« 2018年9月 | トップページ | 2018年11月 »

世界文学全集の中の「日本文学」の割合は?

 秋草俊一郎氏の「世界の中の日本文学」という講演を聞いてきた[概要]。ともするとアカデミックな古臭さがつきまとう「文学」を、新しい斬り口から見せてくれる、たいへん興味深い講演でしたな。同時に、とんでもない間違いを、わたしがしていたことに気づかされた。

Sekaibungaku01


ノートン版の世界文学全集


■ 世界文学全集の必要性

 そこに書かれている経験や感情を分かち合うことで、文学は、読み手の人生を増やす。一生を、二生にも三生にもしてくれる。ここが理解できないと、自分の経験だけを縁に、トライ&エラーのループに陥る。人生はオートセーブで、一回こっきりだけれども、「文学」がセーブポイントになる。

 とはいえ、一人が一生に読める数は限られているし、星の数ある作品から何を読めばいいのか分からない。そういう悩める人のためにカノン(正典)はある、と考える。世界文学全集とは、世界の文学を編集したものであるだけでなく、文学の世界の入口にもなる。

 たとえば、池澤夏樹=個人編集の文学全集が素晴らしい。英米仏の、いわゆるメジャーな文学だけでなく、ラテンアメリカや東欧といった(商業文学的には)マイナーな地域や、小説だけでなくルポルタージュや詩歌なども盛り込んでおり、まさに文学の入口にして展望台として使える。


■ 人生に役立つ文学全集

 ところが、文学全集とは、もっと実用的な理由に支えられていたらしい。『ハーバードクラシックス』(全50巻、1909)の例を見ると、当時のアメリカ人の出世主義とヨーロッパ文化の歴史との結びつきを求める心性をガッチリと掴み、50万セットという驚異的な売り上げを誇ったという。

Sekaibungaku02


自己啓発本の元祖

 その特徴は第一巻に如実に現れる。ベンジャミン・フランクリンの自伝なのだ。高等教育は受けられなかったものの、独学でたたき上げ事業を成功させ、政治家であり外交官であり科学者であり著述家であり、合衆国建国の父の一人として100ドル札にその肖像が掲げられている(Self-made manというらしい)。『フランクリン自伝』は今でいう自己啓発書の先駆けやね。

 「これを読めば教養が身について出世する」という極めてプラグマティックな考え方のもとに文学全集が編まれ、売られていたのを見るのは微笑ましい。ライフ誌の広告が残っており、「1日15分読むだけでモテる」(大意)とある。

Harvard Classics Ad from Life


■ 「ビル・ゲイツ絶賛」で売れる理由

 この考え方は今でも脈々と続いており、企業人の読書会で名著を読むとか、「西洋の名著のアンソロジー」であるグレート・ブックス運動につながる。百の教授の支持よりも「ビル・ゲイツ絶賛」の効果が抜群なのには、ちゃんと理由がある。ビル・ゲイツこそが適切に評価できるというよりも、彼の Self-made man にあやかろうという動機が働いているのだ。

 そして、まさにここが、わたしの間違っていたところだ。「大人の教養」とか謳い文句でWikipediaのコピペを売っているエセ教養人が言っていたことは、正しかったのである! こっそり読んで、エレベータートークでひけらかしたり、世間話に塗した知的マウンティングに使うのが、本来の教養の使い方だったんだね。[これが教養だ!]で大上段に振りかぶってた自分が恥ずかしい///。


■ 世界文学全集をメタに見る

 講演の話に戻る。

 そこでは、「世界文学全集」の一つ一つを取り上げるより、「世界文学全集」というフィルターから何が見えるか? という問いかけから、文学をメタに捉えようとしていた。

 つまりこうだ。人一人が一生に読める数が限られているように、「世界文学全集」という枠に収めて出版できる数にも限りがある。さらに言うと、アメリカの大学のカリキュラムに採用される量に限度がある。

 そこで、ある種の選別が行われる。

 ヨーロッパ文明の伝統との結びつきを意識してもらう理由から、アジアやアフリカはバッサリ落ちる。最初は、アジア圏の作品としては『コーラン』『論語』『バガヴァッド・ギーター』しかなかったらしい。

 さらに構成は、「ルネサンス前」「ルネサンス後」の二部構成となっており、選別者が、どのように「世界」を見ていたかよく分かる。それは、文学の普遍性を目指した全集というよりも、むしろ「アメリカの世界文学」と呼ぶべき偏重が透け見える


■ 「アメリカの世界文学」の中の日本

 ところが、ある時期から日本の作品が入ってくる。これも、実用的な理由であり、その鍵は第2次世界大戦となる。敵対する文化を排除するのではなく、理解・攻略する目的で日本の研究が盛んになった。

 そうした研究者であるエドワード・サイデンステッカーやドナルド・キーンが日本の作品を英訳して紹介することで、「アメリカの世界文学」の中に特権的な地位としての日本文学が確立されることになったという。

 さらに、ポスコロやポリコレ補正で、この選別に女性や有色人種の作家が加わる。たいへん興味深いのは、日本人で最も数多く収録されている作家は、樋口一葉であるという指摘だ。世界文学全集としてはノートン版、ベッドフォード版、ロングマン版と3種類あるが、そのどれにも採用されている。

Sekaibungaku03


米国大学生の世界文学アンソロジー3傑

 その理由としては、女性作家であることと、西洋の影響を受けていない作家であることが大きいという。雅文体と呼ばれる、一文が長く、流麗な文章で綴られている。同時代では漱石・鷗外が有名だが、「アメリカの世界文学」からすると、西洋のコピーに見えるらしい(漱石の評価が日米で違う理由は、ここにある)。漱石をやたら崇めて日本語の砦みたいに扱う作家がいるが、これ聞いたら発狂するだろうね。


■ 「アメリカの世界文学」における日本の割合は?

