知性に普遍性はあるか『ランドスケープと夏の定理』
「知性に普遍性がある」という発想がブッ飛んでいる。
■ 知性定理
つまり、世界や物理法則が共通である以上、知性の違いは表現の違いに過ぎず、遅かれ早かれ、あらゆる知性は普遍的なものになる、という理屈である。これは、いわゆる宇宙人に限った話でなく、動物やAIも含めた「知性」一般に言えるという。
荒唐無稽で、頭おかしい(誉めてる)。しかもこのSF理論でキッチリお話を描き切る力業がすごい。
この「知性定理」を編み出した「ぼく」を語り手に、天才科学者の姉が途方もない実験をするのが表題作になる。エヴァとイーガンを下地にエンデを混ぜたようなお話で、流行の量子力学・宇宙論に既視感ある展開がテンポよく進む。なつかしい未来を見させられているような感覚なり。
■ 知の理論地図=知性の見える化
圧巻なのは、ありとあらゆる理論を命題群の形でマップした空間である。巨大な野球場か、サッカースタジアムほどの大きさに理論地図が広がり、目を凝らすと、水滴のような形をした命題素が見えてくる。三段論法や真理値といった大小の概念が多彩に絡まり合い、一つの命題素が他の命題素と繋がり合い、拡散結合を繰り返している。
つまり、人が作り出し、あるいは見出した理論の繋がり合いをビジュアライズすることで、「人間の知性」そのものの構造を見える化しているのである。この理論地図を調べることで、疎の部分(命題素の絡まりが少ない、理論の空白箇所)や、密な部分(じゅうぶん理論化された箇所)が見えてくる。
そして、このような空白領域や、マップと「マップの外側」の境目は、まだ手付かずの知的領域になる。人が何に興味を抱き、どこに注目しており、目の届かない(あるいは見逃している)場所がどこなのか、一望できる。この考えは、ソートイ『知の果てへの旅』の[レビュー]で示したが、それをSFの中に織り込んでいるのが素晴らしい。
■ 数学の地図
数学の地図で考えると、山本貴光氏の「現代数学マップ」がある。これは、雑誌「考える人」(第45号 p.28)の特集「数学は美しいか」からの引用で、数学の世界を探索するにあたり、全体の見取り図となるものである。
ざっと見ただけでも、代数学と幾何学がシンメトリに並び、その橋渡しとなっているものが解析学で、それぞれを支えているのが論理学である構造が分かる。それぞれの具体的な命題は、数や図、極限と言語に分けられた形で表されていることが分かる。代数と解析から確率論、その先に統計学への途が開かれている。
さらに目を凝らすならば、マサチューセッツ工科大学のマックス・テグマーク教授のマインドマップのような世界が見えてくる(出典:[MAT365 Vector Calculus])。ラーニングマップなので、学ぶ順番を追うためのものと想定されるが、数論から数理物理学まで至る途上に、代数幾何学が幾層にも重なり合っていることが分かる。
数学に限って言うならば、人が最も注目してきたもの(密な箇所)は代数幾何学になる。これは、人類が始まって以来営まれている農作や移動に必須の天文学を支える理論だから、あたりまえといえばあたりまえかもしれぬ。
こうしたわたしの妄想を、数学に限らず、あらゆる知の領域、人類が生み出した理論の歴史を層ざらえしたレベルで展開してくる。実は、ここで紹介した「知性定理」は最初の段階で、次章・最終章ではさらに広がりと深まりが出てくる。ストーリー展開は見えていたが、この知性定理の風呂敷の広げ方は驚いた。ぜひ手にして楽しんで欲しい。
■ 知性を規定するもの
ただし、知性について、「ぼく」の一面的な理解にも苦しんだ。「ぼく」が無邪気に信じる「知性」とは、すべてカッコ書きで「人にとっての」が付け足される。そもそも数学は人にとっての知的営みであり、そこから離れて考えることはできない。
「ぼく」数学者なのだから、一度は考えたことがあるだろうが、人が10進数を使っている理由は、わたしたちの手の指が左右で10本であるからである。一周を360°とするのは、一年が365日であるから(360°は近似で約数が多いというのがポイントやね)。地球にいる「人」が太陽を観察して作り出した数字なのだ。つまり、数学は人と人が住まう環境によって規定されているのである。
