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横浜読書会「男と女」に行ってきた

 おしゃれなカフェで美味しいコーヒーをいただきながら、本について語り合う、それが横浜読書会。ずっと気になっていたが、ようやく参加できたので報告する。

横浜読書会とは

 まず場所がおしゃれ。関内駅から歩いて5分、Archiship Library&Cafe というライブラリとカフェを合体させたようなお店で、明るく静かで涼しい(←重要)ところでしたな。建築事務所の一部をカフェにしており、大量の建築関連の書籍(ほとんどが洋書)は、事務所のライブラリを公開しているとのこと。

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 次に主催者がおしゃれ。KURIさんという方が主催されており、サイト告知から参加者さばき、会場のセッティング、ファシリテーターまで全部一人で回している。めっちゃ元気、めっちゃ笑うボニータなり。朝にやる「朝の読書会」、哲学書を中心にする「考える読書会」、女性オンリーの読書会と、様々な場を取り仕切っている。今回が第59回とのこと。

 そして参加者がおしゃれ。大学生から社会人の比較的若い方が集まってくる。着こなしや語り口ですぐ分かる、場所柄なのか、上品で落ち着いた方ばかり。モヒカン刈上げオッサンのわたしにとって、少々場違いだったかも。

読書会の流れ

 読書会スタート! いきなり「青春の恋バナ」をすることになる。今回のテーマが「男と女」なので、自己紹介がてら過去話をせよというオーダー。まじかよ、浮いた話はおろか、暗黒学生時代だったわたしにとって難問に等しい。冷たい汗を流すわたしをヨソに、皆さんの話が甘酸っぱい! 淡い恋心を抱いていた先輩が卒業する日に「実は好きだった」と打ち明けられたとか、同窓会で実は両想いだったというオチや、別々の人生を歩んでいるけれど、この想いは一生抱えたままだよねという胸キュン話がどんどん出てくる。

 で、わたしの番。仕方がないので、小中高時代からの疑問を追いかけ続け、大人になって秘密を探り当てた「女の子の匂いを再現する」話をする。女子だけで着替えた教室は、なぜあのような匂いがするのか。いわゆる8×4とかハンドクリームといった「後付け」ではなく、「匂い」未満のあの「クる」感覚はどこから来るのかについて語る。進化と適応を駆使しつつ、あれは、夜の闇の中で相手が成熟した女性であることを嗅ぎ分けるための感覚なのだと、微に入り細を穿ちて解説する(詳細はリンク先)。ちなみに今ではAmazonで買える[女子校生のセーラー服の匂い]。凄い時代になったなり。

 おしゃれだった場の変態度が、MAXにまで引き上げられる。

 だが、主催者は動じない。KURIさんご自身も春画の解説本を持ってくるぐらいだから。解剖学的に極めて精緻な(ただしサイズ的には極めて巨大な)局部を眺めつつ、やっぱ読者の「見たい」欲を満足させるために大きく描いたんでしょうねとか、全裸が無くて着衣が多いのは、当時の流行を紹介するファッション誌としての役割もあったんだね、といった話をする。

紹介された本

 紹介される本は、ド定番といったところから、変化球、発想ずらし、本質を別の側面から捉えるといった、とりどりのものになる。

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 面白いな、と思ったのは、「男と女」というヒトの両側面から捉えようとすると、どうしてもステレオタイプなものに陥りがちなところ。ラブストーリーになるか、「男脳・女脳」とか「地図を読めない女・話を聞かない男」といったネタになる。いっぽう、とあるテーマを深く掘った作品を「男と女」という斬り口で見ると、そこには驚くほど多様かつ説得性のあるな男女像が浮かび上がる。

 たとえば、『美人画ボーダレス』は美しい女性をモチーフに絵(美人画)を採りあげ、ひたすらその作品と作者を紹介している。描き手は男である場合もあるし、女の場合もある。面白いのは、「なぜ美女を描くのか」というテーマに対し、男女の応答がキッパリと割れていること。女の場合だと、「理想の女を描きたい」というモチベーションがある一方、男だと「他に描くものなんてある?」ということに。

 あるいは、『リリーのすべて』。世界初の性別適合手術に成功した男と、その妻の話なのだが、実話をもとにしたフィクションだという。性同一障害に悩む夫と、夫を失うのか夫を自由にするのかに悩む妻の両面から描かれ、「性別とは何か」から男と女を突き詰めると、「エゴとは何か」というテーマに行き着く(←ここ重要)。映画が素晴らしく、「観てから読め」とのこと。

 面白いのは、『ソラリス』。いわずとしれたレムの傑作SFなのだが、これを「男と女」に持ってきたセンスが素晴らしい。惑星ソラリスの海の調査に訪れた科学者と、そこで彼が出会う(死んだはずの)女の謎は、「女とは何か」→「存在とは何か」→「記憶とは何か」につながってくる。男が女に対して抱いているものは何か? という斬り口からすると、ミステリの一種としても読めるし、哲学的逸話にもなる。

 わたしが紹介したのは、『なぜ理系に進む女性は少ないのか?』。ぶっちゃけ「男と女って、どちらが愚かでどちらが賢い?」と問うてしまうと、非常にポリティカルコレクトネスに反する。ふわっとした「男脳・女脳」で片付ける俗説ではなく、データとエビデンスに支えられた論文集である。結論からすると、認知能力や得意分野において性差があるのは事実だが、紹介の仕方によっては炎上案件になる→知性の性差という地雷『なぜ理系に進む女性は少ないのか』

 あと、恋は告ったほうが負けという原則と、恋は天才をバカにするせめぎあいが楽しすぎる『かぐや様は告らせたい』を紹介した。「いかにして相手から告らせるか」について凌ぎを削る超高校生級の男女を描いたラブコメだ。サブタイトルが「天才たちの頭脳戦」で最初はそれっぽかったのに、どんどん頭の悪いほうへ話が転がってゆくのが面白すぎる。恋は盲目というが、メタな意味で盲目になっているのがいいね。

 主催者KURIさんが紹介した『老首長の国』は、ずっと気になっていた一冊なのでありがたかった。[ふくろう]さん絶賛なので間違いないことは折り紙付きなのだが、なにゆえ「男と女」のテーマに? ある夫婦と、夫の義母兄弟が一緒に暮らす話だというが、かなり強烈な奴らしい。読めば必ず、「男と女ってなんだろう?」と自問したくなるそうな(愛とか性で割り切れたなら、もっと簡単なのにね……)。これは読む!

