普通の幻想小説と、マジック・リアリズムは大きく異なる。

普通の幻想小説の場合、この「見えるはずもないもの」、すなわち不可視の「存在」を特定し、名付けようとする。幽霊や妖精的な「なにか」を設定しようとする。さらには、物語に「なにか」を組み込もうとする。

ところが、マジック・リアリズムのばあい、「なにか」という存在を必ずしも必要としない。もちろん精霊的な「なにか」をモチーフにする場合もあるが、必要条件ではないのだ。

窓の外へ漂い出て見る「なにか」。この主体は、ちょっと前までは「兄」だったはずなのに、いつの間にやらシームレスに「なにか」になっている。

主客の逆転、喰い合い、異なる時空の主体との重なりが、さらっと書かれており、気づかずに読み流した場合、一種サブリミナル効果のように働く。読み手は通り過ぎながら、言葉にできない違和感を抱き続ける

他にも、ドアの前を通る一瞬で、部屋の中を詳細に見て、あるものを「二十七」と数え上げるシーンも出てくるが、主体は「兄」なのに、そこには名付けようのない「なにか」が入り込んでいる(そして「なにか」は特別視も言及もされないし、兄は特別な能力を持っているわけでもない)。

つまり、後にカメラが主体を捉えたとき、ぜんぜん違った場所に置いてかれて愕然とするような、欧米ならそれだけで小説になる驚くべき現象が、ごく自然に受け入れられてしまう。

出来事の異常さよりも、異常の何気なさ

振り返ると異常なのに、それが淡々と描かれる。他にも、スーパーナチュラルなのに、男女の三角関係のドロドロを描いていたり、何の説明も無く(しかし確信をもって)酷い最期に至る話が続々とある。出来事の異常さそのものよりも、異常の何気なさのほうに不気味になる

この、何気ない異常の感覚こそ、マジック・リアリズムの本質だ。よく読むと明らかにおかしい。だが、登場人物や作者はおかしいと感じていないように描かれるのだ。

よくある「日常と非日常の境界が曖昧になる」というよりも、むしろ、もともと境界はないのだ。だから、小説に落とし込むときに生ずる、「異様の扱いが異常とされていない」ズレが、一種の人工的な眩暈を引き起こす。

ボルヘス、アレナス、カサ―レスに釣られて手を出したら、全部あたりのアンソロジー。岩波の短篇集はハズレなしというジンクスを再確認する。

人工的な眩暈を、おたのしみあれ。

 

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知の泥棒の歴史『図書館巡礼』

『図書館巡礼』は、書物と図書館について四方山話を集めた一冊だ。「本」を追い求める営みが真摯で、ひたむきであればあるほど、常軌を逸した書痴っぷりが伝わってきて、非常に楽しい。

Libra

知の泥棒の歴史

『図書館巡礼』の著者は気づいていなさそうだが、本書は、知の泥棒の歴史に見える。

口伝、写本、書物、ROM、媒体は異なれども、人は知を集めようとしてきた。知は必ずしも正当な方法で集められるとは限らない。ひそかに盗み出されたり、言葉巧みに持ち出されそのまま帰ってこなかったり、ときに権力者によって強制的に収奪されることもある。

さらに、知の集積所である図書館には、知識だけでなく、知を司る人や、それを複製する人、売り買いする人たちが集まる。中には不心得者がいて、写本を失敬し、売りさばいたり自分のモノにする人もいる。

こうした知の泥棒たちは、自分の行為をやましいと思っていない。むしろ、その書物の本当の価値を知っているのは自分だけであり、いまの状況からその書物を救い出しているとさえ言う。「ドケチ婆が貯め込んだ金は、苦学生の俺にふさわしい」というラスコーリニコフ的正当化がまかり通ってて面白い。

そして、興味深いことに、こうした泥棒たちのおかげで、結果的に、貴重な知識が消滅を免れたり、思わぬところから発掘されたり、まったく別の本として編纂されたという経緯を見ることができる。

口承を盗んだ『ソングライン』

たとえば、ブルース・チャトウィンの『ソングライン』。紀行文の形をしたフィクションとして名高く、モレスキンを一躍有名にしたのがこれだ。

ソングラインとは、アボリジニの天地創造の神話を歌った口承だ。オーストラリア全土を楽譜と見なし、そこに広がるあらゆるもの――鳥や、獣や、植物や、岩や、泉――の名前と、そこに織り込まれたストーリーを身振りとともに歌いあげることで、祖先が創造した世界を「再創造」していく。「人はなぜ放浪するのか」という問いへの、一つの応答としてスゴ本だと感じた[『ソングライン』はスゴ本]

しかし、『図書館巡礼』で紹介されるエピソードは不穏だ。ソングラインを象徴する聖なる彫物「チュリンガ」が持ち去られ、タブーに背いてソングラインの秘密が公開されたというのだ。これは、歴史のなかで悪名高い書物泥棒の略奪に匹敵すると批判されている。ソングラインは歌の伝承であり、物理的な「本」ではないが、それが暴露されるということは、盗みになるのだ。

