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リアル読書会の良いところ4つ(リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』読書会)

 やはりリアルの読書会が面白い。

 もちろん、ネットだとつながりやすいし時空間の制約もない。ハッシュタグや検索文字で、新しい書物や読者との出会いも可能だ。だが、現実で本を片手に丁々喧々するのが楽しい。辛辣な批判から最大限の賛辞まで、感情を共有できるし、顔をつきあわせているから炎上ネタもフォローしやすい(顔色・声色・身ぶりは大事)。ネットだと絶対いえないことも、でっかい声で言える(ヒンシュクは買うが)。

 リチャード・パワーズのデビュー作にして傑作の、『舞踏会へ向かう三人の農夫』。実はこれ、ずーっと積読山に刺さってたんだよね。出たばかりのころ、読んだ人が絶賛しまくっていたので、我もと手を出したのはいいけれど、読み進められず放置プレイのまま幾年月。

 なぜなら、ストーリーラインが複数あって、追いかけるのが大変だったから。時間も空間も異なる3つのストーリーが、表紙の「三人の農夫」の写真を軸に、ズレがだんだんと重なり合い、ゆらぎながら再現させる構造になっている(そこに気づく前に投げていた)。

1. 必ず読める

 だが、読書会の課題図書ともなれば積んどくわけにもゆかぬ。期日という締め切りにあわせて、手に取らねばならぬ。もともと読むつもりでいたのだから好都合なのだが、「いつでも可」だとなかなか始めることもかなわない。そういう、お尻を押してくれる意味でも、ありがたい。

 あちこちに散らばる、似たような名前、セリフ、言葉遊びに気づくと、「あッ」「わッ」と小さく叫びながらの読書になる。あるところで、ストーリーと語り口(ナラティブ)と物語構造がハマり、一気に眼前が広がり、「そうだったのかッ!」と立ち上がりたくなる瞬間がくる(ここがパワーズの醍醐味)。

 それも束の間、完璧な瞬間は別のナラティブに飲み込まれ、物語は完全には成立しない。解釈の余地を残しつつ、三人の農夫を「見る=見られる」関係が、この小説の「読む=読まれる」関係に引き継がれ、物語るというバトンは読み手に委ねられる。この「読み」は、[『舞踏会へ向かう三人の農夫』はスゴ本]にまとめたが、これこそが「正しい読み」だと確信し、勇んで参加する。

2.ネットだと炎上ネタがOK

 ところが、どこにも「正しい読み」なんてないことを思い知る。

 わたしが読んだリチャード・パワーズは、『三人の農夫』と『囚人のジレンマ』だけである。だが、他の作品を読んでいる人からは、「若書きで荒削りで、(意図せざる)ミスリーディングを引き起こしている?」という疑いや、「仕入れた知識を喜々としてひけらかす大二病が痛い」、「話が飛びすぎて追えない箇所がある」、あるいは「ピンチョンに似せているけれど、ピンチョン度が足りない」という発言に出会う。辛辣なり。

 わたしが「これだ!」と思ったところは、実は穿ちすぎだった可能性もある。良かった、すばらしかったという他人の評価をありがたがるというわたしの悪癖から、そういう目で読み始めてしまう。しかし、リアル読書会に参加する人は違う。どんなに評判が良くても、「私に合わないから合わない」とダメ出しをする。分かったフリをせず、むやみにありがたがらない。ネットでやると炎上しそうな発言も、リアルならできる。そういう意味で、村上春樹について色々と話し合えて、よかったナリ。

3.ネタバレOKどころか歓迎

 さらに、全く別の観点からの「読み」のヒントがもらえる。『三人の農夫』の隠れたテーマとして、「プリントとオリジナル」がある。ベンヤミン『複製技術時代の芸術』をネタに、写真のプリントと絵画のオリジナリティについて考察をしている。あちこちに「プリント」のヒントが埋まっているが、わたしが気づかなかった視点を教えてもらえた。それは主人公の一人、ピーター・メイズが編集している雑誌である。半導体技術の業界紙であることは知っていたが、「半導体はプリント技術である」ということまで考えが及ばなかった! 言われてみれば確かにそうで、これを念頭に再読すると、また印象が違ってくるだろう。