 そんな「アメリカの世界文学」の中で、日本文学はどの程度の割合を占めるのだろう? 最新のノートン3版では、5%になるという。これが大きいのか小さいのかは各人に任せるとして、ラインナップがなかなかに面白い。

Sekaibungaku05


世界文学における日本文学の「シェア」

 日本人作家では、谷崎潤一郎『陰影礼讃』や川端康成『伊豆の踊子』、芥川龍之介『藪の中』、大江健三郎『頭のいい「雨の木」』がある。いかにも現代日本の教科書にありそうな文学やね。

 興味深いことに、久志富佐子『滅びゆく琉球女の手記』という短篇が出てくる。講演で初めて知ったのだが、この作家、後にも先にもこの一作しか出していない。なぜ、「アメリカの世界文学」はこれを選んだのか?

 それは、本作品の時代性による。「沖縄✖貧困✖女性」という特性が、マイノリティ文学の教材として「教えやすい」ため採用されたのではないかという指摘は鋭い。各自で読んでその文学的価値をはかってみよという「宿題」が出たが、実際に読んでみたところ、創造性やオリジナリティや技巧に目立つものはなかった。

 さらに、収録されている「釈明文」も併せると、今でいう「大炎上」していたようだ。当時の日本でかなり話題になっていたことも、選別者の目に留まるきっかけとなっていたのかもしれぬ。同様に、三島由紀夫『憂国』が採択されたのは、彼が市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を遂げたニュースが契機という指摘も鋭い。文学全集は、それが編まれた時代を映す鑑なのかもしれぬ。


■ フランスに「世界文学全集」はあるか?

 このように、「世界文学全集に何が選ばれているか?」という目で見ると、その時代や国民性が炙り出されてくる。このメタ視点が楽しい。

 たとえば、質問コーナーでわたしが、「日米ではなく、他国で”世界文学全集”というものはあるか?」と問うたところ、そういう「カノン」をありがたがる傾向が見られるのは、いわゆる(文化的)周辺国に多いという。

 かつてドイツで”世界文学”が流行ったのは、フランスという「中心」に対する周辺という位置づけから読み解けるし、反対にフランスには世界文学全集は存在しない(だって自国が中心であり全てだから)。アメリカで世界文学全集が売れる理由として、ギリシャ・ローマ・ルネサンスへの羨望から解いても面白いし、日本の場合は欧米中心思想の延長で考えてもいい。

Sekaibungaku04


各国別の「シェア」

 大事なポイントが抜けていたので追記。フランスに「世界文学全集」がない、という言い方はちょっと違っていて、もちろんフランスにも「叢書」はある。有名なのは「プレイヤード叢書」で、カノンもあるが、「世界文学全集」という言葉は使わないだけだという。フランス人にとってのバルザックやボードレール、サルトルこそが「カノン」であるのだから、わざわざ「世界文学」という冠をつける必要性がないというのだ(このパラグラフは、秋草先生のご指摘により追記、ご教示ありがとうございます!)。


■ 世界文学全集を覗くとき、世界文学全集もまたこちらを覗いているのだ

 何をもって「世界文学」とするかを考えると、その全集からその人となりが見えてくる。ブリア・サヴァランの「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言い当ててみせよう」を思い出す。「どんな作品を世界文学全集に入れるか言ってみたまえ。君がどんな人かを言い当ててみせよう」やね。

 たいへん面白くタメになる(そして積読山がさらに高くなる)講演をありがとうございました。

Sekaibungaku06

| | コメント (0) | トラックバック (0)

年収1000万のユーチューバーになる方法

 最初にネタばらしをしておくと、これブロガー向けに昔流行ったジョーク。お題は「年収1000万のブロガーになる方法」だった。

 1.投機でも会社勤めでもいいから年収1000万になる
 2.ブログを始める

 今これ、youtuber やね。我が家のテレビは、受信機というよりディスプレイとして使われており、最も長く流れているものから並べると、「Youtube >>> ゲーム(PS4、Switch) > 録画したアニメ > Amazon Prime >>> 超えられない壁 >>> めざましテレビ 」という順になる。

 しかも、テレビの画面だけでなく、スマホやタブレットからアクセスする動画の大半は Youtube になる。 今は「瀬戸康史のマイクラ」や「ゲームセンターCX 」「ゴー☆ジャスのアンダーテール」を家族で見てる。

 ちと古くて恐縮だが、ノリは「8時だョ!全員集合」「オレたちひょうきん族」を家族で見ている感じ。演(や)ってる人と、見てるこっちが、バカ真面目になって笑える。ホント、楽しんでるのが伝わってきて、一緒にハラハラドキドキしているうちに、ゲームやるようになっている。

 その影響力は絶大で、マイクラ、アンダーテール、パワプロ、ポケモン(緑)など、ここ最近やってるゲームの大部分は、ユーチューバーが案内人となっている。

 そんな中、わが子が「ユーチューバーに、俺はなる!」とか言い出したらどうしようかと思っていたら、そのものずばり『ユーチューバーになるには?』という本が出てきた。「マンガで分かるあこがれのお仕事」というシリーズなり。

 小学5年生の男の子と女の子を主人公に、Youtuber になるための具体的な方法やメリット、リスク、注意点、そして可能性を分かりやすく解説している。

 いいな、と思ったのは、Youtubeというメディアを使って、自分の「好き」を表現させようとしているところ。料理であれゲームであれ、まずオリジナルな「好き」があり、それをどうやって表現するかやってみようと促す。

 この手の本は、再生回数を増やすノウハウに走ったり、リスク回避の方法を長々と述べたりするのだが、もっと敷居を下げて、気軽に参加できるように紹介している。小5で顔出し世界発信はリスキーじゃね? と思ってたら、「最初は限定公開で」としているのもいい。

 リスクをあれこれ心配するよりも、まずはやってみよう。これ一冊で安心とは言えないけれど、とっかかりとしては良書だと思う。わが子がユーチューバーになりたいと言い出したら、これオススメしよう。

 ……なんて思っていたら、「あれ編集が大変なんだよ! ものすごい手間と時間をかけてるの!」とのこと。

Youtuber

| | コメント (0) | トラックバック (0)

