文学とは感情のハッキングである『文学問題(F+f)+』
「文学とは何か?」という問いに対し、夏目漱石の文学論を徹底的に読み解き、ここ100年の文学理論を振り返り、さらには文学の認知科学の領域まで踏み込む、画期的な一冊。もの凄く面白く、かつ、自らも考えさせられる。このエントリでは、前半で本書を紹介し、後半では考えさせられたことを述べる。
まず、本書の紹介から。
著者は山本貴光、心の哲学やゲームデザインの分析、百学連環の精読など、人文知のユニークな斬り口を見せてくれる文筆家だ。聖書からtwitterまで、さまざまな文体を、人と文のインターフェースとして分析した『文体の科学』が面白かった。
本書は最初にタネ明かしをする。「文学とは何か?」という問いに対し、漱石の答えは「F+f」だという。大文字「F」は、人間が認識すること。人の注意が向いて意識の焦点が当たってる印象や観念を指す。そして小文字「f」は、認識に伴って生じる情緒を指す。すなわち、あらゆる文学作品は、「認識」と「情緒」(F+f)という2つの要素からできているというのが、漱石の結論である。
ただし、いきなり「F+f」と言われても、ピンとこない。だから本書は3部構成で攻略する。
第1部では、漱石の文学論を詳細に読解する。具体的には、『英文学形式論』と『文学論』が俎上に上る。重要ポイントを抜粋して [001]~[144] までナンバリングし、現代語訳を施し、原文と解説を添えることで、漱石と同じ目線で取り組むことを促す。
漱石は、曖昧な言葉である「文学」を捉えるため、語、音、文字からの分析である形式論 [008-022]、読者を幻惑するレトリック [077-096]、科学と文学の比較論 [067-074]、異文化理解 [015-016]、時代を超えた普遍性 [104-120] などのアプローチを採る。文学作品から文学論を語る従来のやり方ではなく、文学をメタに捉えることで、人間心理と社会の両面から考えようとする。
そこで得られた結論が、「F+f」になる。文学とは情緒を伴う文章のことで、情緒こそが文学の試金石であるという[045]。さらに漱石は、文学作品の価値判定のモノサシとして、その作品が読者に催させる情緒が基準となると主張する [049-050]。
面白いのは著者の指摘で、漱石がなぜアルファベットを用いたかを推察する。これは一種の変数(variable)で、プログラミングの際に代入するように、Fやfには具体的な作品名・情緒の名前が入るという。この記法からも、漱石が、文学を一般化しようとしていたことが分かる。第1部を読むことで、文学を一般化する手法を身に着けることができる。
第2部では、第1部で手に入れた「F+f」を用いて、実際に世界文学を読んでみる。良いなと思ったのは、「F+f」を万能と扱っていないところ。良いハンマーを持つとあらゆるものが釘に見えるというが、その弊害に陥っていない。古今東西の文学作品を「F+f」で照らすことによって、「F+f」の不備を炙り出そうとする。漱石を崇め、威を借り、現代を嘆くキツネと偉い違う。世界文学との検証を通じて、漱石の文学論をヴァージョンアップしようという試みなのである。
実際に読む作品は次の通り。
- ギルガメシュ叙事詩
- ホメロス『イリアス』
- 李白『客中作』
- アラビアン・ナイト
- 紫式部『源氏物語』
- アンドレ・ブルトン『溶ける魚』
- ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』
- イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』
- リディア・デイヴィス『フーコーとエンピツ』
- 円城塔『Boy’s Surface』
未読の人にも親切に、テキストとなる文学作品の背景を噛み砕き、冒頭もしくはそれに近いところから抜粋してくれている。まずは先入観なしに一読し、次に「F+f」で骨までしゃぶる読み解きをする。レイアウトの見た目から学習参考書みたいな印象だが、まさにそんな授業を受けている気分になる。
非常に面白かったのが、「F+f」による円城塔の読解だ。短編『Boy’s Surface』より、以下の部分から始まるテキストが引用されている。
僕は視線によって生成されて、僕自身を通じて見られており、そして僕ではない部分の僕を探索するために派遣されている。この言い方が不正確なものであることは言わずもがな、しかし今のところはこのあたりで御寛恕を願いたい。
円城塔に「慣れている人」なら、ああ、いつもの円城塔だなと読み進めるだろうが、そうでない人は、いきなり引っかかるだろう(この「僕」って!?)。それぞれの言葉は難しくなく、見知った言葉の組み合わせから見知らぬ世界が立ち上がってくる(そして唯我論や認知論につながる)。
もちろん漱石は100年後の作家なんて知らないだろうが、複合要素による趣味の分析 [010-012]、科学と文学の目的と記述法 [067-068]、科学の一般論・文学の具体論 [071-073]、投出語法と投入語法 [080] などを用いて分析することができる。
