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読書会で毒を吐く『春にして君を離れ』

読書は毒書だ。

(小説を)読むとは、大なり小なり毒を浴びること。読んでも残らないなら、読むというより「見た」にすぎぬ。同じ一冊が、深く刺さる人もいれば、かすりもしない人もいる。そういう、読み手の人生経験や過去にダイレクトに反射する作品は、値千金だ。

Harunisite

すぐれた物語は一生を二生にする

なぜなら、自分がそのときどう感じていたか、すべきこと/すべきでなかったことを、物語として読めるから。これ、よくある客観視ではない。「そのとき」の感情や判断は、そのときの感覚や記憶によって歪められている。自分フィルターの歪みを自覚しながら、「そのとき」の感情や判断を、「いま」読んでいる作品を通じ、「自分の物語」として語りなおす試みは、めったにお目にかかれない。だから値千金なのだ。

「すぐれた物語は一生を二生にする」という言葉の秘密はここにある。

作中の人物に対する「いま」の批判が、そのまま「そのとき」の自分になる。もちろん過去は変えられない。口から出た言葉は戻せないし、戻ってやり直すこともかなわない。それは、手元の作品に書かれた言葉を変えられないことと同じだ。

だが、「そのとき」の歪み込みで、過去の認識の仕方を変えることはできる。それはもはや、登場人物の人生ではなく、読み手の人生経験のやりなおしなのだ。断っておきたいのは、「正しかった」「間違っていた」の二択ではないこと。自分の過去を簡単に「間違っていた」とバッサリできるほどの軽さならいいが、(本読んでわざわざ思い出すくらいなら)そんなわけなかろう。

猛毒『春にして君を離れ』

さて、そんな毒書でも、きわめて猛毒で、なおかつ過去をエグエグ抉ってくるのが、『春にして君を離れ』である。アガサ・クリスティーが別名義で書いた作品だが、最高の一冊だと断言できる。クリスティー作品のベストとしても、毒作用の最も高い作品としても、これを推す。

ただし、本書の毒は、自家中毒に近い。身体の外から入ってきた毒物による中毒ではなく、自分の体の中でできた物質による中毒症状だから。『春にして君を離れ』には、陰惨な殺人現場や、邪悪な心理が描かれているわけではない。そうした毒に中(あた)るような読書ではないのだ。

その代わり、作中の人物への批判が、そのまま「そのとき」の自分につながり、書かれた言葉を変えられないように、昔をやり直せないことに気づく。そして、恐ろしいことに、過去はやり直せないが、この本を読み終わった「いま」からならば、やり直せることが分かってしまう。

そして自問するだろう、「本当にやり直す?」ってね。やり直せない過去だからこそ、簡単に「正しい」「間違い」とバッサリできる。では今から「いま」をやり直すことができるなら、簡単にはいかない。

よしおかさん主催の読書会に参加して、上のようなことを考えさせられた。『春にして君を離れ』の紹介はこんな感じ。

優しい夫、よき子供に恵まれ、女は理想の家庭を築き上げたことに満ち足りていた。が、娘の病気見舞いを終えてバクダードからイギリスへ帰る途中で出会った友人との会話から、それまでの親子関係、夫婦の愛情に疑問を抱きはじめる……
女の愛の迷いを冷たく見すえ、繊細かつ流麗に描いた、ロマンチック・サスペンス

小説の主旋律は、自己正当化が、あらゆる価値判断の根拠となっている女の独白だ。自分の誤りを認めないというより、自分に誤りがない前提で物事を考えている。「自分が100%正しい」、故に「間違っているのはあいつであり、ダメなのは夫である」という女である。

男女7人が集まって、延々3時間この作品について語り合ったのだが……

読書会で毒を吐く

まず、「全く何も残らなかった」という人はゼロ。

ネットでは少なからず見かけるが、これを読んで何も感じない人がいる。高校生ぐらいなら分かるが、結構ご年配でもいる。それはそれで、「しあわせ」なことだと思う。自己欺瞞に縁のない、いわゆる「育ちが良い人」なのだろう(解説によると、栗本薫の夫がそうらしい)。

7人がそれぞれ順に語ったのだが、それぞれの過去をエグエグ抉り出しており、読書会は毒書会と相成った。

真っ先に挙げられたのが、この女の性格。嫌味たらしく他人を値踏みし、なおかつ辛辣な評価を下す。階級的には上流で裕福といってもいいのに、一皮むいたら下品そのもの。今風に言うなら、マウンティングにより自分の価値を見いだす人やね。

いっぽう、この女の「分かりやすさ」に警戒した人もいた。

何十年も前の会話を一言一句覚えているのは不自然になる。わたしは小説的仕掛けとして読み流したが、これは一種の「罠」なのかも。この女を自分の配偶者に投影して溜飲を下げたり、あるいは「私はこんなにひどくない」と安心することができる。そんな読みを招き寄せる罠なのだ(文字通り、ラストにつながるのだが)。

ただし、皆さん正直な大人でもあるので、作品が暴きだす自己欺瞞が「読者自身」を指していることを、目を背けずに見つめることはできる(謝ったら死ぬ病の人はいなかった)。

また、ダンナもひどいという意見もあり。

ここまで拗らせるまで向き合おうとせず、仕事に逃げていた夫こそが、このような女を作り上げたのだという指摘だ。そんなズルさを棚に上げて、かわいそうな夫を演出すれば、子どもはどう見るか?ずるずると妻に振り回されるのがそんなに嫌なら、いっそ離婚してしまえばいい。だが時代が許さないだろうし、何よりも外聞に悪い。

さらに、ワレナベ&トジブタ説まで出てくる。これは、お互いさまだと。ダンナは、経営に失敗したら自殺しかねないくらい弱い男である一方、人生の荒波耐性は妻の方がある。自称かわいそうな夫とマウンティングする妻は、共依存の関係なのかも。

