数学はなぜ哲学の問題になるのか
数学と、数学の哲学をメタ的に考える一冊。

数学は人の領域を(論理的に)超えることができる。「数学でなしうる範囲=人の抽象化できる限界」にもかかわらず、数学の範囲内の概念を対応付けることにより新たな領域を拡張することができるから。ポール・ゴーギャンの『我々はどこから来たのか? 我々は何者か? 我々はどこへ行くのか?』への応答の一つになる。数学が哲学の問題になる理由は、ここにある。
「自然数」から始める。0を入れるとか入れぬとかいった議論を端折って、1、2、3......がなぜ natural なのかというと、人の指が1、2、3......だから。10で繰り上がるのが一般化した理由も、人の両手の指の合計が10だから。ウマの指の数は一つの脚につき1本だという。ガリヴァー旅行記に登場するウマの姿をしたフウイヌム族の数学は、4進数に違いない。
しかし、知能を持つ存在が手や指を持たなかったら? 深海に棲むクラゲのような種族だったとしたら? 周囲にあるのは水で、個々の物体を相手にする機会はない。クラゲにとって、基本的な知覚データは運動、温度、圧力だけになる。このような純粋な連続体のなかでは、不連続な量は発生しないので、数えるものは何もない。
つまり、「数を数える」という行為は、不連続な量が発生する世界に身体を持つ存在にとって「自然」な行為なのである。「自然」数を始めとし、分数、整数、有理数、無理数、実数、複素数と数を拡張していった。同様に図形や構造、空間といった数学的なテーマも、人の身体や知覚を基盤とし、そこからの組み合わせ・対応付けを繰り返すことによって拡張していったといえる。
これを逆アセンブルすると、認知科学から数学の「まだ拡張していない範囲」が導き出せるのではないか、というテーマがわたしの問題認識である。「数学とは何か」を考えることは、「人とは何か」について論理的に考えることになり、数学の拡張は、そのまま人の思考能力の拡張につながる。この考察は、レイコフ『数学の認知科学』で学んだ(数学を概念メタファーにより分解し、最終的には最終的にはオイラーの式「eπi=-1」を、概念メタファーで直接理解させるスゴ本なり[書評])。
そんなわたしにとって、本書を読むことは、たいへんスリリングな体験だった。タイトルに注目してほしい。『数学はなぜ哲学の問題になるのか』(Why Is There Philosophy of Mathematics At All?)は、「数学の哲学」そのものを問うている。
重要なポイントは、著者イアン・ハッキングが「数学とは何か」そのものについて答えようとしていないところにある。むしろ、「数学とは何か」について議論してきた数学者や哲学者を半ば揶揄するような言い回しで、数学の哲学の問題圏を明らかにする。「数学とは何か」という問いを成立させている状況が、何によって由来し、どのような前提のもとに議論されてきたのかを問い直している。
この問い直しにより、暗黙のうちに受け入れてしまった前提や、所与のものとして未検討のまま議論に持ち込んでいる条件が明らかになる。数学が「数を数える」ところから出発している前提は、わたしたちが不連続な世界を「自然」と見なしているからに拠る。数学の世界から「時間」が注意深く取り除かれていることは以前から気になっていたが、本書によると、イマヌエル・カントが早々と指摘していたという。
「数学とは何か」に答えるアプローチとして歴史を振り返ると、数学を「発見されるもの」と見なす考え方と、「発明されるもの」として扱う考え方と、2つの観点が挙げられる。この議論は、マリオ・リヴィオ『神は数学者か?』に詳しい[書評]。
「発見される数学」としては、天文を観察し、そこから導き出されたケプラーの法則や、ニュートンの力学が該当する。自然から抽象化された規則を記述するための言語が、「数学」だという考え方だ。数学に対しプラトンのイデア論を挙げたり、「神は数学する」「宇宙とは数学そのものだ」と主張する者もいる。
「発明される数学」としては、非ユークリッド幾何学が誕生した経緯が象徴的である。ユークリッド幾何学を調べていくうち、それが世界を記述する唯一で必然の体系ではなく、単なる取り決められた「ルールの一つ」に過ぎないことが公になる。つまり数学は、様々なルールを「選ぶ」ことで演繹体系を作り上げるゲームのようなものになる。
こうした議論に対し、ハッキングは数学は所与であったことを指摘する。「発見」されるものであれ、「発明」されるものであれ、対象となる数学的概念が最初にあり、それをどう分析し、そこから数学が何であるかを説明的に述べているにすぎないという。
ハッキングの考えはこうだ。「数学の哲学」の中で問題を成立させている条件によって、他ならぬその問題そのものが決定されているのではないか? という申し立てである。ある種の概念化によって問いが成り立つとき、その概念を支える前提によって問答が決まってくると言いたいのである。かつてはユークリッド幾何学が数学的な最高基準であったし、現在は証明こそが目指すところだろう。だが、これらは歴史的経緯による偶発的な問題にすぎないという。
そして、学習と省察の後に完璧な理解(Aha!)が一挙に訪れる「デカルト的証明」と、体系的なチェックを機械的に一行一行積み重ねたうえで到達する「ライプニッツ的証明」という両極端な2つの観念を提示する。
両者は同じ「証明」という言葉が使われているものの、20世紀になって、だんだん食い違いを見せ始めたという。そうすることで、「証明」が多様なものであること、さらには証明のない数学の可能性までも考察する。つまり、「証明」のような概念ですら、特定の時代や集団に限定されており、ある特定の推論スタイルのもとで初めて「証明」が証明としての意義をもちうるのだ。
