物語を紡ぐ人、解く人にお薦め。
小説論としても小説家論としても面白いし、村上春樹の深いところを掘り出しているのもいい。村上春樹が語ってきたことは様々な本になっているが、同じく日本語で小説を書く川上未映子が、「作家∧読者」という立場からインタビューするのは珍しい。谷古宇さん、素晴らしい本を薦めていただき、ありがとうございます。
一冊で2^2度おいしい 本を書く人は本を読む人でもある。それぞれの作家が書いてきた作品を、より深く読むための縁にもなるし、「物語とは」「文体とは」「悪とは」といったテーマについて、いま生きている作家からヒントをもらえる。なぜなら、2人の作家について、作者・読者の2つの立場からナマの声が書いてあるから(2^2度おいしい)。 だから、小説を「読む人」にとってのヒントがあるだけでなく、「書く人」にとっても数多くの気づきが得られる。ここでは、「村上作品の本質」と「小説にとって共通的なヒント」を明らかにしながらまとめてみよう。 また、わたしにとって、村上春樹の長編はもう充分で、新作は文体の変化を楽しむぐらいしか余地がないことがハッキリした。本人が告げる通り、構造やテーマ、キャラクターや描写を追求するつもりがなく、文体を向上するだけであれば、わたしが読むものはない。短編やエッセイ、インタビューやステートメントとしての作家だな。
村上作品の本質 いきなり根幹から。
「物語を書くとはどういうことか?」から始まるやりとりで語られている。小説を書くことを説明するとき、一軒の家で喩えており、次のようになる。


まず、一階。みんながいる団らんの場所であり、楽しくて社会的で、共通の言葉でしゃべっている。言葉を通じて分かり合えるパブリックなところになる。 次に、地下一階。暗い部屋があるが、一階(パブリックな場所)とつながっているところもあり、誰でも降りていける。いわゆる日本の私小説が扱っているのは、この地下一階で起きていることになる。いわゆる近代的自我みたいなのもここで、それぞれが抱えている地下一階を見せることで、共有されやすい面もある。 そして、地下二階。ここに村上作品の本質がある。あらゆる民族や伝承に共通する神話的な「お話」を起こし、物語にして伝える。古くは宗教が担っていた、個人の経験を越えた「世界とはこういうもの」という感覚で、河合隼雄の『影の現象学』では「集合的無意識」と呼んでいる。村上春樹の長編は、集合的無意識を物語にしたものになる。
集合的無意識の奪い合い 村上春樹の小説が世界中で読まれている理由は、
「そういう人々の地下部分あたる意識に、物語がダイレクトに訴えかけているところがあるから」だという。これも、意図してやっているわけでないという。そこに意味やメタファーを考えて付けているわけではなく、「僕としてはそういう風にしか書けない」のだと言う。ここはマネできないところ。 この集合的無意識について、川上が興味深い指摘をしている。フィクションというものは実際的な力を持ってしまうことがある。小説を読んで人を刺す、といった分かりやすいものから、投票行動における浮動票のベクトルといった見えにくいものまで、様々な形で現れる。そうした
世界中の出来事が、物語による「みんなの無意識」の奪い合いの結果だというのである。 以前、別の媒体で、「いま読んでる本は何ですか?」という質問に、『新釈雨月物語・新釈春雨物語』と答えたのを目にしたことがある。中国の古典を元にした怪奇譚の短編集で、上田秋成が書いたものを石川淳が新釈したものだ。人と人外のかかわりあいを描く異化が扱われており、こうした伝承にヒントを得て、物語の核にしているのではないだろうか。 じっさい、『騎士団長殺し』には春雨物語の「二世の縁」が出てくる。土の中から即身成仏を掘り出す話で、そこを起点に小説を書き始めたと言っている。集合的無意識を「意識的に」探すなら、文化や言語に依存しない、人として普遍的な行為―――たとえば、性・食・死―――を、神話や伝説に見ようとするだろう。フレイザー『金枝篇』、イェンゼン『殺された女神』、最近だったら赤坂憲雄『性食考』あたりを参考にしてそうだ。 そうした伝承を現代の話にパラフレーズすることで、集合的無意識に訴えかける。読者は読者で、「これは私のために書かれたのだ」とそこにシンボルやメタファーを都合よく解釈し、自分の個人的な体験や深読みを当てはめる。そういう「代入」を促すような仕掛けは、ここにあるのだ。
作家と読者の信用取引 本人はノープランで小説を書いており(p.115)、メタファーをいちいち意識していない(p.130)とはっきり述べている。にもかかわらず、読者がついてきてくれるのは、作家と読者との間で、一種の信用取引が成り立っているからだという。 村上長編の構造は、「失われたものを、もう一つの世界で取り戻す」に尽きる(p.176)。これを、ディテールやモチーフを変えながらも同じようなことを書いてきて、それでも読者がついてきてくれるのは、村上曰く、
「けっして読者を悪いようにはしなかったから」。 これは、村上小説が優れているだけでなく、読者にも恵まれているといえる。それだけの信頼関係を、多数を相手に成り立たせてきたのは、素晴らしいことだと思う。