個人的な読書体験は語ることによって普遍性をもつ

自分に嘘をつくのをやめる読書会だった(よしおかさんありがとうございます!)。

たった一冊の本について語り合ったにもかかわらず、それぞれの「いま」の思いや「そのとき」の経験について話すことになる。嫌な女だね、馬鹿なダンナだね、で済まないところが『春にして君を離れ』のエグいところなのだ(それで済ますということは、読み手の自己欺瞞から目を背けることになるからね)。

読書とは、個人的な体験にも関わらず、それについて語った瞬間、普遍的な寓意に行き着くのかもしれぬ

よい毒書で、よい人生を。


 

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今の中を生きるために歌がある『えーえんとくちから』

歌がうれしいのは、過去でもなく、未来でもなく、いまの、この瞬間に自分を合わせてくれるから。

Eientokuti

昔を後悔するとき、自分の何%かはその昔にいる。

将来を思い悩むとき、自分の何%かを将来に配分している。未来への心配事の大部分は実現しないし、過去の出来事は変えられないのに。つまり、変えることも実現することもない昨日と明日に、リソースを配分した結果、今日の自分がボヤけてしまう。

そこから自分を取り戻すために、歌が効く。

歌をよむ、なぞる、つぶやく、くちずさむ、その瞬間に集中することで、自分自身に焦点があわさる。車の運転に集中したり、皿洗いに専念したり、ひたすら畑仕事に没頭するのと同じ。わたしが詩を手にするのは、そういう機能を求めているから。

『えーえんとくちから』は、まさにこれ。

26歳で夭折した笹井宏之さんの詩集だ。透明度の高い、解放された空間をのぞき込むように、言葉と向き合える。その一句と「今の」自分だけになれる。結果、昨日の後悔や、明日の心配は、たとえ一時的にせよ考えずに済む。

なにこれ? とひと呼吸考えたあとでジワる。

表題のはコレ。

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい

次々と読んでいって当たったのを何度も口にしてもいいし、一つ一つに自分なりのストーリーを考えたり固有名詞を付けてもいい。わたしの場合、眠れぬ夜に訥々とつぶやいてみると、ある種おまじないのようにはたらいてくれる。

胃のなかでくだもの死んでしまったら、
人ってときに墓なんですね

目から情報のように「読む」というよりも、むしろ空気や水を呑み込むように、身体の中に言葉を入れる。歌はクリアにするすると入り、胸の中でパッと熾ったり、耳の後ろをざわつかせたりする。記憶を刺激するだけでなく、肉体を伴った反応がきて面白い。

冬の野をことばの雨がおおうとき人はほんらい栞だと知る

あんまり「人」っぽくない詠み手がいるのが面白い。歌は人の専売特許ではないのだから、誰が詠んでもかまやしない。けれど、擬人でもなく、(人が比喩的に見る)なにかですらない。人の世界を早回しで眺めて見、人の言葉で語るならと前置きして、できあがった独り言のようだ。

よかったら絶望をしてくださいね
きちんとあとを追いますからね

どの句が意外に思えるかで、自分の想像性の縁を触られているようで、楽しい。言葉と遊んでいるとき、昨日の自分や、明日のわたしに悩むことなく、確かに、わたしは、今の中を生きている。
過去と未来の心配を避け、今の自分に焦点を合わせる。前中眺さん、この本を教えていただき、ありがとうございます。

 

 

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川上未映子・村上春樹の対談『みみずくは黄昏に飛びたつ』がタメになるのでまとめる

 物語を紡ぐ人、解く人にお薦め。

Mimizuku


 小説論としても小説家論としても面白いし、村上春樹の深いところを掘り出しているのもいい。村上春樹が語ってきたことは様々な本になっているが、同じく日本語で小説を書く川上未映子が、「作家∧読者」という立場からインタビューするのは珍しい。谷古宇さん、素晴らしい本を薦めていただき、ありがとうございます。

一冊で2^2度おいしい

 本を書く人は本を読む人でもある。それぞれの作家が書いてきた作品を、より深く読むための縁にもなるし、「物語とは」「文体とは」「悪とは」といったテーマについて、いま生きている作家からヒントをもらえる。なぜなら、2人の作家について、作者・読者の2つの立場からナマの声が書いてあるから(2^2度おいしい)。

 だから、小説を「読む人」にとってのヒントがあるだけでなく、「書く人」にとっても数多くの気づきが得られる。ここでは、「村上作品の本質」と「小説にとって共通的なヒント」を明らかにしながらまとめてみよう。

 また、わたしにとって、村上春樹の長編はもう充分で、新作は文体の変化を楽しむぐらいしか余地がないことがハッキリした。本人が告げる通り、構造やテーマ、キャラクターや描写を追求するつもりがなく、文体を向上するだけであれば、わたしが読むものはない。短編やエッセイ、インタビューやステートメントとしての作家だな。

村上作品の本質

 いきなり根幹から。「物語を書くとはどういうことか?」から始まるやりとりで語られている。小説を書くことを説明するとき、一軒の家で喩えており、次のようになる。



 まず、一階。みんながいる団らんの場所であり、楽しくて社会的で、共通の言葉でしゃべっている。言葉を通じて分かり合えるパブリックなところになる。

 次に、地下一階。暗い部屋があるが、一階(パブリックな場所)とつながっているところもあり、誰でも降りていける。いわゆる日本の私小説が扱っているのは、この地下一階で起きていることになる。いわゆる近代的自我みたいなのもここで、それぞれが抱えている地下一階を見せることで、共有されやすい面もある。