本というモノに囚われていると、ハッとさせられる。チャトウィンが『ソングライン』を著わさなければ、わたしがアボリジニの口承を知ることはなかっただろう。

泥棒のおかげで、アレクサンドリア図書館の完全消滅は免れた

古代ローマの世界最大の図書館として名高いアレクサンドリア図書館。蔵書数は 10万巻とも 70万巻ともいわれ、著名な学者や詩人が招かれた。エラトステネスは、ここで地球の外周を99%まで正確に計算し、アルキメデスは、ここで円周率を99.9%の精度で試算した、と言われている。

図書館を中心に、書店やパピルスを扱う商人が集まり、一種の学園都市(ムセイオン)を形成していた。「アレクサンドリア図書館」とは、一つの箱モノの施設ではなく、知的商業圏を指していたのだろう(兜町で証券取引の集合みたいなメタファー)。

問題はここから。人が集まるということは、善人も悪人も集まるということ。なかでも、司書を買収して巻子本を持ち出させ、書き写した後、海賊版を売りさばいた商人もいた。もともと、アレクサンドリア図書館自体が、旅人から奪った本から写本を作り、蔵書を充実させてきたから、同じ穴の狢かもしれぬ。

アレクサンドリア図書館の写本は、大火により灰燼に帰したと伝えられるが、実はそうではないらしい。失われるはずだった貴重な写本は、商売上手な泥棒のおかげで海賊版が流通し、結果として現代まで残されたというのだ。データの冗長化は、どの時代も重要な課題なんだね。

最も偉大な本泥棒・ポッジョ

ここで登場するのがポッジョ。ルネサンス期のブックハンターで、古代ラテン語文献を見出したことで有名だ。下ネタまみれの猥談集『滑稽譚』も書いており、レオナルド・ダ・ヴィンチやJ.P.モルガンも所有していた。

たいへん興味深いのが、ブックハンターの論理だ。歴史的に重要かつ貴重な写本を「持ち出す」ために使われる理屈である。

つまりこうだ―――汚らわしい牢獄のような修道院で、その重要性を知らない修道士が、貴重な写本を小銭を稼いだり焚きつけ代わりに使っていた。人類最後の一冊が、まさに朽ち果てようとする寸前で、ホンモノが分かる愛書家が現れ、救出する―――というストーリー。

悲惨な状況に置かれた主人公が、世を捨てた名人に才能を見出され、幾たびもの困難を乗り越えた後、世界を救う英雄となる神話。ヒーローズ・ジャーニーの書物版として正当化されたストーリーやね。

実際のところ、ポッジョは賄賂を使い、言葉巧みに説き伏せて修道院に入り込んでいた。そこで「発見」した貴重な書物を失敬したことを隠し、正当化するために、修道院の荒廃ぶりをおおげさに書いたという(この「発見」は、アメリカ大陸「発見」に通じる)。

いっぽう、ポッジョを「ホンモノが分かる愛書家」として描いたのが、『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(グリーンブラット、柏書房)である。「その一冊」とは、ルネサンスや科学革命を引き起こしたルクレティウス『物の本質について』のこと。

名馬も伯楽に見出さなければ名馬たり得ないかもしれぬ。だが、その一冊の「発見」の瞬間は、ヒーローズ・ジャーニーまんまの演出になっており、どこまで本当か想像しながら読むと楽しい。ポッジョを泥棒と断ずるのは容易いが、そのおかげで、いまルクレティウスが読めるのかもしれない。

本は破って使う

愛書家が見たら発狂するような人も出てくる。

面白いところは残しておいて、気に入らないページは破って捨てたエドワード・フィッツジェラルドや、良いと思った箇所だけを切り貼りし、数冊をまとめて抜粋版のような一冊に物理的に再編集したヴォルテールなどは、まだ良い方。

チャールズ・ダーウィンなんて、大きくて重い本は遠慮なく半分に切り取り、場所を節約するために必要なページだけを残して後は捨てた。さらに、見返しや余白部分に詳細な注釈を入れた。ダーウィンしてみれば、本はノートだったのだ。

そういえば、「本=ノート」という発想は、松岡正剛氏から教わった。詳細は[松岡正剛の読書術]にまとめたが、書かれてある内容から想起された思考をノート代わりに書き込むことで、本をリ・デザインするという発想は面白い。

また、読みたい所だけ切り取るという発想は、小松左京を思い出す。うろ覚えで恐縮だが、百科事典の必要な個所をハサミで切って、そのスクラップを持って新幹線に乗り込んだというエピソードを聞いたことがある。

これは、わたしも実践していた。快楽天の好きなトコだけを切り貼りして、(必要に応じ極細ペンで描きこみ)オリジナル快楽天を編集していた。極めて実用的な書物だったが、電子書籍となったいま、アクセシビリテイが極めて悪い。電子書籍の最大の弱点はこれ。本をモノとして扱えないがゆえ、再編集ができないところ。