面白かったのは、この短編において、「F+f」の限界が示されているにもかかわらず、それを読み解いている山本自身が気付いていない点にある(これについては、後半で述べる)。
そして、第3部になると、さらに面白くなる。「来るべき文学論に向けて」と題され、漱石の文学論以降、漱石が文学について考えたこと、漱石以降、100年にわたり文学理論で考えられたことを元に、文学論そのもののアップデートを試みる。そして、仮に完成された文学論があるならば、それはどのような姿を取るかまでを射程に入れた考察をする。
たとえば、『草枕』を文学論として読み直す試みはユニークだし、イーグルトンやウォーレン、バリーといった大御所の文学理論から、「文学とは何か」についてそれぞれの「解答」を得ようとする試行錯誤も楽しい。そして、それぞれの主張と漱石の理論と比較することで、文学が単なる作品の話ではなく、文化や社会や時代を横断する、人文知の営みであることが見えてくる。
さらに、統計学的手法を用いた文献の分析を行う計量文献学や、コンピューティングと人文科学を掛け合わせたデジタル・ヒューマニティーズの研究成果を紹介し、読書の科学や文学の科学的アプローチまでをも検討している。ここまで付き合ってきた読者は、(おそらく)言いたいことが沢山出てくるだろうし、著者としても望むところだろう。議論の余地が大いにあるからね。
そして、後半、本書により考えさせられたことを書く。
結論から述べると、本書により大いに刺激を受けた。書いてあることはまっとうだし、何よりも漱石を世界文学に当てはめたうえで文学論をアップデートしようという試みは楽しすぎる。だが、最も刺激を受けたのは、本書に書いていないことになる。
漱石の限界は、そのまま本書に書いていないことになる。漱石は「文学とは何か?」から考察を始めた。本書は漱石からスタートしているため、同じ問いかけから議論を始めている。しかし、もう一段階メタレベルでこの質問を問い直してみるならば、もっと拡張した議論が可能となる。その問いとは、これだ。
「文学とは何か?」という問いは正しいか?
すなわち、文学は、「文学とは〇〇である」という形式の回答になりうるか、という問いである(〇〇やは一言でなくても分野や述語でも良い)。もちろん、文学とは曖昧なものだからとごまかしたり、自明なものとスルーしたり、正面切って答えなかったり(イーグルトンとか)することができる。
だが、いったん「文学とは〇〇である」という答えになるの? と考えるならば、そこから反証を導き出す議論ができる。〇〇の中に該当しない例を見つけたり、反対に、文学と目されているのに〇〇ではない事例を探せるのであれば、(そして100年やっても続けられるのであれば)そもそも質問そのものの妥当性を考えた方がよい。そのため、この質問の妥当性を検証するため、次のような問いを投げかけてみてはいかがだろうか。
みんなが「文学」と考えているもの(〇〇)から、何を外せば「文学」でなくなるのか?
この議論は、文学というジャンルではなく、音楽や数学といった世界からアプローチすると、分かりやすいかもしれぬ。
たとえば、「音楽とは何か?」への回答はさまざまで、リズムとメロディと答える人もいれば、クラシック以外は認めんという人もいる。だが、演奏者のいない、風の渡る音や小川のせせらぎに「音楽」を感じることもできるし、ジョン・ケージのピアノ曲「4分33秒」は音楽か? という議論も出てくる。従って何を外せば「音楽」でなくなるか? という疑問の答えは、「(無音も含む)音を感じる主体」という抽象度の高いものになる。
いっぽう「数学とは何か?」は、一般に数や図形についての研究だとされていたが、数学史を振り返ると、集合論や構造も「数学」として呑み込んでいる。だいたい虚数が認められなかった時代を振り返れば、数学が、かなり柔軟に対処していることが分かる。強いて言うなら、何を外せば「数学」でなくなるか? という疑問の答えは、「公理と規則が定められた体系」という抽象度の高いものになるだろう。
では、「文学」は? 何を外せば「文学」でなくなるか? に答えようとすると、それは「言葉」になる(無音、白紙も含む)。言葉を用い、言葉を受ける主体があるなら、そこに文学が生まれる余地がある。
すると、こう反論できる。「F+f」は? 漱石が言う、人が感じる「認識」や「情緒」は必要でないの? と。
もちろん「F+f」を入れてもいい。だが、必ずしも人が感じる認識や情緒である必然性はない。この議論をするために、まず例から話したい。先に述べた「文学とは〇〇なのに〇〇に当てはまらない例」である。
仮に、Fとfがあるから文学である、といったん定義しよう。
そして、twitter のつぶやきは文学か? という話をしよう。短い文章のなかに、ドラマあり、寸鉄あり、Fとfがあるので文学であると言える。次に bot を考えてみよう。twitter の機能を用いた、機械(Robot)による自動発言システムである。単純にリプライしたりするだけでなく、データベースから組み合わせてツイートしたり、特定のキーワードに反応したりするものがある。