 テーマに沿ってお薦めを持ってくる形式は「スゴ本オフ」と同じだけれど、めっちゃおしゃれ! めっちゃ上品なのが「横浜読書会」ですな。紹介されたラインナップは次の通り。

『錦繍』宮本輝(新潮文庫)
『老首長の国』ドリス・レッシング(作品社)
『美人画ボーダレス』芸術新聞社(芸術新聞社)
『人間をお休みしてヤギになってみた結果』トーマス・トウェイツ(新潮文庫)
『女に』谷川俊太郎(集英社)
『リリーのすべて』デイヴィッド・エバーショフ(ハヤカワ文庫NV)
『青い花』志村貴子(F×COMICS)
『女子・結婚・男選び―あるいは“選ばれ男子”』高田里惠子(ちくま新書)
『我が家の問題』奥田英朗(集英社)
『短編工場』集英社文庫編集部(集英社文庫)
『白夜行』東野圭吾(集英社文庫)
『冷静と情熱のあいだ』江國香織(角川文庫)
『賭博と国家と男と女』竹内久美子(文春文庫)
『転身』蜂飼耳(集英社)
『だめんず・うぉ~か~』倉田真由美(扶桑社)
『愛する言葉』岡本太郎(イースト・プレス)
『バイバイ、ブラックバード』伊坂幸太郎(双葉社)
『なぜ理系に進む女性は少ないのか?』ウェンディ・ウィリアムス(西村書店)
『性食考』赤坂憲雄(岩波書店)
『かぐや様は告らせたい』赤坂アカ(集英社)
『ソラリス』スタニスワフ・レム(ハヤカワ)
『愛するということ』エーリヒ・フロム(紀伊國屋書店)

 スゴ本オフでも同様のテーマでやったのだが、そのときの結論がこの2つ(重要)。[スゴ本オフ:女と男]とラインナップを比較するのもまた一興。

“tumblrを見ていると、男の人が女の人を好きな程には女の人は男の人を好きじゃないかもという気がします”
“「男だから成り立つ物語」や「女でしかありえない展開」が、確かにある。つまり、逆は成り立たないことがあるのだ。”

スゴ本オフのお知らせ

 さて、次回のスゴ本オフは9/16(日)、渋谷某所でやります。テーマは「のりもの」だ。クルマや電車、飛行機や宇宙船といった乗り物から、馬やドラゴン、トトロも乗れる。絨毯や湯船ホウキに「乗る」ファンタジーもある。新聞や雑誌を「載りもの」にするのもアリ。ノリノリになれる音楽を持ってきてもいいし、波にのるならサーフボード、流行にのるならトレンドだ。「賭るか反るか」ならバクチになり、スケベな人は「男に乗る」「女に乗る」で艶談に引き込みたい(こんな夜に、オマエに乗れないなんて!)。気になる方は、[スゴ本オフ:のりもの]をチェックや!


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人形を考えることは、人間を考えることである『人形論』

 これ面白かった! わたしの興味の真ん中を貫くのみならず、「人間とは何か」を考える上で、新しい導線を示してくれるスゴ本。

 一言なら「人形の哲学」。人形に寄り添って、それを愛でる人間にも触れつつ、人間との関係性の上で「人形とは何か」を理論化しようとする。冒頭で著者自身も告白する通り、人形ワールドはあまりに広く深く多様であり、単一の本質に収斂することはない。これは、読み手の「人形体験」に応じて首肯いただけるだろう。

 わたしの場合、最も強烈だったのが、松丸本舗で球体関節人形に会ったとき(清水真理の人形だった)。書棚の一角の透明なケースに収められた”彼女”を見たとき、沸いてきたものを言葉にするのは難しい。美しさ、愛らしさ、醜悪さといった言葉をどんなに尽くしても、言語だけでは捉えきれない。『人形論』の著者・金森修は、その言葉で介入できない「何か」を承知の上で語ろうとする。

 まず、人形の歴史を振り返り、人形ワールドの概念的な整備を行う。まじないの対象物としての這子(ほうこ)や雛、欧州貴族階級にとってのビスクドールや現代日本のゴシックドール、さらに未来のロボットやレプリカント、ラヴドールなどを紹介しながら、人形ワールドの基底にあたるものを探る。

 それは、「呪術」「愛玩」「鑑賞」の3つの概念になるという。祈りや呪い、願いや恐れを体現する呪術的存在としての人形であり、可愛い・愛おしい・抱きたい存在としての愛玩的存在としての人形であり、制度化された芸術が先行し、その上で愛好される鑑賞的存在としての人形になる。

 さらに、人形は素材の如何にかかわらず、モノとして存在していなければならない制約がある。つまり、人形は物質性を持たねばならないという。この特徴は、呪術、愛玩、鑑賞のいずであっても、どの場合にも共通する前提となる。著者は、「物質性」という共通項を頂点とし、「呪術性」「愛玩性」「鑑賞性」からなる三角形を底辺とする「人形三角錐」を提示する。

 そして、この人形三角錐という概念的骨格を元に人間との関係性の観点から、人形ワールドを横断してゆく。それぞれの探究がたいへん興味深く、未知の事例の驚きのみならず、既知の人形譚の新たな断面を見出し、知的興奮がいやが上にも増す読書となった。

 たとえば、ピュグマリオニズム。自ら彫り上げた象牙の人形を溺愛するあまり、人形に命が吹き込まれる逸話が有名だが、いわゆる人形愛を超えた分析がなされる。『未来のイヴ』や乱歩、源氏の若紫などから、未熟な女性を思い通りに育て上げたいという願望の裏側に、人形愛が控えていることを指摘する。そして、人造人間や人形への愛には、どこかに死姦や屍体愛(ネクロフィリア)を彷彿とさせるものがあるという。

 さらに、澁澤龍彦『少女コレクション序説』を引きながら、人形愛を支える重要な要素として、人形の物質性を指摘する。人形は物体であって生体ではないばかりでなく、主体ですらない。ファウルズ『コレクター』を見るまでもなく、少女コレクションは犯罪以外にありえないものの、「観念の世界のみにおいて少女から主体性を剥ぎ取り純粋客体として見る余地」は残されているという。

女を一個の物体に近づけることは、同時にその人を純粋客体として位置づけることだ。それは女性を人形化することだ。そして想像の中で女性を蒐集し、女性から生命と主体性を取り上げることが、本物の人形への強い執着と重なり合う。人形愛はエロティシズムの発現そのものだが、同時にそこにはどうしても屍体愛(ネクロフィリア)の不穏な影が付き従うのである。

 面白いのは、人形の話をしているにもかかわらず、人間の(女の)話になっている。著者は気付いていないように見えるが、人形の「呪術性」「愛玩性」「鑑賞性」の観点は、まんま男性の女性に対するその観点に重ねた分析が可能である(やったらポリコレ攻撃を喰らいそうだが)。

 「政治的に正しくない」ついで言うなら、ラブドールを改造した「妊娠するアンドロイド」がある。「産む機械」に象徴される家父長制の生殖システムでは、理想化された妊婦像や母像が生産され、女性の身体機能をコントロールすることが強調される。そのカウンターが「妊娠するアンドロイド」が示すディストピアになる。このアートは女子大生が制作したものだが、もし男性だったならば、ポリティカル「イン」コレクトとして攻撃されていたことは想像に難くない。