死ぬとき幸せな人の7つの共通点と、死ぬときに後悔する10のこと

 『「死ぬとき幸福な人」に共通する7つのこと』を読んだ。末期がんなど、治る見込みのない患者の終末ケアをする医師が書いたものだ。「幸せに死ねるコツみたいなもの」は分かるし、その主張のほとんどには賛成だが、美談バイアスに陥っていることが気になる。

 まず、本書の主張。死ぬとき幸せな人の7つの共通点は以下の通り。

死ぬとき幸せな人の7つの共通点

  1. 自分で自分を否定しない
  2. いくつになっても、新しい一歩を踏み出す
  3. 家族や大切な人に、心からの愛情を示す
  4. 一期一会の出会いに感謝する
  5. 今、この瞬間を楽しむ★
  6. 大切なものを他人に委ねる勇気と覚悟を持つ
  7. 今日一日を大切に過ごす

 「終末ケア」として扱われる患者のほとんどは、病気がかなり進行している。身体の自由が利かなくなり、トイレや食事も自力でできない場合がある。仕事を生きがいにバリバリやってきた人ほど反動が激しく、無力感に囚われるという。

 そして、「人に迷惑をかけるくらいなら死ぬ」「役に立たないこの人生を早く終わらせたい」と願うようになる。競争社会を勝ち抜き、生産性に価値を認めてきた「今までの人生」が丸ごと否定されたように感じるからだろう。アイデンティティを失った患者は、最期まで自分や周囲を責める人もいるという。

 そうした患者の声に耳を傾け、寄り添うのが終末ケアになる。そしてセラピーなどを通じて自己肯定感を増し、周囲とのつながりのなかで心を開いてもらい、この世を去るまでの日々を穏やかに過ごすのを「幸せ」とする。

 上の7つは、そうした「幸せ」な患者に共通することだという。

幸せ=この瞬間を楽しむ

 これは同意。死ぬときに限らず、穏やかで前向きに生きていくために心がけたい。特に★「今、この瞬間を楽しむ」ことが重要だ。ブッダが言ったとされる、この言葉は死ぬまで使える。

過去にとらわれるな
未来を夢見るな
いまの、この瞬間に集中しろ

 そして、身体の自由が利かず、病の苦しみや死の不安に苛まれているとき、どうしたら「今を楽しむ」「今に集中する」ことができるか? この答えも著者に同意する。

 それは、「選ぶ」ことだ。たとえわずかな選択かもしれないが、自分が好むほうを選ぶこと、これが今を楽しみ、今に集中するためのコツである。

 たとえば、お昼に何を食べようか? 外食するか、自炊するか。和洋中のどれにするか。ご飯ものもいいけれど、やはり麺類がいい。二郎にするか、天一にするか。こってりにするか、あっさりにするか。

 そのときの気分や体調、元来の好みに合わせて、「いまのわたし」に近いほうを選ぶこと(選べること)、これが楽しむためのコツである。人生を生きるというのは、他らなぬ「わたし」の人生を生きることであり、その本質は、わたしの「好き」を選ぶことである。

 これは、ヴィクトール・フランクルの言葉にも通じる。ナチスの強制収容所の大量虐殺を生き抜いた言葉だ。丸刈り・個性の剥奪、強制労働、飢え、飢え、飢え、ガス室、「世界はもうない」という感覚の中で、どうやって生きることができたのか。

あらゆるものを奪われた人間に
残されたたった一つのもの、
それは与えられた運命に対して
自分の態度を選ぶ自由、
自分のあり方を決める自由である。

 健康を損なうと、「好きを選ぶ」幅が狭くなる。なにもかも奪われたとしても、「わたし」の感情を奪うことはできない。これは、アウシュヴィッツでもそうだし、人生最期のひとときも然り。誰か他人の人生でなく、強制された生でもなく、わたしの人生を生きるということは、わたしの態度、感情、「好き」を選ぶことなのだから。

「幸せ」を判断すること

 「穏やかで前向きに生きていくコツ」「今この瞬間を楽しむ」「人生とは選ぶこと」......ここまでは同意する。だが、著者が陥っているバイアスが見えるところに立つと、まるで違う結論が出てくる。

 著者はホスピス医であり、相手は重い病気で死期が近い人である。病苦に押しつぶされ自棄になり、感情的・攻撃的な人もいるだろう。そんな人に自尊心を取り戻し、穏やかに逝けるようにする。かつて宗教が担った役割であり、現在はセラピーが受け持つ担当である。

 その立場からすると、平穏さを取り戻した患者こそが「幸せ」な人になる。「病苦で身体の自由が利かない自分」「もう長くない自分」「人に迷惑をかける自分」を受け入れ、残された日々を平穏に過ごすことを望み、抗い変えようとする行為をあきらる。そんな患者を「幸せ」だと見なす。

 わたしは、これは傲慢だと考える。

 終末医療で最期を迎える人は、これからも増え続けるだろうが、その恩恵を受ける余裕がない人もいる。また、病苦を受け入れず、自分も変えたくないと願う人が、さまざまな抗い方で亡くなっている(自死含む)。後悔の最中で折れてしまう人もいる。そんな人たちへの視点が抜けている。

 そうした人は、その生き方を「選んだ」もしくは「選ばざるをえなかった」のであり、それは結果からすると平穏でも安らかでもない。だが、だからと言って、それを「幸せ」の範疇から外すのは、傲慢以外の何物でもない。幸せか、幸せでないかは、その人が決めることなのだから。

 この視線は、ある患者の評価に如実に現れる。遺産で遊び暮らし、家庭を顧みることなく生きてきた男が、肝臓がんで余命わずかと宣告された。とたんに家族も遊び仲間も一斉に離れたという。「医療スタッフに強気な姿勢を崩さず、最後まで心を開くことはなかった」と書いており、相当キツいこと言われたのかもしれぬ。

 だが、そんな彼を「心の奥底では孤独感と寂しさを抱えていたのではないか」と想像し、人生の最終段階で、人から見放されてしまうことが最大の不幸であり悲しみだと結論づける。大きなお世話である。