電子書籍の未来を、CD-ROMとパピルスから占う

電子書籍の未来を占うエピソードが紹介されているのもいい。

マングェル『愛書家の楽園』の孫引きだが、電子書籍版「ドゥームズデイ・ブック」の話だ(わたしのレビューは[愛書家へのプレゼント『図書館 愛書家の楽園』])。「ドゥームズデイ・ブック」は、11世紀に作成されたイングランドの土地台帳のこと。BBCは1986年に、この電子書籍を製作した。

電子版「ドゥームズデイ・ブック」は、250万ポンドが費やされ、100万人以上の協力のもと、25万の地名、2万の地図、5万の写真、3千のデータセットと60分の動画が格納された。

16年後の2002年、その情報を読み出そうとしたが、できなかった。ディスクやCD-ROMの寿命はせいぜい10年、データを復旧させようとした試みは、上手く行かなかった。マングェルは、このエピソードを次の言葉で締めている。

それとは対照的に、およそ千年前、紙の上にインクで書かれたオリジナルの「ドゥームズデイ・ブック」はロンドン南西にあるキュー公文書館に完璧な状態で保存されており、いまでもはっきりと読むことができる

このエピソードを持ち出すと、電子書籍主義者は、「昔は記憶媒体が様々だったし記録方式もバラバラだった。いまはEPUBをベースにほぼ統一されてるからへーきへーき」と反論する。そんなときは、アレクサンドリア図書館の本が失われた、もう一つの理由を紹介している。

あの本どこへ行った?

アレクサンドリア図書館の大火について、ローマ皇帝が火を放ったから、異教徒が反乱したからと言われるが、火ではなく湿気が理由だという説もある。

そもそもパピルスは保存をする文書に向いていない。炎だけでなく湿度にも弱く、虫も食う。定期的な保全と複写を継続していかないと、あっさりと解体する。加えて河川デルタの湿潤な気候では、そのスピードも加速される。もちろん戦火による影響もあるだろうが、ため込むだけため込んで、出資元の代替わりにより、メンテや次世代への引継ぎを怠ったとにらんでいる。

メンテナンスや複製による、モノとしての冗長化コストが最も低いのは、印刷された本だ。さらに、増版により空間を超え、改版により時間をも超えることができる。

電子書籍「版」を作ることは冗長先を増やすメリットはあれども、電子書籍オンリーにするのは、仮想空間でアレクサンドリア図書館を作ることに等しい

電子書籍は、今後、もっと流行する。スマホやタブレットだけでなく、リビングのディスプレイで読んだり、オーディブルな形で流通するだろう。そして、十年ほど経過して、メディアを再生・流通する企業が吸収合併されたり倒産したちょっと後、きっとこう言われるだろう。

「あの本どこへ行った?」

そして、図書館を探すはず。あるいは、海賊版を扱っている書店に向かうかも。

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事故と事件は紙一重:松本清張「遭難」読書会

「山を愛する人に悪人はいない」というが、本当だろうか?

Anmei

松本清張が「遭難」を書いたきっかけは、この疑問だった。山に登る人は、自然の美しさと厳しさを知っており、同時に人間のちっぽけさも自覚している。そんな人が悪人のはずがない、と言われている。「岳人に悪人はいない」格言めいた言葉に対し、反発してできた作品がこれ。

当時は登山ブームで、猫も杓子も山を目指したという。その結果、遭難がしきりと新聞に出るようになった。遭難事故の記事を見るにつけ、その中には人間の作為的な遭難―――遭難事件―――も紛れ込んでいるのではないか、と疑ったのだ。遭難「事故」と「事件」の違いは区別がつかない。仮に、人為的な「過失致死」に値するようなものがあれば、人の作為と紙一重だろう。

そうして、「岳人が悪を成すならば」という前提でプロットを考え、動機をつくり、完璧を目指す。果たして事故に見せかけた犯罪は可能なのか? 登山の経験がない清張は、ベテランの案内で鹿島槍に登る。頂上付近で猛烈な霧が出て、迷いやすい道を見つけたとき、彼の頭の中で完全犯罪ができあがる

実際のところ、松本清張「遭難」は、いかにもありえそうな事故だという。思わぬ天候の悪化、地形を見誤った道迷い、撤退の判断ミス、地図の不所持……偶然の重なりはとても自然で、プロのお墨付きをもらったらしい。「事故」として片付けられても仕方ないほど完璧な遭難なのだ。

読書会では、完璧なルート図を見ながら、どのように登っていったかをおさらいする。写真で見ると、露岩の急斜面はかなり体力を使いそうだし、道迷いポイントは十分ありうる。ガスが出ると、地面どころか自分の身体も見えないくらいだというから、パニックになるもの当然かも。

重要なのは、作為と過失が紙一重であればあるほど、完璧になってしまう。松本清張が拓いた社会派ミステリでは、完全犯罪だと都合が悪い。必ず何らかの”ほつれ”や破綻の糸口を設けない限り、「ミステリ」にはならないから。

