SF読書会『ソラリス』×『ランドスケープと夏の定理』に参加したら読みたい本が激増した件について
SFをこじらせると哲学になる。
未来思想研究会の読書会に参加したら、おそろしく楽しかったので以下にまとめる。レジュメや板書は、[第22回読書会 テーマ:知性 『ランドスケープと夏の定理』高島雄哉×『ソラリス』スタニスワフ・レム]をどうぞ。開催された双子のライオン堂のブックセレクトが魅力的すぎて財布を守るのが大変だった(ここでオフ会したいですな!)。
『ソラリス』と『ランドスケープ』の違い
『ソラリス』と『ランドスケープ』、違いを一言であらわすなら、「知性は多様か一様か」になる。「理解できない知性がある/知性は最終的に普遍性をもつ」と言い換えてもいい。わたしは、「知性に普遍性がある」というブッ飛んだ発想をボコるべく参加した。
まずソラリス。惑星の全域を覆っている知性を持つと思われる海と、その調査に訪れた人を描いた作品だ。傑作の誉れ高く、オールタイムSFベストに挙げる人も多い。いっぽうタルコフスキー監督によって映画化されたほうは、レム自身が腐したこともあり批判する人も多い。それぞれ良いと思っていたが、「映画のほうがいい」という意見があり、理由が面白かった。曰く「”現実かソラリスか”の2分法ではないということが明らかになるラストがいい」という。
そしてランドスケープ。世界や物理法則が共通である以上、あらゆる知性は共通的に収束するという「知性定理」がキーとなる。この「知性定理」を編み出した主人公を語り手に、天才科学者の姉が宇宙規模の途方もない実験をする。やたら説明的な語り口で、情感やエモーションが薄味なのも、小説というよりもむしろアニメのプロットみたいという指摘あり。
どちらも哲学的なテーマを抜き出すと、全てを説明し尽くさない(説明できない)前提で、「人には理解できない知性が存在する」とするソラリスと、全ては理屈で説明できる楽観的な「知性を加速させることであらゆる知性は理解可能」とするランドスケープの違いは対照的なり。ソラリスをファンタジー寄りとするなら、ランドスケープは厳密に科学的考証された円城塔『Self‐Reference ENGINE』になるという。なにそれ気になる。嫁様の書架にあるはずなので、こっそり手に取ってみよう。
理解不能の他者をどう描くか
注目すべきポイントとして、「理解不能の他者」をどう描くか(あるいは全く描かないか)という論点が指摘された。なんだかよく分からないけれど、凄い存在であることを、どうやって伝えるか? 上手いやり方は、気配や周辺情報だけを仄めかし、本体は「見せない」ことだ(あえてやっちゃったのが『正解するカド』だという意見あり)。
ランドスケープの「理論の駕籠」は、この「見せつつ見せない」成功しているといえる。ありとあらゆる理論を命題群の形でマップした空間で、人が作り出し、あるいは見出した理論の繋がり合いをビジュアライズしたものだ。サッカースタジアムぐらいのサイズで、遠目には巨大な編みカゴのような外見なので、理論の駕籠というのである。人の知性がどのように発展するかの詳細に触れずに、その外見の巨大さでもって凄さを上手く表現している。
「理解不能の他者」について、稲葉振一郎さんが興味深い書籍を紹介する(稲葉さんは社会倫理学を専門とする明治学院大学教授)。ともするとヒートアップしがちな場で、冷静かつ濃厚なお話を淡々と展開していただいたのはありがたい。持ってこられたのは、『見知らぬものと出会う』(木村大治/東京大学出版会)で、ファーストコンタクトにおけるコミュニケーションの成立条件を考察した小論集だ。これめっちゃ面白そう。目次からいくつか抜き出しておくので、刺さる人には奥深くまで行くはず。
- 宇宙人表象の歴史的変遷
- SETIにおける宇宙人
- 言語は認識を決定するか?