 この視線は、西部邁の入水自殺にも向けられる。西部の『保守の神髄』の次の一節を引き、これを批判する。

結論を先に言うと病院死を選びたくない、と強く考えている。おのれの生の最後を他人に命令されたり弄り回されたくないからだ。

 西部が(ほう助されながら)自殺したのは、自分の生も死も自分でコントロールしたいという強い気持ちがあったからだという。さらに、最後まで完璧な自分でいたい、人生の幕を自分で引きたいという人がこれからも増えてくるだろうと案じる。

 そして、人間は完璧存在ではなく、「立派な死」「潔い死」は、ほとんど存在しないと主張する。人生の最終段階で人の世話になったり、人に迷惑をかけたりするのは当たり前で、仕方のないことだという。

 病気だろうと健康だろうと、誰にも迷惑をかけずに生きることはできない。ただ生きているだけで、誰かしらの手を煩わせている。ただその程度の多少の問題である。だが、どうやって死ぬかについて口をはさむのは大きなお世話である。

後悔なしに死ぬ人はいない(生きる人も)

 もちろん、手厚いケアの中、安らぎと感謝に包まれながら死んでゆくのは理想だろう。だが、少なくともわたしは、絶対そうはならない。あれ読んでいない、これ食べてない、もっとセックスしたかったなど、後悔に包まれ毒と呪詛を吐きながら死んでゆくのは、火を見るよりも明らかだ。

 著者と同じく、看取り医をする人が書いた『死ぬときに後悔すること25』がある。終末医療を受けている患者に、「いま、後悔していることは何ですか」という残酷な質問を投げかけ、得られた答えをまとめたものである(レビューは「死ぬときに後悔すること」ベスト10)。

 ベストテン(ワーストテン?)はこれだ。

 第10位 健康を大切にしなかったこと
 第9位 感情に振り回された一生を過ごしたこと
 第8位 仕事ばかりだったこと
 第7位 子どもを育てなかったこと
 第6位 タバコを止めなかったこと
 第5位 行きたい場所に行かなかったこと
 第4位 自分のやりたいことをやらなかったこと
 第3位 自分の生きた証を残さなかったこと
 第2位 美味しいものを食べておかなかったこと
 第1位 愛する人に「ありがとう」と伝えなかったこと

 わたしが死ぬとき、第2位、4位、9位で激しく後悔するだろう。後悔のないように生きたいと願い、そう実行しているが、どんなに生きたとしても、必ず後悔するだろう。

 死を前にして後悔しない人はいないのに、安らぎと感謝の念をあらわにするのであれば、それは、かつての健康だった自分から、そうでない生活を受けいれた自分になったに過ぎない。さまざまなセラピーや緩和治療を通じて、「扱いやすい患者」に変化しただけである。

 医療スタッフに心を開かず、強気で扱いにくい患者のまま死んでいった人を、孤独だとか不幸扱いするのは残念に思う。「強気で扱いにくい患者」は、それまでの価値観や判断基準を変えないことを「選んだ」のであり、それはその人の生き方のだから。

死に方を選べ

 もういちど、「幸せ」に戻ろう。

 幸せとは何か。今この瞬間を楽しみ、集中することであり、そのためには自分の「好きを選ぶ」ことである。

 そして、同じ理由により、「死に方」も選びたい。

 生がそうであるように、死を選ぶ自由こそが幸福であると、わたしは考える。自分の意思がはっきりしているうちに、自分で選んだタイミングで、自分の生を終わらせる。これが、最高の自己実現だと考える。

 「心臓の鼓動を止めない」ことを至上目的とし、さまざまなチューブにつながれて、栄養と薬剤を注入され、排泄物は取り除かれ、身動きもとれず、朦朧とした意識で天井を見上げるだけの「残り時間」は、御免被る。

 これは、「他人に迷惑をかけたくないから」ではない。多かれ少なかれ、生きてるだけで迷惑をかけているのだから。また、「生産性のない人生は不毛」だからでもない。生産性至上主義者は寝たきりになったら何を思うのだろうと意地悪く思うのだが、わたしはむしろ生産性でしか測れない人生のほうが残念だと思うので。

 生き方を選べるのなら、死に方も選びたい。生き方も選べないのなら、どうか、死に方くらい選ばせてくれというのが本音である

 よく生きることは、よく死ぬこと。よい死にかたで、よい人生を。

Sinutokini


| | コメント (2) | トラックバック (0)

よいアニメで、よい人生を『人生を変えるアニメ』

 涙も笑いもときめきも、人生に必要な感情はアニメが教えてくれる。

 べつにドラマティックに変わらなくてもいい。『ゆるキャン』観てこの冬、キャンプデビューするのもありだし、『弱ペダ』でロード買っちゃうのも変化だ。ヘコんだ気分がOPだけでUPするのもアニメの力、人生をいい風に押してくれるのは有難い。

 『人生を変えるアニメ』には、そんなアニメが並んでいる。アニメ監督や声優、小説家、評論家などが、年代ジャンル問わず、本気でお勧めしてくるアニメガイドなり。

 本書は「14歳の世渡り術」シリーズの一冊で、中高生に向けて「知ることは、生き延びること」というメッセージ性が込められている。『風の谷のナウシカ』『母をたずねて三千里』といった古い作品から、現在放映中の最新作も入り混じっているので、わたしが読むと「あるある!」「見た見た!」「見たい見たい!」とうなづくばかりの読書となる。

この世界の片隅に

 たとえば、斎藤環氏がお薦めする『この世界の片隅に』。彼は、劇場で7回鑑賞したという。打ち間違いではなく、同じ映画を7回観たんだって。わたしも大好きで、[たくさんの人に観てほしい。できれば、大切な人と一緒に]と綴ったが、さすがに7回はすごい。

 同じ映画を7回も観ると何が起こるのか? 映画の内容が自分の記憶と入り混じり、作品の中に言い知れぬ懐かしさを覚えるようになるんだって。これすごくわかる。何度も何度も繰り返すことで、そのアニメの会話やシーンや感情、音楽、空気感までもが、自分の人生の記憶の一部になるんだよね。

