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ネタバレ有りで『オープン・シティ』を語ろう(『オープン・シティ』読書会レポート)

 読むことは人を豊かにし、話すことは人を機敏にし、書くことは人を確かにするという。だから、テジュ・コール『オープン・シティ』の読書会で語ったこと、聞いたことを書く。

 結論から言うと、初読の見解が更新され、新たな視点を得られた。また、異なる意見がその場で展開されることで、わたしの見解を補強することができた。残念ながら同意は得られなかったが、目的は同意ではない。一冊の本から、いかに感情や経験を汲み上げるかだ。その意味で、読書会に参加できてよかった。主催の uporeke さん、ありがとうございます(uporeke さんのレポートは、[第57回読書部テジュ・コール『オープン・シティ』]をどうぞ)。

 このブログは基本的に誉めるスタンスだし、ネタバレを回避した書き方を心がけている。
だが今回は、その自縛を外すので、未読&読むつもりの方はご注意を。ネタバレ無しの書評は[信頼できない読み手にさせる『オープン・シティ』]をどうぞ。

 小説で重要なことは、全部書かない。優れた小説家は、一番書きたいことを「書き残す」ことによって読み手に埋めてもらう。「戦争反対」の4文字で済むのに、なぜ長編小説を書くのか? それは、その4文字以外で伝えたい悲惨さや愚劣さがあるから。村上春樹が「優れたパーカッショニストはいちばん大事な音を叩かない」という名言を吐いたが、同じことである。

 ”ゼーバルトの再来”と誉れ高いテジュ・コールの『オープン・シティ』は、この「書き残し」がポイントになる。”教養高い”洞察に優れた主人公の語りに魅了されていると、彼が何を言っていないかを見落とすことになる。

 精神科医であるジュリアスは、黒人と白人の両親をもつ、ナイジェリア系アメリカ人である。ニューヨークとブリュッセルを歩き回りながら、そこで見聞きした光景、会話、音楽、四季の断片から、さまざまな記憶を引き出す。それは、個人レベルにまで引き戻された人種差別の感覚だったり、街の光景に折り畳まれた歴史の書き換えであったりする。散歩しながら目に入る光景について語る、知的な”フラヌール文学”というらしい。

 目の前の光景に過去を幻視させる手さばきは見事だ。まるで、第二次世界大戦中に撮影された写真と、現代の同じ場所を重ね合わせた「歴史の亡霊」を見ているようである(本家は[Ghosts of History]だがメンテ中なので[カラパイア]をどうぞ)。3.11のグラウンド・ゼロにインディアンの虐殺の歴史を重ねる洞察は、有色人種の一人からWASPに対する「おまえが言うな!」に相当する。

 平穏に見える「いま」「ここ」でも、苦痛に満ちた過去があり、それを見ないように別の歴史で上書きしているにすぎない。先住民の虐殺や土地の強奪を「なかった」ことのように扱う”アメリカ人”に対し、主人公が抱く感情は描かれない。別のシーンで、ホロコーストを強調するあまり、黒人の虐殺の歴史が矮小化されることを指摘するところがある。差別や格差、暴力は一様ではない。あるものに焦点を当て、語ることで、別の記憶は「なかった」かのようにされる

 彼自身も、語られない。いや、もちろん過去について、学生時代に受けた体罰や、父の葬儀などを思い出しすのだが、それはあたかも、映画や絵画の描写のように語られる。語り手自身のことなのに、カメラを通じた被写体のように見えるのだ(実際、父の葬儀の記憶はエル・グレコとクールベの絵画に上書きされている)。

 ジュリアスは徹底的に傍観者視点であり、そこには、感情が書き落されている。感情が描かれていたとしても、それは他人の価値観からの借り物の憤りであり哀しみになる。深い仲になった彼女と別れるのだが、その別れ話も欠落している。言及しないので、意図的なのか、本当に記憶していないのか、分からない。「彼」がいないのだ。

 教養はあり、分析と洞察に優れているにもかかわらず、鼻持ちならないインテリ臭がぷんぷんする。表面の態度は穏やかなのに、感情を描かず、行動はマウンティングそのもの。

 読書会でも「この人から嫌な臭いがする」「良心が欠落している」「上から目線で独断する」といったコメントが出ていた。早い人は開始数ページで、鋭い人は冒頭の「そういうわけで(And So)」で、「こいつはスカした嫌なやつ」と読み取っている。

 この「嫌な感じ」は最終章の少し前で暴かれる。ある女性が、彼にレイプされたと告発するのである。それは、周囲に誰もいない二人きりのときで、彼の過去を淡々と暴きたて、今でも傷を負っており、何も言わない彼に対し、何か言うことはあるのかと問う。

 そこで彼が何か言ったのかもしれないし、言わなかったかもしれない。ただし、語りは、何ごともなかったかのように続けられるのである。その「何ごともなさ」が平淡すぎて、彼女が告発していることは、果たして事実なのだろうか? という疑問を抱いた人もいたくらいだ。「女の妄想説」「ジュリアスの記憶喪失説」という発想は面白いが、違うだろう。作家の意図は別にあると考える。

 それは、「語られなかった」ことにある。レイプは確かにあったし、告発されたことにより、何かが生じていた。だが、それは描かれていない。それはなぜか? 2つの見方がある。作家テジュ・コールとしての見方と、主人公ジュリアスとしての見方である。