 そして、地下二階。ここに村上作品の本質がある。あらゆる民族や伝承に共通する神話的な「お話」を起こし、物語にして伝える。古くは宗教が担っていた、個人の経験を越えた「世界とはこういうもの」という感覚で、河合隼雄の『影の現象学』では「集合的無意識」と呼んでいる。村上春樹の長編は、集合的無意識を物語にしたものになる。

集合的無意識の奪い合い

 村上春樹の小説が世界中で読まれている理由は、「そういう人々の地下部分あたる意識に、物語がダイレクトに訴えかけているところがあるから」だという。これも、意図してやっているわけでないという。そこに意味やメタファーを考えて付けているわけではなく、「僕としてはそういう風にしか書けない」のだと言う。ここはマネできないところ。

 この集合的無意識について、川上が興味深い指摘をしている。フィクションというものは実際的な力を持ってしまうことがある。小説を読んで人を刺す、といった分かりやすいものから、投票行動における浮動票のベクトルといった見えにくいものまで、様々な形で現れる。そうした世界中の出来事が、物語による「みんなの無意識」の奪い合いの結果だというのである。

 以前、別の媒体で、「いま読んでる本は何ですか?」という質問に、『新釈雨月物語・新釈春雨物語』と答えたのを目にしたことがある。中国の古典を元にした怪奇譚の短編集で、上田秋成が書いたものを石川淳が新釈したものだ。人と人外のかかわりあいを描く異化が扱われており、こうした伝承にヒントを得て、物語の核にしているのではないだろうか。

 じっさい、『騎士団長殺し』には春雨物語の「二世の縁」が出てくる。土の中から即身成仏を掘り出す話で、そこを起点に小説を書き始めたと言っている。集合的無意識を「意識的に」探すなら、文化や言語に依存しない、人として普遍的な行為―――たとえば、性・食・死―――を、神話や伝説に見ようとするだろう。フレイザー『金枝篇』、イェンゼン『殺された女神』、最近だったら赤坂憲雄『性食考』あたりを参考にしてそうだ。

 そうした伝承を現代の話にパラフレーズすることで、集合的無意識に訴えかける。読者は読者で、「これは私のために書かれたのだ」とそこにシンボルやメタファーを都合よく解釈し、自分の個人的な体験や深読みを当てはめる。そういう「代入」を促すような仕掛けは、ここにあるのだ。

作家と読者の信用取引

 本人はノープランで小説を書いており(p.115)、メタファーをいちいち意識していない(p.130)とはっきり述べている。にもかかわらず、読者がついてきてくれるのは、作家と読者との間で、一種の信用取引が成り立っているからだという。

 村上長編の構造は、「失われたものを、もう一つの世界で取り戻す」に尽きる(p.176)。これを、ディテールやモチーフを変えながらも同じようなことを書いてきて、それでも読者がついてきてくれるのは、村上曰く、「けっして読者を悪いようにはしなかったから」

 これは、村上小説が優れているだけでなく、読者にも恵まれているといえる。それだけの信頼関係を、多数を相手に成り立たせてきたのは、素晴らしいことだと思う。

アイデアの出所と文章の規範

 村上作品と読者の win-win の関係は、再現不可能だろう。作品がどうのだけでなく、時代とマーケティングの結果でもあるのだから。では、書き手として見習うところはあるのか?

 ある。

 基本的な点としては、小説を書くアイデアは、誰しもが経験の内に持っていること。意識しようとしまいとネタはあるが、重要なのは、必要なときにそれが引き出せるか、ということにある。このインタビューでは、キャビネットと抽斗の比喩が使われている。ジェイムズ・ジョイスの「イマジネーションとは記憶のことだ」という言葉の通り。

 そして、文章の規範は2つある。

 一つは、比喩の構造。「比喩とは、意味性を浮き彫りにするための落差」だから、その落差の幅を想定→逆算することで、読み手をはっとさせることができる。村上はチャンドラーから学んだというが、あれ、計算してやってたのか。

 もう一つは、やりとりの「動き」。ゴーリキー『どん底』の会話を例にしているが、全部を語らないことで、伝わっている意味の呼気を感じ取れるところ。

  乞食だか巡礼だかが話しているんだけど、
  おまえ、俺の話、ちゃんと聞いてんのか
  って一人がいうと
  俺はつんぼじゃねえや
  と答える

 「聞こえているよ」と答えると、そこで会話は終わる。でもそれじゃドラマにならないから、「つんぼじゃねえや」と答える。そこに語られなかった意味のリズムが生まれる。リズムの重要性は、「優れたパーカッショニストは、一番大事な音を叩かない」と語られているが、この言い回しも好き(本当に一番大事な音を叩くか叩かないかは、もはや関係ないことに注意)。

 村上作品の面白さはここにあるし、上手いなぁと思わされるのもここ。落差に驚かされ、うまい比喩に唸らされ、絶妙な会話にニヤッとさせられる喜び。それがストーリーを駆動する原動力となっている。物語にビルトインされているから、そこだけ抜き出して「名言集」みたいにもできない。切り取ってしまうと干からびてしまう。

「書く」ことについて最も重要なこと

 「全部書く」こと。これに尽きる。 書き始めると、一日十枚書くという。何があっても、とにかく十枚書く。もちろん推敲や編集はするが、それは書くを遂行してから。小説の神様みたいな「何か」が降りて来てくれそうにない日でも、必ず十枚書く。

 では、「今日はここを書かないといけないけれど、ちょっと来そうにないな」という日はどうする? 川上が絶妙な質問を投げると、「そのへんの風景描写とかやってる(笑)」とのこと。

