結論から言うと、経験は買える。
適切なタイミングで適切な本と出会うことで、しなくてもいい経験や、身につけておくべき知恵を”買う”ことができる。今「おっさん」である私から、20年前の「若者」だった私に、いい仕事をする上で読んで欲しい本を選んだ。
20年前は、炎上プロジェクトに飛び降りて、鎮火しつつ撤退する「しんがり」役を仰せつかっていた。負けることは決まっているが、死なないように生きることばかり考えていた。将来に漠然とした不安を感じていたものの、とにかく目の前の障壁をクリアすることが先決だと思っていた。
今はかなり違う。
身をもって得た経験や教訓はあるが、代償は大きく、もっと効率よく結果につなげることができたはず。この「効率」とは要するに時間だ。莫大な時を費やして手に入れた経験は確かに得難いが、そんなことをしなくても積むことはできた。どうすれば可能か、今なら分かる。
それは本を読むことだ。本を読むことで、莫大な時を使わずとも経験や教訓を身につけることができる。いわば、本を読むことは時を手に入れることに等しい。ここでは、おっさんの「私」から若造の「私」に向けて、この「時」を手に入れる本を6冊選んだ 。若いときに読んでおくと、チート的に経験を積める。
1. 緊急度×重要度の話
最初は「本」ではなく小話だ。もしあなたが若者で、このコピペを知らなかったのであれば、良かった! ぜひ読んで欲しい。
********************************************* ある大学でこんな授業があったという。 「クイズの時間だ」教授はそう言って、大きな壺を取り出し教壇に置いた。 その壺に、彼は一つ一つ岩を詰めた。壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、彼は学生に聞いた。 「この壺は満杯か?」教室中の学生が「はい」と答えた。 「本当に?」そう言いながら教授は、教壇の下からバケツいっぱいの砂利をとり出した。 そしてじゃりを壺の中に流し込み、壺を振りながら、岩と岩の間を砂利で埋めていく。 そしてもう一度聞いた。 「この壺は満杯か?」学生は答えられない。 一人の生徒が「多分違うだろう」と答えた。
教授は「そうだ」と笑い、今度は教壇の陰から砂の入ったバケツを取り出した。 それを岩と砂利の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。 「この壺はこれでいっぱいになったか?」 学生は声を揃えて、「いや」と答えた。 教授は水差しを取り出し、壺の縁までなみなみと注いだ。彼は学生に最後の質問を投げかける。 「僕が何を言いたいのかわかるだろうか」
一人の学生が手を挙げた。 「どんなにスケジュールが厳しい時でも、最大限の努力をすれば、 いつでも予定を詰め込む事は可能だということです」 「それは違う」と教授は言った。
「重要なポイントはそこにはないんだよ。この例が私達に示してくれる真実は、 大きな岩を先に入れないかぎり、それが入る余地は、その後二度とないという事なんだ」 君たちの人生にとって”大きな岩”とは何だろう、と教授は話し始める。 それは、仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、家庭であったり・自分の夢であったり…。 ここで言う”大きな岩”とは、君たちにとって一番大事なものだ。 それを最初に壺の中に入れなさい。さもないと、君達はそれを永遠に失う事になる。 もし君達が小さな砂利や砂や、つまり自分にとって重要性の低いものから自分の壺を満たしていけば、 君達の人生は重要でない「何か」に満たされたものになるだろう。 そして大きな岩、つまり自分にとって一番大事なものに割く時間を失い、その結果それ自体失うだろう。 *********************************************
これ、もっとシンプルにすると、緊急度と重要度のマトリックスになる。
説明不要かもしれないが念の為。
A [緊急かつ重要] … 鳴り響く火災報知器/歯痛
B [緊急ではないが重要] 体力作り/教育費の積立/学習/パートナーとの会話
C [緊急だが重要ではない] いま鳴っている電話/あらゆる雑用
D [緊急でも重要でもない] ひまつぶしにスマホを触る