 ひとつめ。作家テジュ・コールとしての理由は、本書のタイトルにある。オープン・シティとは、攻撃されないために武装解除を宣言した街のこと。「街」とはかつて城であり、城壁があり、塔の高みには矢倉や砲台が据え付けられていた。防衛設備があるということは、攻撃される可能性があり、ひいては街そのものにダメージを与えることになる。街を傷つけないよう、最初からそうした壁や兵器を外して(オープンにして)、そこを侵略するものの自由にさせる。

 これは、ジュリアスそのものだ。さまざまな立場や主義主張を知ってはいても、選択的にどれかに決めることもなく、結果、誰かと決定的に対立することもない。自分という心を守るため、「自分」が無いのである。そのときそのときに都合の良い意見に似せて自分を入れ替えているのだ

 もし「告発した女性に対する適切な態度」を何かの本なり映画で知っていたならば、それを返していただろうが、残念ながら、そんな持ち合わせがなかったのである。読書会では「サイコパスじみている」というコメントがあったが、言い得て妙なり。

 ふたつめ。主人公ジュリアスとしての理由は、彼が散歩の道すがら見たもの、聞いたものに埋め込まれている。インディアンや黒人への差別と暴力の歴史は、確かにあった。だが、それを上回る強さで3.11やホロコーストを振り返ることにより、相対的に「なかった」かのように扱われる。意図か偶然かにかかわらず、あるものを見るということは、それ以外のものは視線から外されるのである。

 その時の自分に都合のいいように、選択的に歴史を語ることで、あったはずの暴力が、「なかった」かのように扱われる。語られるべきものが、語られないことにより、なかったことにはできない。ジュリアスは自分の過去を正当化するつもりは(おそらく)ないだろう。だが、彼の「語り落とし」は、アメリカ人が、ユダヤ人がやってきたことと構造的に同じであることが、一言もその構造的な相似に触れることなく、炙り出されている

 この「構造的な相似形」は、読書会で皆と会話をしているうちに降りてきた。残念ながらジュリアスの傲岸さ、クズさ加減を叩くのに夢中で、同意を得るには至らなかった。

 いっぽう、ネットの感想に驚く。レイプの告発の箇所を、完全に読み落としているとしか見えない人がいる。好意的に見るならば、ネタバレ回避の思いやりかもしれないが、すくなくとも”ゼーバルトの再来”とか”知的なフラヌール文学”と絶賛されている方は、p.260をどう読んだのか知りたい。

 読書会で得たコメントによると、『オープン・シティ』はゼ―バルトに「寄せて」いるのだという。描写の所々でクッツェーやプルーストに似せた、パッチワークのような「フラヌールのパロディ」として読めるらしい。ゼーバルトは『アウステルリッツ』しか読んでいないので断言できないが、「自分がない」「寄せ集めの主義主張」は、まさにオープン・シティそのもの。

 「信頼できない語り手」に気づかない(?)まま、「フラヌール文学」と絶賛した評論家を鵜呑みにしている人を見ていると、「見えないゴリラ(Invisible Gorilla)」を思い出す。認知の錯覚で、予期しないものは「見えない」ことを示す実験だ。これだ。

 白いシャツを着たチームと、黒いシャツを着たチームが、バケットボールをパスしている。指示は、白シャツチームがパスした回数を数えろというのだが……この実験に参加した人の半分近くが「ゴリラ」の登場を見落とすことになる。「パスの回数を数える」という目的のため、白シャツの人の動きを注目していると、ゆっくりと画面を横切る「ゴリラ」を見落とすことになる。

 フラヌール文学という言葉に注意を奪われ、本書に埋め込まれた仕掛けを見落としている。これは、過去の暴力を「なかった」かのように扱うことを炙り出す構造と相まって、二重にも三重にも「なかった」ことにしている。読み手は、もはや傍観者ではない。だが、傍観者役としてしか振舞えないのであれば、それはこのクズと同じオープン・シティに居ることになる。

 これらがわたしの誤読なのか、深読みしすぎかの判断は、読者に任せたい。いわゆる「おまえが正しいんだろうよ、おまえの中ではな」でも良いが、それはそのまま、ジュリアスに返ってくる。

 さらに、ジュリアス自身の上から目線の教養マウンティングは、読み手にも裏返される。この痛々しさは、まさにわたし(読み手)自身のことではないのか? こいつをクズと切り捨てることはたやすい。だがそれは、自身の痛々しさから目を背け蓋をすることにならないか? それはわたしではないと切り捨てることは、ジュリアス自身がやってきた「別のものを注視することでなかったことにする」そのものではないか。

 読み終えた後、何度も問い直されているような気がしてくる。そういう意味で、居心地の悪さがじくじくと残る。小説家としてテジュ・コールが「叩かなかった一番大事な音」は、残響として続いていくだろう。

 このように幾度も考え直させられる点で、この読書会は大変良かった。ネット越しとは違って、反応がダイレクトに(ただちにという意味と、直接にという両方の意味で)戻ってくるのが良い。『ストーナー』をゴミクズ呼ばわりする人がいたり、政治的に正しいノーベル文学賞の話題に飛んだり、大変スリリングが数時間でもありましたな(アルコールが入っていなくて本当によかったwストーナーは戦争になるwww)。

 そして、課題図書がざくざくと増える。ただでさえ読みたい本が山とあるのに、さらに積みあがる。フラナガンから崩していきたい。

  リチャード・フラナガン『奥のほそ道』
  橋本陽介『ノーベル文学賞を読む』
  多和田葉子『地球にちりばめられて』
  友田とん『百年の孤独を代わりに読む』
  阿久津隆『読書の日記』


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