3月のライオン

 怖いことを言ってくる人もいる。[読書猿]さんだ。「14歳」シリーズで、読者が中高生メインであることを想定して、「いつか嘘をつくあなたへ」というタイトルで『3月のライオン』を薦めてくる。

 劇中、主人公はある「嘘」をつく。それは絶望的な状況で、自分の居場所をつくるための嘘なのだが、その嘘が彼の人生を決定してしまう。その嘘をつき通すために、嘘を本当として努力し、嘘を守るようになる。確かにこのシーンにはぞっとしたが、読書猿さんは先回りする。

 そして、「あなた=『人生を変えるアニメ』の読者」も、生きるための嘘をつくことになると予告する。「意に添わぬ期待や約束を引き受けて、必死に世界と自分をつなぎとめる戦いに身を投じることになる」というのである。この件はドキッとした。これは予告だが、わたしにとっては事実だからである。

 わたし自身、完全に正直に生きることはできない。嘘と本当との折り合いをつけながら(ごまかしながらともいう)、あるところは糊塗し、別のところは密かに頑張ってつじつまを合わせ、なんとかやり過ごしてきた。

 読書猿さんのメッセージが、「14歳」に届くかどうか分からない。だが、これを読んだ14歳が、わたしくらいの歳になって『3月のライオン』を観たとき(読んだとき)、きっと思いだすだろう(自分の人生として)。

灰羽連盟

 三宅陽一郎氏にとっての『灰羽連盟』は、文字通り「人生を変えるアニメ」だった。その熱量は読んでるこっちにダイレクトに伝わってくる。彼は、ストーリーの完成度や独特の世界観を長々と述べるのではなく、自分の人生をどういう風に変えてしまったかについて語ることで、『灰羽連盟』の魅力を伝えようとしてくる(そして、その試みは大成功している)。

 物語の後半の、ある会話のシーンで、その3分に満たない時間で、「自分にとって何かたいせつなもの」が分かる決定的な瞬間が訪れたというのだ。それは、声優の演技や脚本や演出といったものを超えて届き、人生にとっての得難い価値・生きていく方向性のようなものが示唆されたように思えるほどだったという。これは観たい!

天元突破グレンラガン

 これは、わたしのお薦め。『人生を変えるアニメ』には無いが、わたしの人生をアツい方へ変えたアニメとして全力で推したい。

 これ、子どもを寝かしつけた深夜、嫁さんとイッキに観た。笑いと悲鳴と号泣がないまぜになって、座って観てたのが立っている。感情が、ボロボロに突き落とされて、掴み上げられて、想像のナナメ上どころか次元を突破される。ラジカルに、心のほとばしるままに観る。ヘコんだ鼓動がみるみるうちに上昇する(OPを聴いたら今でもそうなる)。このアニメのコンセプトであり、ゴールであり、わたしが伝えたい言葉はこれだ。

いいかシモン、忘れンな!

お前を信じろ!

俺が信じるお前じゃねぇ

お前が信じる俺でもねぇ

お前が信じる、お前を信じろ!

 あのとき寝かしつけられてた子が大きくなり、とーちゃんの視聴リストから一気に観てくれたのも嬉しい。「お前を信じろ」と、わたしが伝えずとも、アニメが伝えてくれるのだから。

 よいアニメで、よい人生を。

Jinseiwokaeruanime

| | コメント (2) | トラックバック (0)

『財政破綻後』という奇貨居くべし

 問題は、いつ起きるかではないし、どう回避するかでもない。起きることは必然で、そのときどんな打ち手が「いま」準備できているかだ。

  1. だれも財政破綻を気にしていない?
  2. 財政破綻とは何か
  3. 財政破綻の始まり
  4. 財政破綻後の日本
  5. 財政破綻後にやれること
  6. 切りやすいところから切る
  7. もしもゼロから作るなら
  8. 生きかたを選ぶ=死にかたを選ぶ
  9. 財政破綻という「奇貨」


1. だれも財政破綻を気にしていない?

 興味深いことに、Googleトレンドを見る限り、「財政破綻」を検索している人は過去最低ラインとなっている。問題が消え去ったわけでもなく、債務は積みあがっているにもかかわらず、財政はまだ詰んでいない。

 大きく2つの波がある。リーマン・ショックを発端とした2007年の世界金融危機と、ギリシャ経済破綻が大きく報道された2010年のユーロ危機だ。順番からすると次は日本か中国か。中国がコケて日本が無償で済むはずがない。

 そこで、財政破綻した「後」、日本がどうなっているか、どうすれば被害を最小限にできるのかを議論した、『財政破綻後』を読む。


2. 財政破綻とは何か

 本書が優れている点は、具体的なところ。

 政治家や官僚やマスコミは、口をそろえて「国民一人当たりの借金ガー」という明後日の方向か、「破綻させないための議論だから起きたときのことは議論すべきではない」といった無謬性のロジックを捏ねる(で、起きたら「想定外ガー」と来る)。

 だが本書は、政策立案者の観点から具体的に議論される。たとえば、「財政破綻とは何か」という定義から入る。

 最初は、投資家が日本国債を買わなくなるという事態だという。そんなことがあるだろうか? 外貨建てだと国債の償還ができなくなる→債務不履行(デフォルト)に陥るが、日本の場合は円建てが主なので、(日本銀行が買い支える限り)いくらでも借り換えができる。

 しかし、これは理論上の話であり、貨幣供給が過多となった状態で引き金(景気回復によるクラウディングアウト、首都直下型地震、他国の経済破綻による連鎖)によってインフレが止まらなくなった場合を想定する。インフレを抑えようと国債の買い入れを止めれば、国債価格が暴落(≒名目金利が高騰)することになる。

 ここまで想定した上で、あらためて「財政破綻とは、インフレ率または名目金利が高騰する状態」と定義する。具体的には、「緩やかな(2%以下の)インフレ率のもとで正常な(4%以下の)名目金利を維持できない状態」になる。そしてこれは、日本国債への信頼が失われればいつでも発生しうるという。


3. 財政破綻の始まり

 では、財政破綻の始まりは、どのように「見える」か? 