 これ、レイモンド・チャンドラーもやっていたと聞いたことがある。村上もチャンドラーに影響を受けたのかもしれぬ。これだ。
毎日、決まった時間に、タイプライターの前に座る
座っているあいだ、書いても書かなくてもよい
ただし、他のこと(本を読んだりとか)はしてはいけない
 ヤル気が出るまで待っていたら、仕事は終わらない。ヤル気を待っていたら、その日が時間切れとなってしまう。ヤル気がなくても手を動かしているうち、だんだん調子が出てくるというのは真だ。これはマネする。

女であることの性的な役割を担わされすぎている

 これ、常々思っていたけれど、真正面に質問したのはこれが初めてらしい。

 つまりこうだ。村上作品は、「失われたものを、もう一つの世界で取り戻す」つまり異化の物語であるが、その異化の入口ないし契機として、「女」が使われる。日常→非日常へと手を引いて連れていくためにセックスが持ち出されるというのだ。

 イザナギノミコトの黄泉国でもオデュッセウスの冥界行でもいいけれど、いわゆるカタバシス(冥界訪問譚)の導く存在として女が出てくる。それは「お約束」としていい。だが、そこに女が、「性的な役割を全うしていくだけの存在になってしまう」のはどうかというのだ。

 はっきり質問の形で見えると、思い当たる。性行為の担当・謎かけ担当といった女に役が割り当てられていると感じていた。だから、村上作品の女性は見えやすかった。川上は「女の人は、女の人自体として存在できない」と鋭い指摘をしている。

 これに対し村上は、登場人物のことも、深く書き込んでいないという。「インターフェイス(接面)が主な問題であって、その存在自体とか、重みとか、方向性はむしろ描きすぎないように意識している」(p.247)と躱している。

 ただし、例外として、『1Q84』は真正面から女性の登場人物に向き合った話だという。わたしは未読なので、村上ファンに尋ねてみたい。

リアル・ファンタジー

 結局のところ、リアリズムの手法でファンタジーを描いたのが村上長編ではないか? という予想が確認できた。

 書いてることは現実的にありえないことだが、書き方がリアリズムなので、荒唐無稽感が甚だしい。それでも「お話」が面白ければ付いて行けるが、どういうつもりで書いたんだろう? 何も考えていないのでは? といったん疑問を抱き始めると、読むのをやめるか、「そういうもの」として読むしかない(答え:何も考えていない)。

 そして、「そういうもの」と納得ずくで付き合っている幸せな読者がいることが、何よりも財産なのだろう。わたしは、そうした読者が掬い取った様々なメタファーや解釈を、聞くのが楽しい。

 読みの豊饒さに、あらためて驚くことができるのだから。

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就職活動する学生向けに6冊紹介したが、即効性のある「さわり」をまとめる

現在進行形で就活している方や、来年に控えている方に向けて、6冊の本を紹介した。

全文は以下のリンク先で読めるが、例によって長文になった。しつこく何度も書いているが、言葉は武器である。エントリーシートや面接で飛び交うのは言葉だ。だから、言葉の実弾を準備しよう。

[答えが見つからないときは、問題を変えてみよう。就活という問いに向き合うスゴ本6冊]

ここでは、即効性のある「さわり」と、強調し足りなかった点をまとめる。

世界は、誰かの仕事でできている

まず、即効性のあるところ。「明日面接なんだよ、本なんて読んでられっか!」という人はここだけ対策しよう。

まず、ジョージアのあれ。他人事を自分の仕事とする。一つ一つは小さいかもしれないが、そんな誰かの仕事のおかげで、世界ができている。私が「いい仕事」をすることが、結果的に世界をよくすることにつながる。アレンジ例は、リンク先の『自分の仕事をつくる』節を参照。

次は、レオナルド・ダ・ヴィンチが書いたエントリーシート。万能の天才と呼ばれた彼も、就活に苦労したらしい。今でも役立つ自己プレゼンの技術は、リンク先の『ルネサンスの世渡り術』の節。レオナルドの天才すぎる面接術は、斜め上すぎるので割愛したが、めちゃくちゃ面白いぞ。

言葉は盗め!

そして、これも何度も書いたが、オリジナリティ糞喰らえ。自分を深く知ろうとか、本当の自分を探そうとか、心の底からどうでもいい。自分の好きなものから探そう。

でも、どうやって?

その「探し方」に相当するものを4冊、「探す例」として2冊紹介した。この記事を読んで、「いいな!」と思ったら、言葉は盗め(ここ重要)。そして自分のモノにしろ。

盗んだ言葉はすぐ使えない。自分のモノにするために、まずストックを自分の「外側」から探す。言葉にはエピソードを付けろ。エピソードは「盛れ」。嘘をついてはいけないが、ホントのことを言わなくてもいい。盗むべき言葉は、相手に刺さる言葉だ(自己満足禁止)。どこから「探す」か、どこまで「盛る」か、何が「刺さる」か、その機微も書いた。

そして、面接担当に向けた実弾に仕立てて欲しい。あなたが悩んでいる問題は、先人が悩んできたものであり、その傾向と対策も揃っている。就職後も役立つやつばかりなので、末永く使い倒して欲しい。

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1巻完結ラノベの傑作『MONUMENT あるいは自分自身の怪物』

 妻が珍しく薦めてきたのがこれ。

Monument

物語・構成・キャラ、どれも素晴らしい

 妻は、わたしの3倍くらい読むのだが、小説は、不思議なほどに被らない。お互い好き勝手に読み散らかし、海外、国内、ジャンルも選り好みしないものの、同じ一冊にたどり着いていた、ということはあまりない。それだけ小説という世界が豊穣なのか、夫婦ともども先鋭的に選書してるのかは、ご想像にお任せする。

 そして、ごくたま~に、「これ、面白かったよ。あんたにも合いそう」というのが出てくる。長い付き合いだから、お互いの趣味嗜好は分かりすぎるほど分かっているから、面白さは保証されている。他の人はいざ知らず、少なくともわたしにとっては間違いないことは分かっている。「騙されたと思って読んでみ?」なんて駆け引きなしで読む。

 結論:面白かった! なんでこれが1巻完結なの!?