ここで言う「岩」とはBのことである。最初に考えて準備しておかないと、いくらでも後回しになってしまう。そして、今は緊急ではないとしても、時が経つにつれて緊急度が上がってゆき、最終的にAの「緊急かつ重要」になる。そうなったときにリカバリーするのは、かなり難しい。
しかし、わたしは「砂」や「水」に相当する、すなわちCやDの雑用やひまつぶしばかりで時を失った。時間はどう使ってもなくなる。AやBで使おうと、CやDで使おうと、それだけ時間が経過したら、失われたものとなる。
「あなたの口座に毎日100万円振り込まれるが、一日たったら消えてしまう」のであれば、なんとかしてその100万円を使い切ろうとするだろう。この「100万円」を「24時間」にしても同じなのに、なぜ無駄にするのか。いまから何かをしようと(あるいはしまいと)する際、「これは本当に今のわたしにとって重要なのか」を考えるのには、時も金も同じなり。重要なものからやろう。それを決めるのは、わたしだ。
2. わたしを蝕む「怒り」と「欺瞞」
次は「怒り」と「欺瞞」だ。良い仕事をするとき、対処すべきリスクや障壁がある。若いわたしを振り返ると、「怒り」と「欺瞞」の2つこそが、リスクや障壁の根っこのところに居座っていた。
若い頃のわたしは、怒ってばかりいた。思い通りにならないとき、馬鹿にされていると感じたとき、不公正な仕打ちをうけたとき、カッとなって当り散らしていた。怒っているそのときだけでなく、寝しなに思い出して腹を立て、そのまま眠れぬ夜を過ごしたこともあった。『怒らないこと』の著者のアルボムッレ・スマナサーラによると、「怒ることは、自分で毒を飲むのと同じ」 だそうな。怒ることで、自分を壊してしまう。わたしは毎晩、毒を飲みながら寝ていたことになる。
本書は、怒りとは何かについて掘り下げ、怒りの根っこにあるものを探し当てる。どんな原因であれ、人が怒るという行為には、必ず共通する思考が存在する。その、怒りの根っこにあるものは「私は正しい」という思いだという。これは、他人に対する怒りだけでなく、自分自身に向けられる怒りも同様だという。
つまりこうだ。「私にとって正しいなにか」があって、それと現実がずれているときに、人は怒る。「私は正しい」という意思があるのが根本で、実際そうではない出来事に会うとき、そのせいにする。対象は自分も含まれる。他人を責めるだけでなく、自分自身を追い込む「怒り」も、その根っこには「私は正しい」がある。
ではどうすれば良いか? 怒りから離れ、怒りのない人生を手に入れるには?
ありがちな、怒りを「押さえ込む」「発散させる」はよくない。なぜなら、これは別の怒りの感情を呼ぶことになるから。また、ストレスのように発散させるというのは、ごまかしにすぎぬ。怒りでもって怒りを制するのは、毒をもって毒を制することのように見えるが、それ飲むの自分だぜ。
ブッダが説き、本書で紹介している方法は、「怒りを観る」だ。怒りは観られた瞬間、消える。怒りが生まれたら、「あっ、怒りだ。これは怒りの感情だ」とすぐに自分を観察してみろと提案する。「今この瞬間、私は気持ちが悪い、これは怒りの感情だ」と外に向いている自分の目を、すぐに内に向けて"観る"ことで、怒りは相対化され、消えるというのだ。
しかし、怒りの根っこの「私は正しい」という思いに気づくのは、難しい。なぜなら、正しい/正しくないを含めて全て「私」なのだから。仮に自分で自分に嘘を吐いていたとしても、「嘘」は嘘としてではなく後付けの理由として認識される。こと自分に関する限り、嘘を嘘と見抜けない。
『自分の小さな「箱」から脱出する方法』は、この「自己欺瞞」を暴く。自分で自分に吐く嘘を「箱」というメタファーで表し、家族や職場、学校など、身の回りの人間関係の「うまくいかなさ」は、この自己欺瞞の「箱」に陥っているのが原因だという。
あるビジネスマンに起きた出来事を小説仕立てで追いかけていくうちに、「これは自分のことなのかも……」という気になってくる。「箱」をキーワードに、自己欺瞞→自己正当化→防御の構え→他者への攻撃→他者のモノ化、という連鎖が見えてくる。そもそもの原因は「自分への裏切り」であることも腑に落ちる。自己正当化の仮面がそのまま自分の性格と化し、いくつもの仮面を持ち歩き、自己正当化を正当化するため、相手の非をあげつらう。
どうすればよいのか? どうすれば、この自己欺瞞の罠から抜け出すことができるのか?