 こうした読みのヒントが得られるのは嬉しい。同様に、「この物語を妄想しているのは誰か?」を登場人物の中に求めると、さらに驚くべき読みができることを教えてもらう(アリスンに空目した富豪の爺さんの妄想だったり、強制収容所で正気でいるために妄想した世界だったり、いわゆる「ゾーンに入る」やつ)。わたしも似たようなことを考えたが、それが構成として作られたものなのか、あるいは作者の力量が届かず半端になっているかは議論の余地があるが、面白い。さすが読みの猛者、「面白く読む」ことに貪欲になるためのネタが容赦なく出てくる。みんな読んできているから、ネタバレOKどころか歓迎だからね。

4.「この一冊」という軸がある

 他にも、「20世紀は暴力とメディアの世紀であり、メディアは戦争によって成長した」というメディア論や、「銀塩写真が高価だった100年前とは異なり、今は好きなだけ撮ってネットで共有する時代だから、また別の”複製技術時代の芸術”論ができるのでは? GoProとか実況とか」などなど、作品から引き出される様々な発想が出てくる。一つの作品という基盤があるから、どんなに広がってもそこへ戻って収束できる。

 そして、一冊が決まっているから、それを基準にお薦めが広がる。戦争文学に振れるならカロッサ『ルーマニア日記』だし、20世紀を概説するポストモダン文学に振るならパトリク・オウジェドニーク『エウロペアナ』、科学や歴史といった幅広エピソードの堆積を限界まで進めるならピンチョン全般など、「それが好きならこれなんてどう?」といった形で世界が広がる。課題図書という軸があるから、一人で彷徨うよりも確かである。まさに、わたしが知らないスゴ本を読んでるみなさんから直接オススメを受け取れる。

まとめ

 積読していた本に手を伸ばさせ、ネタバレも炎上ネタも歓迎され、辛辣な意見も直接フィードバックできるリアル読書会、たいへん面白かった! 二次会は、とても大事なことを一生懸命しゃべっていたような気がするのだけれど、ネパールビールでほとんど覚えていないのが辛い(確か……文学の救済について?)。読みたい本がぐんと増えたけれど、なかでもフラナガン『奥のほそ道』はぜひとも読みたい。

 主催のおおたさん、参加された皆さま、ありがとうございました。

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NO BOOK, NO LIFE 良い本で、良い人生を

 人生に本はつきものであり、本のない人生はありえない。

 タワレコの ”NO MUSIC, NO LIFE” もそうだが、「本」も然り。そして、ジャンルやカテゴリーに囚われることなく、「好きな作品」を増やしていく。そうやって「好き」を増やすことが、世界を拡げることになり、結果、人生の中を愛すべきもので一杯にする。「本は人生を豊かにする」本質はここにある。

 だから、「ジャンル読み」と称して、「その分野の本しか読まない」と決め打ちするのはもったいない。いわゆる「プロの書評家」に見かけるが、ジャンルを絞ることで、「好き」を減らし、世界を狭め、最近は小粒ばかりと嘆く、井の中の蛙の大将となり果てているのを見ると、気の毒になるとともに、反面教師として合掌したくなる。

 そして、具体的にどう「反面」するかというと、たとえばノージャンルの「本の本」に出会いを求める。『NO BOOK, NO LIFE』は、そんな出会いにうってつけである。

 よくある海外文学とかSFといったジャンル別ではなく、「本を手にするときの気分」や、「人生にどんな栄養や影響を与えたか」といったテーマ毎に、それぞれのイチオシが紹介されている。

 しかも、書店員や編集者といった本のプロが本気で選んだものだから、絶版になっているものもある。「なぜそれか」という熱量がすごいので、図書館や古本屋を探してまでも読みたくなる。

 いくつかテーマをピックアップしてみよう。あなたの気分や好みに合うものが、きっと見つかるはず。既読が出てきたら嬉しいし、未読が出てきたらもっと嬉しい。
 

  • 3回読んで3回とも泣いてしまった本
  • 電車の中でうっかり声をだして笑ってしまった本
  • 完全に騙された、まさかの結末に驚愕した本
  • 人生を変えた運命の一冊
  • ボロボロになるくらい擦り切れても何度も読み返したくなる本
  • 企画・アイデアが斬新すぎる、こんな本は今までに無かった本
  • 50年後も「紙」で読みたい本
  • 絶対に会いたくない悪人に出会える本