 そう、巧妙な伏線&物語構成、ストライクゾーンど真ん中のキャラクターによる、「物語を純粋に楽しむこと」と、もう古典名作と言っていい小説や映画を、上手くまぶした会話や描写による、「読み手の経験に呼応する面白さ」が、絶妙に混ざっている。この面白さ、もっと長く味わっていたいと思うものの、1巻で完璧に終わらせている。

 これ、やりようによっては、もっと長引かせることもできたはず。特殊能力を持つイケメン主人公(中身は暗い過去を持つゲス野郎)が、巨額の報酬に釣られ、魔法学校に潜入するために下工作をするのだが、完全にナナメ上の展開になるところで、丸々1巻を費やしてもいいはず。

 そして、魔法が組み込まれた「この世界」―――読み手であるわたしたちが住む歴史に、魔法という概念が併設された世界―――この説明の語りだけでも、優に1章使ってもいいのに、エピグラフでさらりと触れているだけ。

人類が火を熾すよりも先に、発火の魔術に目覚めた世界。
あらゆる理論や法則に、応用として個人の魔力資質の差異が組み込まれている世界。
ソクラテスもプラトンも、ベートーヴェンもモーツァルトも、フロイトもユングも、ヒトラーもスターリンも、手塚治虫も藤子・F・不二雄も存在していたけれど、魔法がある世界。

不思議な力が存在しても、結局は似たような歴史を歩んできた世界の物語。

 あまりにもさり気なく書いてあるので、魔法の位置づけだとか、魔法という法則に基づいた社会制度や規格、物理的制約などの説明が、軽く扱われた気になる。だって主人公やヒロインの能力、実質的に無双じゃないか! 「この世界」は、読み手であるわたしの世界とずいぶん違うのに、まるで同じ様相に見える。ハードSFが(そのSF内で通用する)科学的厳密さを追求しているように、魔法的厳密さも書き込んで欲しいものよ。

 いや、これはライトノベルだから、そこは聞かないお約束でしょう。などと、いったんは納得したのだが、まさか、このエピグラフが伏線だとは思ってもみなかった。

 主人公(ゲス野郎)の暗い過去、進行する事件が牽引する「謎」、ヒロインが抱える苦悩、そして魔法的厳密さの不在―――これらが、MONUMENTと呼ばれる魔法遺跡の探索の果てに交わるとき、一挙に、一気に、タイトルとともに分かるようになっている。

 カタルシスとカタストロフが同時に味わえる。Amazonレビューでネタバレかましているので注意して。

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『戦争の世界史 大図鑑』はスゴ本

 古来、歴史とは戦史を指す。人類の歴史が始まって以来、人は常に戦ってきた。

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これはスゴ本

 古代から現代まで、戦争の歴史を俯瞰する本書を眺めていると、どの時代であれ、必ずどこかで戦争が行われていることが分かる。戦争がない世界の方が例外であり、戦争が人間の常態なのだ。

 本書は、記録に残っている各戦争の年月日に始まり、原因・経過・結果・影響を概説している。さらに、決戦が行われた場所の地図や戦術構成、兵力、戦闘技術、死傷者数といった基礎史料を網羅している。

 実はこれ、「大図鑑」の通り巨大な図鑑だったのだが、そのコンパクト版が出たのだ。巨大版は、重い! デカい! ハードカバー! なのだが、いかんせん持ち運びに不適だし、何よりも腰にクる重さである。今回のコンパクト版は、迫力はほぼそのままで、持って出かけられるくらいにまで軽くなっているのが嬉しい。

 本書が優れているのは、徹底的なビジュアルにこだわっている点にある。オールカラーで構成されており、の多彩な写真、絵画、地図、図解などを駆使して、多角的かつ斬新な視点から、戦争を捉えようとしている。ここは、巨大版、コンパクト版と変わらない。大きさだけを縮小し、中身は完全に同じなのである。

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大きさ比べ

 さらに、年代も場所も広範囲にわたって概説しているため、どんどんページをめくっていくことで、「いつ」「どこで」を取っ払って、「どのように」人は争ったのかに着目することができる。そして、時代を超えた視点から、全く別の時代の戦闘どうしの類似点やアイデアが浮き彫りになり、見るたびに発見がある。

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中はこんなカンジ

 たとえば、優れた将軍は、時代を超えた特質を備えていると指摘されている。チンギス・ハン率いるモンゴル騎馬軍と、1940年春にフランスに侵攻した装甲師団との間に類似性を見出し、機動力が戦闘と決する事例として紹介されている。

 あるいは、敵軍包囲という古来の戦法は、古代ローマの世界でも第2次世界大戦でも等しく奏功しているが、5千年分の戦略図を眺めていると、戦いとは畢竟「どのように敵を包むか」のせめぎあいであり騙し合いであることが見えてくる。

テクノロジーが戦争を変える

 テクノロジーが変えた戦争も興味深い(ここが一番面白い)。

 たとえば、古代ローマとカルタゴが争ったポエニ戦争。初期はカルタゴが制海権を握っており、陸戦が本業のローマ軍は、海戦での経験が圧倒的に不足していた。ローマ軍はコルウスという鉤の付いた乗船橋を開発し、カルタゴ軍のガレー船が近づくと、ローマ軍はコルウスを落とし甲板にめり込ませ、それを渡って軍団兵が大挙して乗り込んだのだ。

 つまり、船を操る海戦を、ローマ軍が最も得意とする陸上に変えてしまったのだ。この件は、『ローマ人の物語 ハンニバル編』(塩野七生、新潮文庫)で予習していたが、本書で指摘されているのは、軍の凄さだけでなく、ローマ人の工学技術と発明の才能である。

