物理学と数学で解ける問題と解けない問題の間に「時間」が存在する『予測不可能性、あるいは計算の魔』
天体の運動から粒子の振る舞いまで予測する科学は素晴らしい。学ぶ前は、無邪気にそう考えていた。
学ぶほど、物理学と数学は相性抜群であり、ガリレオの言う通り、自然は数学の言葉で書かれていることが分かる。だが、科学が発展することで、あらゆる現象が説明できるかというと、そうではない。それは、「まだ」未知であるだけでなく、どんなに科学が発達しても解決できない問題が、現時点でも明らかになっている。
「時」とは何か
その最たるものが「時」である。時とは何か? アウグスティヌスを用いだすまでもなく、「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない」なにかである。
数学と物理学をめぐる最適化問題を読み解いた『数学は最善世界の夢を見るか』のイーヴァル・エクランドが、数学と物理学で「時」を定義づけようと試みたのが本書になる。わたしの問題意識に真っ向勝負しているため、たいへん興味深く読んだ。
数学には「時」がない
なぜなら、数学とは、「時」を排除した学問領域だから。数学の定理や命題は時間と独立して存在しており、イコールが結ぶ両辺のそれぞれを”計算する時間”は無いものとみなされる。数学を用いて自然現象を説明したり(物理学との相性は抜群だ)、計算機で数学を扱おうとすると、現実世界の「時」が邪魔をする(誤差や定数として吸収することで解消させているのが現実だ)。
著者は、ケプラーからニュートンに至る天文学と数学の系譜を振り返りながら、数学の中で「時」がどのように扱われてきたかを紹介する。
そこで完成された道具は、微分方程式だ。微分方程式は、運動する物体の位置と、速度と、加速度のあいだの一瞬一瞬で成立する。
そして、「微分方程式が成り立つ」ことは、その時間的変化はすべて、現在の状態(微分方程式そのもの)に書き込まれている。つまり、現在の状態が分かっていれば、過去を再現することも、未来を予測することもできる。それを解く(積分する)とは、そこから動体の軌跡を明らかにすることになるのだから。
さらに、微分方程式は、決定論に影響を与えたともいえる。数学と物理学を学ぶ若者は、微分方程式を通じ、数学の定理のかたちで、過去と未来はすべて現在の一瞬に書き込まれていることを叩き込まれるからである。
曖昧な概念のため物議を醸しがちな「パラダイム」を、シンプルに「教科書」と名付けていいのなら、今を生きるわたしたち自身のパラダイムも、微分方程式という形で内面化されている。本書を読むことで、この「力」が働いているのが感じられる。
パラダイムという「先入観」
科学は、現象を記述する上では役に立つ。よく現象と合致し、理論化されているものが取り上げられ、教科書となり、繰り返し周知され、より現実的・客観的なものとして強化される。目障りな事実は黙過され、「なかった」ことにされる。
本書では、その面白い例として、天体の軌道が「等速円運動」であるイメージがいかに強固かを示す。アリストテレスの権威を背に、コペルニクスは、等速円運動が最も完全かつ自然で、したがって天体力学にふさわしい唯一の運動であることを強調したという。
一点が円周上を一定の速さで動いていくイメージは強固で、1400年ものあいだ何度も繰り返し強化されていくことで、それが「先入観」であることすら気づかれることはなかった。
ケプラーより前の天文学者はすべて、伝統的に受け継がれてきた先入観のため、問題そのものを見誤っていた。誰も「惑星の運動はどうすれば最もよく記述できるか」とは問わなかったのだ。教科書を疑ってみようなどとは、夢にも思わなかったというのである。
現代から見ると、これは昔の理論であり、その誤りは乗り越えられたという人がいる。科学は発達し、より「正しく」なっているという理屈だ。そして科学が発達していけば、いずれあらゆる自然現象が「正しく」説明できるという主張だ。
だが、その人は、自分が陥っている内面化の力に気付いていない。観測精度が上がり、より「現代の」固定観念に合致した値が得られるようになっているにすぎぬ。今の固定観念に沿った値だけが繰り返し記録され、再強化されているのだ。
科学では解けない問題=「なかった」ことにされている問題
本書では、天文力学における三体問題やベルヌーイ・シフトの例を挙げながら、黙過され「なかった」ことにされている問題を解説する。
三体問題とは、3つの天体が互いに万有引力を及ぼし合いながら行う運動を解く問題のことだ。2つの天体なら解けるが、3つの場合、特殊な例を除き、一般的には解けない。また、ベルヌーイ・シフトとは、カオスの振る舞いをグラフ化したものだ。決定論的なシステムの下から、法則性のない予測不可能な運動が導き出される。
直観では、インプットが規則的なら、アウトプットもそうなるように感じられる。だが、実際のところそうではないものがあるのだ。重要なのは、「そうではないもの」が、固定観念の再強化のサイクルから取り除かれている点だ。
著者は科学を批判したいわけではない。その限界がどこにあるのかを見極めるべきだと述べる。注意を促しているのは、科学の内面化の力に気づかないわれわれ自身に対してなのである。
理屈の上では、物理学の唯一の対象は宇宙全体である。唯一それだけが、物理学の法則を厳密に適用するために必要なすべての情報を含んでいるからだ。ところがこの宇宙―――厳密な科学のためには、その全体がもれなく細かく記述されなければならないこの宇宙―――は、実際には到達不可能だ。
そこでやむなく部分系を切り取り、個々の系に物理学の法則を適用する。たとえば、太陽系以外の恒星を無視して太陽系を研究するという具合に。これもまた射影であり、わたしたちは多少なりとも喜んでそうしている。つまり、意図的に情報の一部を断っているのだ。到達不可能な、唯一の現実を捨て、全体から切り取ってきた現象をとる。洞窟に入り、プロジェクターを設置し、スクリーンを眺めるのである。
わたしたちが眺めているスクリーンがどこにあるか。物理学と数学は、どこを「切り取って」いるのか。その判断の材料として、理論が人に与えた影響を振り返る一冊。
| 固定リンク
| コメント (5)
| トラックバック (0)
最近のコメント