 たとえば、「電車の中でうっかり声をだして笑ってしまった本」として、三島由紀夫『不道徳教育講座』が紹介されている。「弱い者をいじめるべし」「友人を裏切れ」「痴漢を歓迎すべし」など、良識に反するタイトルがならんでおり、鋭い知性から吐き出された「毒」がその理由を裏付ける。世間に横行する、鼻持ちならない偽善に対するカウンターがいちいち刺さる、ユーモアと機知に溢れたエッセイ集なり。

 あるいは、「50年後も「紙」で読みたい本」としてミヒャエル・エンデ『はてしない物語』が紹介されている。わかる! あれは物語に出てくる、あかがね色の表紙の「はてしない物語」という本が重要な役割を果たしているのだから(したがって、あかがね色のハードカバー版が絶対であり、後に上下版になった文庫版は却下だ却下、なんで出したんだろうかねぇ……)。モノとしての本が、これほど人生に影響を与えるのかを考える上で最良の例かもしれぬ。

 自分の好みや気分に合わせ、パラりとめくってみて欲しい。落ち込んだ自分を元気づけてくれたり、価値観を180度変えたり、知らない世界への扉を開いたり、あるいは人生そのものを変えてしまったりする本に出会えるかもしれぬ。

 人生に本はつきものであり、本のない人生はありえない。NO BOOK, NO LIFE、良い本で、良い人生を。

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『舞踏会へ向かう三人の農夫』はスゴ本

今年の小説ベスト。

「スゴ本=すごい本」とは、読む前と読んだ後で、自分自身が更新されることである。世界を見る目がアップデートされ、同じだったはずのものが、まるで別の存在になる。「本当の旅の発見は新しい風景をみることではなく、新しい目をもつことにある」とプルーストは言ったが、この傑作を読むことこそが旅であり新しい目を持つことである

純粋に小説を読む悦びと、全く新しい経験をくぐる濃密さ、そして世界と一体化するというある種の恐怖を味わう。知ることは関わりあいになることであり、すなわち、世界と自分を再定義する行為なのだ。

この小説の面白さ=立体視

この凄さ、伝えるのは難しい。

3つのストーリーラインが互いに絡み合い混ざり合い、微妙に重なり/ズレながら浮かび上がる立体感や、ウロボロスの蛇のように一つのナラティブが物語を呑み込む再帰性、さらには、読むという行為のなかで自分を書き換えていく双方向的な感覚など、どれか一つでも充分なのに、むりやり詰め込んでいる。

「どうせ誰も読まないだろうから、好きなように書いてやれ!」と自分をけしかけて書いたらしい。リチャード・パワーズは『囚人のジレンマ』で夢中になったが、これがデビュー作だと!

このスゴさ、むりやり伝えるなら、上下巻の文庫が良い。

『舞踏会へ向かう三人の農夫』の上巻と下巻を並べてみよう。そして左の目で右側の表紙を、右の目で左側の表紙を見ながら、写真と目の中間に「人差し指」を立て、指先を見て寄り目にするのだ。寄り目の向こうにぼんやり3枚の写真が見えたら、中央の写真にゆっくりと焦点をあわせると、疑似的に浮かび上がってくる。この立体感覚が、読後感(のひとつ)である。

コツは[立体視画像(交差法)を簡単につくる]を参考にしてほしい(めっちゃ目が疲れる)。両眼が離れていることから生じる視差を利用しており、これにより遠近や奥行きの知覚が生じる。裸眼で立体視できるNintendo 3DSがまさにそれやね。

写真は2次元の画像にすぎない。アウグスト・ザンダーという写真家が、1914年に撮影したものだ。「若い農夫たち(Young farmers)」というタイトルの芸術写真である。[画像検索]すると、同じ画像が大量に出てくる。重要なのは、文庫の表紙であれ、ネット画像であれ、複製はいくらでもあるが、あなたがいま試した立体画像はどこにもないことである。あなたの眼を通じ、あなたの頭の中で再構成されたものである