アイデアの出所と文章の規範 村上作品と読者の win-win の関係は、再現不可能だろう。作品がどうのだけでなく、時代とマーケティングの結果でもあるのだから。では、書き手として見習うところはあるのか? ある。 基本的な点としては、小説を書くアイデアは、誰しもが経験の内に持っていること。意識しようとしまいとネタはあるが、重要なのは、必要なときにそれが引き出せるか、ということにある。このインタビューでは、キャビネットと抽斗の比喩が使われている。ジェイムズ・ジョイスの「イマジネーションとは記憶のことだ」という言葉の通り。 そして、文章の規範は2つある。 一つは、比喩の構造。
「比喩とは、意味性を浮き彫りにするための落差」だから、その落差の幅を想定→逆算することで、読み手をはっとさせることができる。村上はチャンドラーから学んだというが、あれ、計算してやってたのか。 もう一つは、やりとりの「動き」。ゴーリキー『どん底』の会話を例にしているが、全部を語らないことで、伝わっている意味の呼気を感じ取れるところ。 乞食だか巡礼だかが話しているんだけど、 おまえ、俺の話、ちゃんと聞いてんのか って一人がいうと 俺はつんぼじゃねえや と答える 「聞こえているよ」と答えると、そこで会話は終わる。でもそれじゃドラマにならないから、「つんぼじゃねえや」と答える。そこに語られなかった意味のリズムが生まれる。リズムの重要性は、
「優れたパーカッショニストは、一番大事な音を叩かない」と語られているが、この言い回しも好き(本当に一番大事な音を叩くか叩かないかは、もはや関係ないことに注意)。 村上作品の面白さはここにあるし、上手いなぁと思わされるのもここ。落差に驚かされ、うまい比喩に唸らされ、絶妙な会話にニヤッとさせられる喜び。それがストーリーを駆動する原動力となっている。物語にビルトインされているから、そこだけ抜き出して「名言集」みたいにもできない。切り取ってしまうと干からびてしまう。
「書く」ことについて最も重要なこと 「全部書く」こと。これに尽きる。 書き始めると、一日十枚書くという。何があっても、とにかく十枚書く。もちろん推敲や編集はするが、それは書くを遂行してから。小説の神様みたいな「何か」が降りて来てくれそうにない日でも、必ず十枚書く。 では、「今日はここを書かないといけないけれど、ちょっと来そうにないな」という日はどうする? 川上が絶妙な質問を投げると、「そのへんの風景描写とかやってる(笑)」とのこと。 これ、レイモンド・チャンドラーもやっていたと聞いたことがある。村上もチャンドラーに影響を受けたのかもしれぬ。これだ。
毎日、決まった時間に、タイプライターの前に座る
座っているあいだ、書いても書かなくてもよい
ただし、他のこと(本を読んだりとか)はしてはいけない
ヤル気が出るまで待っていたら、仕事は終わらない。ヤル気を待っていたら、その日が時間切れとなってしまう。ヤル気がなくても手を動かしているうち、だんだん調子が出てくるというのは真だ。これはマネする。
女であることの性的な役割を担わされすぎている これ、常々思っていたけれど、真正面に質問したのはこれが初めてらしい。 つまりこうだ。村上作品は、「失われたものを、もう一つの世界で取り戻す」つまり異化の物語であるが、その異化の入口ないし契機として、「女」が使われる。日常→非日常へと手を引いて連れていくためにセックスが持ち出されるというのだ。 イザナギノミコトの黄泉国でもオデュッセウスの冥界行でもいいけれど、いわゆるカタバシス(冥界訪問譚)の導く存在として女が出てくる。それは「お約束」としていい。だが、そこに女が、「性的な役割を全うしていくだけの存在になってしまう」のはどうかというのだ。 はっきり質問の形で見えると、思い当たる。性行為の担当・謎かけ担当といった女に役が割り当てられていると感じていた。だから、村上作品の女性は見えやすかった。川上は「女の人は、女の人自体として存在できない」と鋭い指摘をしている。 これに対し村上は、登場人物のことも、深く書き込んでいないという。「インターフェイス(接面)が主な問題であって、その存在自体とか、重みとか、方向性はむしろ描きすぎないように意識している」(p.247)と躱している。 ただし、例外として、『1Q84』は真正面から女性の登場人物に向き合った話だという。わたしは未読なので、村上ファンに尋ねてみたい。
リアル・ファンタジー 結局のところ、リアリズムの手法でファンタジーを描いたのが村上長編ではないか? という予想が確認できた。 書いてることは現実的にありえないことだが、書き方がリアリズムなので、荒唐無稽感が甚だしい。それでも「お話」が面白ければ付いて行けるが、どういうつもりで書いたんだろう? 何も考えていないのでは? といったん疑問を抱き始めると、読むのをやめるか、「そういうもの」として読むしかない(答え:何も考えていない)。 そして、「そういうもの」と納得ずくで付き合っている幸せな読者がいることが、何よりも財産なのだろう。わたしは、そうした読者が掬い取った様々なメタファーや解釈を、聞くのが楽しい。 読みの豊饒さに、あらためて驚くことができるのだから。
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