良い死、悪い死、普通の死 『現代の死に方』
死に方に良し悪しはあるのか? 本書の結論は「ある」になる。
上々の人生だったのに最悪の死に方をする人もいるし、悲惨な人生だったが最期は安らかだったという人もいる。総合病院の医者である著者は、さまざまな死を扱っているうちに、ある結論に達する。それは、「死に方を助言することは、生き方を助言するくらい難しい」である。
それにもかかわらず、本書を著した。理由は分かる、「悪い死に方」が多すぎるのだ。本書を手にしているあいだ、「あなたは、自分の死に方について、あまりにも楽観的すぎる考えを持っているのではないか?」と問われているように感じた。どういう風に死にたいかと、どういう風に死ねるかは、全く違う問題なのだ。
普通の死
「普通の死」と言われて思い浮かぶのは何だろう。
事故死や殺害されるようなものではなく、老衰か、病気か。苦痛は無いほうがいいし、できれば自宅で、家族に囲まれ、友人に別れを告げて、惜しまれながら、穏やかに最期を迎える―――だが、現実は違うという。それは「理想的な死」であると考えたほうがいい。
現代医学は、死を表層から遠ざけようとし、死の好ましくない部分の隠蔽に成功したが、まさにそのことが現代人にとっての死を空想じみたものにしているという。終末期にどのような医療を受けるか(または受けないか)を記したリビング・ウィルがあればと考えていたが、著者は先回りしてこう述べる。
事前指示書と合法の自殺幇助によって死ぬ時期と方法を自分で決められると思い込んでいると、結局は自滅することを読者に分かってもらいたい
現実の死
では現実の死とは何か。
長い慢性病の末に死ぬかもしれないし、慢性病は知力と意思疎通の力を奪うかもしれない。普段どおり動くこと(食事、着替え、トイレ)にも介助が必要な状態となる。自宅の可能性は少なく、ホスピスはさらに少ない。処置室などで知らない人間に囲まれるか、長い衰弱の後に死は突然訪れる。鎮静剤を与えられて苦痛はなく、意識もなく、家族や友人に別れを告げる機会はないかもしれない。食べる、飲むという楽しみは、遠い記憶となっている。
「良い死」を扱った本として、緩和ケア医が書いた「死ぬときに後悔すること」といった本は両断している。あれは、「一括りされた」死だという。あるいは、キューブラー・ロスの死の五段階(否認、怒り、取引、抑うつ、受容)が有名だが、五段階の反応を見せた人がいたことはないとバッサリ斬る。
「安楽死」や「尊厳死」はアテにならぬという。死にかかっている人はあまりに疲れ、消耗しており、「尊厳死」するほど「崇高」ではないという。生存本能は極めて強いため、元気なときは生きる価値がないと思った人生にしがみつくという可能性もある。「尊厳死」は、米国だと安楽死の婉曲表現になるし、英国だと自殺幇助の議論に出てくる。医者は、「良い死」の処方箋を書くとは限らないのだから。
悪い死
分かりやすい「悪い死」は、トルストイが書いている。『イワン・イリイチの死』だ。
イワン・イリイチは40代で、虚栄心が強く、裁判官として出世し、資産を蓄えて豊な生活を送ってきた。腹部に痛みを覚えて医者に見てもらうが、いろいろ診断してもらった結果、助からないことが判明する。
問題はここからだ。家族や医者は、この事実を隠そうとする。全員が全員、それはただの病気で、死ぬようなことはなく、医者の言うとおりにしていれば必ずよくなると嘘をつくのだ。しかし痛みは激しくなり、どうすることもできない。死が待っていることは分かっているのに、みな嘘を吐き通そうとし、イワン・イリイチ自身にも「助かる」という嘘を強要する。