- シャノン-ベイトソンのパラドックス
- ファースト・コンタクトSFを読む(『エンダーのゲーム』『ソラリス』『戦闘妖精・雪風』等)
エスノメソドロジーからのアプローチ
そして、自分とは違う他者とのコミュニケーションを考える上で、鍵となる方法論として「エスノメソドロジー」を教えてもらう。エスノグラフィー? と思ったが違うものだった。わたしたちの日常生活は、暗黙の「あたりまえ」とする了解事項を元に成り立っているが、その了解事項がどのように「あたりまえ」として成立していったかを調べる方法論だと理解した。
エスノメソドロジーは、要素還元的に社会現象を説明する方法を乗り越えようとする試みのように見える。ソラリスの海から採取した原形質をいくら分析しても手がかりをつかめないのなら、「お客さん」との会話の中で了解事項を築き上げていこうとするのだろうか(といっても相手は〇〇なのだが……)。
知性とは何か
『ソラリス』と『ランドスケープ』を分析する上で重要な問いは、「知性とは何か」に収束する。理解不能の人知を超えた存在だが、何らかの理性を感じられる「海」と、どんなに異なる存在でも最終的に会話を成立させる「駕籠」を考えてゆくと、物理系や宇宙を超えた「知性」が定義できるのでは......というのは期待しすぎだろうか。
「海」の支離滅裂な振る舞いを老衰 or 幼年論で説明する一方で、「駕籠」は物理学・数学・言語で構成されるのであれば、それらを創れる存在を知性と呼んでも良いのでは? というツッコミが入る。
わたしの意見は「物理学・数学・言語は人の約束事の体系化したものに過ぎないから、そこで定義された知性は狭くなる(つまり、文字通り人知を超えたものは「知性」と呼べなくなる)」だ。
だから、レイコフ『数学の認知科学』で証明される「人は数学をメタファーで理解できる」ことは、そのまま「どんなに頑張っても人が理解できる(伝達できる)限界はメタファー」になる。雑な議論が嫌いなら、「メタファー=公理」にすればいい。そして、メタファーは人の身体・環境から延長された概念となる。
知性と知能の違い
「知性とは何か」の定義を上手く合わせられなかったので、議論があちこちに飛ぶ。
読書会なのだから(結論に向けて摺り合わせるわけでないのだから)、議論の飛び具合が楽しい。曰く、タコに知性があるかとか(実証実験あり)、BEATLESSのAIが作った「部屋」はどうだとか、知性の有無に意識の有無が必要かとか(ピーター・ワッツ『ブラインドサイト』がこのテーマらしい、これは読む!)。認知症が進んで対話が成り立たなくなったらそれは知性があるのかetc...
「数学ができる=計算ができる」のだから知性がある、というとき、ソラリスは数えることができるか? という問いになる人のマネをして、あたかも数えているように振舞うことはできるが、そこに「数えている」内面不要だよね(哲学ゾンビ)。
いっぽう、ソラリスは軌道「計算」をしていないが、軌道計算した結果に沿った軌道に自らを変えられるという指摘が出てくる。そしてそれは、人が軌道計算「せずに」ボールを最も遠くまで投げることができることと実質的に同じであるという。確かに。計算しなくても(計算による)最適解を導くことができるなら、知性に計算は必要条件ではないことになるね。
おそらく、知性と知能を一緒に考えたからのように思える。よく言われるのが、「問いを立てられるのが知性で、与えられた問いを解くのが知能」である。もしくは、「答えのある問題を解くのが知能、答えのない問題に取り組むのが知性」だね。「〇〇とは何か?」とか、仮説を立てるために必要な能力と、単に与えられた問題を解くための能力は違う、という議論だ。その意味で言うならば、「海」は知性の可能性があるし、「駕籠」は知能の集大成(カンペ?)になる。わたしの中での結論は、知性の埒外が『ソラリス』で、知性と知能は近似するのが『ランドスケープ』になる
「数学=約束事」の例
「数学とは約束事である」について異論が出ていたので、例としていくつか挙げた(どこまで受け入れられたかは分からないが)。
例1 : 以下は同じイコール(=)でも意味が異なるが、「そういう意味にする」ことを自明もしくは約束事として用いている。
- 2+3=5(プロセス:2に3を加えると5)
- 5=1+4(要素:5は1と4から成る)
- 4+1=2+3(関係性:4と1を加えたものと2と3を加えたものは同じ)
例2 : 「あたりまえ」と思っている数字の背後には身体性・環境性が横たわっている
- 「10進数」←人の両手の指の数が10本
- 「360度=円周」←1年の日数に近い約数(火星人なら680度)
- 「1(イチ)という数」←離散的な世界にいるから