いいやそれは違う。確かに10進数は一般的だが、2でも16でもn進数だってある。360°だけでなくラジアンの概念も生まれてきた。離散的なものだけれでなく、連続的な概念も扱うことができる......という意見もあるだろう。
もちろんその通りだ。しかし、「人」が一個の存在として「自分」を一つのものとみなし、2つの目や手、乳房や脚を持っているという離散的な存在であることが、数学を規定しているとも言える。
つまりこうだ、光も差さない深海で知性があるとして、環境としては圧力や温度しかないとするならば、そこでは「数を数える」数学は始まらない。人が離散的な数学から始めて、連続的な概念をも手なずけたとしても、それは2つのいずれかの概念を行き来する「人」にとっての数学である。理論が破綻しない限りで、離散か連続か、どちらか都合のよい方を選択的に手にしているにすぎない。
試みに、両方の特徴を併せもつ存在を一つのものとして扱うことができるだろうか? 離散と連続の両方が現れる存在、それは「光」だ。粒子としても波としてもふるまう光は、いずれかの特徴を捉えることはできても、両方を一緒に扱う理論は存在しない。
これを、「未だ存在しない」と言い逃れることはできる。そうかもしれないが、それは人が今の「人」のインタフェースであるのをやめてから、ずいぶん先の時代になると考える。それは、人が二足歩行するよりももっと抜本的な変化を遂げた後のことになるだろう。
知性は、それが寄って立つところの環境に依存する。そして、その進み方も環境の変化にも影響される。長い時間をかければ、究極的には同じ知性を共有するという考えは、今のサルを長い長い間放っておいたら言葉を用いて火を使い、ロケットを飛ばすようになると言っているのと同じである。
■ 知性の限界は、その主体
じゅうぶん長い時間をかけるなら、他の「知性」と対話することは可能だろう。だが、それは知性の普遍性を意味しない。あくまで、人に翻訳可能な、人にとっての知性という意味においてでしかない。
仮に「知性」を、なんらかの言葉で定義できたとしよう。たとえば、「ある状況(問題)について、得られた情報から整合的に理解し、合理的な行動(結論)を判断する能力」としてみる。なんならこれにいくつか付け足してもらってもいい。
しかし、そこに出てくる「理解」「判断」といった主体は、「人」であり、「整合的」「合理的」は誰にとっての整合性・合理性なのかを考えると、やはり「人」になる。
いいや、AIや動物の知性を俎上に載せるなら、主体は「人」には限らないよ。そういう声もあるが、AIが出した結果や、動物が採用した行動を、誰が、どのように評価するのかというと、そこにはやはり「人」が関わる。
行動主体はAIや動物だとしても、それが(行動主体が)「合理的」だとか、そもそも「判断をしている」と見なすのは、人でしかない。ナゾナゾ「誰もいないところで木が倒れたら音がするか?」を追求すると出てくる答えと同じである。
「ぼく」は知性の普遍性を信じ、なおかつ「人の」知性の優位性を信じる。あらゆる知的存在は、いまわたしたちが抱いている「人の知性」の途上ライン上におり、ひとつの総体として収束していくという考え方は、わたしの思考と大きく異なる。
だが、それが面白い。ストーリーよりも、この思考にめちゃめちゃ振り回された一冊。
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コメント
あ、この号の「考える人」買ったなあ。ちょっと引っ張り出そうっと。
投稿: 青達 | 2018.11.04 22:21
>>青達さん
「考える人」は時々ツボに刺さる特集を組んでくれるのでありがたいです。読み返すと、新たな発見が得られるところも嬉しいですね。
投稿: Dain | 2018.11.10 07:34