説得の技法『論証のレトリック』
人は感情で動く。この事実に気づくまでに時間がかかった。いかにエビデンスが強固でも、ロジックが完璧であっても、それだけで相手を説得することはできない。相手の立場を理解し、相手の使う言葉を用い、話を分かりやすく喩え、例示し、結論を述べるのではなく誘導する。
人を説得するには、基本的な「型」がある。その型に沿って整理していくだけで、説得力ある議論ができる。逆に、その型を悪用することで、ウケだけが良い詭弁ができあがる。わたしが苦い経験で思い知る2000年以上も前に、アリストテレスは述べていた。本書は、こうした論証の「型」をまとめた一冊である。
本書から得られた最大の成果は、「レトリック」についての誤解に気づけたこと。レトリックとは、いわば言葉のあや(文彩)だと思っていた。直喩や隠喩、枕詞、序詞、擬人法、見立て、縁語、掛詞といった、言葉を飾る技術だと考えていた(『レトリック感覚』が名著)。
しかし、そうした修辞法は、古代ギリシアの言論の技術からみるとそのごく一部にすぎないという。見づらくて恐縮だが、下図がアリストテレスのレトリック理論の全体である。理論は3つの型(説得立証法、修辞法、配列法)により構成され、わたしが知っていた「レトリック」は、3つの型のうちの一つにすぎないことが分かる。
本書では、それぞれの型を展開し、それぞれが問答や弁証の術としてどのように用いられていたかを紹介する。本書が面白いのは、アリストテレスやプラトンといった大御所に限定せず、利のために詭弁術を駆使したソフィストたちの手口も込みで見せているところ。悪用の技術を知ることで、いわば詭弁への耐性ワクチンともなっているのである。
目を引いたのが、大衆を説得するためには、「正しさ」よりも「もっともらしさ」を重視せよという点である。ロゴス(論理的説明)による議論だけでは不完全であり、語り手のエートス(品性)によるものと、聴衆のパトス(感情)に訴えて初めて、説得力が成立するというのである。どうすればよいか?
まず、エートスによる立証は、聴衆に対し「語り手を信頼に値する者であると判断させるよう語られる」ことによって行われるという。(本当かどうかは別として)語り手は、思慮分別があり、聴衆に好意を持っていると思わせればよいというのである。つまり、「あなたのためを思っている」と感じさせることが重要である。
次に、パトスによる立証は、聴衆をある感情へと誘導させることによって行われる。怒り、友愛、恐怖、羞恥、憐み、嫉妬といった感情を抱かせて、その感情を引き起こす原因や向けられる相手に関する立証になる。
これは、巻末の付録が参考になる。聴衆を誘導したい感情を想定し、それに対する原因や精神状態、向けられる相手を組み立てる。たとえば、「怒り」へ誘導したいのであれば、聴衆が苦境に置かれていること、聴衆への軽蔑が「怒りを向けられる相手」から発せられていることを明示するのである。
さらに、エートスであれパトスであれ、論証の形をとるべきではないとする。すなわち、「...…ゆえに皆さんは私を信頼すべきである」「......だから諸君は怒るべきだ」という形にならないという(アリストテレスは『弁論術』で明確に禁止している)。ロジックはロジックを明示し、感情は誘導に留めよというのである。
他にも、「オデュッセウスの告発を背理法を用いて論駁する」とか、「タテマエとホンネの背反を前提として、相手をパラドクスへ導く議論」、あるいは「知識のない大衆を説得させるためのエンドクサ(通念)」など、使い方によってはいかようにも悪用できる技法が次々と紹介される。
本書が凄いのは、個々の論証の説得性の是非を詳らかにするだけでなく、これを一般化しているところだ。すなわち、「論証を説得力あるものにする」技術ではなく、説得性のある議論をリバースエンジニアリングして、「説得力のある論証に再編集する」技法を「型」にしてみせた点にある。
「説得はいかにして可能か?」から、「人はどのような条件で説得されるか?」まで考えることができる。自分が説得するとき/されるときに当てはめてみると、さらに面白い。悪用厳禁の上、使っていきたい。
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