したがって、ソラリスは「数える」ことができるかというと、「数えるフリはできる」になる。外見からは「海」の形態をしているので、連続的な存在になる。そこから(人が考える)数学が誕生するならば、連続的な数学からになる。もちろん「星」は見えるし、「ハリーという一個」は作れるから、離散的な存在と同じ振る舞いはできるだろう。だが、意味も分からずにやっており、ある数までは人と計算が合うという可能性は残る(ex.クワス算)。
人・モノ・それ以外
お金を払ってまでも聴きたいお話が稲葉さんからレクチャーされる(上手に質問していただいた東京猫さんありがとうございます!)。質問はずばり「AIは人にとって理解可能か?」になる。前提として、自律的に情報を収集・取捨・選択し、仮説の立案・検証・反映ができる、物理的身体を持ったAIが、近い未来にいるとするならば......で考える。
この、めちゃめちゃ難しい質問に、まじめに淡々と答える稲葉先生がカッコええ! (教え子の学生さんが羨ましい......)。曰くこんな感じ。
―――(AlphaGoとか)人を凌駕する知性を持つAIのニュースが流れる度に、その行き着く先として「人を超えた存在→神」のイメージが出てくる。これは、どうしても「人知を超えた(理解を超えた?)他者」を人格化してしまう思考パターンに陥っているから。さもなくば、「AIは道具(のちょっといいやつ)」にすぎないとする考え方。
これに反対する例としてスピノザの仕事(たぶん汎神論)が挙げられるが、それ故にスピノザは嫌われることになる。だが、AIの行く末を考えるのにスピノザを参考にしてみるといいかも。つまり、「人かモノのどちらか」のイメージで捉えるのではなく、人でもモノでも(擬人化されたモノでも)ない、第3の存在と見なす。
第3の存在は、個体として識別できない特徴を持つ。個性のあるなしというよりも、群として存在する。動物は個体が明確だが、植物・菌類は個体が明確ではない。他にも、法人、無形財産、遺伝情報などがある。
人・モノに対立する形でのサブカテゴリ―が必要なのではないか? 作者がなく、鑑賞の対象で、かつ、動き回る存在だ。本格的な芸術鑑賞の対象は、今のところないが、今後はありうると見たほうが良い。作者がいない、勝手に自分を生成する、いわば「野性の詩」ともいうべき人工知能芸術だ。
それを幻視する小説として、レム『虚数』のGOLEM による人類への講義とか、AIが文学作品を書き・批評する話がある。自律化・自己組織化がキーワードで飛浩隆『零號琴』がまさにそう―――
ホントはもっとあちこち言及されているのだが、メモが追い付かない。このあたりの話は、人でもモノでもない第3のカテゴリに入るヒントとしての『ソラリス』という観点で読み直したら、面白い発想が得られそうだ。
AIがどのように現実を理解しているか/できるか
稲葉さんのお話を伺っているうちに、三宅陽一郎さんの『人工知能の作り方』に思い当たる。ゲーム開発者である立場から、「面白いゲームはいかにして動くのか」というテーマで、「知能」について「認識」「身体性」「学習」「協調」の観点から考察する。
その中で、(ゲーム内の)現実をAIはどのように理解しているかを解説している。もちろんプログラミングされた「思考」であるにもかかわらず、人間くさい動きをする。それはランダム性を入れたルーチンかもしれないが、ゲーム内の人が動かすキャラクターからフィードバックを受け、自律的に学習するレベルまで至っている。哲学ゾンビの言葉を使わなければ、これは「知性」と言ってもいいのかもしれぬ。
他にも、領域を巡る縄張り争いによる現実の理解や、アフォーダンスモデル、信頼度を係数化することで自律的に「学習」するトピックなどが興味深い。稲葉先生の言う「第3のカテゴリ」に最も近いのは、ゲーム内AIなのかもしれぬ。
SFをこじらせると哲学になる
とにかくネタだらけ。イーガンの『シルトの梯子』『ディアスポラ』、タルコフスキー『ストーカー』、チャールズ・ストロスのシンギュラリティもの全部、諸星大二郎『生物都市』、伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』、津久井五月『コルヌトピア』等など、読みたい本、読むべき本を山ほどもらう。
その全てが指しているのが、「知性とは何か」への応答であることが興味深い。反対に、この問いを抱えつつ読む・再読するならば、また別の解が得られるかもしれない。
すさまじく面白いSF読書会でしたな。主催の@ohyatsuさん、ワクテカさん、参加された皆さま、ありがとうございました。濃い(濃すぎる)時間に感謝しております。
次回はスペースオペラ! ということで、八島游舷『天駆せよ法勝寺』が課題図書らしい。「めちゃめちゃ面白く、小難しくないやつ」だそうな。読んでみよう。
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コメント
おもしろそう!