それは、個々人の経験に則して、問いかけと答えを掘り下げてゆくしかない。本書は、コーチングの手法を用い、「自分の行動」と「その時の自分の感情」という疑いようのない事実から出発し、最終的に自分への背信(=自己欺瞞)と向き合う。
しかし、いったん「箱」を認めることで、そこから出ることができる。「怒り」と同様に、「箱」を”観る”ことである。そうすると、これまで自分の何が人間関係をうまくいかなくしていたかが見えてくる。どれだけ人間関係を傷つけていたかに気付いて、ぞっとするかもしれない。だが、いったん「箱」が分かったならば、もっと楽に人と付き合えるようになる。自分の嘘と向き合うことは辛い経験かもしれないが、これは読書で”買う”ことができる経験なり。
『怒らないこと』と『自分の小さな「箱」から脱出する方法』、この2冊で怒りの無い人生にたどり着いたわけではない。いま、怒りから完全に自由であるかというと、そんなことはない。自分に嘘を吐くのはやめたかと言うのであれば、それは「嘘」だ。
しかし、カッとなりそうな時、「これは怒りだ」と自覚できるようになった。また、自己欺瞞を認められるようになった。そして、その根っこにある「私は正しい」を支える感情―――現状への不満、不公正な感覚、あるいは将来への不安など―――をコントロールすることで、怒りを予防するようになった。怒りとはすなわち、こうした不満や不安から導き出される二次感情なのだから。
3. しなくてもいい苦労を回避する
「若いうちの苦労は買ってでもせよ」という奴を信用するな。そいつは売るほうだから。しなくてもいい苦労は回避できる。なぜなら先人が苦労した上で、そいつを本にしているから。苦労は本屋に売っている。
この、「しなくてもいい苦労」の最たるものは、問題の「問題化」だ(人によっては「課題化」とも言う)。世の中、「これは問題だ」と誰もが明白に言えるような問題は、実は少ない。
問題のように見えるのは一面からだけで、それは別の問題Bの原因だったりする(そして問題Bを解決することで解消する事象だったりする)。あるいは、その問題は別の人にとっては問題ですらなかったりする。さらに、その問題を問題視する人の価値観が変わったり、時の経過や状況変化によって「問題」にならなくなったりする。利害や因果や抽象度が入り組んでいて、問題が特定できなかったりする。その問題を解決するリソースこそが「問題」な場合や、問題視している人自身が「問題」の場合もある。世の中の問題は、「問題」の形をしていない。
これに応えたのが、『問題解決大全』になる。哲学、歴史、経済学、人類学、数学、物理学、心理学、生物学、文学、宗教、神話、そして学際研究の分野で培われた問題解決技法が、37のツールに結集している。
問題とは何か、本書の定義はシンプルに断言する。すなわち、「問題解決とは、"~したい"と思うことを実現すること」だという。「なんかイヤだ」と感じていることに言葉を与える。「~だといいのに」の対象をもっと具体的にする。その上で、そちらに向かうために、どういうアプローチをすれば良いかをガイドする。つまり、「思い」に言葉と形を与え、自分自身も含めた誰かに伝えられるように可視化する。『問題解決大全』は、問題を可視化し、「正しく問う」ためのガイドなのだ 。
いったん「正しく問う」ことができるなら、後はどう捌くかの話だ。人類初の問題に直面することは、普通の人生では少ない。誰かが先に悩み、取り組み、解決してきている、既知の技法なり。「正しく問う」から「解決法を選ぶ」まで、使うことができる。”買える経験”を凝縮した一冊。
次はPMBOK、一言なら「プロジェクトを成功させるための知恵と経験を体系化したもの」になる。正式名はプロジェクトマネジメント知識体系(Project Management Body of Knowledge)だ。PMPの資格試験の準備で読みこんだが、ここに書いてある”経験”は一生モノだと思う。
なぜなら、上手くいく”考え方”が身につくから。
一般に「失敗学」と呼ばれる、いわゆる「べからず集」というものは沢山ある。こうするとプロジェクトは失敗することは、様々な事例つきで遍く知れ渡っている。だが、失敗する手法をしなければ上手くいくかというと、そうではない。失敗したやり方は状況によっては成功したやり方と同じだから。
一方で「成功本」と密かに呼んでいるビジネス本がある。「こうすると上手く行く」というメソッドを並べただけの本で、読んだだけで仕事がデキる気にさせてくれる(でも何の役にも立たない)。たまたま上手く行ったやり方を、状況・立場・タイミングをガン無視して、万能薬みたいに売るのは詐欺に等しい。
