『舞踏会へ向かう三人の農夫』はスゴ本
今年の小説ベスト。
「スゴ本=すごい本」とは、読む前と読んだ後で、自分自身が更新されることである。世界を見る目がアップデートされ、同じだったはずのものが、まるで別の存在になる。「本当の旅の発見は新しい風景をみることではなく、新しい目をもつことにある」とプルーストは言ったが、この傑作を読むことこそが旅であり新しい目を持つことである。
純粋に小説を読む悦びと、全く新しい経験をくぐる濃密さ、そして世界と一体化するというある種の恐怖を味わう。知ることは関わりあいになることであり、すなわち、世界と自分を再定義する行為なのだ。
この小説の面白さ=立体視
この凄さ、伝えるのは難しい。
3つのストーリーラインが互いに絡み合い混ざり合い、微妙に重なり/ズレながら浮かび上がる立体感や、ウロボロスの蛇のように一つのナラティブが物語を呑み込む再帰性、さらには、読むという行為のなかで自分を書き換えていく双方向的な感覚など、どれか一つでも充分なのに、むりやり詰め込んでいる。
「どうせ誰も読まないだろうから、好きなように書いてやれ!」と自分をけしかけて書いたらしい。リチャード・パワーズは『囚人のジレンマ』で夢中になったが、これがデビュー作だと!
このスゴさ、むりやり伝えるなら、上下巻の文庫が良い。
『舞踏会へ向かう三人の農夫』の上巻と下巻を並べてみよう。そして左の目で右側の表紙を、右の目で左側の表紙を見ながら、写真と目の中間に「人差し指」を立て、指先を見て寄り目にするのだ。寄り目の向こうにぼんやり3枚の写真が見えたら、中央の写真にゆっくりと焦点をあわせると、疑似的に浮かび上がってくる。この立体感覚が、読後感(のひとつ)である。
コツは[立体視画像(交差法)を簡単につくる]を参考にしてほしい(めっちゃ目が疲れる)。両眼が離れていることから生じる視差を利用しており、これにより遠近や奥行きの知覚が生じる。裸眼で立体視できるNintendo 3DSがまさにそれやね。
写真は2次元の画像にすぎない。アウグスト・ザンダーという写真家が、1914年に撮影したものだ。「若い農夫たち(Young farmers)」というタイトルの芸術写真である。[画像検索]すると、同じ画像が大量に出てくる。重要なのは、文庫の表紙であれ、ネット画像であれ、複製はいくらでもあるが、あなたがいま試した立体画像はどこにもないことである。あなたの眼を通じ、あなたの頭の中で再構成されたものである。
パワーズがやろうとしたことの一つは、これだ。
かつて芸術は、オリジナルが一つだけだった。だが、写真とともに芸術は一回性ではありえなくなった(このとき失った権威や崇高さを、ヴァルター・ベンヤミンは「アウラ」と呼んだ)。写真はいくらでもコピーができるからね。
ただし、写真が一般的になりはじめたころ(ちょうどこの写真が撮られたころ)は、「アウラ」は失われていなかったという。むしろ、個人や家族のアウラをたっぷりと纏っていた。家族を一堂に会した集合写真や、肖像写真、出征前の形見としての写真など、「その写真を見る人にとってのアウラ」が確かにあった。
その写真に対する愛着が強ければ強いほど、それを見る人の頭の中で再構成される思いは、まるで違ったものになる。あたかも、立体視された映像があなたのオリジナルであるかのように。写真から引き出される思い出や、奇妙な偶然の一致、でっち上げられた物騙りは、見る者を、そして読み手を巻き込んでゆく。
3人の農夫、3つのP、3つの物語
この小説は、3つのストーリーラインによって構成されている。
ストーリーラインの1つは、この写真にとり憑かれ、強い愛着を抱く「私」の個人的な独白である。旅先のデトロイトで偶然に出合い、右端の人物に自分が似ていることに興味を抱き、誰が、いつどこで撮ったのかを調べようとする。名前は明かされないが、姓のイニシャルが「P」であること、現代であること、写真論や伝記論、科学と歴史を縦横無尽に語り尽くすことから、著者パワーズの代理人かと思われる。
そして、ストーリーラインの2つ目は、この写真の農夫たちの物語である。向かって右からアドルフ、ペーター、フーベルトと言い、撮影年からピンとくるだろうが、第一次大戦に巻き込まれてゆく。この三人の農夫の物語に、ヘンリー・フォード、サラ・ベルナール、ニジンスキー等、二十世紀という時代の貌となった人々の言動が織り込まれ、巨大な物語を成してゆく。