ちなみに私は、知識についての天動説(人間中心主義)を捨てた方が、知識の科学(Sciences of knowledge)がよりシンプルに構成できて、シームレスに応用にも便利で、いろいろお得なのではないかと思ってます。
投稿: くるぶし(読書猿) | 2018.12.19 19:31
>>くるぶし(読書猿)さん
ほんそれなのですが、捨て方が分からず途方に暮れています。振り返ってみると、ウィトゲンシュタインあたりから、世界が言語で条件づけられているという影響を受け、それを自然科学にも適用しているからだと思います。
物理学も数学も、それを表現する言語(数式含む)が限界で、ひいてはそこが人の理解の範囲じゃないかな……と一人で線を引いてしまっています。
投稿: Dain | 2018.12.19 19:57
なるほど。その問い(あるいは謎)には、二通りの応じ方があると思います。すなわち、
・それは人間の限界であっても、言語の限界ではない。
・それは言語の限界であっても、人間の限界ではない。
後者の応じ方については、例えばウィトゲンシュタインは、論理哲学論考のあの結論を受けて、その向こう側についてこう述べます。
「すなわち、私が考え得るいかなる記述も私のいう絶対的価値の記述には役立たないばかりでなく、かりに誰かが提案することのできる有意義な記述があるとしたら、私はそのような記述はどれも、最初から、その有意義性を根拠にして拒否するであろう、ということであります。すなわち、このような無意味な表現は、私が未だ正しい表現を発見していないから無意味なのではなくて、それらの無意味さこそがほかならぬそれらの本質だからだ、ということが私には今やわかるのであります。なぜならば、それらの表現を使って私がしたいことはただ、世界を越えていくこと、そしてとりもなおさず有意義な言語を越えてゆくことにほかならないからであります。私の全傾向、そして私の信ずる所では、およそ倫理とか宗教について書きあるいは語ろうとしたすべての人の傾向は、言語の限界にさからって進むということでありました。このようにわれわれの獄舎の壁にさからって走るということは、まったく、そして絶対に望みのないことであります。倫理学が人生の究極の意味、絶対的善、絶対的に価値あるものについて何かを語ろうとする欲求から生ずるものである限り、それは科学ではあり得ません。それが語ることはいかなる意味においてもわれわれの知識を増やすものではありません。しかし、それは人間の精神に潜む傾向をしるした文書であり、私は個人的にはこの傾向に深く敬意を払わざるを得ませんし、また、生涯にわたって、私はそれをあざげるようなことはしないでしょう。」
(Wirrgenstein's Lecture on Ethics 1929.11.17)
投稿: くるぶし(読書猿) | 2018.12.20 02:29
①それは人間の限界であっても、言語の限界ではない。
②それは言語の限界であっても、人間の限界ではない。
どちらも詭弁じゃん! と最初は思ったのですが、まさにこの指摘は、わたしが陥っている思考ループの本質を言い当てています。
というのも、わたしの思考の出発点が、「人間同士が理解し合うためには言語が必要」だからです。「人間同士」と書きましたが、人と人という意味だけでなく、「わたし」が「世界」を理解するためにも言語が必要という意味も含まれています。つまり、自然現象を「わたしという人間」が分かる形にするためには、モデルや数式や用語等に、いったん置き換えるという操作が必要だと考えています(そのモデル・数式・用語等をひっくるめて言語と呼んでいます)。