嘘をつくのは「希望を失わせないため」善意からで、死が近い人間は芝居じみた虚偽の世界に住んでいる。その結果、「希望を失わせない」アリバイづくりのために無益な医療が押し付けられ、しなくてもいい苦痛を味わい、惨めな思いをしながら死んでゆく。
死の医療化
意識が混濁した本人に代わって、「手を尽くしてください」と訴える家族のプレッシャーに押され、濃厚医療を施し、人生の最後の最後になって、無理やり生かされている状態である。まさに、[苦しまないと、死ねない国]の話である。
著者はこれを、「死の医療化」と呼ぶ。人は生きて、死ぬ。これはあたりまえのことなのに、死に近くなればなるほど、本来は医療問題ではなかったことが、医療として扱われ、治療の対象となってくる。
たとえば本書では、「胃ろう」が問題として提示される。高齢者にひとくちひとくち食べさせるという、手間と時間とお金(労働力)のかかる方法よりも、胃までチューブを通し、直接栄養分を流し込む方が、ずっと楽だ。しかし、著者は終末期患者への胃ろうに反対を唱える。
胃ろうは衰弱した終末期の高齢者の食事問題の解決に魅力的に見えるが、誤嚥性肺炎、下痢、チューブからの漏れ、感染症などの慢性的問題のほかにも、方法そのものの危険が大きい。さらに重要な点は、食べるという人間のごく普通の行為を医療介入に任せ、その単純な楽しみを患者から奪ってしまうことだ。
そして、胃ろうで栄養を与えるのは、患者のためというよりも、むしろ家族と医者の感情的&経済的な問題を解決するためだという結論をぶっちゃける。医者の仕事は病気の治療なのに、社会から死を隠した結果、人生の扱いにくく解決不能なごたごたが押し付けられているという。著者はアイルランドの医者だが、同じ微妙な事情は日本でも同じだろう。
スーザン・ソンタグの「手におえない死」
わたしにとって本書の最大の収穫は、スーザン・ソンタグの癌のエピソードだ。『隠喩としての病い』を通じて、わたしが受け取ってきたことは、事実のある面だけを見ているに過ぎないことが分かった。
『隠喩としての病い』の中でソンタグは、病をとりまくテクストを読み解きながら、そこにひそむ権力とイデオロギー装置を解体する。病気は悪行への罰なりという先入観や、内的なものを劇化するための自己表現としての「病」を、ソンタグは次々と暴いてゆく。そこには実際の病ではなく、語り手から意味を付与され、喧伝されるための「隠喩としての病い」が白日の下にさらされる。
そして、人体におきる「出来事としての病い」は、ひとまず医学にまかせるとして、それと重なり合って苦しめる病の隠喩、すなわち言葉の暴力から解放してくれる。「がんは、ひとつの病気だ―――とても重大な病気ではあるにしても、ひとつの病気にすぎないのだ―――呪いでも罰でもない、そこに「意味」などないのだ」というメッセージが、くりかえし伝わってくる。癌に対する態度として、そこに「闘い」などの意味をつけないで、「ひとまず医学にまかせる」ことが素晴らしいと思っていた。
しかし、『現代の死に方』を読むと、ソンタグと癌の関係は、わたしが考えていたこととかなり違うことが分かった。