パワーズがやろうとしたことの一つは、これだ。

かつて芸術は、オリジナルが一つだけだった。だが、写真とともに芸術は一回性ではありえなくなった(このとき失った権威や崇高さを、ヴァルター・ベンヤミンは「アウラ」と呼んだ)。写真はいくらでもコピーができるからね。

ただし、写真が一般的になりはじめたころ(ちょうどこの写真が撮られたころ)は、「アウラ」は失われていなかったという。むしろ、個人や家族のアウラをたっぷりと纏っていた。家族を一堂に会した集合写真や、肖像写真、出征前の形見としての写真など、「その写真を見る人にとってのアウラ」が確かにあった。

その写真に対する愛着が強ければ強いほど、それを見る人の頭の中で再構成される思いは、まるで違ったものになる。あたかも、立体視された映像があなたのオリジナルであるかのように。写真から引き出される思い出や、奇妙な偶然の一致、でっち上げられた物騙りは、見る者を、そして読み手を巻き込んでゆく。

3人の農夫、3つのP、3つの物語

この小説は、3つのストーリーラインによって構成されている。

ストーリーラインの1つは、この写真にとり憑かれ、強い愛着を抱く「私」の個人的な独白である。旅先のデトロイトで偶然に出合い、右端の人物に自分が似ていることに興味を抱き、誰が、いつどこで撮ったのかを調べようとする。名前は明かされないが、姓のイニシャルが「P」であること、現代であること、写真論や伝記論、科学と歴史を縦横無尽に語り尽くすことから、著者パワーズの代理人かと思われる。

そして、ストーリーラインの2つ目は、この写真の農夫たちの物語である。向かって右からアドルフ、ペーター、フーベルトと言い、撮影年からピンとくるだろうが、第一次大戦に巻き込まれてゆく。この三人の農夫の物語に、ヘンリー・フォード、サラ・ベルナール、ニジンスキー等、二十世紀という時代の貌となった人々の言動が織り込まれ、巨大な物語を成してゆく。

さらに、3つ目のストーリーラインでは、パレードで見かけた謎の赤毛の女性を追い求める編集者ピーター・メイズの物語が入ってくる。前二つと色合いが異なり、ほとんどコミカルと言っていいドタバタ劇だが、安心して読み進めればいい。あちこちにジョークやひねり、引用、仄めかしが散りばめられており、それらはストーリーラインの1つ目と2つ目を密接に絡み合わせている。

これら3つの物語が並行して進められ、ときに接近し、ときに入れ子状になりながら、だんだんと混じり合い、重なりあい、やがて大きな流れにまとまってゆく。写真を撮るとは何か、あるいは「見る」とはどのような意味を持つかをめぐり、緻密な思索が積み上げられる一方、「見る」とはすなわち関わりあうことであり、関わり合うとは相手と自分の運命を変えてゆくことが、小説パートにより肉付けされる。

「見る=知る」ことは循環性を持つ。何かを知ろうと接近すると、その「接近する」という行為によって、相手が変わってしまう。それは、接近により相手そのものが変わる場合と、接近によりより相手が見えるようになった結果、自分が変わってしまう場合とがある。いずれの場合であれ、「見る=知る」ことは、対象と自身に影響を及ぼすことなのである(伝記と歴史の話をしているのに、「不確定性原理」という言葉を使わずに言及しているのも面白い)。

それぞれの物語は一筋縄ではゆかぬ。3つの物語が指す事実は、それぞれ微妙に異なっている。あたかも違う世界線上にある同一人物たちの物語のように、似て非なる部分が出てくる。だがそれは、「見る」人によって異なる解釈が生じているだけなのだ。

さらに、ときに語り手に騙され、ときに語り手自身が騙され、何度もひっくり返りながら流れてゆく。最初はシンプルなメモだった人物相関図は、何度も書き直すハメに陥るかもしれぬ(その意外性が面白い!)。

そしてその度に表紙に戻って、「こいつがフーベルトだよな」を再確認したり、ペーターの表情に隠されたのもを見つけ出そうと二度見・三度見するに違いない。そして、驚くべきことに、話が進むにつれて、同じ写真が違って見えてくるのだ!

