世界文学全集の中の「日本文学」の割合は?
秋草俊一郎氏の「世界の中の日本文学」という講演を聞いてきた[概要]。ともするとアカデミックな古臭さがつきまとう「文学」を、新しい斬り口から見せてくれる、たいへん興味深い講演でしたな。同時に、とんでもない間違いを、わたしがしていたことに気づかされた。
■ 世界文学全集の必要性
そこに書かれている経験や感情を分かち合うことで、文学は、読み手の人生を増やす。一生を、二生にも三生にもしてくれる。ここが理解できないと、自分の経験だけを縁に、トライ&エラーのループに陥る。人生はオートセーブで、一回こっきりだけれども、「文学」がセーブポイントになる。
とはいえ、一人が一生に読める数は限られているし、星の数ある作品から何を読めばいいのか分からない。そういう悩める人のためにカノン(正典)はある、と考える。世界文学全集とは、世界の文学を編集したものであるだけでなく、文学の世界の入口にもなる。
たとえば、池澤夏樹=個人編集の文学全集が素晴らしい。英米仏の、いわゆるメジャーな文学だけでなく、ラテンアメリカや東欧といった(商業文学的には)マイナーな地域や、小説だけでなくルポルタージュや詩歌なども盛り込んでおり、まさに文学の入口にして展望台として使える。
■ 人生に役立つ文学全集
ところが、文学全集とは、もっと実用的な理由に支えられていたらしい。『ハーバードクラシックス』(全50巻、1909)の例を見ると、当時のアメリカ人の出世主義とヨーロッパ文化の歴史との結びつきを求める心性をガッチリと掴み、50万セットという驚異的な売り上げを誇ったという。
その特徴は第一巻に如実に現れる。ベンジャミン・フランクリンの自伝なのだ。高等教育は受けられなかったものの、独学でたたき上げ事業を成功させ、政治家であり外交官であり科学者であり著述家であり、合衆国建国の父の一人として100ドル札にその肖像が掲げられている(Self-made manというらしい)。『フランクリン自伝』は今でいう自己啓発書の先駆けやね。
「これを読めば教養が身について出世する」という極めてプラグマティックな考え方のもとに文学全集が編まれ、売られていたのを見るのは微笑ましい。ライフ誌の広告が残っており、「1日15分読むだけでモテる」(大意)とある。
■ 「ビル・ゲイツ絶賛」で売れる理由
この考え方は今でも脈々と続いており、企業人の読書会で名著を読むとか、「西洋の名著のアンソロジー」であるグレート・ブックス運動につながる。百の教授の支持よりも「ビル・ゲイツ絶賛」の効果が抜群なのには、ちゃんと理由がある。ビル・ゲイツこそが適切に評価できるというよりも、彼の Self-made man にあやかろうという動機が働いているのだ。
そして、まさにここが、わたしの間違っていたところだ。「大人の教養」とか謳い文句でWikipediaのコピペを売っているエセ教養人が言っていたことは、正しかったのである! こっそり読んで、エレベータートークでひけらかしたり、世間話に塗した知的マウンティングに使うのが、本来の教養の使い方だったんだね。[これが教養だ!]で大上段に振りかぶってた自分が恥ずかしい///。
■ 世界文学全集をメタに見る
講演の話に戻る。
そこでは、「世界文学全集」の一つ一つを取り上げるより、「世界文学全集」というフィルターから何が見えるか? という問いかけから、文学をメタに捉えようとしていた。
つまりこうだ。人一人が一生に読める数が限られているように、「世界文学全集」という枠に収めて出版できる数にも限りがある。さらに言うと、アメリカの大学のカリキュラムに採用される量に限度がある。
そこで、ある種の選別が行われる。
ヨーロッパ文明の伝統との結びつきを意識してもらう理由から、アジアやアフリカはバッサリ落ちる。最初は、アジア圏の作品としては『コーラン』『論語』『バガヴァッド・ギーター』しかなかったらしい。
さらに構成は、「ルネサンス前」「ルネサンス後」の二部構成となっており、選別者が、どのように「世界」を見ていたかよく分かる。それは、文学の普遍性を目指した全集というよりも、むしろ「アメリカの世界文学」と呼ぶべき偏重が透け見える
■ 「アメリカの世界文学」の中の日本
ところが、ある時期から日本の作品が入ってくる。これも、実用的な理由であり、その鍵は第2次世界大戦となる。敵対する文化を排除するのではなく、理解・攻略する目的で日本の研究が盛んになった。
そうした研究者であるエドワード・サイデンステッカーやドナルド・キーンが日本の作品を英訳して紹介することで、「アメリカの世界文学」の中に特権的な地位としての日本文学が確立されることになったという。
さらに、ポスコロやポリコレ補正で、この選別に女性や有色人種の作家が加わる。たいへん興味深いのは、日本人で最も数多く収録されている作家は、樋口一葉であるという指摘だ。世界文学全集としてはノートン版、ベッドフォード版、ロングマン版と3種類あるが、そのどれにも採用されている。
その理由としては、女性作家であることと、西洋の影響を受けていない作家であることが大きいという。雅文体と呼ばれる、一文が長く、流麗な文章で綴られている。同時代では漱石・鷗外が有名だが、「アメリカの世界文学」からすると、西洋のコピーに見えるらしい(漱石の評価が日米で違う理由は、ここにある)。漱石をやたら崇めて日本語の砦みたいに扱う作家がいるが、これ聞いたら発狂するだろうね。
■ 「アメリカの世界文学」における日本の割合は?