 小火器(火打石式銃からAK47まで)の変遷は、歩兵の役割の変化の歴史であることも分かる。銃はいわゆる「飛び道具」だから、弓兵のような立場だと考えていた。だが、銃器の精度や射程距離が伸びるまでの間は、弓兵よりも槍兵のような立ち位置であったことが分かる。

 つまり、遠距離(弓)と至近距離(サーベルや刀)の間にある、ミドルレンジを槍兵が担っていたのだ。16世紀の欧州が境目で、マスケット銃で武装した歩兵が増えるに従って、槍兵の占める割合が低下したという。

ブレイクスルーが戦争を変える

 同時に、銃器に対する防御効果がなくなったため、甲冑の人気が衰えていったのも興味深い。テクノロジーが装備を変えた例だろう。16世紀の伝記作家ルイ・ド・ラ・トレモイユは、「戦争でこのような武器が使われるとしたら、騎士が武器を扱う腕前や、強さ、不屈の精神、規律はもはや何の役にも立たない」と嘆いたが、21世紀のドローンによる遠隔攻撃について、同じ嘆きが繰り返されていないだろうか。

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ナポレオン時代の小火器

 また、弾丸の製造技術が戦術そのものを変えた例として、ミニエー弾が紹介されている。1850年頃、精密機械製造技術と大量生産技術の発達によりもたらされたブレイクスルーである。銃身内に腔線(らせん状の溝)が刻まれており、弾丸が旋回することで、射程も精度も飛躍的に向上したのだ。

 ここは、『銃の科学』(かのよしのり著、サイエンス・アイ新書)でも同じ指摘があった。ナポレオンの時代では、太鼓に合わせて行進し、敵の前で密集隊形を組んでいた。だが、そんなことをしていたら、格好の的になる。そのため、戦列を作って圧倒するのではなく、散開方式が中心になったのだ。古代のファランクス(重装歩兵による密集陣形)方式を消したのは、ミニエー弾を大量に製造する技術だったのである。

土木が戦争を変える

 長い目で見ると、要塞や大型船の変化を促したのは、火薬兵器の技術開発であることが分かる。陸上戦における顕著な変化は、大砲が積極的に導入されるようになった1500年代以降になる。すなわち、このあたりから、城塞の設計思想が変わったというのだ。

 古代から中世にかけては、背の高い石造りの城塞により、敵の侵入を阻んでいた。これが、近代になると城壁は低い土塁となり、敵からの砲弾を遮ることが目的となる。さらに、稜堡(突出部)を塁壁前面に突き出し、大砲などの発射兵器を配置し、敵がどの方向から接近してきても対処るように構造を変えたのだ。

 いわゆる星形要塞が代表的なもので、突き出た稜堡により互いの死角を失くし、さらに稜堡同士から同一の敵を狙うことで十字砲火を実現している。戦争が土木を変えたこの例は、『土木と文明』(合田良実、鹿島出版)で学んだ。土木から人類史を眺めたスゴ本なり。

写真が戦争を変える

 アメリカ南北戦争あたりから、戦争写真が増えてくる。それまでは、戦争は絵画により描かれ、伝えられてきたが、近代から写真による生々しい姿を目にすることができる。戦争写真家の草分け、マシュー・プレイディによる映像は、戦争をロマン視していた大衆に、戦争の現実を突きつけた。

 ゲティスバーグでは8千人が死亡し、戦場の至る所に死体が転がった。死体は夏の猛暑でたちまち膨れ上がったが、撤去には何週間もかかったという。その写真が、そのまま掲載されている。この写真は、当時の大衆の厭戦気分にも影響したという。

 また、ベトナム戦争に報道記者として付き従ったカメラマンの写真が、アメリカ人の厭戦気分を煽り、最終的に戦争の終結に向けた世論の後押しとなったという。人類の愚行の歴史ともいえる写真は、何度も撮影され、報道されており、『世界を変えた100日』(ニック・ヤップ、ナショナル・ジオグラフィック)で見ることができる。

 人類は忘れっぽい。ややもすると、こうした歴史が「なかった」ことにされてしまう。わたしが知らなかった、もしくは忘れていた戦争が、ここでは隈なく見ることができる。

戦争が「敵」を変える

 世界大戦により、「敵」の定義が変化したという指摘は鋭い。

 戦争の目的が資源の奪い合いである局地的なものであれば、攻撃対象は敵の兵士になる。ところが、近現代における総力戦は、国家の全資源が動員されることになる。一国の経済と民間人が、丸ごと戦争努力に総動員されれば、必然的に工場や民間人が軍事行動の標的となる。結果、第2次大戦では、民間の死亡者数が、軍人死亡者数を、はるかに上回ることになったのである。

 「戦争」という言葉は一つだが、それが指し示している行為は、技術、文化、宗教の背景とともに変化していることが分かる。仮に「戦争」を、「戦闘員同士の殺し合い」と見なすならば、第2次大戦の死亡者数で、軍人を上回った民間人は、「なかった」ことにされる。また、仮に「戦争」を、「人間同士の大規模な殺し合い」と見なすならば、異教徒は人にあらずと殲滅された人々は、戦争による死者数にカウントされない。

Sensou03

もちろん日本刀も

フィクション・ノンフィクションを繋げる資料として

 今まで読んできた本が、どんどん繋がってくるのが面白い。

 アレクサンドロスは有名だが、彼の死後、配下の将軍どうしで主導権争いの戦争が行われる。その戦争の主導者は、『ヒストリエ』(岩明均、講談社)にもう登場している。ゆっくりと物語の時間が進む『ヒストリエ』では、まだそこに至っていないため、一種のネタバレのように覗き見ることができる。