その結果、どんなに科学が発達して、自然現象から何らかの法則を見いだしたとしても、「しょせん人が理解できる(言語化できる)範疇でしかない」と斜に構えて見ていました。この斜に構える動機として、「全ては科学(≒物理学)で説明できる」という考え方への反発があります。真の意味で人知を超えた存在があるとしたら、「人知を超えた」という定義上、人が知ることはできないと考えていました。「世界は、結局のところ、人に分かる範囲にしか分かりえない」といった姿勢は、ここから来ています。
しかし、これは「人間の限界」と「言語の限界」を一緒にしたがために起きています。
①については、言語を拡張する話や、言語の定義をもう一度検証する余地が見いだせます(SFは便利な仮説ツールで、例えば『零號琴』の音響彫刻をあてはめたくなります)。
②については、読書猿さん、教えていただき、ありがとうございます。『論考』の後に、こんなことを語っていたのですね。引用していただいた文を読んだとき、思わず「まじかー!」と声が出ました。言語を超えたところで人がどうあるのかを考えると、これは、かなり怖いことだと思います。それでも、勇気をもらった感じです。
どこまで自由になれるか分かりませんが、①②の可能性も頭に入れつつ、自縛しないように行きます。アドバイスありがとうございました。
投稿: Dain | 2018.12.20 21:18
「SFをこじらせると哲学になる」を受けて、①の方にぶっこむネタでなにか無いかとおもったのですが、矛盾許容論理Paraconsistent Logicというものがあります。
我々が思うまともな議論というのは、矛盾に突き当たれば「このやり方はダメだった」と引き返すのが当たり前になっています。というのも直観論理なども含めた古典論理では、矛盾からはあらゆることが導かれてしまう(この厄介な性質を「爆発律」と言ったりします)訳で、そんなものを許したら「なんでもあり」になってしまう。
しかし、かといって我々は矛盾やパラドックスから解放されたわけではない。哲学の難問は大抵はこれらに関わるものだし、我々の社会の法体系や我々が楽しむフィクション、そしてなによりソフトウェアも多くの場合矛盾を含んでいて完全に取り除くことは多分無理(だからといって、我々はそれらを放棄したりしない)。
爆発律は許容できないとしても、矛盾を「限界」として引き返したりしない論理は、上記に述べた実用性の他に、哲学的なご利益もある(勿論、副作用も)。
矛盾許容論理の研究者の一人であるグレアム・プリーストは、まさに今考えているテーマそのままのBeyond_the_Limits_of_Thoughtという本を書いていて、思考の限界を表現の限界、反復の限界、認識の限界、概念化の限界と4つに分けて、矛盾許容論理を武器に切り込んでいきます。まだ説明できるほど知ってないのですが「こじらせると哲学」を受けるには、もってこいと思って、ご紹介しました。
投稿: くるぶし(読書猿) | 2018.12.20 22:30
ありがとうございます! また積読山が高くなりますが、嬉しいです。
グレアム・プリーストといえば、一冊でわかるシリーズ『論理学』が、積読山のどこかに刺さっていたはず……ちょっと発掘してきます。プリーストのマイノング主義は、どこかで目にしたことがあります。「無いもの」について「有る」とする考え方はナンセンスやん、と投げ出していましたが、あらためて考えてみると、わたしたちが「有る」と考えているものは何か? から掘り下げていけそうですね。また、矛盾許容論理は ”Beyond the Limits of Thought” を目標にして、とっかかりを探します(英語2万語は最近サボりがちなので、ここで鞭を入れます!)
投稿: Dain | 2018.12.21 21:48