 わたしたちの目に触れるのは、「国債の未達」のニュースになる。未達とは、国債が売れ残る状況であり、その分、政府は資金を確保できなくなる。結果、社会保障の給付、地方自治体への補助金が滞ることになる。

 重要なのは、未達=財政破綻ではないこと。年金など特別会計にある積立金を充てることで当座はしのげるし、地方交付税の先送りで予算執行を抑制するといった手もあるという(ex : 2012.9閣議決定)。

 ただし、未達のショックで国債価格が下落すると話は別だ。国債を大量に保管する金融機関のバランスシートが大きく毀損し、中小金融機関から経営破綻、取引企業が資金調達できずに連鎖倒産に至る未来が待っている。


4. 財政破綻後の日本

 そして、社会保障の給付が滞ると、診療報酬・介護報酬の公費分が未収金となり、ほぼすべての病院が赤字となり、民間医療・介護団体を中心に倒産が続出するという(国公立病院は責任をとる制度が無いため、しばらくは赤字経営が続くが、時間の問題)。

 そのとき何が起こるかは、旧ソ連やギリシャの現実から学ぶことが多い。財政破綻で最も深刻な影響を受けたのは医療分野だという。

 ソ連が崩壊した際、透析医療がストップしたため2か月で人工透析患者のほとんどが死亡した。ギリシャでは国立病院の予算が半減し、医師、看護師、医療品が極端に不足し、まともな医療を受けるためには賄賂を使う必要が出ているという。

 本書では「国民の25%にあたる250万人が失業、無保険者になる」と留めているが、治安の悪化も深刻化していることは想像に難くない。日本がそうなるかどうかは神のみぞ知るが、経済規模の大きい分、さらに大きなインパクトが生じるだろう。

 未来予想図としては、2007年に人口1万3000人、380億円の借金を抱えて破綻した北海道夕張市が挙げられる。現在、国と北海道の管理の下、財政再建計画が実行されている。

 そこでは、職員は半減・給与30%カットされ、市立病院や小中学校は縮小・削減し、所得税、固定資産税、住民税は増税(軽自動車税は他の1.5倍)という状況だ。見切りをつけて引っ越しする人もいる。国の財政破綻とは、究極的には国民自身の生活の破綻なのだ。

 人口で見るなら、この1000倍が起きるのだ(ただし、引っ越し先は国外になる)。


5. 財政破綻後にやれること

 時間的余裕がないなかで、政府の選択肢は限られる。

 歳出の執行停止、先送りなど止血処置や、大幅な増税、大幅な歳出削減など、すでに何度も議論されており、未だ決着のつかない施策が挙げられる。本書は、対策を遅らせないよう、何を残し、何をカットするのかをあらかじめ決めておくこと(財政破綻のトリアージ)を提言する。

 守るべきものとして、必要最小限の防衛費、治安維持のための警察費、災害救助費
医療では、救急、周産期医療、透析、未来への投資として、義務教育、保育園を挙げる。

 そして、政府・議員がずっと目をそらし続けてきた、国家予算の30兆円を占める社会保障に手を付けざるを得なくなる。そのとき、何が起きるか?


6. 切りやすいところから切る

 おそらく、ヒステリックになった国民(の一部?)が、公務員の給料を減らせと言いだすだろうが、全部あわせても5兆円。もちろん、公務員や議員の給与・歳費カットもあるだろうが、実際の貢献よりも、「政府は本気だ」というシグナルとしてあげられる。

 そして、大増税と併せて「切りやすいところから切る」ロジックを予想する。すなわち、政治的弱者(若者、子育て世代)から切り捨てるロジックである。

 たとえば、東日本大震災時は、「子ども手当」がバラマキであると見なされ、歳出削減の対象として槍玉に挙げられた。バラマキは子ども手当に限ったことではなく、国から地方への補助金、医療・介護を含む社会保障サービス、公共事業にも残っていたが、なぜ子ども手当が狙い撃ちされたのか?

 本書では、純粋な政治力学が働いたという。子育て世代は(ニーズが分散するため)政治力が相対的に弱い。結果、医療や介護へのニーズに集約され票を多く持つ高齢者世代から見た、「切りやすいところ」になる。

 反対に、高齢者世代にとって不利益になるような年金・医療・介護に手を付けようとすると、猛反発を食らうことは必至である(高齢者世代を顧客とする新聞とテレビが音頭取ってキャンペーンを張るだろう)。「民意(いま生きている有権者)」の多数は誰かと考えれば、シルバー民主主義がまかり通る。ここでも老人栄えて国滅ぶ未来が待っている。


7. もしもゼロから作るなら

 これは、通常の民主主義で解決することができない。どうすればよいか? 

 本書では、仮想的な未来世代を代弁する組織をつくり、将来生まれてくる日本人の利益を代表する提言をしている。本書にはないが、一人一票ではなく、子どもの数だけ親が投票できる制度も検討されるべきだろう。ただし、これらもシルバー民主主義の「民意」に圧殺されることが予想される。

 そして、日本経済が焼け野原になった後、制度設計をゼロスタートするならばという前提で、それに向けた準備を提言する。これまで改革を阻んできた既得権益者たちが消えたという世界である。

 具体的にはこうだ。

  1. 医療・介護サービスの配給制
  2. 企業の組合健保を解散して都道府県単位で協会健保、国保と合併
  3. 患者負担割合を年齢に関係なく原則3割
  4. 国公立病院、大学附属病院を広域単位で強制合併

 そして、公的医療制度の二階建てを提言する。すなわち、有効性が認められた医療すべてを保険の給付対象とするのではなく、費用対効果を精査し、基本分(皆保障)+オプション化することで、給付と負担のバランスを段階的にするのだ。その上で、国民自身に「生き方(裏返せば死に方)」を選んでもらうのである。


8. 生きかたを選ぶ=死にかたを選ぶ

 つまりこうだ。ある年齢に達した時に、延命医療のレベルをどうするか、国民一人ひとりに選択させて、その後支払う保険料に差を設けるのである。

 死ぬ間際の数週間を、(どういう状態かは想像したくないが)最低限心臓だけを動かしている状態にするために行われる「医療」行為を、まだ元気なうちにするかしないか、選んでもらうのである。