では、ミステリとして成立させるためにどうするか? 松本清張の腕の見せ所になる。何気ない風を装った表情の下で心理戦が展開される。淡々としながらも、だんだんと核心に迫るキーワードを散りばめる。そのさり気なさに、刑事コロンボを彷彿とさせるという指摘もある。

ただ、スマホが行き渡った現代では、この「遭難」は再現できない。GPSで現在地は分かるし、「たまたま」地図を持っていなかったというのもない。天候状況はプッシュ通知できるし、いざとなれば連絡すればいい。

それでも、バッテリー切れはありうる。寒い所だと消耗が激しいから、想定外の電池切れ→たまたま予備が無かった→天候悪化でソーラーも使えず→タイミング悪く道迷いのコンボはありうる。

他にも、異なる版によって描写が微妙に違っているという指摘があった。ラスト近く、「試掘した個所から十メートルくらい上方を」雪掻きする場面があるが、それは清張全集の誤りで、「一メートル」が正解になる(そんな上を掘る余裕はないはずだから)。新潮文庫とヤマケイ文庫では修正されている。

また、全集版では、救援隊を呼びに行った後、ある一行が開いており、これは何を意味するかが面白かった。時間の経過を表しているのか、一瞬だけ意識が飛んでいたのか考えると面白い。

さらに、ラストの一行にある「愉しげな」が議論を呼んだ。それまで感情を排した事実ベースの描写を続けてきたのに、なぜ、最後になってこれを入れたか? 読み手に「おや?」と思わせて、なおかつこのままでは終わらせないようにしている。

実はこれ、清張の他の作品と併せて考えると合点がゆく。ネタバレになるので、ここでは伏せるが、わたしがある指摘をしたら、「!」となった。こういうとき、全員が読んできててネタバレ全開で語れるのが嬉しい。

主催のササキさん、参加された皆さん、濃くて熱い読書会、ありがとうございました。

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君と僕の壊れた世界『沙耶の唄』

見るものすべてが汚辱にまみれ、腐臭をただよわせ、耳障りな音を立てている。そんな世界で「正常」なフリを強要され、できるだけ早く・なるべく楽に死ぬ方法を考えているとき、美しい少女に出会った―――

Sayanouta

グロゲーに見せかけた純愛に、何度も胸を潰されたが、ノベライズされたこれで、さらに古傷を抉られることになる。

手塚治虫『火の鳥』に、交通事故で脳に障害を負った男の話がある。絶望視されていたものの、大手術により普通の生活ができるようになる。しかし、それは見た目だけで、男は認識能力に重大な問題を抱えていた。男の目には、人が石ころのような無機物に、機械のロボットが美女に見えるように見える。だから男は、人ではなくロボットに恋をしてしまう。男はどうするか?

『沙耶の唄』は、そのクトゥルフ版になる。主人公の目には、世界が当たり前に見えない。人は腐った汁を滴らせる肉塊であり、壁や床はミミズと豚の内臓に埋め尽くされている。会話は成り立たず、キィキィ喚く音から類推するほかない。

グロ描写は『インスマウスの影』を彷彿とさせるが、異形の者を「異形」と片付けられないのが辛い。彼の目にどう見えていようとも、この世界で「正常」なのは彼らの方であり、異常なのは自分の方なのだから。

そんな壊れた世界で出会った、たった一人の存在が、沙耶だ。彼にとって、どれだけの救いとなっただろう。透きとおる肌と、しなやかな肢体を白いワンピースに包み、深夜の病院を徘徊する。聞けば、お父さんを探しているという。

彼は、藁にもすがる思いで、手を握らせてくれと懇願する。「変な人。そんなこと言い出したの、あなたが初めて」と言いながら差し出す白い手に、壊れ物を扱うように、そうっと、やさしく手を重ねる。

こうして始まる、淫猥で残酷で哀しい関係を描いたのが、『沙耶の唄』だ。彼は、おぞましい世界で、彼女を守り抜こうとする。『火の鳥』と似ているのは入口だけで、後は全く違う方向へ転がり出す。

そのエロとエグさは虚淵玄ならではの一級品。ノベライズは別の方だが、セリフはほぼ一緒で、ガジェットや言い回しをアップデートした程度だという。ただし最後は、3つあるエンディングと微妙に重ねながら、しかしどれにも合致しないようにまとめ上げている。

実は、わたしの最も好きなラストが回避されていた。引き返せなくなるあるところで、昔の暮らしに戻りたいか、と沙耶に聞かれるのだ。

 「取り戻したい」
 「もういらない」

普通なら、「もういらない」が選ばれる。壊れた世界で唯一「正常」で、心を寄せてくれる沙耶がいる。彼女さえいてくれれば、それでいい。そんな心情なら、昔の世界なんていらないだろう。物語としては、こちらが王道となる。

しかし、わたしはここで「取り戻したい」を選んだほうが好きだ。もちろん話は進まず、謎は解かれないまま、物語としてはバッドエンディングになる。だが、彼が選んだ白い世界のほうが、悲恋として好きだ(わたしが泣いたラストはこれだった)。