 人形の話から始まる「人間の亜人化」論も面白い。著者は、人間が人間らしく生きていける条件を備えた範囲として「人間圏」を提唱する。その条件は2つあり、1) 生物学的に同種であることと、2) 同時代に属する人間集団が「人間として見なす」ことの両方が必須になる。「人間圏」は絶えず揺れ動き、その境界付近に住まう「境界人間」「人外」は、差別や揶揄、侮辱、無視、追放、殺害などの危険にさらされた存在だという。

 これ、抽象的に言っているけれど、かなり危険な人間性の議論に繋がる。すなわち、「人間圏」は文化や社会により変化し、それぞれが曖昧に重なり合うことだって可能になる。ロボットやレプリカント、脳死患者や強制収容所のユダヤ人、WASPに対置される黒人、ヒスパニック、アジア系移民、イスラム国との対立構造下でのムスリムなど、亜人化にする理屈は社会によって自在に決められることになる。

 人形は、この境界を行き来する存在になる。幼い(人間の)少女から大切に扱われ、いっときは「人間扱い」されるものの、少女の成長とともに飽きられ、捨てられ、埃にまみれて壊れゆく。「人形の魅惑は、その肌の下に湛えられている滅びの予感の中にあり、人形は最後に壊れなければならない」という。穢れを引き受ける代替物、少女に愛される特権的玩具、倉庫に放置されるがらくた―――そのいずれでもありうる人形は、「人間の隠喩」を具現化したものだというのである。

 「人形とは何か」について掘り下げるほどに、その問いは「人間とは何か」に迫ってゆく作業になる。人形について語っているのに、人間的存在の複雑さについての議論につながってゆくのが非常に面白い。

 人形を考えることは、人間を考えることにつながる。

Ningyou

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なんでもは知らないわよ、知ってることだけ 『知の果てへの旅』

 「なんでもは知らないわよ、知ってることだけ」……とある美少女のセリフだが、これ、科学の本質を言い当てている。だからこそ、「森羅万象は物理学で説明できる」「神は数学者である」という話を聞くと、「知るとは何か?」についてモヤモヤする。

 宇宙に果てはあるのか? 時間とは何か? 意識とは何か? 科学はすべてを知りうるのか……「人の知」の果てへ挑戦した本書のおかげで、このモヤモヤが晴れてくる。「科学では分からないことがある」という(これまた使い古された)セリフは、「まだ分かってないだけ」なのか、「完全に不可知」なのか見えてくる。同時に、本書のアプローチでは足りないところも見えてきて、大変たのしい読書となった。

 本書の紹介の前に、「知っている」について話したい。「知っている」とは何か、知っているだろうか? それは、名前を言えることだろうか。他と区別して認知・定義できることだろうか。メカニズムを理解して計算できることだろうか。予測したり再現できることだろうか。メタ的なら、「それがあることを信じている」状態だろうか。

 どれも「知っている」に相当するが、わたしはそこに主語「人が」を加えたい。知の限界を考える際に重要なポイントである。人が(それを)知っている、人が(それを)知らないという観点から検証するのだ。科学の客観性や普遍性が「人」という枠内で考えるなら、限界は「人」になる。「なんでもは知らないわよ、(わたし=羽川翼が)知っていることだけ」なのだ。ここを明確にしないと迷走するし、まさに著者は迷走している(ここが面白い)。

『知の果てへの旅』はどんな本か

 著者はマーカス・デュ・ソートイ、数学者だ。『素数の音楽』などが有名だが、数学という入口から知性の偉大さを知らしめる興味深いドラマを分かりやすく紹介してくれる。

 『知の果てへの旅』では、著者の身の回りのモノ―――サイコロや腕時計、チェロやチャットアプリ、クリスマス・クラッカー―――を題材に、ニュートン力学、相対性理論、カオス理論、量子力学という物理学の世界を一望し、ケプラーの法則やビックバン理論、多元宇宙論といった天文学の世界を見せてくれる。さらにニューラルネットワークから意識について斬り込み、非ユークリッド幾何学やゲーデルの不完全性定理から数学の「限界」に触る。知の世界への導き方が巧みで、あっという間に連れて行かれるだろう。

 その一方で、著者とともに「知の果て」で戸惑うことも請合う。おそらく、著者の頭には世界がこう見えているのだろう。「知らない」とは、自然や宇宙、意識や現象であり、「知っている」は知性となる。要するに、知性が自然を説明するという構造である。

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 「知っている」から出発した科学の発展に従い、「知らない」世界が「知っている」世界になってゆく。それは、「『知らない』ことを知っている」が増えることと同義である。ちょうど、未知の大海に浮かぶ既知の「島」が成長するにつれ、島の海岸線(=未知と既知の境目)が伸び・複雑になるのと同じだ。

 この「知っている」もののうち、コアにある抽象的なものとして、数学や論理学がある。そこから派生して自然を説明する際の体系ができあがっている。コアから遠ざかれば遠ざかるほど具体性を増す一方で、観察結果による変更を余儀なくされる。

 「知っている」「知らない」の境界線が微妙に変わるくらいならビクともしないが、説明体系を揺るがすような事象が生じた場合どうするか? 系の変更を最小にする方向で改訂するか、あたらしい学(たとえば量子力学)を導入するか、あらたな例外的な係数や概念(たとえばダークマター)を作り出す。数学や物理学が見せる、一種の必然性は、この「知っている」を護るかのように成り立つ系のおかげである。

「知の果て」にあるもの

 物理学や数学で全てを説明できると言い切る人は、系が護られているだけでなく、「そうなるように系ができている」ことに気づかない。そして、この系の中にいる限り、矛盾を孕んでいるかどうかすら分からない。著者は、ゲーデルの不完全性定理を援用しながら、今の科学の枠組みでは、宇宙の外側や意識の内側がどうなっているか分からないという。

 すなわち、ある閉じた系にいる限り、その外側の系を説明できない(たとえできたとしても、絶対的な"正しさ"に至ることはない)というのである。P.497から引用する以下の文が、「知の果て」の行き着く先になる。

おそらく、自分たちがその系の一部であるこの宇宙を、内側から理解することは不可能なのだろう。宇宙がある量子波動関数で記述されているとして、その関数を観察するには系の外の何かが必要なのではないのか。カオス理論を踏まえると、系の一部を孤立した問題として理解することは不可能である。なぜなら宇宙の反対側にある電子の影響で、カオス的な系がまったく異なる方向に進展する可能性があるからで、系全体を理解しようとすると、系の外に立たねばならない。これを理解することは、意識を理解するという問題についてもいえて、人は自分の頭、つまり自分自身の系に閉じ込められていて、ほかの人の意識にアクセスできない。

 著者はウィトゲンシュタインを引きながら、「語り得ぬものについては、沈黙せねばならぬ」を改変し、「知りえぬものについて、想像力を働かすことができる」ほうが望ましいという。この「知りえぬもの」が原書のタイトル(What We Cannot Know)につながる。