そんな「アメリカの世界文学」の中で、日本文学はどの程度の割合を占めるのだろう? 最新のノートン3版では、5%になるという。これが大きいのか小さいのかは各人に任せるとして、ラインナップがなかなかに面白い。
日本人作家では、谷崎潤一郎『陰影礼讃』や川端康成『伊豆の踊子』、芥川龍之介『藪の中』、大江健三郎『頭のいい「雨の木」』がある。いかにも現代日本の教科書にありそうな文学やね。
興味深いことに、久志富佐子『滅びゆく琉球女の手記』という短篇が出てくる。講演で初めて知ったのだが、この作家、後にも先にもこの一作しか出していない。なぜ、「アメリカの世界文学」はこれを選んだのか?
それは、本作品の時代性による。「沖縄✖貧困✖女性」という特性が、マイノリティ文学の教材として「教えやすい」ため採用されたのではないかという指摘は鋭い。各自で読んでその文学的価値をはかってみよという「宿題」が出たが、実際に読んでみたところ、創造性やオリジナリティや技巧に目立つものはなかった。
さらに、収録されている「釈明文」も併せると、今でいう「大炎上」していたようだ。当時の日本でかなり話題になっていたことも、選別者の目に留まるきっかけとなっていたのかもしれぬ。同様に、三島由紀夫『憂国』が採択されたのは、彼が市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を遂げたニュースが契機という指摘も鋭い。文学全集は、それが編まれた時代を映す鑑なのかもしれぬ。
■ フランスに「世界文学全集」はあるか?
このように、「世界文学全集に何が選ばれているか?」という目で見ると、その時代や国民性が炙り出されてくる。このメタ視点が楽しい。
たとえば、質問コーナーでわたしが、「日米ではなく、他国で”世界文学全集”というものはあるか?」と問うたところ、そういう「カノン」をありがたがる傾向が見られるのは、いわゆる(文化的)周辺国に多いという。
かつてドイツで”世界文学”が流行ったのは、フランスという「中心」に対する周辺という位置づけから読み解けるし、反対にフランスには世界文学全集は存在しない(だって自国が中心であり全てだから)。アメリカで世界文学全集が売れる理由として、ギリシャ・ローマ・ルネサンスへの羨望から解いても面白いし、日本の場合は欧米中心思想の延長で考えてもいい。
大事なポイントが抜けていたので追記。フランスに「世界文学全集」がない、という言い方はちょっと違っていて、もちろんフランスにも「叢書」はある。有名なのは「プレイヤード叢書」で、カノンもあるが、「世界文学全集」という言葉は使わないだけだという。フランス人にとってのバルザックやボードレール、サルトルこそが「カノン」であるのだから、わざわざ「世界文学」という冠をつける必要性がないというのだ(このパラグラフは、秋草先生のご指摘により追記、ご教示ありがとうございます!)。
■ 世界文学全集を覗くとき、世界文学全集もまたこちらを覗いているのだ
何をもって「世界文学」とするかを考えると、その全集からその人となりが見えてくる。ブリア・サヴァランの「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言い当ててみせよう」を思い出す。「どんな作品を世界文学全集に入れるか言ってみたまえ。君がどんな人かを言い当ててみせよう」やね。
たいへん面白くタメになる(そして積読山がさらに高くなる)講演をありがとうございました。
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