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「スポーツの哲学」のトークイベント行ってきた

 分析哲学の雑誌「フィルカル」のトークイベント見てきたので書く。

 池袋ジュンク堂という危険地帯の4階だった。なぜ危険かというと、お財布が大変な目に遭うからである。むかし[池袋ジュンク堂オフ]という恐れ知らずな会を敢行し、財布をサガミオリジナル級に薄くした経験を持つ身としては、戦々恐々の思いで乗り込んだ。


スポーツを哲学する

 トークは、倫理学者の長門裕介氏と、美学を専門とする松本大輝氏のお2人で行われた。予め用意したハンズアウトに沿ってそれぞれしゃべり、後は質疑応答という構成。1時間半だったが、「スポーツ」という広いテーマに加え、参加者が好き勝手に質問するので、時間が不足気味になった(とはいっても2時間越えは大変なので、このくらいが丁度かも)。

 「スポーツを哲学する」といっても、斬り口は様々。人間活動としてのスポーツの価値を分析するとか、勝利至上主義やドーピング、不正行為や八百長など、スポーツの倫理を調べるのも面白い。モータースポーツやAir Race、eスポーツといった例を挙げながら「そもそもスポーツとは何か?」を議論するのも楽しい。それぞれのネタで本が一冊書けるだろう。

 だから、2人はそれぞれ絞ってきた。

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「いい試合」を哲学する

 長門氏は「いい試合とは何か?」という視点から、主に倫理学の立場に則って、スポーツの価値や選手の卓越性、さらに勝利についての懐疑論を展開する。

 「あれはいい試合だった」と言うとき、人は何を誉めているのか? 身体パフォーマンスや判断力、タフネスといった要素に還元できるものか? 長門氏は「卓越性」という概念を持ち出し、「いい試合」を分析する。

 曰く、勝ち負けのハッキリしない現実社会とは異なり、スポーツでは明確な勝者が決まる稀な機会だ。勝者を決めるプロセスで、スポーツエリートの中でさらに抜きんでる卓越性を見ること、それが「いい試合」という評価につながる。


強いから勝つのか、勝ったから強いのか

 しかし、「勝者=卓越者」という構造には疑義を挟む。2018W杯の日本・ポーランド戦での時間稼ぎの「パス回し」や、1984ロスオリンピック柔道で、負傷した山下の右足を攻めず二位となったラシュワンを「立派な銀メダル」と評した話を引きながら、「勝った方が強い」とは限らないと指摘する。

 これらが「いい試合」ではないのは、卓越性を明らかにする機会がなかったからになる。つまり、「勝つことがすべて」ではないのだ。身体能力や判断力といった要素は、どちらが卓越者か予め決まっている。だが人の認識能力が不完全なため、実際に試合をすることで近似的に知るというのだ。

 ただし、各々の能力を総合した「強さ」なるものが先行して独立にあるというわけではなく、試合を通じて創造的に決定されるという見方もある。マラソンにおける心肺能力や脚力etcを、試合に先行して測定すれば、どの程度のタイムになるかは予想はつく。だが、それはマラソンの強さそのものではなく、「強さ」を可能にする素材にすぎない。その「強さ」が、実際の強さとして実現するかは、実際に走ってみないと分からないというわけ。

 これは裁判に例えると分かりやすい。過去の判例がいかに積みあがっており、証拠や論証はすでに揃っていたとしても、勝ち負けの精度は、実際に裁判をしてみて確かめるほかない。


「華麗なプレー」を哲学する

 いっぽう松本氏は「華麗なプレーとは何か?」という疑問を抱き、いくつかの思考実験を提示しながら、スポーツの美学を定義づけようとする。

 たとえば、フィギュアスケートの「華麗なプレー」はどこにあるのか? リズムやスピード、正確さやダイナミズムなど、選手の身体的動作の特徴が「華麗さ」を決定することは当然だ。だが、それだけだろうか? と畳みかける。

 そして、「ちょっと思考実験」と称して、フィギュアスケートの「競技」と「エキシビジョン」を比較する。前者は技や演出に制限がある採点方式の試合で、後者はそうした制限がない。そして、原理的には両者で全く同じ演技をすることは可能だ。では、もし「競技」と「エキシビジョンマッチ」で全く同じ演技をしたならば、それらは「華麗だ」と評価されるのだろうか?