旅をやりなおす

 人類の叡智の歴史を振り返り、クオークの世界から宇宙の果てまで旅をし、知の果てにたたずむ著者の戸惑いは、読み手に伝染するかもしれない。だが、安心するといい。わたしたちには羽川翼がいる。「なんでもは知らないわよ、知ってることだけ」なのは、羽川の範囲なのだ。科学は、あくまでも「人の範囲」に限定された知なのである。すると、世界はこう書ける。

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 まず、「人が知っている」「人が知らない」という、『知の果てへの旅』が扱っている世界がある。そして、その外側に、知るとか、知らないとかと無関係の世界がある。

 それは、「知らないことを知らない」ではないし、「知っているのか、知らないのか、分からない」でもない。また、今は知らないけれど将来的に発見・創造する概念や事象でもない。便宜上、「知っている、知らないの外」と書いたが、本当なら指差すこともできない。「人が(それを)知っている/知らない」の「それ」で指定できないからね。ウィトゲンシュタインが、「語りえぬもの」と語ったものがこれ。そして、ソートイが ”What We Cannot Know” として指したかった(しかし思い至らなかった)概念がまさにこれなのである。

 そして、この「知っている、知らないの外」から考えることができるなら、言葉や数式、さらにそれらを支える文化に拠らない知性という斬り口ができる。この観点から、「知の果てへの旅」をふたたびやりなおすことが。できる。いくつかアプローチを示しておこう。

 たとえば、環境とともに身体化された知性を研究したバレット『野性の知能』[書評]を読むと、知性といえばヒトの専売特許みたいに思っていることが誤りだということに気づく。動物や昆虫、あるいは単純なプログラムで動作するロボットが、あたかも「知性がある」ように振舞うのは、実際にヒトのような知性があるからではない。実際は、生物が適応的に振舞う際、あたかも原因となっているかのような情報に反応しているに過ぎない。

 この考えに基づいて、ヒトの認知を代行させた上で、集積し、一定のプロセスでヒトに分かる判断結果を出すという仕組みが考えられる。ベタならAIの深層学習だが、SFからだと昆虫や微生物を用いたセンシングシステムが浮かぶ。ヒトの”知性”の外部化である。身体化された認知から「知っている」ことの再定義ないしアップデートするアプローチである。

 あるいは、ユクスキュルの環世界から数学を見ると、ヒトが知っている「数学」という世界そのものが、離散的な構造から出発していることに気づく。2つの目、10本の指を持ち、「私」という一つの認識主体がある。仮に知能を持つ存在が手や指を持たなかったら? 深海に棲むクラゲのような種族だったとしたら? 周囲にあるのは水で、基本的な知覚データは運動、温度、圧力だけになる。このような中では、不連続な量は発生しないので、数えるものは何もない。
 
 不連続な量が発生する世界に身体を持つ存在にとって、「数を数える」という行為は自然なものである。そして、「自然」数を始めとし、分数、整数、有理数、無理数、実数、複素数と数を拡張していった。同様に図形や構造、空間といった数学的なテーマも、人の身体や知覚を基盤とし、そこからの組み合わせ・対応付けを繰り返すことによって拡張していったといえる。この歴史をいったん外して、仮に、不連続な世界で「数学」をやり直すとしたら、どのような数学になるだろうか? その数学はおそらく、「(人が)知っている、知らない」の外側に至るアプローチとなるだろう。

 まだある。「(人が)知っている」その「知」は、本当の意味で普遍的か? 歴史や文化を超えているか? 著者は、この旅を始めるにあたって、神の存在の吟味から始めている。神が存在すると主張することは、宇宙に関して答えられない問い(=不可知)があると主張することと等価であるという。全知の神を持ってきたがために、「知っていること」の基盤である科学の前が、キリスト教であるバイアスに気づいていない。

 たとえばビックバン理論が現在一般的とされている理由が、まさに「光あれ!」に支えられていることに気づいていない。聖書が正しいと言いたいわけではない。ビックバン理論を「知っている=信じる」理由として、聖書の影響があると言いたいのである。

 現在の宇宙を(物理学から)説明する際、ビックバン理論以外に他の仮説が多々あったはずだ。そして、他の仮説は、ビックバン理論と同じくらい確からしく説明できているはずである。なぜなら、誰もそんなものを”見た”わけでもないし、残された証跡を物語づけられるなら、その物語の数だけ仮説が成り立つ(要するに、観測結果と現在の物理学と一貫性を保てる仮説であれば、”なんでもあり”なのだ)。

 そして、なぜビックバン理論が採用されたかを考えるなら、キリスト教を信仰する/しないにもかかわらず、その文化で育った人々が多数を占める集団だからと言う他はない。聖書を信じているからではなく、キリスト教文化により受け入れやすさの下地ができているからになる。

 これは、多宇宙論に対する「居心地の悪さ」についても同様のことがいえる。ソートイ自身、本書で「居心地の悪さ」に言及しておきながら、その理由として「検証不可能だから」で片付けている。これは理由として不十分だ。本当は、唯一神と多宇宙の相容れなさが、彼を居心地悪くしている。ソートイは無神論者であるが、キリスト教文化に影響されたパラダイムを自覚できていない。

 問題は宗教ではない。歴史を振り返ると、宗教に取って代わる形で科学が進展してきたことはすぐわかる。最初の「知っている」の定義を思い出してほしい。「それがあることを信じる」ためには、多かれ少なかれ文化や社会の影響を受ける。完全に独立した「知」など存在しえない。重要なのは、その影響に自覚的であるかどうか、という点にある。

 そうすることで、「知っている、知らない の外」があることに気づける。異なる文化や歴史を持つ者であれば、「知っている、知らない の外」から逆方向に「知っている」に至る航路を見いだせるかもしれない。

 どんなに科学が発展しようとも、「ほんとうに知る」に至ることはない。科学はただ観測可能な現象を正確に予測・再現する理論構築の営みにすぎない。そして、科学の歴史とは廃棄された理論の墓場になる(エーテル、フロギストン等)。いま成功しているからといって、その理論が真である理由にはならない。なぜなら、正しかろうと誤っていようと、経験的に正確な予測を行うことができるからね。

 だから、この知の果てへの旅をやりなおすには、羽川さんのこの言葉がふさわしい……「なんでもは知らないわよ、知ってることだけ」

Tinohate

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おっさんから若者に贈る「経験を買う」6冊

 結論から言うと、経験は買える。

 適切なタイミングで適切な本と出会うことで、しなくてもいい経験や、身につけておくべき知恵を”買う”ことができる。今「おっさん」である私から、20年前の「若者」だった私に、いい仕事をする上で読んで欲しい本を選んだ。

 20年前は、炎上プロジェクトに飛び降りて、鎮火しつつ撤退する「しんがり」役を仰せつかっていた。負けることは決まっているが、死なないように生きることばかり考えていた。将来に漠然とした不安を感じていたものの、とにかく目の前の障壁をクリアすることが先決だと思っていた。

 今はかなり違う。

 身をもって得た経験や教訓はあるが、代償は大きく、もっと効率よく結果につなげることができたはず。この「効率」とは要するに時間だ。莫大な時を費やして手に入れた経験は確かに得難いが、そんなことをしなくても積むことはできた。どうすれば可能か、今なら分かる。