 現在では、アリバイ作りのように湯水のごとく医療費が注ぎ込まれている(延命医療に生涯医療費の3割を注ぎ込んでいる例もあるという)。本書では医療費に焦点が当てられているが、[敬老の日なので、長生きについて考えて欲しい]を読むと、「長生き」とは単に長く生きることなのか? と疑問が湧き上がる。

 生きるのがままならないなら、せめて、死ぬときくらいは選ばせてほしい。マスコミにより、「安楽死」が酷く叩かれた時期があったが、死を選ぶというよりも、自分で生きるのが困難になったなら―――その基準は人によるだろう―――むりやり生かすのではなく、自然に任せてほしい。生あるものはみな死ぬのに、死ぬのがこれほど困難な時代にいる。これが変わるために、社会保障制度を焼け野原にしなくてもいいのでは、と思えてくる。


9. 財政破綻という「奇貨」

 ただし、完全なガラガラポンは難しいと考える。社会保障制度は、一部が崩れ、一部は形を変えたり輸血で生き残るのではないだろうか。

 つまりこうだ、年金基金などプールから汲みだしているものは、積立金を取り崩して生き永らえるだろうが、診療報酬・介護報酬のようなサイクルの中で回しているものは、破綻は輸血停止を意味し、民間医療・介護事業体は壊死する。

 そのため、完全な崩壊から大ナタを振るう形ではなく、弥縫的に(泥縄的に?)あっちを立てたり、こっちを変えたりツギハギしながら立ち上がろうとするだろう(前述の透析医療関連への保障は、最速で立法化が求められる)。

 そして、本書で提言されている制度の再建が達成されるとするなら、いま多数を占めている高齢者がいなくなる2050年頃となるだろう。いまの高齢者を変えるのは難しいが、これから高齢者になる人たちは、いまの高齢者を見ている。そこから学ぶのか、真似るのか、選ぶことができる。

 いつ起きるか・どう回避するかではなく、必ず起きる財政破綻を奇貨と居けるかどうかは、「いま」に懸かっている。

Zaiseihatanngo

| | コメント (14) | トラックバック (0)

人生を変える新書『はじめての新書』

 すばらしいブックリスト。無料で手に入るので、書店へ急げ。

 好奇心の入口であり、探究心の糧であり、分野を俯瞰する丘である新書は、多種多様多量に渡る。そんな中から、何を読めばよいか、どのように選べば良いか、コンパクトにまとまっている。ここでは、以下についてまとめてみよう。

 1. 本を探すだけでなく、人を探す
 2. 人生を変える新書
 3. 自分にぴったりの新書を探す方法(山本貴光流)
 4. 効率よく新書を読む技術(松岡正剛流)
 5. わたしのお薦め新書

Hajimetenosinsho


1. 本を探すだけでなく、人を探す

 重要なのは、「本」だけではない。作家、学者、編集者、著名人のなかでも名だたる読み巧者たちが「この新書を読め」と推してくる。そうした「人」のリストでもあるのだ。

 やり方は簡単だ。

 タイトルや紹介文から、気になる新書を推している「人」を選ぶだけ。すると、自分の興味を同じくする「人」のリストができあがる。そして、メディアの書評や twitter などのタイムラインでその「人」を追いかけることで導かれる本は、自分の知らないスゴ本である可能性が高い。

 これは、本を探すだけでなく人を探すリストでもあるのだ。

 そんな目で見ると、本書の面白い読み方ができる。岩波新書の創刊80年を記念した「図書」臨時増刊号だから、岩波に目くばせして、EHカー『歴史とは何か』や丸山真男『日本の思想』ばかり目に付く。そんな定番は誰かがお薦めしているだろうと、選者にとっての「思い入れ」を推す人こそが狙い目である。

 というのも、実は昨年、岩波文庫創刊90周年を記念して、似たような企画があったのだが、岩波文庫縛りだった。結果、誰もがよく知る「ど定番」ばかりで参考にならなかった。しかし今回は、岩波に囚われず、「新書」であるならなんでもOKということで、実にさまざまのレーベルが揃っている。


2. 人生を変える新書

 種々雑多と言っていいほどの中から、強い思い入れのある本を推す「人」を選んでいくと、あの薄くてスリムな新書が、人ひとりの人生を変えてしまうことがあることに気づく。

 それは、人生のターニングポイントを切り替えてしまうきっかけだったり、現在でも続く信念を築き上げてしまう一冊だったりする。

 たとえば、p.18にある坂井豊貴氏にとっての『自動車の社会的費用』(岩波新書青)。この一冊は、「運転免許をとらない」という方へ、彼の人生を変えてしまった。なんとなく免許をとらないではなく、積極的にとらない生き方にしたのである。『自動車の社会的費用』は、クルマが社会全体にかける負荷を「社会的費用」の概念でとらえ、クルマ社会と、それを安易に受け入れる人々を、痛烈に批判している。

 これ、すごく分かる。わたしも影響を受けた一人だった。しかし、「運転免許をとらない」という生き方はできなかった。交通事故や環境破壊など、社会に対し甚大な影響を与えるクルマに対し、その利便性を採ったのである(クルマの社会的費用が低すぎることは承知の上で)。

 あるいは、p.70の読書猿さんにとっての『認識とパタン』(岩波新書黄)。プログラミング少年だった時代に最初に読んだ新書だという。パターン認識の入門だが、機械学習の限界を示す「醜いアヒルの仔の定理」をきっかけに哲学科に進むことを決めたという。

 なにそれ気になる! 科学的・数学的な基礎付けにより、知覚の本質を定義しなおす「認識論」は、スリリングでめっちゃ面白いはず。渡辺慧『時』から辿ってみよう(ちなみに『認識とパタン』は結構な値がついているので復刊してほしい)。


3. 自分にぴったりの新書を探す方法(山本貴光流)