そして、わたしが泣かなかったほう、酸っぱい絶望がこみ上げてくる、おぞましいほうのラストが、きちんと本作に引き継がれている。

 

ゲームの雰囲気は以下から。スクリプトの部分は小説とほぼ同じなので、"試し読み”にもなる。ただし、かなりSAN値が削られるので、耐性なき方は行かないように。

そうそう、続編が準備されている。「第二歌 ノゾミノセカイ」という仮題で、あのラストからどんな未来なのか想像を絶する(というより想像したくない)が、怖いものみたさで覗いてみたい。

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『うたえ! エーリンナ』は控え目にいって最高であり、1巻完結の理由を調べたら涙で読めない

古代ギリシアの女学校を舞台に、女の子の友情と成長を描いた百合マンガ―――という噂で手にしたが、控え目に言って最高だ。

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詩人になることを夢みるエーリンナと、親友のバウキス。当代一の女詩人サッポーの女学校に入ることになる。乙女のたしなみや花嫁修業そっちのけで、歌や竪琴に夢中になる。

女性の自由が制限されていた時代で、それでも歌への熱い情熱を胸に、元気いっぱいのエーリンナに思わず微笑む。さらにツンデレ気味のバウキスとの友情が尊い。ふたりの関係は、これが象徴的だ。先輩の結婚式を見送って落ち込んでいるバウキスに、エーリンナは言う。

「29話 とこしえの思い出」より

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当時の結婚適齢期は15才、それまで女学校にいるわずかな時間のことを、自由時間(スコレー)と呼んでいる(後の「スクール」である)。エーリンナは13~4才くらいだから、本当に短く濃密な物語になっている。

劇中での同性愛は甘やかというよりも友情に近く、後に「サッフィスム(レズビアニズム)」と呼ばれる女性同士の愛情はあまり前面に出てこない。一方で、少年愛はしっかり演出されている。この濃淡は何だろう?

『サッフォー 詩と生涯』(沓掛良彦、水声社)で調べてみたところ、この考証は正しいようだ。

結局のところは、古代ギリシアにおいて、女性の間にも同性愛ないし同性愛的感情が存在したことを直截なかたちで物語る資料としては、ひとりサッフォーあるのみ、ということになる。
(中略)同性である少女たちへの激しい恋心を堂々と歌い上げたただひとりの女流詩人であったことは、その作品がひときわすぐれたものであっただけに人々の目をそばだたせ、驚きの目をもって見られたことであろう。
p.273 「サッフォー問題」より引用

古代ギリシャ人の同性愛は、男性同士のものであれば寛容だが、女性同士となるとほとんど言及されていない。ただし、サッフォーの作品だけが例外的に扱われている。その結果、サッフォーがその出身地であるレスボス島に因んでレズビアニズムの代名詞のようになっているのだ。

短く濃密な自由時間は、『うたえ! エーリンナ』で読むことができる。その一年後を描いたおまけが付いて、1巻ものとなっているのだが、完璧に終わってしまっている。続きも読みたいという声がAmazonレビューにもあるし、わたしもそう思う。

なぜ1巻で終わるのだろう?

疑問に思って、『ピエリアの薔薇』(沓掛良彦、平凡社)を手にする。ホメロスやサッポーのような大詩人になるのを夢見て、あれほど努力してきたのだから、ひょっとすると、エーリンナの歌が残っているのではないか?

ここからは『うたえ! エーリンナ』を読んでから

『ピエリアの薔薇』はギリシア詞華集選だ。

愛のよろこびと直截に歌いあげるものから、後朝の別れを惜しむもの、我が子の早すぎる死を悼むもの、さまざまな詩がある。官能エロス全開で、えっち大好き! と歌った傍から料金を求められて賢者になるとか、思わずクスっと笑ってしまう。女の尻の美しさをひたすら愛でる詩人とは、良い友達になれそうだ。

ソクラテスやプラトンを歌ったものもあるし、プラトン自身が死を嘆いたものもある(プラトンの本名が「アリストクレース」なのはこれで知った)。

黒澤明『生きる』で耳にした「命短し恋せよ乙女」まんまもある。団鬼六で目にした「一期は夢よ、ただ狂え」まんまもある。友と語らい、酒を受ける杯を讃える詩は、李白や杜甫を彷彿とさせる。

これは思い付きだが、オリエントの東西でこれほど似通っているのは、ざっくり2つの考え方ができる。

一つは、花や酒や人生をテーマにした言葉は、時代や場所を超えた普遍性を宿すという考え方。もう一つは、これらの歌を運んだ吟遊詩人の存在だ。洋の東西で兵や・商品の交流はあった。その中で「歌」が運ばれてきたのではないだろうか。

ヘレニズム文化の影響といえば、たとえばエンタシスの柱が思い浮かぶが、そういう物理的な波及ではなく、言語的・概念的な共通項を探すと、面白いかもしれない。たとえば「一期は夢よ、ただ狂え」の元は閑吟集と聞く。だから、閑吟集とギリシア詩歌の共通項を探すと、概念の影響が見られるのではないだろうか。