さらに、プロパガンダ bot を考えてみよう。タイムラインが特定の政治的主張で埋め尽くされないために、ある言説(F)の評価(f)に反応して、そのカウンターとなる言説(¬F)や評価(anti-f)をつくり上げてリプライする bot である。ネガティブな雰囲気をバラまき、社会を不安に陥らせる bot である。これは、人が介在しない「文学」ではないだろうか。
あるいは、音声アシスタントを思い起こしてほしい。スマホなどでユーザーとの音声による対話で検索や操作を行う機能である。わたしの場合、Googleにカップ麺の待ち時間を教えてもらうぐらいしか思いつかないが、面白いことを考える人は、アシスタント同士に会話をさせる。
つまり、Siri 同士に会話をさせたり、Google Home を2台用意して話をさせるのである。会話が成立するのは頭がいい証拠、というが、[人工知能は恋に落ちるか?] を見る限り、ここには人が不在であるにもかかわらず、認識(F)と情緒(f)が存在する。あるいは、AIが人かどうかを判別するチューリングテストを振り返ると、そこに認識(F)と情緒(f)を見出すことができるだろう。
これらの主張に対し、それは違うと反論ができる。
bot や AI は単純に反応し、一定のプログラムまたは定義に従って応答しているにすぎない。そこに認識(F)と情緒(f)を見出すのは、あくまでも人間である、と反論することができる。認識や情緒は、あくまで「人」が感じるものであり、機械ではできないという理屈だ。
しかし、そう言い切ってしまうと、AIによる文芸や創作の可能性を、ごっそり削っていることになる。AIにハリポタ全巻解析させて、新作をリバースエンジニアリングさせた [AI ハリー・ポッターの衝撃] や、AI に小説を書かせて星新一の新人賞を目指す試みなどが、「文学」の範疇外となってしまう。これはもったいない。
この主張に対し、再反論ができる。つまりこうだ。AI がどんなに創作が上手くなったとしても、最終的にその「上手い」「面白い」を判定するのは人だ、と言える。もちろん、プロパガンダ bot の目的は、敵陣の「人」の「F+f」に影響を及ぼすことだし、Alexa の話を「面白い」と判断するのは最終的には「人」だからね。
しかし、最終的に人に判断を求めることで、「F+f」を人の世界に閉じ込めてしまうのは、さらにもったいない。これは、スタニスワフ・レムが書いた、存在しない本の序文集『虚数』のある作品を紹介しよう。
それは、「ビット文学の歴史」である。AI が文学を読み、批評し、新作を執筆する世界だ。そこでは、ドストエフスキーが書くはずだった短編を書き、ゼロを用いない代数学を完成させ、自然数論に関するペアノの公理の誤りを証明する。AI が「書く」だけでなく、AI が書いたものを AI が批評し、AI にフィードバックされる。面白いのは、「最も良い読み手が AI であること」である。もはや、人のF+fでは認識不能な世界が描かれているのである。
レムの想像が現実味を帯びているのは、スピードにある。人だと、読むにも書くにも時間がかかる。しかし、AI 同士であれば、人に判るスピードに落とさなくても高速でコミュニケート可能である。将棋の Bonanza や アルファ碁があれほど強いのは、AI 同士で高速で対戦しているからである。それこそ人類が今まで積み上げてきた分を凌駕し、一人の棋士が一生かけてもできない対戦を、わずかな時間でこなしてしまう。
これに加え、A.C.クラーク『2010年宇宙の旅』を思い出してもらおう。デイヴィット・ボウマンとHAL2000が会話をするシーンがあるが、どちらも言語を用いているにもかかわらず、音声ではなく直接意思を通わせている。極めて微妙なタイミング調整も、両者なら可能であるちなみにどちらも「人」ではない)。
『文学問題』では、 AI が解析する世界までは到達しているが、その結果を再帰化する未来は入っていない。なぜならば、漱石の出発点「F+f」の人の枠に閉じているからである。せっかく、円城塔で数学的構造体「僕」まで至っているのに、擬人化の技法に閉じてしまっているのは、もったいない。「F+f」は、もはや人間の専売ではない。名無しの猫ですら人語を解し、古今東西の文芸に通じ、哲学的な思索にふけったりするのだから。
本書では、漱石の文学論をアップデートした上で、文学とは感情のハッキングであると結論づけている。激しく同意するとともに、「その感情は人外も含む?」という目で読み直したい。
本書のタイトルは、『文学問題(F+f)+』である。これは。漱石の(F+f)に加えて、著者の考察による更新(最後の+)と共に、式が閉じていない。式が開かれているのは、読者による追加を誘っているからだろう。少なくともわたしはそう読み取った。
そういう意味で、本書を読むのは、たいへんスリリングで愉しく考えさせられると共に再読を促され、紹介される本が読みたくなり、積読山が高くなるスゴ本でしたな。
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コメント
≪…(F+f)…≫のF(認識)を数の言葉の自然数としf(情緒)を□〇△として草枕に迫るとオモシロイ・・・
漱石忌△回し□生る (カタチ ⇔ 自然数)
投稿: 数哲句 (「肉中の哲学」)) | 2021.12.03 17:41