 それは本を読むことだ。本を読むことで、莫大な時を使わずとも経験や教訓を身につけることができる。いわば、本を読むことは時を手に入れることに等しい。ここでは、おっさんの「私」から若造の「私」に向けて、この「時」を手に入れる本を6冊選んだ。若いときに読んでおくと、チート的に経験を積める。

1. 緊急度×重要度の話

 最初は「本」ではなく小話だ。もしあなたが若者で、このコピペを知らなかったのであれば、良かった! ぜひ読んで欲しい。

*********************************************
ある大学でこんな授業があったという。 
「クイズの時間だ」教授はそう言って、大きな壺を取り出し教壇に置いた。
その壺に、彼は一つ一つ岩を詰めた。壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、彼は学生に聞いた。
「この壺は満杯か?」教室中の学生が「はい」と答えた。
「本当に?」そう言いながら教授は、教壇の下からバケツいっぱいの砂利をとり出した。
そしてじゃりを壺の中に流し込み、壺を振りながら、岩と岩の間を砂利で埋めていく。
そしてもう一度聞いた。
「この壺は満杯か?」学生は答えられない。
一人の生徒が「多分違うだろう」と答えた。

教授は「そうだ」と笑い、今度は教壇の陰から砂の入ったバケツを取り出した。
それを岩と砂利の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。
「この壺はこれでいっぱいになったか?」
 学生は声を揃えて、「いや」と答えた。
教授は水差しを取り出し、壺の縁までなみなみと注いだ。彼は学生に最後の質問を投げかける。
「僕が何を言いたいのかわかるだろうか」

一人の学生が手を挙げた。
「どんなにスケジュールが厳しい時でも、最大限の努力をすれば、
 いつでも予定を詰め込む事は可能だということです」
「それは違う」と教授は言った。

「重要なポイントはそこにはないんだよ。この例が私達に示してくれる真実は、
大きな岩を先に入れないかぎり、それが入る余地は、その後二度とないという事なんだ」
君たちの人生にとって”大きな岩”とは何だろう、と教授は話し始める。
それは、仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、家庭であったり・自分の夢であったり…。
ここで言う”大きな岩”とは、君たちにとって一番大事なものだ。
それを最初に壺の中に入れなさい。さもないと、君達はそれを永遠に失う事になる。
もし君達が小さな砂利や砂や、つまり自分にとって重要性の低いものから自分の壺を満たしていけば、
君達の人生は重要でない「何か」に満たされたものになるだろう。
そして大きな岩、つまり自分にとって一番大事なものに割く時間を失い、その結果それ自体失うだろう。
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 これ、もっとシンプルにすると、緊急度と重要度のマトリックスになる。

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 説明不要かもしれないが念の為。

  • A [緊急かつ重要] … 鳴り響く火災報知器/歯痛
  • B [緊急ではないが重要] 体力作り/教育費の積立/学習/パートナーとの会話
  • C [緊急だが重要ではない] いま鳴っている電話/あらゆる雑用
  • D [緊急でも重要でもない] ひまつぶしにスマホを触る

 ここで言う「岩」とはBのことである。最初に考えて準備しておかないと、いくらでも後回しになってしまう。そして、今は緊急ではないとしても、時が経つにつれて緊急度が上がってゆき、最終的にAの「緊急かつ重要」になる。そうなったときにリカバリーするのは、かなり難しい。

 しかし、わたしは「砂」や「水」に相当する、すなわちCやDの雑用やひまつぶしばかりで時を失った。時間はどう使ってもなくなる。AやBで使おうと、CやDで使おうと、それだけ時間が経過したら、失われたものとなる。

 「あなたの口座に毎日100万円振り込まれるが、一日たったら消えてしまう」のであれば、なんとかしてその100万円を使い切ろうとするだろう。この「100万円」を「24時間」にしても同じなのに、なぜ無駄にするのか。いまから何かをしようと(あるいはしまいと)する際、「これは本当に今のわたしにとって重要なのか」を考えるのには、時も金も同じなり。重要なものからやろう。それを決めるのは、わたしだ。

2. わたしを蝕む「怒り」と「欺瞞」

 次は「怒り」と「欺瞞」だ。良い仕事をするとき、対処すべきリスクや障壁がある。若いわたしを振り返ると、「怒り」と「欺瞞」の2つこそが、リスクや障壁の根っこのところに居座っていた。

 若い頃のわたしは、怒ってばかりいた。思い通りにならないとき、馬鹿にされていると感じたとき、不公正な仕打ちをうけたとき、カッとなって当り散らしていた。怒っているそのときだけでなく、寝しなに思い出して腹を立て、そのまま眠れぬ夜を過ごしたこともあった。『怒らないこと』の著者のアルボムッレ・スマナサーラによると、「怒ることは、自分で毒を飲むのと同じ」だそうな。怒ることで、自分を壊してしまう。わたしは毎晩、毒を飲みながら寝ていたことになる。

 本書は、怒りとは何かについて掘り下げ、怒りの根っこにあるものを探し当てる。どんな原因であれ、人が怒るという行為には、必ず共通する思考が存在する。その、怒りの根っこにあるものは「私は正しい」という思いだという。これは、他人に対する怒りだけでなく、自分自身に向けられる怒りも同様だという。

 つまりこうだ。「私にとって正しいなにか」があって、それと現実がずれているときに、人は怒る。「私は正しい」という意思があるのが根本で、実際そうではない出来事に会うとき、そのせいにする。対象は自分も含まれる。他人を責めるだけでなく、自分自身を追い込む「怒り」も、その根っこには「私は正しい」がある。

 ではどうすれば良いか? 怒りから離れ、怒りのない人生を手に入れるには?

 ありがちな、怒りを「押さえ込む」「発散させる」はよくない。なぜなら、これは別の怒りの感情を呼ぶことになるから。また、ストレスのように発散させるというのは、ごまかしにすぎぬ。怒りでもって怒りを制するのは、毒をもって毒を制することのように見えるが、それ飲むの自分だぜ。

 ブッダが説き、本書で紹介している方法は、「怒りを観る」だ。怒りは観られた瞬間、消える。怒りが生まれたら、「あっ、怒りだ。これは怒りの感情だ」とすぐに自分を観察してみろと提案する。「今この瞬間、私は気持ちが悪い、これは怒りの感情だ」と外に向いている自分の目を、すぐに内に向けて"観る"ことで、怒りは相対化され、消えるというのだ。

 しかし、怒りの根っこの「私は正しい」という思いに気づくのは、難しい。なぜなら、正しい/正しくないを含めて全て「私」なのだから。仮に自分で自分に嘘を吐いていたとしても、「嘘」は嘘としてではなく後付けの理由として認識される。こと自分に関する限り、嘘を嘘と見抜けない。

 『自分の小さな「箱」から脱出する方法』は、この「自己欺瞞」を暴く。自分で自分に吐く嘘を「箱」というメタファーで表し、家族や職場、学校など、身の回りの人間関係の「うまくいかなさ」は、この自己欺瞞の「箱」に陥っているのが原因だという。

 あるビジネスマンに起きた出来事を小説仕立てで追いかけていくうちに、「これは自分のことなのかも……」という気になってくる。「箱」をキーワードに、自己欺瞞→自己正当化→防御の構え→他者への攻撃→他者のモノ化、という連鎖が見えてくる。そもそもの原因は「自分への裏切り」であることも腑に落ちる。自己正当化の仮面がそのまま自分の性格と化し、いくつもの仮面を持ち歩き、自己正当化を正当化するため、相手の非をあげつらう。

 どうすればよいのか? どうすれば、この自己欺瞞の罠から抜け出すことができるのか?