さて、『ピエリアの薔薇』の詩人列伝を見ると、その後のエーリンナが分かる。素晴らしい才能とひたむきな努力が結実し、女流詩人として名を残す。こうある。

  エーリンナ
  Erinna
  サッフォーと同時代(前6世紀はじめ)の女流詩人
  実際は前4世紀後半か3世紀初頭と推定される
  わずか19歳で夭折

あの後すぐ、エーリンナは病を得て死んでしまったんだな……『ピエリアの薔薇』には、エーリンナのうるわしき声を惜しみ、嘆く友たちの詩が残されている。さらに、エーリンナ自身の詩もある。タイトルは「婚儀のさなかにみまかりし友バウキスの死を悼みて」である。

婚儀のさなかにみまかりし友バウキスの死を悼みて
エーリンナ
これは花嫁バウキスが墓。
かなしみの涙あまたそそがれし
この碑のかたわら行きたもう人よ、
伝えてよ この言葉
地下なるかの冥王に、
「冥王さま、あなたさまは
 いとも妬み深き御方」と。
このうるわしき墓碑銘に
眼とむる人は悟らめ、
バウキスが酷き運命を。
その義父なる人の
乙女の屍焼く火を点じたまいしは、
そをともし晴れやかに
祝婚歌うたいことほぎし
かのたいまつもてなされしことを。
してまた、ヒュメナイオスさま、
あなたさまは響うるわしき祝婚歌を
傷ましき悼歌に
変えてしまわれたとは。

ここでもう一度、『うたえ! エーリンナ』を読みはじめると、あらゆるセリフが涙で読めなくなる。

命短し、うたえよ乙女。

 

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少女とロボットが行くディストピア・ロード『エレクトリック・ステイト』

巨大な建造物と歩行機械がたたずむなか、少女と黄色いロボットが行く。なぜか懐かしい異形に浸食された、アメリカ合衆国の終わり(始まり?)を眺める。

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少女とロボットの行く先で、HMD(ヘッドマウントディスプレイ)を装着した人だったものや、信じられないほど巨大な伝送路、自家製ドローンを見る。アメリカの田舎の住宅街にそびえる歩行要塞は、不思議と似あう。

「こちらの」アメリカでは、人体器官に接続されたHMDを経由して、遅延なしでドローンを操作する技術が発達している(いわば有機的なジョイコン)。

人の脳細胞どうしをつないで巨大な神経マトリックスを組み合わせ、そこから集合意識が生み出されている。さらに、集合意識が物理的な形態をとろうとして、ドローン操縦者(すなわち人)の生殖サイクルに干渉した未来が、これだ。

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画集と小説が融合した一冊

既視感あるディストピアは、様々な作品を思い出させる。集合意識が第三の主体を生みだす背景は『攻殻機動隊』を、二人が行く遠景は『The Last Of Us』やマッカーシーの『ザ・ロード』を、そして少女とロボットの関係性は『CLANNAD』の幻想世界を彷彿とさせる。

アメリカが舞台なのに、「エレクトリック・ステイツ(states)」ではなく、なぜステイト(state)なのかと考えて、ぞっとする。これ、状態のステイトであり、一つの国家「電気仕掛けの国家」としての意味も持つのだろう。

作者はシモン・ストーレンハーグ(Simon Stalenhag)。日常的な光景と不穏な異物を等価にした世界観で、ストーリー性の高い作品を描いている。

グラフィックの一部なら、[Simon Stalenhag Art Gallery]で見ることができるが、なぜ少女が旅をするのか、黄色いロボットは何なのか、そして、旅の果てには何が待っているのかは、小説を追ってほしい。翻訳が山形浩生氏だから購入したのだが、大正解でしたな。ハリウッドで映画化されるとのことだが、これも期待。

 

 

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レオナルド・ダ・ヴィンチの就活術『ルネサンスの世渡り術』

 いまでこそ巨匠と呼ばれる芸術家も、駆け出しのころは苦労していた。

 技術的に傑出し、神童の誉れ高くとも、それだけで仕事がじゃんじゃん舞い込むことはない。就職先が見つからなかったり、資金繰りに頭を悩ませたり、仕事を干されて汲々とする姿は、現代と変わらない。

 不遇な天才たちは、どうやって逆境を跳ね返していったか。

 そこには、したたかな手練手管が求められる。腕が立つだけでは足りなくて、技術を注文に結び付けなければならぬ。そのためには何でもする。炎上商法で名前を売り、ズルしてでもライバルを出し抜き、相手が強ければ同情を誘い、弱ければ強気に出て、裏で手を組み、ハッタリを効かせ、なんとか生き延びようとあがく。