3つの物語の重ね合わせ

なぜ、同じ写真なのに違って見えるのか? その秘密は、この作品全体の構造にある。この作品が模倣しているのは、微妙に重なり合いつつもズレが生じる「視差」の感覚である。あちこちに埋め込まれている「立体鏡」が比喩として扱われている。どのストーリーにもこの写真が重なるように出てくるが、細部が違う。

わたしは、「読む」という経験を通じて、頭の中でこれら3つの情景を一つに合わせようとする。ところが、微妙につじつまが合わない。「読む」という経験は、それまでに読んできたものから、その先を推測しつつ、いまいる箇所に集中する。「こいつ誰だっけ?」と戻ったり、人物相関図を書き直したりすることで、他人の物語を自分のものとして語り直し、取り込んでゆく。

この双方向的なプロセスにおいて、頭の中で「わたしの物語」の像に合わせてゆくのである。これは凄い。驚嘆しつつ最初に戻ると(絶対に戻りたくなる、絶対にだ)、エピグラフにプルースト『失われた時を求めて』の一節が目に入る。こうある。

人は読みながら推量し、捏造する。すべては最初の間違いからはじまる。……我々が頑なに、そしてそれに劣らず誠実に……真実だと信じていることの大半は……当初の勘違いに端を発しているのである。

まさにこれやん!

二十世紀全体をテーマにした大きな物語と、それに絡まるように成り立つ個々のストーリー、それらすべてをひっくるめて頭の中に立体化されてゆく。それは推量であり捏造であるが、確かにわたしの頭の中にはある。めまいを覚えながら、この巨大かつ緻密な物語を立体視していると、わたし自身にバトンが渡される(これにも驚いた)。読むという経験は、まさにわたしの中で行われているのだ。

読むということ、知るということ、そして見るということは、世界と関わり合いをもつことであり、すなわち、自身を再定義する試みになる。そこでわたしの中で構築されるものこそが、「オリジナル」なのである。

読め、そして新しい目を持つことで、世界を、自分をアップデートすべし。

Butoukai


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『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』がいかにスゴいか、このブログを例に説明する

ふろむだ(fromdusktildawn)氏が、スゴい本を出してきた。

「悪魔の書」かつ「賢者の書」

 これを「悪魔の書」という人がいるが、激しく同意する。なぜならこれ、知らないほうが幸せだったかもしれないことが書いてあるから。あれだ、「力が欲しいか?」と問われて求めた結果、知らなくても良い世界に気づいてしまうから。

 その存在すら知らないまま、普通に穏やかに生きるほうがよいとも言える(知らぬがホトケやね)。「なぜアイツが出世するんだ!?」「どうして私が認められないのだろう?」という現実から目をそらし、ささやかな慰めを見つけ出し、折り合いをつける。そんな平穏を求めるなら、本書を読んではいけない。「アイツが出世&実力をつけていく理由」「私が認められにくい理由」が、これ以上ないほど、ミもフタもなく書いてあるから。

 一方でこれ、万人が読んだほうがいいのかもしれない。なぜなら、自分がどのように騙されているかが、これまたあからさまに書いてあるから。「騙す」というネガティブな言い回しを使ったが、嘘を吐いて陥れるような意図はない。どうしてもそう考えてしまう「人の思考パターン」の仕様が明らかにされている。

 これは勉強ができるとか仕事ができるとかに関係ない。コーラを飲んだらゲップが出るぐらい確実に、そういう風にできている。いわば人の仕様がそうなっているのである。この仕様バグを衝くことで、自動的にそう勘違いしてしまうのだ(本書ではこれを、「脳のセキュリティホール」と呼ぶ。言いえて妙なり)。

 これを悪用して、あなたを「騙そう」とする人もいる。だが、騙された人は、騙されていることに気づかない(ここがおぞましい点)。あなたがそうならないために、この仕様バグを把握することで、賢く生きてほしい。その意味でこれ、「賢者の書」とも言える。

「実力」と「錯覚資産」

 煽りぎみのタイトルと、人を食ったような表紙、ブログ「分裂勘違い君劇場」まんまのの語り口で、どんどん読めてしまう。挑発的なモノ言いなので、カチンとくるかも。それで本を投げ捨てるならもったいない。

 なので、これは強く言わせて欲しい。残念ながら世の中は、実力主義になってないが、ふろむだ氏は、「実力なんてどうでもいい」なんて、一言も言っていない。ハッタリの重要性を強調するあまり、そう誤解してしまうかもしれないが、あるものに秀でていると、全体的に優れているかのように錯覚してしまうのは事実である。