さらに、3つ目のストーリーラインでは、パレードで見かけた謎の赤毛の女性を追い求める編集者ピーター・メイズの物語が入ってくる。前二つと色合いが異なり、ほとんどコミカルと言っていいドタバタ劇だが、安心して読み進めればいい。あちこちにジョークやひねり、引用、仄めかしが散りばめられており、それらはストーリーラインの1つ目と2つ目を密接に絡み合わせている。
これら3つの物語が並行して進められ、ときに接近し、ときに入れ子状になりながら、だんだんと混じり合い、重なりあい、やがて大きな流れにまとまってゆく。写真を撮るとは何か、あるいは「見る」とはどのような意味を持つかをめぐり、緻密な思索が積み上げられる一方、「見る」とはすなわち関わりあうことであり、関わり合うとは相手と自分の運命を変えてゆくことが、小説パートにより肉付けされる。
「見る=知る」ことは循環性を持つ。何かを知ろうと接近すると、その「接近する」という行為によって、相手が変わってしまう。それは、接近により相手そのものが変わる場合と、接近によりより相手が見えるようになった結果、自分が変わってしまう場合とがある。いずれの場合であれ、「見る=知る」ことは、対象と自身に影響を及ぼすことなのである(伝記と歴史の話をしているのに、「不確定性原理」という言葉を使わずに言及しているのも面白い)。
それぞれの物語は一筋縄ではゆかぬ。3つの物語が指す事実は、それぞれ微妙に異なっている。あたかも違う世界線上にある同一人物たちの物語のように、似て非なる部分が出てくる。だがそれは、「見る」人によって異なる解釈が生じているだけなのだ。
さらに、ときに語り手に騙され、ときに語り手自身が騙され、何度もひっくり返りながら流れてゆく。最初はシンプルなメモだった人物相関図は、何度も書き直すハメに陥るかもしれぬ(その意外性が面白い!)。
そしてその度に表紙に戻って、「こいつがフーベルトだよな」を再確認したり、ペーターの表情に隠されたのもを見つけ出そうと二度見・三度見するに違いない。そして、驚くべきことに、話が進むにつれて、同じ写真が違って見えてくるのだ!
3つの物語の重ね合わせ
なぜ、同じ写真なのに違って見えるのか? その秘密は、この作品全体の構造にある。この作品が模倣しているのは、微妙に重なり合いつつもズレが生じる「視差」の感覚である。あちこちに埋め込まれている「立体鏡」が比喩として扱われている。どのストーリーにもこの写真が重なるように出てくるが、細部が違う。
わたしは、「読む」という経験を通じて、頭の中でこれら3つの情景を一つに合わせようとする。ところが、微妙につじつまが合わない。「読む」という経験は、それまでに読んできたものから、その先を推測しつつ、いまいる箇所に集中する。「こいつ誰だっけ?」と戻ったり、人物相関図を書き直したりすることで、他人の物語を自分のものとして語り直し、取り込んでゆく。
この双方向的なプロセスにおいて、頭の中で「わたしの物語」の像に合わせてゆくのである。これは凄い。驚嘆しつつ最初に戻ると(絶対に戻りたくなる、絶対にだ)、エピグラフにプルースト『失われた時を求めて』の一節が目に入る。こうある。
人は読みながら推量し、捏造する。すべては最初の間違いからはじまる。……我々が頑なに、そしてそれに劣らず誠実に……真実だと信じていることの大半は……当初の勘違いに端を発しているのである。
まさにこれやん!
二十世紀全体をテーマにした大きな物語と、それに絡まるように成り立つ個々のストーリー、それらすべてをひっくるめて頭の中に立体化されてゆく。それは推量であり捏造であるが、確かにわたしの頭の中にはある。めまいを覚えながら、この巨大かつ緻密な物語を立体視していると、わたし自身にバトンが渡される(これにも驚いた)。読むという経験は、まさにわたしの中で行われているのだ。
読むということ、知るということ、そして見るということは、世界と関わり合いをもつことであり、すなわち、自身を再定義する試みになる。そこでわたしの中で構築されるものこそが、「オリジナル」なのである。
読め、そして新しい目を持つことで、世界を、自分をアップデートすべし。

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コメント
文中の不確定性原理は誤用、観察者効果が正しい
投稿: | 2018.08.17 19:17
>>名無しさん@2018.08.17 19:17
「観察者効果」を知りませんでした。教えていただき、ありがとうございます。
Wikipediaで「観察者効果」を調べると誤用だと記載されていますが、やはり両者の違いが分かりません(Wikipediaの説明自体が矛盾した記述になっているように見えます)。調べてみます。
投稿: Dain | 2018.08.17 19:31