ルネサンス芸術は「アート」というより「デザイン」

 そんな芸術家たちの生きざまを、イラストで活写したのが本書だ。

 共感したりドン引きしながら、するする読める。面白おかしく誇張しているのかと思いきや、元ネタはジョルジョ・ヴァザーリ『芸術家列伝』とのこと。

 これ、林達夫と久野収の対談『思想のドラマトゥルギー』でお薦めされていたので、気になっていたやつ。しかも著者・壺屋めり氏は歴史学者であり、ヴァザーリを鵜呑みにせず、きちんと考証しているのがいい。

 面白いのは、芸術家の「したたかさ」に学ぶところが沢山あることだ。

 たとえば、芸術家と注文主の関係。ルネサンス時代の芸術家は、注文を受けてから制作を開始し、注文主の意向に合わせた作品にするのが普通だった。

 注文主の要望(=要求仕様)を明確にし、当時の流行(=最新技術とモード)を取り入れ、さらにデッサンに対するフィードバック(=レビュー)をもらう。ルネサンス美術は、いわゆる「アート」というよりも「デザイン」や「公共開発」の仕事に近いことがうかがい知れる。

レオナルド・ダ・ヴィンチの就活

 なかでも、レオナルド・ダ・ヴィンチの就職活動が興味深い。

 フィレンツェの工房で修行を積んだレオナルドは、フリーの画家として独立するのだが、なかなか成果に結びつかなかったという。そこで心機一転して、ミラノへ取り入ろうとするのだが、そのエントリーシートがスゴい。

 もちろん、当時はエントリーシートではなく、ミラノを統治する貴族へ宛てた手紙だが、そこには、彼ができること・作れるものが、箇条書きで残されている。

  1. 軽くて強固な橋
  2. 戦闘装置
  3. 要塞や砦を破壊する技術
  4. 運搬が容易な大砲
  5. 地下トンネルの掘削技術
  6. 装甲車
  7. 大砲、追撃砲、軽砲
  8. 砲撃に適さない状況で用いる、石弓、投石機
  9. 海戦のための、砲弾、火薬、耐火性の船
  10. 平和時における、建造物の設計、大理石、ブロンズ、粘土の彫刻、絵画

 レオナルド・ダ・ヴィンチは、様々な分野で才能を発揮した、万能の天才と言われている。だが、駆け出しの頃は画家だったのではないか。10のセールスポイントのうち、9つまでが軍事技術で占められており、かろうじて、最後の一つが絵画や彫刻になっている。なぜ、自分の得意分野を最後に、しかも一つだけにしたのか?

 実は、これにはちゃんと理由がある。

 当時のミラノは君主国で、そこを統治していたスフォルツァ家は、たたき上げの新興貴族であり、伝統よりも軍事に権力基盤を置いていた。当然、新しい軍事技術は、喉から手が出るほど欲しいし、逆に、そうした技術を持つ人材が、ミラノ外へ流出するのを防ぎたいはず……

 レオナルドは、こうした雇用主のニーズを見極め、一般に知られていない技術を持っている、と自分をプレゼンテーションしたのだ。

 では、その頃のレオナルドは、軍事技術の研究をしていたのだろうか? 実は、当時の作品メモやスケッチが遺されている。そこには、聖母像や友人の肖像、デッサンばかりで、技術関連といえば、航海の道具、給水の機械、釜の3点だけだったという。

 つまり、軍事技術のエキスパートとして自らを「演出」したとき、軍事に関わるものをほとんど作っていなかったのである。もちろん、軍事技術家として設計やデザインを行った業績も残されているが、それらは就職した後でのこと。ハッタリが功を奏した例やね。

 まったくといっていいほど経験がないものを、自らの強みとしてプレゼンする。天才だからこそできたのだと言うことは簡単だが、天才なのに就活に苦労したからと考えると、学ぶところが大きい。就活にお悩みなら、以下もどうぞ。

[答えが見つからないとき、問題を変えてみる6冊]

「人」から見たルネサンス美術史

 ルネサンスの美術作品や歴史についての解説は沢山ある。作品そのものについて、意義や影響を知ることも大切だが、その作品を制作した「人」に焦点を当て、どのように業界をサバイブしていったかを説明したものは珍しい。

 もとは「クーリエ」で連載したものだが、その生き様は、現代でも実践している人がいるのではないかと思われるくらい生々しい(特に炎上商法)。レオナルドの就活は[万能人の自己PR術 レオナルド・ダ・ヴィンチの場合]で前半を読むことができる。

 お試しあれ。

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『ニックス』はスゴ本

 狂おしいほど好き。

 めちゃくちゃ笑い、泣き、怒り、嘆き、途方にくれ、ハラハラ・オロオロ・ドキドキしながら夢中になって読んだ、ユーモアと切なさに満ちた最高の一冊。

Nix

面白さを物理的に証明する

 「面白さ」の表現として、ページターナーとか巻を措く能わずというけれど、この小説は物理的に証明することができる。図書館で借りてきたとき、本の背表紙が「歪んで」いるのが証拠だ。