 また、『ガリア戦記』(カエサル、講談社学術文庫)が傑作であり第一級の史料であることは疑いないが、真実の中に利己的なプロパガンダも含まれている指摘もされている。

 さらに、デーン人のイングランド侵略におけるアシンドンの戦いでは、『ヴィンランド・サガ』(幸村誠、講談社)のクヌート王を、源平合戦の倶利伽羅峠の圧倒的な逆転攻勢では、古川日出男が翻訳した『平家物語』を思い出す。

 概観としての戦争の世界史なら、技芸としての戦争から、商業化・産業化された戦争までを語った『戦争の世界史』(ウイリアム・マクニール、中公文庫)や、『ヨーロッパ史における戦争』(マイケル・ハワード、中公文庫)に繋がる。これが現代になると、SFよりもSFな現実のルポルタージュ『ロボット兵士の戦争』(P.W.シンガー、NHK出版)になる。

「戦争の歴史」≒「人類の歴史」

 戦争は文明より古い。戦争の変化の歴史が、人類の歴史と、ぴったりと重なっている。人類の様々な創意工夫は、戦争によりきっかけを得、数多くのブレイクスルーにつながった。その変遷を本書でざっと見るだけでも、ブレイクスルーどうしの繋がり合いに目を見張るだろう。

 より深く人類を知るための一冊。

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山が好きだからといって善人とは限らない『闇冥』

 三大「〇〇好きに悪人はいない」のカウンターができた。

 犬好きに悪人はいない → 『冷たい熱帯魚』
 子好きに悪人はいない → 『IT』
 山好きに悪人はいない → 『闇冥』

 最初は、埼玉愛犬家連続殺人事件をベースにした映画。園子温・監督・脚本で、猟奇殺人事件に巻き込まれた男を描いたホラーだ。死体解体など凄惨なシーンもあり、R18+に指定されている。

 次は、殺人ピエロの異名を持つジョン・ゲイシーから想を得た小説。みんな大好きスティーヴン・キングの長編で、映画にもなっている(リメイクされたハイ! ジョージーが有名やな)。怖さなら小説を、おぞましさなら、実話のほうWikipedia[ジョン・ゲイシー]をお薦めする。

 最後は、今回お薦めの山岳ミステリアンソロジー。馳星周が選んだとあって、ノワールなやつから悲哀に満ちた作品までさまざま。ここでは、山岳ミステリの傑作とも言われる、松本清張「遭難」について紹介しよう。

 悪天候の鹿島槍ヶ岳で、三人のパーティーが遭難する。一人が死亡し、生還したメンバーがその顛末を手記の形で山岳雑誌に寄稿する。読者はいきなり、この手記と向き合うことになる。

 手記を書いた人は登山初心者だが、他の二人は経験者であり、装備も準備もしっかり整えたうえで山に臨んでいる。前夜から寝台列車を使うなど、疲れを残さないよう配慮し、きちんと休憩を取りながら、無理のないルートで登ってゆく。

 ところが、急激な天候の悪化やメンバーの体調不良により、だんだん追い込まれてゆく。悪いことは重なるもので、強行か撤退かの判断に迷ううちに、霧が出て方向を見失い、体温と体力を失う中で夜を迎える。リーダーが決死の覚悟で助けを求めるために地図なしで山小屋に向かうのだが―――

 この件の描写がたいへん秀逸で、最初は楽しい山行きが、だんだん怪しく不安になり、暴力的な風雨まじりで夜が圧しかかってくるシーンは、頭がおかしくなっても仕方ないと思えるほど。

 手記には特に不備もなく、「山では絶対に無理をしていない」といったありふれた教訓を残すのみでしめられている。結局これは遭難事故として扱われるのだが、この時点でまだ、小説の半分にも至っていない。

 そして、松本清張の本領が発揮されるのはここから。たいへん面白い。最初は何でもない話だったのに、だんだんと疑惑が深まり、最終的に確信へと至る。その核心の部分は、さまざまな伏線の形をとり、最後に全てが重なるようにできている。

 これ、単にミステリとして極上の面白さだけでなく、小説の構造に含ませた仕掛けとしてもよくできている。そして、いかにも松本清張らしい。さらに、ラストで読み手に考えることを突き付ける。

 善悪のことよりも、この続きだろう。わたしは、清張のある長編小説に繋がるなぁと思った瞬間、これは清張が築き上げた社会派ミステリのテーマでもあることに気づいた。曰く、「人が一番おそろしい」やね。

 他にも、遭難の背後に潜む闇を描いた作品や、山同様に運命の容赦のなさを描いたもの、意外な因果応報など、一筋縄ではいかない傑作ぞろいなり。収録作品は以下の通り。

 松本清張 遭難
 新田次郎 錆びたピッケル
 加藤 薫 遭難
 森村誠一 垂直の陥穽

 そうなんだ、人の怖ろしさは、全て人が抱える闇の中にあるもので、山は、それとは別個に存在する。いや、そうではない。むしろ、人のおぞましさ・浅ましさは、山という極限状態の場でこそ、赤裸々に暴かれてしまうと言う方がしっくりくる。

 「〇〇好きに悪人はいない」という言葉そのものに罠がある。〇〇と善悪は関係がなく、ただ人の闇に善悪があるだけなのだから。

Annmei

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苦しまないと死ねない国で、上手に楽に死ぬために『医者には絶対書けない幸せな死に方』

 生活や仕事の質を上げるテクニックが「ライフハック」なら、本書は、安らかに死ねるためのテクニックを集めた「デスハック」である。QOL(Quality Of Life)ならぬQOD(Quality Of Death)を向上させるノウハウ集やな。