ソンタグは1970年代、1990年代と二度癌になり、大手術と先進の免疫療法を処方してもらい、癌を克服した結果、科学的医療に揺るぎない信頼を抱いたという。そのとき彼女は、「死ぬかもしれないとき、医者のあらゆる予見を無視し、大きな困難や危険をものともせずに生きていれば、そこに何らかの意味を付け加えないではいられません」と述べている。著者は、この頃の彼女の言動から、癌とは「闘う」もので、生は勝ち取るものだというメッセージを読み取る。
最後は骨髄癌になった。彼女の息子によると、最悪の知らせを理解したとき、ソンタグは悲鳴を上げたという。そして「医者のあらゆる予見を無視し」、幹細胞の移植、放射線療法、化学療法を施してもらう。71歳の高齢者に対する治療法としては、適切なものでなかったが、医療保険の支払いが拒否され、前払いで25万ドルが振り込まれた結果に実現した「治療」なのだ。
ソンタグ本人は死を見つめることさえも拒絶し、最後の最後まで医者をシャーマンとして信頼しており、著者に言わせると「手におえない死」だったという。そこに「何らかの意味を付け加えないでいられ」たかは分からないが、死を前にしては、名声も、財産も、知性も、品位も、何も役に立たないことは痛いほど分かる。
哲学で「良い死」を学べるか
著者は、『哲学者190人の死にかた』(サイモン・クリッチリー)を参考にしつつ、さまざまな哲学者や思想家の死を挙げてゆく。
セネカ、ゲーテ、モーム、トルストイは、死と終末に深い洞察がありながら、一般大衆のような死を迎えたという。一方で、ヒューム、ウィトゲンシュタインの死に際のような美徳の組み合わせはほとんど無かったという。そして結論として、「良い死」を遂げる哲学者もいれば、そうでない哲学者もいるから、哲学は「良い死」と関係ないという。
さらに、「哲学するとは、死にかたを学ぶこと」をエセーに掲げたモンテーニュの最期を考察する。彼は死を恐れないことについて多くの名言を残したが、人生の最後において、ベッドに横たわり、何日も苦しんで死んでいった。それは、彼が避けたかった死は、哲学的考察では防げなかったことであり、「死について参考になることは言っていない」と断ずる。
これはおかしい。哲学者の人選に恣意性があり、著者の底意地の悪さを感じる。ソクラテスの最期が外されている時点で、推して知るべしだろう。さらに、最後の数日間の苦しみだけに焦点を合わせ、それまでの省察を断ずるのはフェアじゃなかろう。
「哲学するとは、死にかたを学ぶこと」は、死ぬまでの数日間のふるまいについてだけはない。エセーでは、死を恐れることで、ちゃんと生きないことが問題だと言っているのに。
たとえば、以下の一節は、死を恐れるあまり、死につながるあらゆる可能性を心配するあまり、ひきこもりの人生を選ぶこともある。死に対する不安によって、「いま」から実際に死ぬまでの間を臆病に過ごすことは、もったいないことだよ、と理解している。
「実際、あれこれの危険や危難は、われわれを死という最期に、ほとんど近づけはしないのである」(モンテーニュ エセー 第19章 哲学することとは、死に方を学ぶこと)
哲学は、死ぬまでの数日間のためにだけるのではなく、学び始めたときから死ぬまでの全ての生のためにある、とわたしは信じる。死を学ぶことは、生を学ぶことなのだから。
医者がすすめる良い死に方
最近のAmazonのパワーワードとして、「医者がすすめる」がある。「医者が教える」でもいい。下の句は「健康法」とか「食事法」とか「ダイエット」など色々あり。そんなに医者を頼りにするなら、医者がすすめる死に方があってもいい。
では、医者がすすめる「良い死」とは何か?