 それは、個々人の経験に則して、問いかけと答えを掘り下げてゆくしかない。本書は、コーチングの手法を用い、「自分の行動」と「その時の自分の感情」という疑いようのない事実から出発し、最終的に自分への背信(=自己欺瞞)と向き合う。

 しかし、いったん「箱」を認めることで、そこから出ることができる。「怒り」と同様に、「箱」を”観る”ことである。そうすると、これまで自分の何が人間関係をうまくいかなくしていたかが見えてくる。どれだけ人間関係を傷つけていたかに気付いて、ぞっとするかもしれない。だが、いったん「箱」が分かったならば、もっと楽に人と付き合えるようになる。自分の嘘と向き合うことは辛い経験かもしれないが、これは読書で”買う”ことができる経験なり。

 『怒らないこと』と『自分の小さな「箱」から脱出する方法』、この2冊で怒りの無い人生にたどり着いたわけではない。いま、怒りから完全に自由であるかというと、そんなことはない。自分に嘘を吐くのはやめたかと言うのであれば、それは「嘘」だ。

 しかし、カッとなりそうな時、「これは怒りだ」と自覚できるようになった。また、自己欺瞞を認められるようになった。そして、その根っこにある「私は正しい」を支える感情―――現状への不満、不公正な感覚、あるいは将来への不安など―――をコントロールすることで、怒りを予防するようになった。怒りとはすなわち、こうした不満や不安から導き出される二次感情なのだから。

3. しなくてもいい苦労を回避する

 「若いうちの苦労は買ってでもせよ」という奴を信用するな。そいつは売るほうだから。しなくてもいい苦労は回避できる。なぜなら先人が苦労した上で、そいつを本にしているから。苦労は本屋に売っている。

 この、「しなくてもいい苦労」の最たるものは、問題の「問題化」だ(人によっては「課題化」とも言う)。世の中、「これは問題だ」と誰もが明白に言えるような問題は、実は少ない。

 問題のように見えるのは一面からだけで、それは別の問題Bの原因だったりする(そして問題Bを解決することで解消する事象だったりする)。あるいは、その問題は別の人にとっては問題ですらなかったりする。さらに、その問題を問題視する人の価値観が変わったり、時の経過や状況変化によって「問題」にならなくなったりする。利害や因果や抽象度が入り組んでいて、問題が特定できなかったりする。その問題を解決するリソースこそが「問題」な場合や、問題視している人自身が「問題」の場合もある。世の中の問題は、「問題」の形をしていない。

 これに応えたのが、『問題解決大全』になる。哲学、歴史、経済学、人類学、数学、物理学、心理学、生物学、文学、宗教、神話、そして学際研究の分野で培われた問題解決技法が、37のツールに結集している。

 問題とは何か、本書の定義はシンプルに断言する。すなわち、「問題解決とは、"~したい"と思うことを実現すること」だという。「なんかイヤだ」と感じていることに言葉を与える。「~だといいのに」の対象をもっと具体的にする。その上で、そちらに向かうために、どういうアプローチをすれば良いかをガイドする。つまり、「思い」に言葉と形を与え、自分自身も含めた誰かに伝えられるように可視化する。『問題解決大全』は、問題を可視化し、「正しく問う」ためのガイドなのだ

 いったん「正しく問う」ことができるなら、後はどう捌くかの話だ。人類初の問題に直面することは、普通の人生では少ない。誰かが先に悩み、取り組み、解決してきている、既知の技法なり。「正しく問う」から「解決法を選ぶ」まで、使うことができる。”買える経験”を凝縮した一冊。

 次はPMBOK、一言なら「プロジェクトを成功させるための知恵と経験を体系化したもの」になる。正式名はプロジェクトマネジメント知識体系(Project Management Body of Knowledge)だ。PMPの資格試験の準備で読みこんだが、ここに書いてある”経験”は一生モノだと思う。

 なぜなら、上手くいく”考え方”が身につくから。

 一般に「失敗学」と呼ばれる、いわゆる「べからず集」というものは沢山ある。こうするとプロジェクトは失敗することは、様々な事例つきで遍く知れ渡っている。だが、失敗する手法をしなければ上手くいくかというと、そうではない。失敗したやり方は状況によっては成功したやり方と同じだから。

 一方で「成功本」と密かに呼んでいるビジネス本がある。「こうすると上手く行く」というメソッドを並べただけの本で、読んだだけで仕事がデキる気にさせてくれる(でも何の役にも立たない)。たまたま上手く行ったやり方を、状況・立場・タイミングをガン無視して、万能薬みたいに売るのは詐欺に等しい。

 上手く行く「やり方」は皆知っているはずだ。ダンドリ8割、実行よりも計画フェーズに重きを置く「べき」だし、リスク対策費を見込まないのは「べからず」になる。だが、やり方を踏襲するだけで上手く行かない。どのように「考えれば」上手く行くやり方になるのか? というアプローチが必要になる。

 たとえば、計画に重きを置くというが、具体的にどう考えれば重きを置いていることになるのか? PMBOKでは、計画フェーズにおいて「プロジェクトマネジメント計画書」を作成するとあるが、そのフェーズのインプットにも「プロジェクトマネジメント計画書」がある(下図参照)。これ、過去の計画書をベースに「その」プロジェクトのスコープ、タイム、コスト、リスクを計画せよ、という考え方による。すなわち、計画書は1回作ったら終わりではなく、計画書そのものが資産であり次のプロジェクトへのインプットになるというのだ。マネすりゃいいってものじゃない。これ、実際にPMとして痛い目に遭わないと気づきにくい「考え」なり。

Keikaku

 もちろんPMBOKには方法論も体系化されている。だが、これらを通じて、プロジェクトマネジメントという”経験を買う”ことができる(書影はPMBOK5版にした。第6版も出ているがどえらい高価なので)。

4. 仕事に飼いならされないために

 与えられたタスクを繰り返すうちに、タスクが内面化される。

 なぜそれをしているのか、そのタスクの外側がどうなっているのかに疑問を抱かなくなる。そうしているうちに、仕事ができるという時間ぎれとなる。「クイズの時間」でいう岩だったものが、なぜ岩だったのかを思い出せなくなる。そうやって仕事に飼いならされないためにお勧めしたいのがこれ。