 説明する。

 本を開くと、本の背は開いた方向へ引っ張られる。一定のあいだ引っ張られると、背表紙は、その方向に「くせ」が付く。そして、本を閉じると引っ張られた背は戻る。閉じている時間が長いと、ついた「くせ」は戻ろうとする。つまり、「引っ張られた時間=読んでいる時間」が長いほど、「くせ=歪み」が付いた背表紙となる。

 ちょっと待て。

 『ニックス』のような長い作品(2段700頁)だと、当然、読む時間も長くなるから、くせが付きやすいんじゃないの? その通り。だが、ポイントは「閉じると戻ろうとする」ところ。たとえ読んでる累計時間が長くても、閉じている時間も長ければ(つまり一気に読まれなければ)、背表紙の歪みは解消される。

 

Nix2
背表紙が歪んでいるのが分かるだろうか

一行目から引き込まれる

 歪んだ背表紙が約束した面白さは、一行目から報われる。こんなプロローグだ。

 もし、母が去ろうとしていることに気づいていたら、サミュエルはもっと注意を研ぎ澄ませていただろう。もっと用心深く耳を傾け、もっと細やかに様子をうかがい、もっと重要な何かを書き留めていただろう。違う行動を取り、違う言葉を語り、さらには違う人間になっていただろう。 そう、捨てるには忍びないという子になっていたかもしれなかった。

 母は家の中から少しずつ物を持ち出していく。あるときはフォークを一本、次の週はセーター、さらに次は詩集を一冊といった形で、自分の物を持ち出していく。一気に全部を持っていくのではなく、少しずつ自分の跡を消してゆく。

 そしてある朝、いなくなる。まだサミュエルが幼い頃、1988年の夏の朝に。

 それから数十年、書けない作家となったサミュエルのもとに知らせが入る―――母が州知事に暴行して逮捕されたという。SNSで炎上し、ワイドショーで騒ぎ立てられるなかで、サミュエルは自分を捨てた母を調べ始める。

 最初は復讐心に駆られていたが、次第に分かってくる母の半生は、サミュエルが長い間信じていたものとは、全く違う人生だった―――こんな感じで、母の過去、サミュエルの過去、そして現在と行ったり来たりしながら進んでゆく。

群盲撫象

 小説を貫くテーマは、エピグラフにもある、盲人が象を語る話だ。

 目の見えない人をおおぜい連れてきて、象に触らせる。ある者は鼻を撫で、別の者は耳を撫で、またある者は尾を撫でる……といった風に。そして、「象とは何か」を語らせたところ、てんでバラバラの答えになり、盲人たちは殴り合ったという話だ。物事や人物の一面だけを見て、それが全てだと理解してしまうことを戒める説話だが、SNSで噴き上がっている「盲人」を見るにつけ、今こそ広めたい教訓だ。

 しかし、2人の人生につきあってゆくと、ある重要な事実に気づく。

 それは、盲人と象の話において、見過ごされがちなのは、一人ひとりの説明は正しいという事実だ。一人ひとりは偽りの象を語っているわけでない。それぞれ偽りの「象」像によって隠された、「真の象」というものが存在するわけではない。

 そうではなく、それぞれにとっての「真の象」―――つまり、これこそが「真の象」だという思い込み―――によって隠された、一つの大きな象がいるだけなのだ。サミュエルの母は、さまざまな側面を持つ。生真面目で、怖がりで、でも大胆で、妻であり母であり女である。ある一面が真実だと確信することにより、別の、より大きな真実を覆い隠す。

それは結局、盲人と象の問題に帰着する。問題は彼らが目が見えないということではなかった―――彼らがあまりに早く探索をやめて、把握すべきより大きな真実があるということに気づかなかったということなのだ。

 では、それぞれの人生を支えている、より大きな真実は何か―――何度もやってくる物語のうねりの中でこれに気づくとき、ほとばしる感情を留めることができなくなる。涙とか感動というよりも、むしろ、彼女がどういう気持ちでいたかが堰を切ったようにわたしの身体を走り抜ける。

人を理解するとは

 人を理解するとは、(より大きな象が支えている)それぞれの真実の中で生きていることをひっくるめて、理解することなのだ。

 そして、この「人」は他人だけではない。

 これは、自分自身にも向けられる。あの日あのとき別の選択をしていればとか、異なる世界線上の「もう一人の自分」とか、ゲームのようにセーブ&ロードをやり直せれば……などと妄想する自分自身にとっても、同じことが言える。

 それぞれの世界線上の自分にとっての「真実」を、ただ一つの真実だと確信することにより、別の、選ばなかった方の真実が覆い隠される。人は、自分の物語にすっかり心を奪われて、もう一人の自分の物語の中では脇役に過ぎないという事実がわからなくなることがある

 すべてを相対化するシニカルなものではなく、それぞれが持ち寄った真実を理解するか否かの話だ。理解することは、憎悪することよりも、難しい。

 ジョン・アーヴィング絶賛との謳い文句で手にしたが、大当たり。平成最後の、最高の海外文学長編として、自信をもってお薦めする。

 

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