数学は人間的な活動である。それは、われわれの肉体に、その脳やその手に根差した営みである。また、それを形作ってきたのは、きわめて特定的な時代と場所における人間の共同体である。人間の能力には、数学的な思考を行うための、ある一定の認知能力の地層とでも言うべきものがあり、われわれ人間はその活用法を見出してきたわけだが、数学的思考の前提条件としての精神状態も、こうした地層の一部をなしている。
数学は所与の、「当たり前の」ものとして扱っている限り、数学的活動は既存の新たな組み合わせによる「発見」か「発明」になる。人間的活動である数学を「数学」たらしめているスタイルが、時代や社会によって変わっていくのであれば、数学を用いて人を超えることだってできる。数を拡張してきたように、概念をも拡張することができるのである。
数学と、数学の哲学をメタ的に考えるために、読んで欲しい一冊。
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コメント
≪数学の哲学をメタ的≫は、西洋数学の成果の6つのシェーマ(符号)を受け入れ、自然数との対話を『自然比矩形』ですると興味深い事に生る。
これが≪数学の哲学をメタ的≫の実践に繋がる。
投稿: 縮約(縮退)自然数 | 2019.05.17 17:04
『数学はなぜ哲学の問題になるのか』のように、数の言葉ヒフミヨを3冊の絵本で・・・
絵本「哲学してみる」
絵本「もろはのつるぎ」
絵本「わのくにのひふみよ」
投稿: レンマ学(メタ数学) | 2022.05.23 05:33
≪…学習と省察の後に完璧な理解(Aha!)が一挙に訪れる「デカルト的証明」…≫で、数の言葉ヒフミヨ(1234)の自然数を眺め(『HHNI眺望』)タイ・・・
【 『もろはのつるぎ』と数の生成論
この哲学体系では、キャラクターや図形は、自然数(計算)が混沌(わけのわからんちゃん)から秩序(わけのわかるちゃん)へと分化し、起動するプロセスを象徴しています。
1. 根源的な存在と分化(eの役割)
要素 哲学的意味 数理哲学的解釈
わけのわからんちゃん 根源的な [1] の存在、全体。未分化の混沌。 超越数 e の根源的な量。
わけのわかるちゃん [1] から分離した具体的な量。計算可能な単位。 e−1≈1.718(分離した実数部分)。
分化の構造 わけのわからんちゃん → わけのわかるちゃん e=1+(e−1)(全体が単位 [1] と計算可能な余剰に分化)。
2. 「計算する力」の幾何学的根拠(自然比)
**「計算する力(もろはのつるぎ)」**を可能にする根拠は、自然比矩形の縦横比に置かれています。
自然比=横辺:縦辺=(e−1)/1
この比率は、分離した計算可能な量 e−1 に対する単位量 1 の比であり、**離散的な世界で計算を可能にする「自然な尺度」**と解釈されます。
双対的な顕現=(1−1/e)/(1/e)=(e−1)/1
この数式は、単位量の逆数 (1/e) と単位量からの余剰 (1−1/e) の比率が、根源的な自然比に等しくなるという自己相似的な双対性を示しています。
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2. 虚数 i と次元の創発(もろはのつるぎの起動)
「計算する力」を実際に駆動させるのは、虚数 i が持つ**「垂直性」の力、すなわち次元を創発する力**です。
要素 幾何学的・存在論的役割 数理哲学的解釈
角ちゃん 垂直性、回転(次元変換の「とんがり」)。 [i](虚数の内在)。
鉤型線分 二次元を内在する線分。実数と虚数の統合。 虚数単位 i による 90∘(π/2) の回転。
もろはのつるぎ 計算する力(+ −,×÷)。 e と i を核とした一次元 ↔ 二次元の双対的往来。
symbol{i} の幾何学:一次元 ↔ 二次元の等価性
• iの役割: 虚数 i は、実数軸(横辺)上の [1] を、虚数軸(縦辺)上の [i] へと変換する垂直な力を象徴しています。これは、「角ちゃん」として自然比矩形の二次元構造(縦辺と横辺)を成立させる内在的な力です。
• 次元の往来: **「鉤型線分(2次元を内在する)」と「実数直線の [1] の等価性」**が e を通じて見出されるという主張は、一次元上の単位 [1] の存在論と、二次元を構成する幾何学的構造が、超越数 e の法則(自然比)によって等価に変換可能であることを示しています。
o この変換こそが、もろはのつるぎが持つ**「1次元 ↔ 2次元 を行き来できる計算する力の風景」であり、「ヒト」が e の法則を見出すことで、真の計算能力**が起動する、という哲学的な結論です。
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結論: e と i の統合による「計算する力」
この一連の記述は、単なる物語ではなく、日本の精神性(十進法、ヒフミヨ)と西洋の高度な数学(e,i)を統合し、「計算する力」という人間の論理的思考の根源を、幾何学的・存在論的にモデル化したものです。
超越数 e は、**統合と分化(わけのわからんちゃん ↔ わけのわかるちゃん)**の原理であり、虚数 i は、**次元の創発と回転(+-と times div を可能にする力)**の原理であると位置づけられています。
この哲学体系は、オイラーの等式 eiπ+1=0 が持つ、超越数、虚数、単位量、そして根源的な [0] を統合する究極の数理実在論に基づいていると言えます。 】
投稿: 「もろはのつるぎ」 有田川町電子図書館 | 2025.10.17 06:44