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読書会で毒を吐く『春にして君を離れ』

読書は毒書だ。

(小説を)読むとは、大なり小なり毒を浴びること。読んでも残らないなら、読むというより「見た」にすぎぬ。同じ一冊が、深く刺さる人もいれば、かすりもしない人もいる。そういう、読み手の人生経験や過去にダイレクトに反射する作品は、値千金だ。

Harunisite

すぐれた物語は一生を二生にする

なぜなら、自分がそのときどう感じていたか、すべきこと/すべきでなかったことを、物語として読めるから。これ、よくある客観視ではない。「そのとき」の感情や判断は、そのときの感覚や記憶によって歪められている。自分フィルターの歪みを自覚しながら、「そのとき」の感情や判断を、「いま」読んでいる作品を通じ、「自分の物語」として語りなおす試みは、めったにお目にかかれない。だから値千金なのだ。

「すぐれた物語は一生を二生にする」という言葉の秘密はここにある。

作中の人物に対する「いま」の批判が、そのまま「そのとき」の自分になる。もちろん過去は変えられない。口から出た言葉は戻せないし、戻ってやり直すこともかなわない。それは、手元の作品に書かれた言葉を変えられないことと同じだ。

だが、「そのとき」の歪み込みで、過去の認識の仕方を変えることはできる。それはもはや、登場人物の人生ではなく、読み手の人生経験のやりなおしなのだ。断っておきたいのは、「正しかった」「間違っていた」の二択ではないこと。自分の過去を簡単に「間違っていた」とバッサリできるほどの軽さならいいが、(本読んでわざわざ思い出すくらいなら)そんなわけなかろう。

猛毒『春にして君を離れ』

さて、そんな毒書でも、きわめて猛毒で、なおかつ過去をエグエグ抉ってくるのが、『春にして君を離れ』である。アガサ・クリスティーが別名義で書いた作品だが、最高の一冊だと断言できる。クリスティー作品のベストとしても、毒作用の最も高い作品としても、これを推す。

ただし、本書の毒は、自家中毒に近い。身体の外から入ってきた毒物による中毒ではなく、自分の体の中でできた物質による中毒症状だから。『春にして君を離れ』には、陰惨な殺人現場や、邪悪な心理が描かれているわけではない。そうした毒に中(あた)るような読書ではないのだ。

その代わり、作中の人物への批判が、そのまま「そのとき」の自分につながり、書かれた言葉を変えられないように、昔をやり直せないことに気づく。そして、恐ろしいことに、過去はやり直せないが、この本を読み終わった「いま」からならば、やり直せることが分かってしまう。

そして自問するだろう、「本当にやり直す?」ってね。やり直せない過去だからこそ、簡単に「正しい」「間違い」とバッサリできる。では今から「いま」をやり直すことができるなら、簡単にはいかない。

よしおかさん主催の読書会に参加して、上のようなことを考えさせられた。『春にして君を離れ』の紹介はこんな感じ。

優しい夫、よき子供に恵まれ、女は理想の家庭を築き上げたことに満ち足りていた。が、娘の病気見舞いを終えてバクダードからイギリスへ帰る途中で出会った友人との会話から、それまでの親子関係、夫婦の愛情に疑問を抱きはじめる……
女の愛の迷いを冷たく見すえ、繊細かつ流麗に描いた、ロマンチック・サスペンス

小説の主旋律は、自己正当化が、あらゆる価値判断の根拠となっている女の独白だ。自分の誤りを認めないというより、自分に誤りがない前提で物事を考えている。「自分が100%正しい」、故に「間違っているのはあいつであり、ダメなのは夫である」という女である。

男女7人が集まって、延々3時間この作品について語り合ったのだが……

読書会で毒を吐く

まず、「全く何も残らなかった」という人はゼロ。

ネットでは少なからず見かけるが、これを読んで何も感じない人がいる。高校生ぐらいなら分かるが、結構ご年配でもいる。それはそれで、「しあわせ」なことだと思う。自己欺瞞に縁のない、いわゆる「育ちが良い人」なのだろう(解説によると、栗本薫の夫がそうらしい)。

7人がそれぞれ順に語ったのだが、それぞれの過去をエグエグ抉り出しており、読書会は毒書会と相成った。

真っ先に挙げられたのが、この女の性格。嫌味たらしく他人を値踏みし、なおかつ辛辣な評価を下す。階級的には上流で裕福といってもいいのに、一皮むいたら下品そのもの。今風に言うなら、マウンティングにより自分の価値を見いだす人やね。

いっぽう、この女の「分かりやすさ」に警戒した人もいた。

何十年も前の会話を一言一句覚えているのは不自然になる。わたしは小説的仕掛けとして読み流したが、これは一種の「罠」なのかも。この女を自分の配偶者に投影して溜飲を下げたり、あるいは「私はこんなにひどくない」と安心することができる。そんな読みを招き寄せる罠なのだ(文字通り、ラストにつながるのだが)。

ただし、皆さん正直な大人でもあるので、作品が暴きだす自己欺瞞が「読者自身」を指していることを、目を背けずに見つめることはできる(謝ったら死ぬ病の人はいなかった)。

また、ダンナもひどいという意見もあり。

ここまで拗らせるまで向き合おうとせず、仕事に逃げていた夫こそが、このような女を作り上げたのだという指摘だ。そんなズルさを棚に上げて、かわいそうな夫を演出すれば、子どもはどう見るか?ずるずると妻に振り回されるのがそんなに嫌なら、いっそ離婚してしまえばいい。だが時代が許さないだろうし、何よりも外聞に悪い。

さらに、ワレナベ&トジブタ説まで出てくる。これは、お互いさまだと。ダンナは、経営に失敗したら自殺しかねないくらい弱い男である一方、人生の荒波耐性は妻の方がある。自称かわいそうな夫とマウンティングする妻は、共依存の関係なのかも。

個人的な読書体験は語ることによって普遍性をもつ

自分に嘘をつくのをやめる読書会だった(よしおかさんありがとうございます!)。

たった一冊の本について語り合ったにもかかわらず、それぞれの「いま」の思いや「そのとき」の経験について話すことになる。嫌な女だね、馬鹿なダンナだね、で済まないところが『春にして君を離れ』のエグいところなのだ(それで済ますということは、読み手の自己欺瞞から目を背けることになるからね)。

読書とは、個人的な体験にも関わらず、それについて語った瞬間、普遍的な寓意に行き着くのかもしれぬ

よい毒書で、よい人生を。


 

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