上手く行く「やり方」は皆知っているはずだ。ダンドリ8割、実行よりも計画フェーズに重きを置く「べき」だし、リスク対策費を見込まないのは「べからず」になる。だが、やり方を踏襲するだけで上手く行かない。どのように「考えれば」上手く行くやり方になるのか? というアプローチが必要になる。
たとえば、計画に重きを置くというが、具体的にどう考えれば重きを置いていることになるのか? PMBOKでは、計画フェーズにおいて「プロジェクトマネジメント計画書」を作成するとあるが、そのフェーズのインプットにも「プロジェクトマネジメント計画書」がある(下図参照)。これ、過去の計画書をベースに「その」プロジェクトのスコープ、タイム、コスト、リスクを計画せよ、という考え方による。すなわち、計画書は1回作ったら終わりではなく、計画書そのものが資産であり次のプロジェクトへのインプットになる というのだ。マネすりゃいいってものじゃない。これ、実際にPMとして痛い目に遭わないと気づきにくい「考え」なり。
もちろんPMBOKには方法論も体系化されている。だが、これらを通じて、プロジェクトマネジメントという”経験を買う”ことができる(書影はPMBOK5版にした。第6版も出ているがどえらい高価なので)。
4. 仕事に飼いならされないために
与えられたタスクを繰り返すうちに、タスクが内面化される。
なぜそれをしているのか、そのタスクの外側がどうなっているのかに疑問を抱かなくなる。そうしているうちに、仕事ができるという時間ぎれとなる。「クイズの時間」でいう岩だったものが、なぜ岩だったのかを思い出せなくなる。そうやって仕事に飼いならされないためにお勧めしたいのがこれ。
まず、『自分の仕事をつくる』。デザイナー、サーフボード・シェイパー、パン職人など、様々な仕事をしている人たちへのインタビュー集だ。共通しているのは、それぞれ受け持っている仕事を「自分の仕事」にしていることだ。職業に限らず、仕事と人の関係性が密で、アウトプットには匿名性があるが、「○○さんの仕事」として応対しようとしている。
つまりこうだ、現代の人は、モノ(加工物)に囲まれて生きている。目の前のパソコンからソフトウェア、天井、窓、道路、建物、あらゆるモノが周りにある。ということは、それらは誰かが製造・創造したアウトプットになる。すなわち、あらゆるモノの背後には、それをつくった・提供する人が存在しており、アウトプットは人の仕事の結果になる。
世界は、誰かの仕事で作られている (by ジョージア)といっていい。そして、その一端は「わたしの仕事」でもあるのだ。モノやサービスは、人の仕事の結果であることを確認することで、仕事を通じて世界を作る役目が見える。そこまで大げさにならなくても、今の自分にとっての「岩」が何であるかを、もう一度見直すことができるだろう。
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日常に埋没している感覚がないのなら、状況を反対側から見るという手もある。小説がそれを可能にしてくれる。『タタール人の砂漠』が強烈だ。辺境の砦で、いつ攻めてくるかも分からない「タタール人」を待ち続ける若者の物語である。
最上のものを、みすみす逃してしまった。目の前を通り過ぎてゆく幸せを、放置してしまった自分の愚かしさを、取り返しの付かなさを、ゆっくり、じっくり噛みしめる。残りの人生ぜんぶを使って、後悔しながら振り返る。そして、なにか価値があることが起っているのに、自分は一切関与できない。じっと待ち続けるあいだにも、時は加速度的に、容赦なく流れ去る。
だが遅すぎた。何も始まっていなかった人生であることを、人生の最後になって知るということは、なんと残酷なことか。“なにか”を待つのが日常である限り、いつまでたっても、“人生”は始まらない。時とは、命を分割したものであり、日々の積分こそが人生なのだ。 これが、わたしの人生でなくて、本当によかった―――そう痛切に感じられる。
これは、人によると、”手遅れの人生経験を買う”ことで、自分の人生を(読了後から)やり直すことができる一冊なのだ。
おわりに:経験は買える、本屋で売ってる
何度でも言うぞ、経験は買える。本屋で売ってる。ただ適切なタイミングで適切な本に出会うことが肝心なのだ。
教科書通りに対応できる課題は、教科書を読めばいい(あるいは誰かに頼ればいい)。だが、問題が自分の内側にあり、かつ教科書通りに扱えないものについては、痛い目に遭ってきた。それがわたしの”経験”だが、同じ経験にそんな目に遭う必要はない。いまの状況に対し、迂回も予習もできる。「酷い目に遭わないと身につかない」なんて大嘘である。
愚者は自分の経験に学ぶが、学んでいるうちに一生を費やすという。そうならないために、予習して迂回ルートを押さえておこう。
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