ボランティア奴隷は作れる『自発的隷従論』
習慣化された奴隷は、自ら支配されたがると喝破した小論。ボランティア奴隷の作り方も書いてあるのでJOCや為政者は必携やね。
著者はエティエンヌ・ド・ラ・ボエシ、モンテーニュの無二の親友だったという。500年前の文章なのに、いま見てきたように生々しい。というのも、いまの日本の政権や2020オリンピックのボランティア奴隷のみならず、君主制、民主制、共和制、独裁制どれにでも当てはまる。なぜなら、焦点が当たっているのは、政治制度ではなく、その下で積極的に奴隷になる民衆たちだから。
著者はいう、民衆自身が、抑圧されるがままになっているどころか、あえて自らを抑圧させているのが現実になる。隷従をやめるだけで圧政者は屈するのに、わざわざ悲惨な状況を求め、軛を差し出しているという。そして、身にまとう軛を自慢し、父祖からそうしてきたことを誇る、いわゆる「奴隷の鎖自慢」をするのは、なぜかと問いかける。
そして、2つの側面からこれに答えようとする。一つは、圧政者の詐術から。そしてもう一つは、民衆の本性から。
まず圧政者の詐術について。圧政者は単独かもしれないが、取り巻きや臣下、ひいては民衆を飼いならすことで独裁的に振舞うことができる。その方法として、遊戯、饗応、称号、自己演出、宗教心の利用が紹介されている。民衆には遊戯が有効らしく、不満のガス抜きには公共の賭博場や居酒屋、管理売春が役に立つそうな。
次に民衆の側から。民衆というより、むしろ人間の本性の話になる。人が自発的に隷従する理由は、生まれつき隷従していて、しかも隷従するようにしつけられているからだという(どうあがいてもこのループ抜けられないんじゃ...…)。「人間は習慣の奴隷である」人間観はモンテーニュ、パスカルに引き継がれるのだが、500年経っても変わらないところを見ると、どうやら人の定義に入れてもよさそうなり。
本書から得られた知見によると、2020オリンピックのボランティア奴隷を増やすには、オリンピックに限らず「ボランティア」をもっと一般化することが有効かもしれぬ。つまり、無償のボランティアを募るために金を惜しまず、「〇〇のボランティアが足りません」と告知し、キャンペーン広告を打ち、様々な媒体でニュースにするのである。
「オリンピック・ボランティア」のセンテンスと、「ボランティア=無償」の公式を民衆のアタマの中に作り上げることが重要である。短い言葉を繰り返すことが、民衆の記憶の定着に有効だろう。こうすることで、民衆は自発的に奴隷になってくるに違いない。
無償ボランティアを強要する「空気」を疑問視しながらも、ボランティアの地獄自慢がネットに溢れる未来予想図が嫌すぎる。だが、『自発的隷従論』から見える未来はこれ。
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