 もちろん実力も重要だが、時としてそのブランディング(による錯覚)の方が大事だったりする。この錯覚こそが、進化の過程で仕込まれた人の仕様バグであり、上手く運用することで、他者から勘違いされる価値(錯覚資産)を大きくすることができるという。

3行でまとめる

 本書は、行動経済学や認知心理学的の最新の知見を元に、この「錯覚資産」を最大化する方法を解き明かす。ふろむだ氏のブログで序盤が公開されているので読んでほしい。3行にまとめるとこうだ。

  1. 器が人をつくる
  2. その器に入るのは運
  3. その運の運用も含めて実力のうち

 「器が人をつくる」は、ビジネスの世界によくある「ポストを与えるとその役職にふさわしい能力を身に着ける」と解釈される。だがこれは、その先がある。

 たとえば、「CEO」や「教授」といった肩書に引っ張られ、他の属性も底上げされるハロー効果がスタートだ。本来の実力以上の評価を集め、それに見合うだけのストレッチをした結果、「実力+アルファ」が伸びることになる。そこから(見かけの)評価が高まり、さらなる実力の底上げが為される。

 つまりこうだ。「実力+錯覚資産」の評価を集めるものは、もっと評価を集め、評価が集まることにより、実力がつき、錯覚資産も併せて大きくなる。いわゆるマタイ効果(持てる者はもっと持てるようになる)やね。「器が人をつくる」を分解すると、ハロー効果とマタイ効果になる。2つの相乗により、「実力+錯覚資産」は雪だるま式に膨らんでゆく

 その器に入るのは、確かに運である。肩書を与えられるとか、多数の注目を得る、特定の業績に高い評価をもらうというのは、実力「だけ」ではままならない。もちろん実力を培うことも重要だが、その実力をいかにプレゼンするかによって、運をコントロールすることもできる。ふろむだ氏は、この「運の運用」を口を酸っぱくして述べる。

「錯覚資産」の悪用例

 具体的な運の運用については本書に譲るが、人の仕様バグを利用することで善にも悪にも応用可能であることは覚えておくべきだろう。読みながら、わたしは最近ハヤリのキーワード「教養」と「死にたくなければ」を思い出した。

 現在、(ある程度)自由になるお金を持っている人が反応する言葉である。どちらも、売りたい本や雑誌のタイトルに挟まっているトレンドワードだ。これを「元CEO」とか「内科医」という肩書と一緒にプレゼンすることで、評価と注目を集めることができる(=潜在顧客の母数を増やすことができる)。

 まず、「教養」は、「ビジネスリーダーに求められる教養」とか「人生を豊かにする教養」といった形で使われる。人間関係を円滑にしたり信頼関係を築くためのツールとしての教養なんだって。「それ、ただの雑学とか豆知識じゃね?」と言ったらオシマイだが、本を読む人の自尊心をくすぐってお金を出してもらうマジックワードは、「教養」らしい(ひと昔まえの「大人の~」と同じ穴の狢やね)。

 次に、「死にたくなければ」は切実である。加齢による身体の不調、痴呆や寝たきり生活への不安、さらには死の恐怖を先延ばしするため、何か健康的なことを始めたい。だけど、なるべく簡単にお金をかけずに済ませたい。そんな高齢者に向けて、千円ちょいで健康法を売りつける。「〇〇するだけ」「テレビを見ながら」を併用するとなお良し(ひと昔まえの「デトックス」「マイナスイオン」と一緒)。

 重要なのは、「教養」を振りかざす人が、必ずしも高い教養を身に着けているわけではないことと、「死にたくなければ」と脅す人が、健康的な生活を送っているとは限らないことである。ただし、「勘違いさせる力」だけは評価するべきだろうね。

「スゴ本」という「錯覚資産」

 ただし、わたしも他人のことばかりは言えぬ。振り返ってみると、わたし自身、この「錯覚資産」を用いてきたことが分かる。

 現在、「書評家」という肩書きで評価していただいているが、そもそもこのブログ、始めたころはプリキュア日記だったし、脳内ダダ漏れの作文だったwww 噴飯&赤面モノで、とてもじゃないが読めたものではない(それでも公開しているのは、10年でかなりマシになるという証拠のため)。