そして、非常に興味深いことに、本書で「良い死」として医者がすすめる死に方は、当の医者が患者に施している方法と、全く異なる。すなわち、医者は、自分に対してやってほしくない医療を、患者に対して行っているのである。
医者の死に方は、ジョン・ホプキンス大学が2003年に実施した調査結果を見れば瞭然である。医者に対し、自分自身の終末医療に関し、なにを望むかについて調査したのである。まとめるとこうなる。
- ほぼ全員が事前指示書を所持
- 大多数の医者は、心肺蘇生、透析、大手術、胃ろうを希望しなかった
- 全員が鎮痛薬、麻酔薬を希望
カンサス州の病理学者エド・フリードランダーは、堂々と胸に「心肺蘇生はダメ」と入れ墨を入れいてるという。本書の著者は、医者として、積極的な安楽死には(個人的に惹かれつつも)反対を唱えているが、濃厚医療でムリヤリ「生かす」ことにも反対している。
生き方としての死に方
「長く生きる」のが目的ではない。「よく生きる」のが目的なのだ。そして死は、よく生きる生き方そのものなのであり、生き方の延長にある死に方を選べるようにありたい(選べるうちに、選びたい)。
『現代の死に方』を読みながら、2018年1月21日に、自裁死を実行した西部邁のことを考える。彼の「生き方としての死に方が、とくに家族とのかかわりをめぐって、正面から検討されはじめている」は、これから何度も考えることになるだろう。そして、健全で明朗で、平常心で自死した須原一秀のことも考えることになるだろう。
2018/12/28追記
note に重要な記事が上がっていたので、そこから引用する。引用元は「死ぬかもしれないから、言っておきたいこと。」、書いた人は幡野広志さんで、写真家で元狩猟家で、がん患者である。「生きる権利を、生きる義務にされてしまうと病気になったとき果たせないので、苦しくなる」というメッセージは、重要で、沢山の人に伝えたい。
患者が望む最後と、家族が望む最後は違う。患者は苦しみたくないが、家族は悲しみたくないのだ、意見が一致するわけない。そして医師が尊重するのは、家族が望む最後なのだ。野次に負けた妻が人工呼吸器を使って延命してほしいといったり、心臓マッサージを希望すれば、医師はやる。なぜ医師がそれをやるかというと、それが医師の望む最後だからだ。そして鎮静死、セデーションは医師の裁量で行うものなので患者が希望しようが関係ない。患者の意見が尊重されない仕組みになっている、それが日本の医療の現実だ。
生きる権利は誰にでもあり、保証されている。死ぬ権利を持つと、びっくりするほど生きやすくなる。生きる権利を、生きる義務にされてしまうと病気になったとき果たせないので、苦しくなるのだ。そして死ぬことは悪いことではない。死ぬことを悪いこととしていたら、人類全員バッドエンドだ。自分の望む死をハッピーエンドにして、目指しましょうよ。

| 固定リンク
コメント
ソンタグのエピソードは或る高僧が死を前にして「死ぬのは嫌じゃ、死ぬのは嫌じゃ」と言った話を想起させる。でもそれが「手に負えない死」だとは思わないけど。やたら人間臭くて。確かに生き残った側の人間の意気を阻喪するのは間違いないけど、死ぬ側にとってはどうでもいいことではないの、と。
「死」に関する一番の問題点はこういう本で論じられているような事では<なくて>、この、生き残る側と死ぬ側の完全なまでの(何が完全なのかわからないほどの完全さだが)非対称性にあると思うんだけども。
どうしても死は生の延長上でしか語れないんだなあ。これはむしろ「語る」ということの原理的限界ではあるが。
投稿: 青達 | 2018.12.24 11:10
>>青達さん
医者が書いた本なので、「手におえない死」の主語は医者になります。そして、死そのものも医療の範疇じゃないので押し付けてこないで! という本音が透けて見えます。
わたしたちが死について「語って」いる限り、生の側から見たもので、その限りでは、事例の多い人の意見を参考にしつつ、自分の準備を進めていこうかと思っています。
投稿: Dain | 2018.12.24 12:55
この時期に一般的タブーとされる死についての読書とは興味深い。まるで、正月の街中に杖に頭蓋骨をつけて「ご用心ご用心」と歩いた室町時代のとあるお坊さんのようです。
個人的には、死も痛みもそんなに選べるわけじゃないよ、という話は納得がいきます。
投稿: 茶釜 | 2018.12.25 23:06
>>茶釜さん
門松は冥途の旅の一里塚ともいいますからね。性夜いや聖夜であるこの時期だからこそ、死について考えることは有意義だと思います。もちろん死は選べませんが、強制的に生かされてしまうという、「生が選べない」ことに問題意識をもちながら、生きていく所存です。
投稿: Dain | 2018.12.26 19:01