 おそらく、同じ評価にはならない。同じ四回転ジャンプであっても、競技プログラムの制約の中で演じられる場合には、得点との兼ね合い、他選手との得点差も含めた戦略性といった文脈に応じた賞賛が出てくるという。

 つまり、勝敗や順位付けが存在する競技的なスポーツにおいて、そのプレーが「華麗だ」と見なされるか否かは、勝敗を決定するルールに影響される。でもそれはなぜ? を考えると、さらに面白い。

 松本氏は、スポーツの「遊戯性」と「組織性」に着眼する。プレーが実生活から切り離された活動としての「遊戯性」と、ルールが明示的に組織化されている「組織性」が、プレーの「華麗さ」を意味づけるというのである。


スポーツと決定論

 お話を伺っていて、決定論を絡めたら面白そうと感じた。「卓越性」や「華麗さ」は、試合が始まる前の個々の選手の能力やコンディション、試合する場所の状況により予め計算可能であって、ある程度の予想は立てられる(だから「オッズ」という発想が生まれる)。

 科学技術の発達により、この計算が限りなく厳密に実行できるとするならば、果たして人は試合をするのだろうか、あるいは観たがるのだろうか、という疑問である。結果が分かっているものを、わざわざやろうとするだろうか。

その数学が戦略を決める 「運」という名前をつけられがちな不合理要素は、不合理要素」をのパラメーターとして扱い、数をこなせば統計的に処理できる。既に将棋や囲碁がそうなっているし、イアン・エアーズ『その数学が戦略を決める』によると、ワインの値段や映画の興行成績も数学的に処理されている。

 回帰分析できるくらいデータが揃っているスポーツであれば、決定論的に語ることだって可能ではないか? 反対に、フォーミュラ・ドリフトやアイスクロスといった新しいスポーツが次々と生まれてくるのは、こうした決定論の引力から離れようとする試みだと考えると、面白くなるかも。


哲学が噛みつく

哲学がかみつく スポーツに哲学が噛みつく例として、マイケル・サンデルの「改造人間によるスポーツ否定説」を思い出す。彼は、健康や医療目的のための生命工学には賛成しているが、遺伝子療法による筋肉増強や記憶力などの能力向上は反対だという。

 なぜなら、天から授かった能力を育て表現する場としてのスポーツや競技をダメにする恐れがあるから。毎打席ホームランを打つ超人的な選手を作っても、最初はよくてもすぐに飽きるだろうし、代わりに凄いピッチャーを作ったとしても、それはロボットが戦っているようなもので、人の成績とはいえないという。

 これは、レギュレーションの線引きが微妙なり。風邪薬からステロイドまで、どこまでやったら選手の能力を向上させるか難しい。遺伝子医療は極端な例だが、プロテインもダメなのか。安全性と公平性が担保される限り、ぎりぎりまで努力するのが自然だろうし、そこに哲学の出番があるように見える(こうした噛みつく哲学は、『哲学がかみつく』の書評に書いた)


ネタバレの美学

 次回は、「ネタバレの美学」というお題で、11/23大妻女子大学でやるらしい。

 たのしみしてた映画や小説の結末をバラされたりしたら、腹が立つだろう。南極で初の殺人事件になりかけたというニュース「南極で初の殺人未遂事件 本のネタバレに激怒し同僚を刺す」が流れたが、げに恐ろしきはネタバレなり。

 いっぽう、ネタバレに拘らないどころか歓迎という人もいるらしい。「推理小説は結末を先に読んで犯人を確かめてからでないと安心して読めない」という話も聞いたことがある。

 この線引きは難しい。わたしも、本のツカミとして導入を語ったところ、「それはネタバレです!」とこっぴどく怒られたことがある。結末を伏せているから良いのではと思ったのだが、ネタバレラインは人それぞれなのかもしれぬ。

 「何がネタバレなのか」「なぜネタバレが許されないのか」「許されるネタバレとは何か」というお話が伺えるらしい。11/23(金・祝)午後、大妻女子大学でやるらしい。無料ということなので、ご興味のある方は、[公開ワークショップ「ネタバレの美学」11/23(金・祝)@大妻女子大学]をどうぞ(わたしは行きますぞい)。

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