Ishaniha

「平均寿命」-「健康寿命」≒ 10年

 日本人の8割は病院で死ぬが、病院では迎える死は「安らか」でない場合が多いという。なまじ延命治療技術が発達してしまったため、病院のベッドに何か月も縛り付けられたまま拷問のような状態で死に至る人が大勢いるらしい。

 WHOによると、「健康寿命」の定義は、「医療や介護に依存せず、自力で生活ができる期間」になる。日本人の平均寿命(2016)と並べると、こうなる。

  健康寿命/平均寿命
男  71歳 / 80歳
女  74歳 / 87歳

 つまり、死ぬ前に、男は10年、女は12年程度、医療や介護のお世話になる期間があることが見込まれる。そして、他人のお世話にならないと生きていけない10年をどうとらえるかが、死に方・死に時を考える入口となる。

 その10年は、誰かにオムツを替えてもらう10年か、恍惚の人となり家族に見放される10年か、ベッドに縛り付けられて「やめてくれ」と意思表示もままならない10年か、あるいはその全てか、さまざまな可能性に満ちている。

 現役の高齢者になると、ピンコロを願うという。ピンコロとは、直前までピンピンしており、ある日、苦しむことなくコロリと死ぬ「ピンピンコロリ」の略である。「ぽっくり逝く」の現代版みたいだが、節子、それ突然死や。お別れも未練もなく断ち切られる人生である。良し悪しともかく、そういう死に方ができる人は5%だという。

「できる限りのことをしてください」

 本書によると、自然死というのは、一種の餓死になる。老衰や病気で身体機能が落ちてくると、人は自然とものを食べなくなり、枯れるように死んでいく。理想的な死の一つだが、病院ではなかなかそうさせてくれない。

 なぜか?

 まず、病院側の事情がある。病院に担ぎ込まれたのであれば、治療せねばならぬ。自力で飲食できなくても、チューブにつながれ、無理やりにでも水分や栄養分を補給する必要がある。そして、家族が「できるだけのことをしてあげてください」と言うならば、できる限りの治療を施すことになる。

 そして、人工呼吸や胃ろうなど、延命治療を始めたならば、それをやめるのは難しい。訴訟リスクがあるからだ。本人が、文字通り「必死に」なって、家に帰る、死なせてくれと訴えても、家族や周りの人が、最後まで頑張って、可能な限りの治療をと言うならば、医師は後者に従ってしまう。

 家で死にたい親と、家で死なせたくない家族。この状態になると、いつ死ぬかは分からない。延命技術は日々進展しており、「死なせないため」なら、本人の意思はともかく、寝たきりの状態をできるだけ長く続けることができるから。

 結果、死亡前1年間にかかる1人あたり医療費は膨れ上がり、平均でも300万円弱かかっているという。手厚い延命治療を施した場合、1,100万円になる。「終末医療をカネで測るのは筋悪」という議論があるが、事実だけは確認したい。

300万の出典は、(本書によると)以下の通り。『高齢者の医療の~』を参照してみよう。
『高齢者の医療の確保に関する法律の解説』土佐和男・法研2008年
「終末医療の動向」日本医師会雑誌113巻12号
「東京都老人医療センターにおける終末医療費の解析」[参考]

1,100万は、『医師の一分』で見かけた。出典を確かめてみよう。

「良い死」とは

 ではどうすれば「良い死」を迎えられるか?

 これは、多くの人の死を見てきた医師に聞くのが手っ取り早い。つまり、「自分なら」どんな終末期医療を望むか、と医師に尋ねるのである。[良い死、悪い死、普通の死]でも考察したが、「良い死」として医者がすすめる死に方は、当の医者が患者に施している方法と、全く異なる。つまり、医者は、自分にしてほしくない医療を、患者に対して行っているのだ。

  • ほぼ全員が事前指示書を所持
  • 大多数の医者は、心肺蘇生、透析、大手術、胃ろうを希望しなかった
  • 全員が鎮痛薬、麻酔薬を希望

 この技は、自分や家族について医師と相談する際にも使える。ある治療や処置を施すかどうかについて、医師から判断を求められたとき、「先生ご自身がこうなられたら、どういう処置を望みますか」と聞くのだ(家族の場合なら「先生のお母さまが~」と置き換えればよい)。

 また、事前指示書については、たとえば東京駅の近くの京橋公証役場で、「尊厳死宣言公正証書」が作成できる(1万1千円とのこと)。証書を作るだけでなく、延命措置を打ち切る医師のリスクを下げる方法について聞いてみよう(この情報、週刊ポストで知ったのだが、時代だな……)。

 あるいは、本書によると、少なからずの医師が、「死ぬなら癌がいい」と公言しているという。理由としては、余命宣告されてから死ぬまでに動ける時間があること、残務整理やお世話になった人へのお礼の言葉を伝えられることが挙げられる。

 しかし、これは表向きで、一番は「確実に死ねる」ことにある。ある年齢以上になった場合、一年ぐらいで確実に死ねる死は、実は歓迎するべきものなのでは―――という意見もある(丸山理一「死について」日本医事新報1991年1月26日号)。これを書いた丸山医師は、自分で胃がんを診断してから「治療はしない」と決断し、9か月後に亡くなったという。63歳だった。

 死に方について、医療関係者や宗教関係者によって書かれる本は多い。だが、本書はどちらの立場でもない。認知症になった親の介護に苦労して、金も時間も使い果たした末に掴んだ介護保険や介護施設の裏事情が書いてある。

 生々しい話や、壮絶なものもある。「お金はないが、楽な死に方としての凍死」も提案されている。カネがあれば幸せな死が迎えられるかというと、そうでもない。社会が変わるのに時間がかかる。その前に、わたしの死がやってくるだろう。願わくば安らかな最期だが、願うだけでなく、できる準備はしておく。

 最後は……どうか、幸せな記憶を。

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