 人のお薦めではなく、「わたしの」好きな新書を読みたい。そんな方にとっての新書の探し方は、p.22の山本貴光氏が紹介している。

 それは、「目録を座右に」だという。漠然と興味のある分野を探り→絞り→特定するには、目録(特に紙版)を眺めるのが一番になる。文字通り、自分の好みを「見」極めるわけである。手元に置きたい目録はこれ。

  • 岩波新書(岩波書店)
  • 文庫クセジュ(白水社)
  • 中公新書(中央公論)
  • 講談社ブルーバックス(講談社)
  • 講談社現代新書(講談社)
  • センチュリーブックス人と思想(清水書院)
  • ちくま新書(筑摩書房)
  • 平凡社新書(平凡社)
  • Very Short Introduction(オックスフォード大学出版局)

 これに、書籍として『岩波新書の歴史』と『中公新書総解説目録』を入れるのがよろしいという。「Very Short Introduction」は丸善の「サイエンス・パレット」か、あるいは紀伊國屋「一冊でわかる」シリーズの両面から追うのが吉。


4. 効率よく新書を読む技術(松岡正剛流)

 他と異なり、新書ならではの特徴を活かした読み方がある。p.32の松岡正剛氏がアドバイスしている。

 それは、目次にある。新書には、章立てとは別に「小見出し」が数多くついている。これが役に立つという。ほとんどが編集者の手によるものだが、その節なり章なりを、できるだけ短い言葉で表しているため、そこをチェックするだけで中身がだいたい把握できるようになっている。松岡氏はこういう。

ぼくは本文をぺらぺらめくる前に、たいていは目次をしばし眺め、漠然としたスコープが俯瞰できたところで、次にこの「小見出し」をさあっと追うようにしている。それで関心が薄くなるようだったら、そのままうっちゃっておく。読書は打ち切ったり、捨ておくことも重要なのだ。

 小見出しのさっと読み、わたしもよくやる。図書館や書店だと、これができるのがありがたい。じっさいに本を借りる/買う前に、その内容とお見合いをするのである。

 そこは編集者も承知しており、問いかけ形式の見出しで目次を作っているのもある。「答えは(買ってから)本文を読んでね」という意図だろう。だが断る。答えを見ちゃう。そして、そこで新たな発見に出会えるなら、そこでようやく財布の紐を緩める寸法なり。


5. わたしのお薦め新書

 せっかくだから、わたしのお薦めをご紹介。

『ナウなヤング』 杉元伶一著/水玉螢之丞イラスト(岩波ジュニア新書)

 新書といえばコレでしょ! というぐらい強力にお薦めしたい。

 「ナウい」「ヤング」なんて死後wwwいや死語wwww30年前の「新書」だから、これっぽっちも新しくないと思うだろ? でも手にとると分かる。これ、「いま」を描いていることが。「恋愛」「夜ふかし」「バカな学生」といったテーマで、「いまどき」の若者が何を考えて生きているのかが見えてくる。人のことを聞けない、前を見て歩けない、自分語り大好きな「うけつけないひと」の件は爆笑するはず。

 そして、30年前だろうと、「いま」だろうと、若者は全く変わっていないことが分かる。紀元前400年前の「若者」は慎みや節制を知らぬと言われていたし、1970年代の「若者」は当事者意識が完全に欠如していると言われていた。「いまどきの若者は……」と文句いうオッサン/オバサンがいたら、そっと渡すべし。そんなオッサン/オバサンが若かりし頃の生態を写し取ったものだから。

 「年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず」という言葉は、「若者」がふさわしい。水玉螢之丞の若者のイラストがいい味出しており、どの時代の「いまどきの若者」らしく見える。

『人はなぜ物語を求めるのか』 (ちくまプリマー新書)

 これ、生きづらいと思っている人に届いてほしい新書。入口は物語論なんだけれど、人の仕様にまで掘り下げており、「なぜ人は憎むのか」「その怒りはどこから来たのか」を見直すきっかけになるかも。この意味で、カーネマン『ファスト&スロー』よりも優れている。人生に物語が必要なのは、不条理すぎる現実に「わたし」を壊させないため。物語は、いわばセーフティ・ネットなのだ。

 人は世界を「ありのまま」に理解することはできない。断片的に入ってくる情報を元に関係性(特に因果関係)を求めてしまい、世界を理解したいやり方で理解しようとする。「人は見たいものしか見ない」と同様、「分かりたい」欲望によって事実は都合よく取捨選択されているのである。

 これに自覚的になることで、いま抱えている感情―――辛さや憎しみ、怒り―――を引き起こしている因果関係の恣意性に気づくかもしれぬ。これは一種の残酷な話かもしれぬ。なぜなら、そうした怒りや憎しみもひっくるめて「わたし」を構成しているのだから、気づくことは、それを外的なものとして再発見する(≒捨てる)ことにつながる。

『科学と宗教』Thomas Dixon(丸善サイエンス・パレット新書)

 「世界を分かりたい」欲望を歴史から振り返ると、科学と宗教が浮かび上がってくる。

 科学と宗教は対立するものとして見られがちだが、そうではなく、むしろもっと根が深い。「正しいか、正しくないか」ではなく、争点が「政治」にあることが問題になる。定番のテーマであるガリレオ裁判、進化論に対する理解の変遷、そしてID(インテリジェント・デザイン)説をめぐる論争や、ドーキンスの利他性の問題を採り上げ、科学哲学と宗教的含意の議論をまとめている。

 歴史の俎上に乗せてしまうと、科学と宗教は驚くほど似通っており、対立というよりも、補完・強化する関係になっていることが分かる。先進的な科学者v.s.保守的な教会という構図はドラマティックだが、現実は違う。どちらも頑迷さと寛容性があり、どちらにも知的探究心と真実の尊重、レトリックの多用、国家権力へのすりよりといった側面を見ることができる。

 「宗教なき科学は欠陥であり、科学なき宗教は盲目である」と言ったのはアインシュタイン、両者は対立するのではなく、並走してきた。宗教が示す物語から、科学が描く物語により、世界を理解していることに自覚的であるために読むべし。

 『はじめての新書』には、あなたの人生を変える新書がある。それが何かは、あなたの自身の目で探してほしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2018年9月 | トップページ | 2018年11月 »