 公開すると、何がしかのレスポンスがある。それを受けて選書の範囲や読む深さを変えて、その結果をブログにフィードバックする。このくり返しで、ずいぶん「実力」は培われたけれど、知名度はイマイチだった。態度だけ尊大で、ゴミみたいな書評を並べた「本」が堂々と書店で売られているのを見ると、「なんでコレが売れるんだろう?」と不思議に思ったものである。

 その秘密が分かり始めたのは、「東大教師が新入生にすすめる100冊」というシリーズである。もとは、東京大学出版会が毎年春に行っている、「新入生に薦める本」というアンケート企画で、過去何十年という蓄積がある。これをデータベース化して重み付けして、ランキング形式にしたら面白いんじゃなかろうか、と考えた。

 これが大当たりした。たくさんの人が訪れて、この記事を読んでくれたのである。さらに、「東大教師が新入生にすすめる第1位」になった本の出版社から、帯の推薦文のオファーが来たのである。これはものすごい宣伝になっていると思う。

 わたし自身の好奇心から始めた企画だが、東大というブランドを利用することで、このブログの知名度を上げたことになる。読者数の増加に伴い、コメントの数も飛躍的に増えた。そのお薦めを読み、ブログに書評して、そこからさらにコメントをもらい……という正のフィードバックループを繰り返すことにより、読者と、書評を充実させたのである。このフィードバックはまさに雪だるま式で、読めば読むほど、書けば書くほど、たくさんの人に読んでいただいた。

 そして、自分で作った東大教師のお薦めリストを消化していくうちに、その器に沿って、わたし自身が成長したことも強調したい。以前なら手に取らないどころか、存在すら知らなかった名著名作に、積極的にチャレンジしていった。結果はごらんの通り、「器が人をつくる」は正しかったのである。

 もちろん、この企画を実現するだけの「実力」はあった。だが、それを大きく見せる「東大ブランド」のおかげで、何かしらの「権威」のようなものがついたのだろう。「東大教師のお薦め」シリーズはずいぶん前に止めたが、雪だるま式に膨れ上がった評価は残っている。このブログに書かれるものは、一種の下駄を履いた状態となっているのである(それに驕らないよう、広く深くえげつなくしている)。

 そして、この錯覚資産を悪用することも可能だ。

 たとえば、本を紹介する口調を尊大&断定的にするのである。あるいは、あちこちで書いてきたライターの実績や著作物を前面に出すことで、「権威」を強調することができる。これは良い、これはダメ、とバッサバッサ判定していくのである。「PVを集める書評の書き方」をオブラートに包んだタイトルで有料でセミナーを開いたり、情報商材化してもいい。こうすることで、錯覚資産を現金化したり、さらに増やすことができる。

 しかし、そうした尊大な書評家はお呼びじゃないだろう(わたしも苦手である)。本は、それと出会ったときの状況により評価が変わる。それを斬捨て御免することは無理がある。ここでは、わたしが本当に好きなもの、気に入ったもの、スゴいと撃たれたものを紹介したい。

 もちろん、「スゴ本」という錯覚資産は大きくしたいが、その目的はハッキリしている。それは、未だわたしが読んでいない本、存在すら知らない、けれども凍った心に一撃を加えるような本に出会うため。その本は、わたしは未だ知らない。だが、きっとあなたが読んでいる。そんな本に出会うためである。

 そんな凄い本を書いてくれて、ありがとう、ふろむだ氏。

Furomuda


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料理は「火入れ」で上達する『から揚げは「余熱で火を通す」が正解!』

 こういうのが欲しかった料理本。

 一人暮らしの自炊から始めて、所帯を持ち、家庭料理もやるようになって20年。本やネットを参考に、自己流で試行錯誤をしてきた。クックパッドは有料会員でないと無意味なことも分かっているし、[白ごはん.com]だと、レシピと技が一緒に身につくことも知っている。

 自己流で得た極意は、「料理は下ごしらえが全て」だ。道具や調味料にこだわりを求めるのもいい。だが、美味しさを引き出すのは、捌いたり切ったり下味をつける「下ごしらえ」にあることに気づいた。おかげでずいぶん上達し、今では「いかにあり合わせで美味しいものを作るか」とか「洗い物を最低限かつ料理が終わった時点で最小限」といったテーマを追求している。

 それでも課題はある。レシピ通りに作ったのに、イマイチなのはなぜか? 