 まず、『自分の仕事をつくる』。デザイナー、サーフボード・シェイパー、パン職人など、様々な仕事をしている人たちへのインタビュー集だ。共通しているのは、それぞれ受け持っている仕事を「自分の仕事」にしていることだ。職業に限らず、仕事と人の関係性が密で、アウトプットには匿名性があるが、「○○さんの仕事」として応対しようとしている。

 つまりこうだ、現代の人は、モノ(加工物)に囲まれて生きている。目の前のパソコンからソフトウェア、天井、窓、道路、建物、あらゆるモノが周りにある。ということは、それらは誰かが製造・創造したアウトプットになる。すなわち、あらゆるモノの背後には、それをつくった・提供する人が存在しており、アウトプットは人の仕事の結果になる。

 世界は、誰かの仕事で作られている(by ジョージア)といっていい。そして、その一端は「わたしの仕事」でもあるのだ。モノやサービスは、人の仕事の結果であることを確認することで、仕事を通じて世界を作る役目が見える。そこまで大げさにならなくても、今の自分にとっての「岩」が何であるかを、もう一度見直すことができるだろう。

 日常に埋没している感覚がないのなら、状況を反対側から見るという手もある。小説がそれを可能にしてくれる。『タタール人の砂漠』が強烈だ。辺境の砦で、いつ攻めてくるかも分からない「タタール人」を待ち続ける若者の物語である。

 最上のものを、みすみす逃してしまった。目の前を通り過ぎてゆく幸せを、放置してしまった自分の愚かしさを、取り返しの付かなさを、ゆっくり、じっくり噛みしめる。残りの人生ぜんぶを使って、後悔しながら振り返る。そして、なにか価値があることが起っているのに、自分は一切関与できない。じっと待ち続けるあいだにも、時は加速度的に、容赦なく流れ去る。

 だが遅すぎた。何も始まっていなかった人生であることを、人生の最後になって知るということは、なんと残酷なことか。“なにか”を待つのが日常である限り、いつまでたっても、“人生”は始まらない。時とは、命を分割したものであり、日々の積分こそが人生なのだ。これが、わたしの人生でなくて、本当によかった―――そう痛切に感じられる。

 これは、人によると、”手遅れの人生経験を買う”ことで、自分の人生を(読了後から)やり直すことができる一冊なのだ。

おわりに:経験は買える、本屋で売ってる

 何度でも言うぞ、経験は買える。本屋で売ってる。ただ適切なタイミングで適切な本に出会うことが肝心なのだ。

 教科書通りに対応できる課題は、教科書を読めばいい(あるいは誰かに頼ればいい)。だが、問題が自分の内側にあり、かつ教科書通りに扱えないものについては、痛い目に遭ってきた。それがわたしの”経験”だが、同じ経験にそんな目に遭う必要はない。いまの状況に対し、迂回も予習もできる。「酷い目に遭わないと身につかない」なんて大嘘である。

 愚者は自分の経験に学ぶが、学んでいるうちに一生を費やすという。そうならないために、予習して迂回ルートを押さえておこう。

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ネタバレ有りで『オープン・シティ』を語ろう(『オープン・シティ』読書会レポート)

 読むことは人を豊かにし、話すことは人を機敏にし、書くことは人を確かにするという。だから、テジュ・コール『オープン・シティ』の読書会で語ったこと、聞いたことを書く。

 結論から言うと、初読の見解が更新され、新たな視点を得られた。また、異なる意見がその場で展開されることで、わたしの見解を補強することができた。残念ながら同意は得られなかったが、目的は同意ではない。一冊の本から、いかに感情や経験を汲み上げるかだ。その意味で、読書会に参加できてよかった。主催の uporeke さん、ありがとうございます(uporeke さんのレポートは、[第57回読書部テジュ・コール『オープン・シティ』]をどうぞ)。

 このブログは基本的に誉めるスタンスだし、ネタバレを回避した書き方を心がけている。
だが今回は、その自縛を外すので、未読&読むつもりの方はご注意を。ネタバレ無しの書評は[信頼できない読み手にさせる『オープン・シティ』]をどうぞ。

 小説で重要なことは、全部書かない。優れた小説家は、一番書きたいことを「書き残す」ことによって読み手に埋めてもらう。「戦争反対」の4文字で済むのに、なぜ長編小説を書くのか? それは、その4文字以外で伝えたい悲惨さや愚劣さがあるから。村上春樹が「優れたパーカッショニストはいちばん大事な音を叩かない」という名言を吐いたが、同じことである。

 ”ゼーバルトの再来”と誉れ高いテジュ・コールの『オープン・シティ』は、この「書き残し」がポイントになる。”教養高い”洞察に優れた主人公の語りに魅了されていると、彼が何を言っていないかを見落とすことになる。

 精神科医であるジュリアスは、黒人と白人の両親をもつ、ナイジェリア系アメリカ人である。ニューヨークとブリュッセルを歩き回りながら、そこで見聞きした光景、会話、音楽、四季の断片から、さまざまな記憶を引き出す。それは、個人レベルにまで引き戻された人種差別の感覚だったり、街の光景に折り畳まれた歴史の書き換えであったりする。散歩しながら目に入る光景について語る、知的な”フラヌール文学”というらしい。

 目の前の光景に過去を幻視させる手さばきは見事だ。まるで、第二次世界大戦中に撮影された写真と、現代の同じ場所を重ね合わせた「歴史の亡霊」を見ているようである(本家は[Ghosts of History]だがメンテ中なので[カラパイア]をどうぞ)。3.11のグラウンド・ゼロにインディアンの虐殺の歴史を重ねる洞察は、有色人種の一人からWASPに対する「おまえが言うな!」に相当する。

 平穏に見える「いま」「ここ」でも、苦痛に満ちた過去があり、それを見ないように別の歴史で上書きしているにすぎない。先住民の虐殺や土地の強奪を「なかった」ことのように扱う”アメリカ人”に対し、主人公が抱く感情は描かれない。別のシーンで、ホロコーストを強調するあまり、黒人の虐殺の歴史が矮小化されることを指摘するところがある。差別や格差、暴力は一様ではない。あるものに焦点を当て、語ることで、別の記憶は「なかった」かのようにされる

 彼自身も、語られない。いや、もちろん過去について、学生時代に受けた体罰や、父の葬儀などを思い出しすのだが、それはあたかも、映画や絵画の描写のように語られる。語り手自身のことなのに、カメラを通じた被写体のように見えるのだ(実際、父の葬儀の記憶はエル・グレコとクールベの絵画に上書きされている)。

 ジュリアスは徹底的に傍観者視点であり、そこには、感情が書き落されている。感情が描かれていたとしても、それは他人の価値観からの借り物の憤りであり哀しみになる。深い仲になった彼女と別れるのだが、その別れ話も欠落している。言及しないので、意図的なのか、本当に記憶していないのか、分からない。「彼」がいないのだ。

