お尻の穴から世界を見る『アナル・アナリシス』
お尻の穴から世界を見ると、もっと自由になれる。わたしの「常識」に一撃を喰らわせる一冊。
お尻とは、好奇心の入口であり、美の象徴であり、煩悩の出口でもある。液・固・気体を自動識別する外界とのエアロックであり、巧妙精緻なインターフェースを備えた器官でもある(お尻の偉大さについては[お尻を理解するための四冊]、[女は尻だ、異論は認めん。]に書いた)。
これほど重要であるのもかかわらず、日常会話では「無いこと」「意識させないこと」として扱われている。直立した人体の下方に位置するが故に、底辺(bottom)と同義とされたり罵倒句(**s hole!、ケ■を舐めやがれ!)になる気の毒な存在でもある。
だが、反対にお尻の穴を中心として考えることで、自分が狭い了見に囚われていたかに気づく。BL や LGBT(うち、特にゲイ)に抱いていた考え方も、男根主義の影響を受けていることが分かる。それが本書、『アナル・アナリシス』である。
『アナル・アナリシス』は、文字通りアナル(お尻の穴)からアナリシス(分析する)試みだ。文学作品や絵画、映画の解釈を通じ、そこでアヌスがどのように描かれているかを分析、その「描かれ方」が何に基づき、どのような影響を受けているかを深堀りする。本書ではこれを、アヌスから読み解く「アナル読み」と定義し、わたしの「常識」に挑戦する。
たとえば、同性どうしで愛し合う際の役割として、タチとネコ(攻めと受け)がある。これは、主導権を握り積極的に攻めるほうがタチで、支配され受け入れるほうがネコだと考えていた。BL の場合、ペニスを挿入するほうがタチで、されるほうがネコになる。
しかし、同性どうしの愛を描いた作品を「アナル読み」すると、そこに異性愛を規範とする社会影響が見て取れるという。すなわち、ペニスを挿入する男性が支配権を握り、それを受け入れるヴァギナを持つ女性の組み合わせが「ノーマル」とされる家父長制の支配構造が投影されているというのだ。
本書の「アナル読み」は、いったんこの「ノーマル」を取り払うことを促す。すると、同性どうしの愛は自身のセクシュアリティに深く結びついており、決して単純なものではないいことが分かる。本書では BL 小説を用いながら、ネコであることは自身のアイデンティティの再発見である例を示す。
男性どうしのロマンスを描いた作品だと、映画にもなったアニー・プルー『ブロークバック・マウンテン』が有名だが、目新しくもなければ斬新でもないという。アメリカで生まれた物語にはいたるところにホモセクシュアリティの性的葛藤がみられ、本作はその長い伝統の一端に過ぎないらしい。
むしろ『ブロークバック・マウンテン』の意義は、『白鯨』や『ハックルベリー・フィンの冒険』のようにジャンルの枠を超え、アメリカ文学に根付くクィア性をこれ以上ないくらい明確にしたことにあるという。
さらに、「アナル読み」により、この「攻め・受け=支配・被支配構造」は様々な作品に見出すことができるという。アジア人が出演する北米のポルノ作品のほとんどは白人優位であり、アジア人はネコの役割を与えられているという。「アジア人とアヌスは同一視されているのだ」という表現は過激だが、これはペニスによる支配・被支配構造を投影したものなのだろう。
反対にこの構造を逆転させたのがケント・モンクマンの絵画で、カナダの入植者の尻を叩く先住民を描いた『クリー族の長』を例に挙げている。人種問題として「攻め・受け」を分析した「アナル読み」により、問題の根深さを知ることができる。
「ヴァージニティ」の議論も興味深い。ヴァージニティの喪失という概念は、異性愛を規範とする家父長制の文化を反映していると説く。男性はヴァージンの女性からヴァージニティを奪う立場と考えられ、結果、ヴァージニティは女性の問題とみなされる。
だが、異性愛的規範から考えると、まるで様相が変わってくる。レズビアン、ゲイ、トランスジェンダー、バイセクシュアル、誰もがヴァージンという言葉を違う意味で使っているというのだ。
たとえば、ゲイはどうやってヴァージンを失うのか。挿入する側か、挿入される側か、もしくは両者か。レズビアンがヴァージニティを失うにはペニスバンドを使わねばならないか。
あるいは、オーラルやアナルなどの性体験は豊富でも、ヴァギナに挿入されたことのない女性のことを「テクニカルヴァージン」というが(本書で初めて知った!)、そのヴァージニティは何に由来するのか。こうした疑問を考えるには、これまで共通認識と思い込んできた性の枠組みを、いったん離れなければならない。
本書は、こうした男根中心主義に支配された社会規範に真っ向から挑み、挿入する側が攻め、される側が受けという単純な図式にあてはまらないケースが沢山あることを指摘する。挿入されるからといって男性としてのアイデンティティが失われるわけではなく、お尻の穴を通して自分のセクシュアリティを自覚し、新たにアイデンティティを構築するのだと主張する。
確かにその通り。本書で展開したまさに同じ話が、わたしの少ない BL 経験の中で裏打ちされている。最近なら、のばらあいこ『秋山くん』だ。美形・細マッチョでケンカも強い秋山くんに勢いで告白してしまう普通の男の子の話だが、「強い男=秋山くん」がネコなので虚を突かれる。では、「愛の強さ=タチ」かと考えると、そうでもない。主導権を握っているのは秋山くんなので、「挿入するほう=支配役」でもない。わたしの「常識」こそが時代遅れなのかもしれぬ。
お尻の穴から世界を見ると、慣れ親しんだ「常識」が揺らいでくる。その分だけ、常識から自由になれる一冊。

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