 たとえば「から揚げ」。一口大に切った鶏肉に衣をつけて揚げる。切りかたや衣の配合を色々と研究したが、すごく美味しくなるわけではない。

 あるとき「二度揚げ」を知った。やってみたところ、本当に「外はカラッと中はジューシー」になったので驚いた。そしてポイントは、「二度揚げる」というよりもむしろ、「いったん油から出して余熱で火を通す」点であることを理解した。

 この「余熱で火を通す」こそが重要で、から揚げだと「二度揚げ」というし、ステーキだと、「火から下ろして肉を休ませる」とレクチャーされる。そうすることで、外はこんがり、中はジューシーとなる。いつもの食材、いつものレシピなのに、「火入れ」に意識的になるだけで、驚くほど美味しくなるのだ。

 本書は、いつもの料理を劇的においしくする「火入れ」に特化する。調理のどのタイミングで、どのように火をコントロールするか、そのときの食材はどのような状態となっているかを、細かく解説してくれる。そして、「火入れ」を確実にするために、どのように「下ごしらえ」をすればよいかまで書いてある。これは嬉しい。

 たとえば、レシピ通りに作っているのに、上手くできない、ということはないだろうか。「中火で5分」とか「180℃で3分」とあり、その通りにしているのに、肉や魚がパサついてしまうとか、逆に外は焼きすぎなのに、中まで火が通っていないという失敗だ(わたしはよくやる)。

 本書では、「レシピに縛られ、素材の様子をよく見ていないから」だと喝破する。レシピの時間や温度は、あくまでも目安にすぎない。食材の温度や大きさ、調理器具のサイズや室温などで、いくらでも変動する。火入れによって食材がどう変化していくか、自分の五感をフル活用して感じ取れというのである。

 そして、「〇分たったらどうする」ではなく、「どのような状態になったらどうする」という感覚をつかめという。もちろん食材やレシピによって、火の入れ方は違う。できあがりをイメージしつつ、火をコントロールすることが肝要だという。

 ハンバーグからトンカツ、親子丼や角煮といった定番料理を取り上げ、大きく2段階に分けて解説する。まず、「ありがちな失敗は、どこに起因しているか」を説明し、次に「解消するための火入れのコツ」をプロセスごとに紹介する。

 から揚げでいうなら、ありがちな失敗は「肉がパサパサ」「衣がべチャッと」「焦げているのに中は生」がある。これらは、いったん油から出し、じんわり余熱で火を通すことで解決する。

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 この「余熱で火を通す」とは、具体的に肉がどのような状態になっているときに、どうすればよいか、そこまで書いてあるレシピは少ない(せいぜい、3分揚げたらバットに取って2分休ませるぐらい)。余熱の前後で、どのように火が入っているか、さらに余熱を活かして料理するにはどこに注意を払えばよいか、ここまで詳細に説明しているのはありがたい。

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 他にも、目からウロコの火入れの技がぎっしりとある。以下のヒントで「!」となるなら、きっと得るもの多いはず。

  • 「炒める=具材の表と裏を焼くこと」だから、フライパンを振っても意味がない
  • 炒め物はフライパンの上でつくるサラダ(予め調味料を油で炒めることで、味の付いた油をつくる)
  • フライドポテトは冷たい油からじっくりと、揚げるというより煮る感じ(温度が上がっていく過程でポテトの水分が出ていく)
  • 豚しゃぶは入れたら火を止めろ(肉のタンパク質は65℃で固まる)。うっすらピンクで取り出して、冷ます過程で火を通す

 「焼く」「炒める」「揚げる」「煮る」「ゆでる」ごとに、定番料理が30品並ぶ。重要なのは、これらを通じて「火入れ」をマスターすることで、他の料理も同様に上手くなること。料理のレパートリーを増やすのではなく、今ある料理の腕を上げる。これは有り難い。

 レシピ通りに作っているのに、イマイチだと感じ始めたら、それは「火入れ」で解決するかもしれない。ぜひお試しあれ。

Yonetu3


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