 教養はあり、分析と洞察に優れているにもかかわらず、鼻持ちならないインテリ臭がぷんぷんする。表面の態度は穏やかなのに、感情を描かず、行動はマウンティングそのもの。

 読書会でも「この人から嫌な臭いがする」「良心が欠落している」「上から目線で独断する」といったコメントが出ていた。早い人は開始数ページで、鋭い人は冒頭の「そういうわけで(And So)」で、「こいつはスカした嫌なやつ」と読み取っている。

 この「嫌な感じ」は最終章の少し前で暴かれる。ある女性が、彼にレイプされたと告発するのである。それは、周囲に誰もいない二人きりのときで、彼の過去を淡々と暴きたて、今でも傷を負っており、何も言わない彼に対し、何か言うことはあるのかと問う。

 そこで彼が何か言ったのかもしれないし、言わなかったかもしれない。ただし、語りは、何ごともなかったかのように続けられるのである。その「何ごともなさ」が平淡すぎて、彼女が告発していることは、果たして事実なのだろうか? という疑問を抱いた人もいたくらいだ。「女の妄想説」「ジュリアスの記憶喪失説」という発想は面白いが、違うだろう。作家の意図は別にあると考える。

 それは、「語られなかった」ことにある。レイプは確かにあったし、告発されたことにより、何かが生じていた。だが、それは描かれていない。それはなぜか? 2つの見方がある。作家テジュ・コールとしての見方と、主人公ジュリアスとしての見方である。

 ひとつめ。作家テジュ・コールとしての理由は、本書のタイトルにある。オープン・シティとは、攻撃されないために武装解除を宣言した街のこと。「街」とはかつて城であり、城壁があり、塔の高みには矢倉や砲台が据え付けられていた。防衛設備があるということは、攻撃される可能性があり、ひいては街そのものにダメージを与えることになる。街を傷つけないよう、最初からそうした壁や兵器を外して(オープンにして)、そこを侵略するものの自由にさせる。

 これは、ジュリアスそのものだ。さまざまな立場や主義主張を知ってはいても、選択的にどれかに決めることもなく、結果、誰かと決定的に対立することもない。自分という心を守るため、「自分」が無いのである。そのときそのときに都合の良い意見に似せて自分を入れ替えているのだ

 もし「告発した女性に対する適切な態度」を何かの本なり映画で知っていたならば、それを返していただろうが、残念ながら、そんな持ち合わせがなかったのである。読書会では「サイコパスじみている」というコメントがあったが、言い得て妙なり。

 ふたつめ。主人公ジュリアスとしての理由は、彼が散歩の道すがら見たもの、聞いたものに埋め込まれている。インディアンや黒人への差別と暴力の歴史は、確かにあった。だが、それを上回る強さで3.11やホロコーストを振り返ることにより、相対的に「なかった」かのように扱われる。意図か偶然かにかかわらず、あるものを見るということは、それ以外のものは視線から外されるのである。

 その時の自分に都合のいいように、選択的に歴史を語ることで、あったはずの暴力が、「なかった」かのように扱われる。語られるべきものが、語られないことにより、なかったことにはできない。ジュリアスは自分の過去を正当化するつもりは(おそらく)ないだろう。だが、彼の「語り落とし」は、アメリカ人が、ユダヤ人がやってきたことと構造的に同じであることが、一言もその構造的な相似に触れることなく、炙り出されている

 この「構造的な相似形」は、読書会で皆と会話をしているうちに降りてきた。残念ながらジュリアスの傲岸さ、クズさ加減を叩くのに夢中で、同意を得るには至らなかった。

 いっぽう、ネットの感想に驚く。レイプの告発の箇所を、完全に読み落としているとしか見えない人がいる。好意的に見るならば、ネタバレ回避の思いやりかもしれないが、すくなくとも”ゼーバルトの再来”とか”知的なフラヌール文学”と絶賛されている方は、p.260をどう読んだのか知りたい。

 読書会で得たコメントによると、『オープン・シティ』はゼ―バルトに「寄せて」いるのだという。描写の所々でクッツェーやプルーストに似せた、パッチワークのような「フラヌールのパロディ」として読めるらしい。ゼーバルトは『アウステルリッツ』しか読んでいないので断言できないが、「自分がない」「寄せ集めの主義主張」は、まさにオープン・シティそのもの。

 「信頼できない語り手」に気づかない(?)まま、「フラヌール文学」と絶賛した評論家を鵜呑みにしている人を見ていると、「見えないゴリラ(Invisible Gorilla)」を思い出す。認知の錯覚で、予期しないものは「見えない」ことを示す実験だ。これだ。

 白いシャツを着たチームと、黒いシャツを着たチームが、バケットボールをパスしている。指示は、白シャツチームがパスした回数を数えろというのだが……この実験に参加した人の半分近くが「ゴリラ」の登場を見落とすことになる。「パスの回数を数える」という目的のため、白シャツの人の動きを注目していると、ゆっくりと画面を横切る「ゴリラ」を見落とすことになる。

 フラヌール文学という言葉に注意を奪われ、本書に埋め込まれた仕掛けを見落としている。これは、過去の暴力を「なかった」かのように扱うことを炙り出す構造と相まって、二重にも三重にも「なかった」ことにしている。読み手は、もはや傍観者ではない。だが、傍観者役としてしか振舞えないのであれば、それはこのクズと同じオープン・シティに居ることになる。

 これらがわたしの誤読なのか、深読みしすぎかの判断は、読者に任せたい。いわゆる「おまえが正しいんだろうよ、おまえの中ではな」でも良いが、それはそのまま、ジュリアスに返ってくる。

 さらに、ジュリアス自身の上から目線の教養マウンティングは、読み手にも裏返される。この痛々しさは、まさにわたし(読み手)自身のことではないのか? こいつをクズと切り捨てることはたやすい。だがそれは、自身の痛々しさから目を背け蓋をすることにならないか? それはわたしではないと切り捨てることは、ジュリアス自身がやってきた「別のものを注視することでなかったことにする」そのものではないか。

 読み終えた後、何度も問い直されているような気がしてくる。そういう意味で、居心地の悪さがじくじくと残る。小説家としてテジュ・コールが「叩かなかった一番大事な音」は、残響として続いていくだろう。

 このように幾度も考え直させられる点で、この読書会は大変良かった。ネット越しとは違って、反応がダイレクトに(ただちにという意味と、直接にという両方の意味で)戻ってくるのが良い。『ストーナー』をゴミクズ呼ばわりする人がいたり、政治的に正しいノーベル文学賞の話題に飛んだり、大変スリリングが数時間でもありましたな(アルコールが入っていなくて本当によかったwストーナーは戦争になるwww)。

 そして、課題図書がざくざくと増える。ただでさえ読みたい本が山とあるのに、さらに積みあがる。フラナガンから崩していきたい。

  リチャード・フラナガン『奥のほそ道』
  橋本陽介『ノーベル文学賞を読む』
  多和田葉子『地球にちりばめられて』
  友田とん『百年の孤独を代わりに読む』
  阿久津隆『読書の日記』


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